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感想:映画「この世界の片隅に」※ネタバレあり

 「この世界の片隅に」をamazon primeで鑑賞。すずが時限爆弾で右手首から先を無くした後、ぼんやりとした意識のなかで「あの人、家を壊してもらえて、堂々この街を、出て行けたんじゃろうか」とつぶやいていた。あれは何だろう、とぐるぐる考えている。「逃げるな、火を消せ」が合言葉だった当時の防空法に批判的だったのであればすずの発言は頷けるが、果たしてすずはそんな気持ちで漏らした言葉だったか。

 あのときのすずを思い出してみよう。誰もが、命拾いしたすずに「良かった」と声を掛けた。しかし当のすずの頭のなかでこだましていたのは、すずの思い出を象ってい右手の、喪失のことだった。右手にかかれば、波間はウサギのようで、銃撃による爆発は絵の具を散らしたように、世界を鮮やかに表現できた。彼女はその表現した世界にいるだけでよかったのだと思う。幼な子の頃から呉に至るまで、鑑賞者はすずが主体的な意思決定とは距離を置いてきたのを見てきた。というよりは中空を漂うような、流されるような生き方と言った方が似合うかもしれない。そんなすずを見てきた。漂うすずが、ありのままのすずであるのは、右手の描く絵のおかげだった。

それが全部なくなった。たぶん堂々、というのは彼女の気持ちの投影なんだ。でもすずが壊してもらったのは右手という、すずの実存だった。すずは単に漂っていることができなくなり、役割を果たそうとするが、それができない。させてもらえない。どこにも逃げ場がない。その絶望は、「良かった」と言われるたびにしんしんと自覚される。

ところで、なんとなく流されるように生きてきたすずが、自身のことを主張するのは、右手の喪失以前には、水原と夜を明かすよう仕向けた夫に対する異議申し立てだけだったと思う。主張というよりはすずの実存が取るに足らないものとして見なされてきたことに対する異議なのかもしれないな。

話を戻そう。右手を失い、「良かった」という言葉から取り残されたすずは、終戦間際、自分自身の実存や寄る辺を、戦争に懸けるしかなくなった。

戦争が終わり、GHQの残飯をすすり、うまあいと言う。義理の姉とも友好的な関係を紡ぎあげた。しかし、すずは「よかったね」から取り残されたままなんじゃないかと思う。彼女がまた自分の実存をどのようにスパークさせるのか、それはまた映画の続編になるのだろうか。

この映画の特別さが僕にはわからない。じぶんが自分であることを戦争という暴力の中で問わなければならなくなったすずが、現代のわたしたちといかに異なるのか、見いだすことは難しい。

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