期待外れの花であっても
先日、思いがけず花が咲くと喜んでいた植物の花だったが、期待していたモノとは違っていた。
なんとなく地味というか。拍子抜けというか。
黄色くて小さな花。咲いているのか咲いていないのかすら微妙なところだ。
でも、多肉植物の花なんて滅多に咲かないと思うとか、これはこれで珍しいのだろうとか、喜べる要素を探り出し自分にいい聞かせてみた。
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このような拍子抜けのようなことは日常の生活の中にもある。
不満があるわけではない。でも、ちょっと期待していたのとは違う。そんな感覚を持ってしまうような何かだ。
例えば、仕事上、「自分はこのようなことが向いていると思います!」と自己評価をした上でアピールし、それを認めてもらえた場合。実際に「よい評価」をされた上で重要な役割を担うことになったとしても、自分が思ったのとは違う職務であるといったこと。
あるいは、仕事の上でスゴク褒められる場合。具体的にはどのあたりかと敢えて尋ねてみると、「なんだそういうことか......」と、腑に落ちない部分をお褒めいただくなど。
まぁ、生きていくとそういうことが案外あるものだろう。
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今回の植物の花についても、花が咲くということはメデタイことであるし、喜ぶ気持ちがないわけではない。植物の置かれた環境がマッチしており、私の手入れとが功を奏して咲かせることができた結果である。
だから、喜ばしいのは間違いないのだろうが、なんともしっくりとこないのだ。
期待外れの喜ばしいこと。
それを期待していたものと違うからと拒否することも一つの選択肢だろう。
期待していたことと違うことをやり続けていたのでは、自分が本当に欲しいものは手に入らないという考え方もある。
その考え方を実践するのなら、「仰せつかった責務は私が求めていたこととは違います」と明言し潔く辞退するという生き方を選ぶこともあり得るだろう。
私は、長い間、そのような生き方をしてきたような気がする。自分の期待していたモノとは違うとして、与えられた素晴らしい選択肢を拒否するような生き方だ。
だが、それを拒否したからといって、期待通りの喜ばしいことが起きるとは限らない。
これを語りだしたらキリがないくらい、私は、大きなチャンスを惜しげもなく拒否し続けてきたのだ。
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でも、ある時から、自分のことを評価してくださった方々に対して、大変失礼なことをしたのではないかと思うようになった。評価いただいた方々への義理を欠いた行動であったのではないかという反省にたどり着いたのだ。
期待外れの花であっても、自分の人生の一部となれば愛おしさも増すというもの。
与えられた機会を、人生の選択肢として選ぼう。
思ったモノとは違っていたかもしれないが、もしかしたら、思っていたモノより素晴らしいことかもしれない。
あれやこれやと期待を膨らませていた未来とは違う方向に進んでいきそうだけれど。
それはそれで楽しんでみたらいいのだから。