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公的機関の仕事から完全卒業した話

公的機関での活動回顧録

中小企業診断士として独立したのが2013年4月。
独立当初から公的機関でいろいろなお仕事をさせていただいてきました。
主な変遷は以下のような感じ。

派遣専門家やセミナー講師などの短髪の仕事は除く

これからの公的機関での仕事について、振り返りに意味も込めて書き残しておきたいと思います。

千葉市産業振興財団

スタートは、千葉市産業振興財団でのコーディネーターという仕事でした。
これは、完全に公募で採用されました。
僕が採用される1年くらい前の話、当時の千葉市長(現千葉県知事)が、改革派として千葉市産業振興財団の改革にも着手され、理事長が公募で選ばれました。(それまでは役所からの天下りだったようです。)
公募で選ばれた理事長が、今度は財団内の改革へ。コーディネーターの刷新を図るという取り組みが行われて、2012年の11月か12月頃に公募が行われました。
それを彼女(今の妻 w)が見つけまして「応募してみたら。」と言われたのがきっかけ。
公的機関の公募って、出来レースが多い印象でしたが、これは本当にガチンコの公募でした。
これに採用されたら会社辞められるかも!というノリで応募してみたところ、「比較的年齢が若くてITが分かり経営支援できる人」という求める人物像にハマりまして、中小企業支援などしたことない若手診断士の立場ながら採用してもらうことができました。
応募時のスペックは、「32歳、ITエンジニアとして働くサラリーマンで、中小企業診断士の有資格者、コンサルは未経験」でした。

これをきっかけに会社を辞めて独立したわけですが、週5日財団に通っていたので、気持ち的には転職したような感じ。
仕事は、窓口に来る経営者さんへの経営相談と市内の企業を巡回して経営の悩みを聞いて解決するという仕事でした。
とにかく中小企業診断士として経営相談などやったこともなかった僕にとっては、毎日が新鮮でたくさんの経験を積むことができました。
どんな相談がくるかわからない中で、相談されその場で解決方法を答える。
最初は毎回緊張していましたが、ここで毎日のように経営者の方のお悩みを聞くことができ、コンサルタントに必要な瞬発力と幅広い対応力が鍛えられたと思います。

そんな感じで1年やらせてもらったのですが、公的機関の仕事は基本的には謝金の単価は上がりません。
また週5で出勤していると、自分で仕事を受注して対応するということが難しくなってきました。2013年の秋頃には徐々に仕事の依頼がもらえるようになっていて、土日や平日夜を使って対応していたのですが、思うように稼働できない日々が続きました。
「次の1年も週5で1日20,000円で働くとなると、これ以上収入を増やすのは難しく、独立した意味がないじゃないか!?」と思うようになり、1年で卒業させてもらうことにしました。
正直、固定収入がなくなる不安はありましたが、次のチャレンジをしなければ先はないという思いが強く辞めたという感じです。

東京都よろず支援拠点

2014年4月から固定的な仕事は無くなりましたが、一方で、事業再生や補助金の仕事などスポット的な仕事を多く抱えるようになりました。
ただ、これらの仕事は毎月安定して収入があるわけではなかったので、収入的には不安定な状況が続きました。

今月の売上は100万!でも翌月は0円かも見たいな状況は精神的に良くありません。なんとか安定した仕事はないものか・・・と思っていたところ、2014年7月に先輩診断士から「東京都よろず支援拠点が丸の内の本部とは別に新宿にサテライト拠点を作ろうとしている。そこでサブコーディネーター(当時の役職名)として若手診断士を探しているから応募してみる?」と声をかけてもらい、面接を受けにいくことになりました。

ちなみに、当時の東京都よろず支援拠点は、東京商工会議所が運営事務局を担っていました(今は違います)。
実は、東京都の予算で新宿に東京商工会議所独自の専門家部隊を作ることになっていたのですが、国からよろず支援拠点の運営を受託し、その専門家部隊は、よろず支援拠点のサテライト拠点という形になったそうです。

改めて、事実関係を確認してみると、2014年5月1日にビジネスサポートデスクが誕生。2014年6月30日に東京よろず支援拠点が誕生。2014年8月6日にビジネスサポートデスクが本格始動。僕は2014年8月6日の本格始動のタイミングで採用されたのですが、ここで集められた専門家は政治的な理由でよろず支援拠点のメンバーとして採用されるということになったようですね。
以下、東商のプレスリリースより。
2014年5月01日 ビジネスサポートデスク(東京西)を新宿支部内に開設
2014年6月30日 東京都よろず支援拠点を開設
2014年8月06日 ビジネスサポートデスク(東京西) 専門家による無料窓口相談の拡充について

