1年前の散歩記録

 雨の日に、庭園を目指して、住宅街を歩く。

 住宅街を歩くのは好きだ。雨は嫌いで、庭園はどちらでもない。

 本当にいろいろな家がある。さびついた門が半開きの家も、カーテンを閉め切った家も、プランターの花を枯らしている家もある。人間の匂いが薄いのに、生活の蓄積が影を落とす家は面白いと思う。周りの新しい住宅から取り残されてしまったような住宅や商店ばかりに目をうばわれる。

 窓も扉もない美術店では何が売られているのだろうと気にかかった。このような住宅街で、小さな看板によってのみ所在を知らせるような店の店主は、居眠りをしているか自分の読書に耽っているかに違いないと、下北沢の息の詰まるような古本屋の店番を思い出しながら確信する。三島由紀夫全集の前で足を止めた私に、「美」についてひたすら語った彼は、満足げな顔で棚からラディゲの詩集を引っ張り出してきた。ラディゲもシェイクスピアもゲーテも、私にとっては変わらない。彼らの描く世界は、あまりにも壮大で眩しい。5月、歓喜の月は喜ばしくなどなかった。白いポリ袋に入れられた詩集を受け取り、私はようやく眼鏡の男から解放された。きっとこの美術店でも、店主に存在を認識してもらうまで、店から出ることは出来ないのだと思う。

 看板の剥がれた、小さな木工所のような工場はトイレットペーパーの段ボールで埋め尽くされていた。静物によって秩序を保たれた空間は酸素が薄い。取り残されていてほしいと思った。このような光景が潰されていくのは惜しいと思う。

 工場のそばの踏切を渡った先にある庭園は、池の周りをぐるっと一周出来るようになっていたはずなのに、一周した道なりも、その景色もあまり覚えていられなかった。池にかかる小さな橋を渡る箇所から、友人の靴ばかりを見ていた。色も形も可愛くて、私も今年のうちにヒールのある靴を買おうと決めた。

 ひとりだとしたら、庭園をじっくり見て回る機会はきっとない。あったとしても、記憶力のない私は夜の屋台のビールであっという間にその風景を流してしまう。しかし、あの庭園は友人たちから絶賛されていたし、地元の人間もたくさんいた。住人のいない昼間に家一軒を燃やすより、管理人のいない夜間にこの庭園を燃やす方が大人に怒られそうだと思った。

 草木が燃えて火の海になった庭園をなんとなく想像しながら、段ボールでいっぱいの工場よりもよく燃えてほしいと思った。日常生活から切り離された空間は愛される。

#雑記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?