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人工vs.天然?芝生の美しさを「人工芝生のようだ」と表現されたとしても

人工芝生みたいに奇麗ですね。

我が家の庭の芝生の美しさを「人工芝生のようだ」といわれることがある。

実際、自分でも奇麗すぎて偽物っぽいなと思うコトだってある。

だから、「人工芝生みたい」という言葉で美しさを表されることは問題ないと思う。

けれども、「美しい」の反対に言葉を考えてみると、本当にそれでよいのかと疑問を感じてしまうのだ。

天然の芝生は「完璧な美しさ」を持ち得ないものなのだろうか?

ちょうど1年前の今頃、前庭ができあがった。

あの当時は、枯れた芝の合間から緑の新芽がチョロチョロと顔を出す程度でしかなかったから、この季節に萌える芝生の青は未体験。

正直な気持ち、あまりにも芝生が美しすぎてドキドキしながら見とれてしまう。

手前みそで恐縮だが、人工芝生といわれても仕方ないと思うほど、現時点では、完璧な仕上がり具合だ。

けれども、人工芝生のように奇麗といわれると、なんとも解せない気持ちになってしまう私がいる。

この美しさは自然の力あってこそ。冬枯れの芝生から蘇り、輝く青へと姿を変えたことこそが美しい。私としては、そう思いたいのだ。

「冬を乗り越えた喜び」が美しさの根源にあると思いたい。

だが、一瞬を切りとってしまえば、人工の芝生も天然の芝生も、同じくらいの美しさである。

なんともいえない複雑な気持ちになった。

あれだけ手間をかけたのは、「人工芝生」の美しさに近づける行為だったのだろうか?

命の営みの美しさを醸し出すためには、敢えて欠陥があったほうがよいということなのかもしれない。

天然の芝生ならではの美しさは、「欠点があってこそ」なのに、私は一体なんてことをしてしまったのだろう。

「人工芝生みたい」に美しい天然芝生という表現を反芻していたら、徐々に気持ちは沈んでいった。

天然芝生の一瞬を切りとって「人工芝生」を超えるコトはないのだろうか?

素朴な疑問を、造園業者に愚痴ってみた。すると、次のような言葉をかけられた。


本当に奇麗に手入れをされているからこその悩みだと思います。実際、お宅のお庭を見て「人工芝生みたいに奇麗だな」と私も思いました。

外から見ているだけなら、人工芝生も天然芝生も「同じ基準」で「見た目の美しさ」を判断されます。

でも、芝生の中に入って、芝生と同じ景色の中に入って「風」を感じてみてください。人工と天然の違いがわかるはずです。

天然芝生のほうが圧倒的に心地よいと思いますよ。


芝生の中から雑草を抜いているとき。

芝生に肥料を撒くとき。

水やりをするとき。

私が芝生の中で過ごした時間。その全てが芝生から得られていた心地よさだったとは!

「端から見ているだけでは違いが判らないこと」が、この世にはたくさんある。

隣の芝生として「青く見せたいだけ」なら、手をかけて育てられた「美しい天然の芝生」であっても人工の芝生の美しさと変わらない。芝生の一番美しい様子を模した人工芝生に匹敵するという意味で「人工芝生のようだ」と表現されること自体に何ら問題はないのだ。

だが、実際に、自分が芝生の景色の中に身を置くのなら、天然の芝生の美しさを体感できる。天然芝生はその中に入ってこそ価値を体感できるものなのだ。

芝生に限らず、人生のあらゆる場面で、同じ景色の中に居るからこそ得られる感覚がある。

この感覚の「価値」を意識しながら生きてみよう。


for reference

↓↓↓冬枯れの様子を記した記事はこちらから。