時は、2014年7月25日(金)。
面接を受けに行ったとき、面接官として東商の職員とよろず支援拠点のコーディネーター(現チーフコーディネーター)がおられました。
僕はすでに「千葉市産業振興財団」での経営相談の実績があったので、そのあたりの経験的なことを聞かれたように思います。
公的機関の実績は同じ公的機関には効果的です
経営相談をやったことあるなら心配ないね、ということで即採用してもらうことができました。

1日あたりの謝金単価も、20,000円から34,000円にアップです。
週5日勤務ではなく、週1日の勤務(途中から週2日へ)にもなりましたので、自分の仕事も受けやすくなりました。
これを断る理由は全くありませんでしたので、2014年8月11日(月)から「東京都よろず支援拠点」のサブコーディネーターという立場で仕事をスタートさせました。

東京商工会議所ビジネスサポートデスク

2014年8月から東京都よろず支援拠点サテライト拠点のサブコーディネーターとして経営相談を対応してきましたが、2015年3月にサテライト拠点がなくなり、2015年4月1日より名実ともに「東京商工会議所ビジネスサポートデスク 東京西(以下、BSD)」のコーディネーターとして勤務することになりました。
当時、よろず支援拠点でサブコーディネーターだった人たちの多くは、横滑りでBSDのコーディネーターになりました。
この時よりBSDは都内4ヶ所に設置され、本格的にスタートすることになりました。
予算の出所も国から東京都に変わり、謝金単価は43,000円にアップしました。

少し余談ですが、このように公的機関の仕事は、謝金単価が安いところから経験していき、徐々にステップアップしていくのが定石です。
謝金が高いところはベテランで実績ある方々もいるため、なかなか席は空きません。(現に、BSDの仕事を僕は約8年やらせてもらいました。いい条件のところ簡単に辞める理由がないからです。)
ただ、謝金が安いところはベテランの方々は敬遠するため、経験が浅い方はそこが狙い目です。
僕が最初に経験したような週5日、1日20,000円の条件の公募があれば、若手診断士はぜひ狙いに行くべきです。
公的機関の仕事は公的機関での実績が呼び水になる
ですから、謝金の安いところから経験値を積んで徐々に単価をアップさせていくことを目指していくべきでしょう。
最近はよろず支援拠点も予算がたくさんついてコーディネーターの募集もよく行われているので、最初の入り口としてよろず支援拠点のコーディネーターを狙うのは悪くないかもですね。
ちなみに、全国のよろず支援拠点の採用は以下にまとまっています。ここを時々チェックしておけば、公募情報を見逃すこともないと思います ^ ^

話を元に戻します。

BSDのコーディネーターの仕事はとてもやりがいがあって、充実していたので楽しくやらせていただいていました。
自分自身が専門家として支援する一方で、より重点的に支援した方がいい事業者様には専門家派遣という制度を使って支援していました。
コーディネーターの業務として、専門家派遣をする際の専門家の選定や専門家の支援状況のチェックなどの仕事もあり、自分自身の采配で専門家を発掘したり、仕事を依頼したりできたので、診断士とのつながりもたくさんできました。
年間約100社の事業者さんの経営相談を聞いて、アドバイスすることができたので、中小企業診断士の経験値も貯めることができました。

また、東京商工会議所は2〜3年ごとに職員の異動があるため、BSDを担当する職員も何度も変わりました。
その中で色々な職員の方と繋がりができたので、貴重な財産となっています。
BSDでの仕事は、公的機関の仕事の中では、謝金や経験できる内容いずれもこれ以上のものはないと思っていたので、職員の方から「もういらないよ!」と言われるまでは、ずっと働こうという思いでやらせていただいていました。

中小機構 中小企業支援アドバイザー

BSDのコーディネーターする一方で、2019年の年末頃に中小機構の1つの公募を見つけました。
それが、「全国の商工会議所・商工会などの支援機関を支援するアドバイザー募集」というものでした。
中小機構は全国の中小企業支援組織の親玉みたいなもの。そのため、支援機関を支援するという役割も担っています。
その役割を担ってくれる人を募集している、ということで、これまで支援機関の中でやってきた経験も活かせるのと、色々な支援機関と繋がるのも面白いかも!という思いで、公募に応募しました。

