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たとえ「隣の芝生」が青く見えたとしても

隣の芝生は青く見えるといわれるが、私の家の芝生が一番青いと思っている。

それは、自分で自分の責任が取れる範囲最大限の努力をしているから。これ以上の青さが存在することも知ってはいるし見聞きもするが、自分の力の限界まで世話をしていると自認しているから納得しているのだ。

芝生の世話は思いのほか、時間もお金もかかる。

夏場の草刈りは週に1回以上が必要だし、肥料もたっぷりと必要。その上、水やりといったら、天気と湿度との兼ね合いを考慮しなくてはなず、大変神経を使う。日に日に変化していく「庭にできる日陰」によって土の湿り気が左右されるため注意深い観察さえ求められる。

自分なりに工夫して水やりしても失敗することもある。失敗からのリカバリーも試行錯誤ながら経験した。そのおかげで、自分の経験値ではこれが最高だと思える芝生が出来上がったのだ。

だから、たとえ隣の芝生が青く見えたとしても、私は気にしない。親の欲目のような愛着があるからだろうといわれればそれまでだが、自分の芝生こそが私にとっては最高に青く映るのだ。

◇◇◇

ところで、私の芝生に対して、周りの人はどう思っているのだろうか?

近隣の住民は持ち家歴の大先輩。庭木の手入れや草花の世話は日常茶飯事、芝生の手入れももちろん経験済みだ。そのためか、芝生の手入れに関して労いの言葉をかけられることが多い。

「芝生の手入れは大変だよね。」

「手がかかって大変でしょう?」

「広い面積の芝生は難しいよね。」

最初の頃は「大変でしょう?」の言葉の裏に、そのうちネをあげるだろうといった含みを感じることもあった。

けれども、黙々と芝生の手入れに打ち込む私の姿を見てか、そのような含みを感じることはなくなった。今では誰もが心からの労いの言葉をかけてくれるようだ。

そもそも、近隣の人達は芝生の手入れで大変な思いをした経験がある。それに加えて、私の努力も見ている。その条件が重なったとき「隣の芝生」の青さを羨む人などいるはずもない。

そうなのだ。

まずは、自分が苦労してみないと、他人の努力が「どれほどのものか」など理解しようもないのだ。

芝生の手入れをした経験がない人は、真の意味で、芝生の手入れの努力など認めようがない。

若いころの苦労は買ってでも……というのは、何も向こうみずな危険に飛び込めということではない。もちろん体を傷める可能性が大きい賭けにでることでもない。苦労を避けてばかりいたら「人を羨やむばかりの人間になり得るから気をつけなさい」ということなのだと思う。

芝生の手入れに失敗して芝生を枯らしたり、期待したほどの美しい芝生にならなかったりといったことを経験済みだから、「芝生の青さ」の意味を知ることができる。

たとえ隣の芝生が青く見えたとしても、その青さに賞賛の眼差しを向けることができるのだ。