耐えて待つしかないときもある
昨日の夕方、我が家には電気が戻った。
しかしながら、近隣の家屋には電気が戻っていない。
重要な公的施設、幹線道路の信号機、それらに付随している系統に入っている民家には電気が復旧してきていると聞くが、真偽は不明。
いずれにせよ、昨日の夕方までは「被災仲間」として和気あいあいとしていた空気が一変、気を遣いながらひっそりと息をひそめている。
電気が来たことを理由に「何か力になりましょうか?」と声をかけたのもいけなかったようだ。
SNSを介して「善意の」リツイートや情報発信もどきをしている人と同じレベルになり下がる行為と受け取られてしまったのであろう。
今回、台風15号の被害に遭ったことで、近隣に、東北の震災ボランティアを経験された方がいることを知った。
その方によると、こういう状況では、人間の嫌な側面を見る羽目になるのだそう。
「善意のように見えて、善意と思えない行動をする人がいる。善意のように見えて善意と受け取れないという事実は、被災をしてみないとわからないことだから、それが今、自分の身にふりかかったことで、初めて知る人間の嫌な面を見ることになるかもしれないよ。」
私の親より少し若い世代の方。人生の先輩として私へアドバイスしてくださったのだと思う。
その話があったときは、どのようなことを具体的にいわれているのか分からなかった。でも、電気が通り、SNSやネットの情報が自由に閲覧できるようになり、なるほどこういうことかと腑に落ちた。
被災した状況を写真にとってネット上にあげたり、第三者の立場で「善意の」情報発信をする輩の行動が、愚かしくて仕方ない。
心配を装い、善意の行動のように見えて、ただシンプルに発信者自身の「何かできることをしたい」という欲望を満たしたいだけなのだ。
被災映像を見て、あるいは自身が受けた過去の辛い被災を追体験して、おそらくは精神的な被害を間接的に受けてしまった方なのだろうと思う。
自分自身の間接的被害を和らげるために「何かできることをしたい」ということは一定の理解はできる。しかしながら、そのような行為は、単なる自己満足であることを知っておいて欲しい。
そのリツイートは、その情報発信は、被災地のためではなく自分自身のためにしていること。他者への善意はそこにはない。ただ、自分を癒すためにやっているにすぎないのだ。
自分自身の満足のために行動されるのは自由。だから、それを制することはできないけれど。
ただ耐えて待つしかない時期。そう思って、この地の人は踏ん張っている。誰も泣き言などいわない。とはいえ、徐々に疲れが見え始めているのも確か。
初期の段階の出口が見え始めたからこそ、この先の復興への道のりを思い、気持ちが沈むこともある。
復興までに気が遠くなるほどの時間を要することを理解して欲しい。
そして、そっと見守って欲しい。