書類審査は無事に通過。
その後、2020年1月14日に面接のため虎ノ門の中小機構の本部へ。
面接では「支援機関に対してどのような支援ができるのか」「僕が経験した支援機関はどのように中小企業支援をしているのか」「これまでの中小企業診断士としての活動」などを聞かれたと記憶しています。
その中で「新潟への出張は大丈夫?」とやたら新潟へ行くことについて聞かれたので、自分は新潟あたりを担当させてもらえるのかなぁと、思いながら面接から帰ってきたと記憶しています。
結果、面接は通過し2020年2月より支援アドバイザーとして登録することになりました。
支援機関を支援するという新しいチャレンジにワクワクしつつ、本格的な稼働は4月からかなぁ、なんて思っていたのですが、この後、世の中は本格的にコロナ禍へと突入していくことになるのです…

2020年4月に緊急事態宣言が発令。
世の中はコロナ一色になりました。
そのため勝手に思い描いていた新潟出張などはどこへやら。
毎年年度末に登録更新のお知らせはくるものの、一度も仕事についての連絡は来ることなく時ばかりが過ぎていきました。

公的機関からの卒業へ

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
2023年3月をもって、公的機関からの仕事を全て卒業させてもらいました。
毎年500万円プラスαくらいの収入をもたらしてくれていた公的機関の仕事ですが、綺麗さっぱり辞めました。

その理由は、一言で言えば「自社の経営に集中したくなったから」です。
特別な理由はありません。
僕たちの仕事のスタイルはまさに肉体労働。
ですから、1人の中小企業診断士として稼げる額の限界というものは存在します。
これについては、また改めて詳しく書いていきたいと思いますが、自分はその限界を突破する方法として、中小企業診断士が集まる会社を作り、中小企業診断士を雇用し、稼げる人数を増やす選択をしました。
気がつけば社員は30名を超えて、そこそこの規模になってきました。

最近は、チーム制を取り入れ、中小企業診断士のコンサルチームを4つ作り、チームのリーダーのもとでそれぞれがコンサルティングサービスを行なっています。
権限移譲も徐々に進み、個々の中小企業診断士に対して、僕が直接関与することも少なくはなってきました。
ですから、会社の仕事は社員に任せて、これまで通り公的機関の仕事をやって・・・ということもできなくなかったのですが、これだけの人数の生活を背負って経営をしていくことは、100%以上の力をかけなくては先が続かないということを感じるようになってきました。

今の会社の規模を維持しつつ目の前の仕事をこなすだけなら、それでいいのですが、会社の未来を明示しその舵取りをするのは、社長である僕以外にはできません。
人が増えたからこそ、意思決定の複雑さや幅の広さが求められるようになってきたとも思います。
そうすると、どうしても公的機関の仕事で週2日あけることが難しく、また公的機関に出勤している間も結局会社のことを考えてしまうため、そこでの仕事も中途半端になってしまいます。下手したら自分で辞める前に辞めさせられるハメになるかもしれませんでした、、、

そんなことを2年前くらいから考えていまして、本当は1年前の2022年3月に辞めようと思っていたのですが、辞めるタイミングを逸ししてしまい当初の予定より1年多く働かせていただきました。
ただ、さすがにもう1年延長するのは、、、、ということで、2022年12月ごろに卒業させてほしい旨をBSDの当時の上長にお伝えさせていただきました。

同時に、中小機構のアドバイザーの仕事も辞めさせてもらいました。
これはBSDとは違う理由もあって、会社の代表が中小機構の専門家として登録していると、会社として中小機構の入札に参加できないという条件があり、最近会社で入札の仕事に取り組んでいるということもあって、中小機構の入札にも手を上げるため辞めたという感じです。

2023年4月からは週5日で会社に出勤しています。
とにかく、30人を超える社員の生活が自分の肩にかかっていますので、後退することは許されず前へ前へと進んでいくしかありません。
中小企業診断士を雇用して中小企業診断士の会社として大きく成長させる。
このビジネスモデルが成功するのか、失敗するのか、僕の人生を賭けた本当の大きな勝負はここからスタートです。
そのターニングポイントとして、独立から収入面・経験面と中小企業診断士としてたくさんのことを得ることができた公的機関の仕事からの卒業という道を選択しました。

この先、数年後なのか数十年後かはわかりませんが、自分の追い求めるものにたどり着いた先には、再び公的機関での仕事に戻ってきたいと思います。
それでは。

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