「千年の祈り」きっと、わたしたちが出会うまで。
ふと、この本を読みながら思ったこと。「本読み」はその静的な外見に反して、とてもせっかちな動機づけによって駆動される行為なのかもしれない。人間を知りたい、社会を知りたい、じぶんの魂を彫像したい。それらを、じぶんの人生がたどるよりも早く。しかし結局、その本が物語ることについて知ったような気になる直前に、ロマンがかけられていると、見えていたものが霧散する。本読みはよけいに止められない。本書はそういう体験をもたらしてくれる。
著イーユン・リー「千年の祈り」,篠森ゆりこ訳
本作は10編の短編作品からなっており、いずれも中国社会を出自とする人々の物語だ。この物語をよんで実感するのは、共産主義、古い慣習、世代間の認識、中国語という言語、性役割、家族規範が人々の思考と行動をつよく規定していて、そこからつまはじきにされながら、必死で落とされまいとする人たちの痛みが、読んでいてくるしい。しかし、イーユン・リーは実に硬質につまはじきにされた人たちのことを書きながら、あした生きていくためのつぶらな希望を一文に込めている。
表題作の「千年の祈り」は
離婚した娘を案じて中国からやってきた父。その父をうとましく思い、心を開かない娘。一方で父は、公園で知りあったイラン人の老婦人と言葉も通じないまま心を通わせている。
父はお節介が度を越している。それも中国社会「離婚」というものを相当な悲劇に捉えていて、原因を把握し、なんとか娘を再婚させてやろうという個人的プロジェクトでアメリカにやってきたからだ。さらに悪いことには、娘の幼少期に会話ができなかったことの罪悪感を、毎晩の手づくり料理や会話で埋め合わせ、良い父親になろうとしている。。
でもわたしは、強い嫌悪感をこの父にもたないで済んでしまう。それは日中、街を散歩して出会うアメリカの住民と挨拶を交わし、「ロケットこうがくしゃ」を仕事にしていたと名乗ることで、言葉が不自由ながらもアメリカの暮らしに混ざり、その居心地の良さを経験するさまが愛らしいからである。イランの老婦人ともそうして出会った。英語がお互いわからないのに、容易に理解し合える。今までこんな出会いがあっただろうか?反比例するように娘との感情の亀裂は深まっている。イランのマダムに中国の故事を引きながらこんな話をする。
<たがいが会って話すにはーー長い年月の深い祈りがあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためにです>彼は中国語で話す。その通りだとマダムはほほえむ。
彼はこのとき、マダムとの出会いをロマンチックな比喩として始めるのだが、いつのまにか娘への悪態につながってしまう。父と娘なら千年は祈りがあったはずだ、それなのにあの娘は!と。というのも、父はいまでも娘のために祈っている。料理が父の祈りなのだということを、娘は知らない。そして祈りにこたえてくれない。
ふとしたことから娘は父に積年の思いをぶつけると、父もまた、人生の最後に“本当のこと”を打ち明け、帰国を決意する。この話は、父娘にとってバッドエンドでもハッピーエンドでもない。過去のゴタゴタをじっくり話し合って消化しきるでもない。父はでも、永い祈りの末に出会ったイランのマダムとの別れの一瞬を、娘にとらわれることなく味わうことができた。それだけで良かったと思えるのは、祈りにまつわる反芻があったからじゃないかと思う。それがまた中国の故事由来というのがちょい辛の皮肉だ。
ほかに、林ばあさんの報われない愛の遍歴をえがいた「あまりもの」、ラディカルな約束を終わらせるために市場にあらわれた男をゆっくりと切る「市場の約束」、美貌の男をめぐって生まれた愛の矛盾を身体で受け止める「ネブラスカの姫君」、恨みのあまり十七人の村人を殺害する「柿たち」、本当の愛を悟らせるためにいなくなることを選ぶ「縁組」、文革のために仕事を失ったひきこもりおじさんが気高く生きるまでを描いた「死を正しく語るには」等がある。短いながら濃密な物語ばかり。
いずれの話の主人公も、自分の人生の隣人であったらちょっとおかしく感じたり、ぎょっとするような生活や経歴の持ち主が多い。しかし、こういう人が現にいることを私たちはスーパーや街頭、あるいはニュースで見聞きしているはずだ。イーユン・リーはそうした人々の内面にぐっと寄り添っている。わたしはページをめくり、ただ息を飲む。登場人物たちを何も審判することなく、人間にたいする愛らしさと深い敬意と小さな希望をもつにいたる。
人と人が分かつ間もまた、素晴らしい時間ではないか、と祈る。
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