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第一章 『善の研究』の西田

哲学と倫理と宗教を一書に「統一」する何か

 西田幾多郎の哲学のどのような側面について研究するにせよ、まずはじめに『善の研究』を概略しておかなくてはならないだろう。西田の哲学のそもそもの狙いを明らかにするためには、この出発点たる『善の研究』の内容を押さえておかなくてはならない。その本文はこのようにはじまる。

 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。 (I, p. 9)

 『善の研究』はまずなによりも「純粋経験」の本である。そうすると『善の研究』という題が奇妙にも思えてくる。
 はじめ、西田幾多郎は本書を『純粋経験と実在』と名づけるはずだったらしい。それが出版社の意向もあって『善の研究』となった。事実、本書の中核をなすのは、純粋経験としての実在を論ずる哲学的考察である。では、『善の研究』という表題は出版社の要請による後付けにすぎないのだろうか。
 そんなことはない。読んでみると分かるように、本書はまさに「善の研究」なのである。
 さらに、本書は「かねて哲学の終結であると考えて居る宗教」(I, p. 3)について論じた宗教哲学的な論文であることも広く知られている。
 つまり『善の研究』は、純粋経験論にして善の研究にしてさらに宗教哲学の書だ。哲学と倫理と宗教の三分野をまたがっているのである。はたしてこれらのテーマはどのようにして一冊の本に統一されているのか。西田の狙いを明らかにするためには、この「統一」の意味を明らかにしなくてはならない。

純粋経験とはいかなる意味で純粋か

 純粋経験。まだいかなる概念にも判断にも汚されていない純粋な経験。このような経験がいかにして、人間の善悪について云々する研究の出発点になるのだろうか。
 その問いに答える前に、一つ言っておかねばならない。上の純粋経験の解釈は必ずしも正しいとはいえない。純粋経験の「純粋」とはそのような意味ではないのだ。
 こう書くと異論があるだろう。「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態」「判断すら加わらない前」と西田は述べているではないか、と。だが、純粋経験のこの「判断すら加わらない前」という側面をあまりに重視してしまうことはミスリーディングにつながる。そのミスリーディングとは純粋経験の純粋を不純に対する純粋と捉えることである。「高橋(里美)文学士の拙著『善の研究』に対する批評に答う」の中で、西田幾多郎はそのような「純粋」の理解に対し次のように答えている。

余はこれまで往々純粋経験と不純粋経験との区別はいかん、後者は前者より如何にして出てくるかなど聞かれたこともあるが、余の考では絶対的に純粋経験というものもなければ、絶対的に不純粋経験というものもない、すべてが見方に依っては純粋経験ともいえると思うのである。(I, p. 300)

 純粋経験とは不純物を排除したところに現れる「純粋な」経験ではない。そうではなくて経験の「見方」なのである。経験そのものの「事実其儘」を見ようとしたときにあらわれる、純粋な「経験」なのである。
 『善の研究』に戻ろう。
 冒頭の引用につづけて西田は、他人の意識はもちろん、自分の意識や過去の記憶、あるいは今まさに臨んでいる現前であっても、「之を判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何等の意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。」(I, p. 10)と言い切る。西田はここで「純粋でない経験」も存在すると言っているようにみえる。
 だが直後にこう述べる。

 右にいった様な意味に於て、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚が之に属することは誰も異論はあるまい。併し余は凡ての精神現象がこの形に於て現われるものであると信ずる。(I, p. 10)

 そこから彼はあらゆる経験、思惟も意志も直観もある意味で純粋経験であるとする哲学を展開してゆく。序にあるとおり「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」(I, p. 4)というのが『善の研究』の動機なのである。

 純粋経験とその意味又判断とは意識の両面を現わす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。(I, p. 17)

 一体どういうことだろう。たとえばこんな風に考えてみてほしい。確かに「どこかから音が聴こえてくる」という経験に対して、「ああ、これはヴァイオリンの音だ」と考えるのは、音の経験に対して間接的であると言えるだろう。経験に対する判断は経験にとって不純であると言えるわけだ。だが、「ああ、これはヴァイオリンの音だ」と考えるその経験はそれ自体として純粋な経験であるとは言えないだろうか。判断するという経験は、それ自体で一つの純粋経験であるとは言えないだろうか。
 先に引用した文章につづいて西田は、記憶といっても「過去と感ずるのも現在の感情である。」(I, p. 10)と言っている。「そういえば昔あったなあ」と振り返る思考そのものは「現在の感情」「事実其儘の現在意識」、つまり純粋経験であるほかないのだ。
 西田が「純粋経験」とは見方の問題であって、何が純粋経験で何がそうではないかというのも相対的な問題であるとするのはまさにこのことを述べているのである。
 『善の研究』に先立って書かれた研究ノート(「純粋経験に関する断章」として全集に収められている)にはこのことはさらに明確に書かれている。

直接に於ては、知と有と同一である。風がざわざわなればざわざわのままである。これが風であるというは已に直接経験でない。唯現在之を風だと思うたということは直接である。(XVI, p. 286)

 風のざわめきそのものに対して「これが風である」は直接ではない。だが「之を風だと思うた」という思惟の体験はそれ自体で直接なのである。この考えは『善の研究』以後にもこのように述べられている。

直接でない意識というもののあり様はない、思惟も意識作用として我々に直接でなければならぬ。(III, p. 210)

 純粋経験の「純粋」は概念だとか思惟だとかいったものを不純なものとして排したという意味での「純粋」ではない。この「純粋」を理解するためには、一休の逸話「七曲り半の松」がちょうどよいたとえ話になるだろう。
 まずはその逸話を紹介しよう。
 一休はあるとき、ひどくふしくれまがりくねった松の木をみて、「この木をまっすぐに見ることのできる者があるか」と周囲の人々に聞く。どうみてもまがった松なので人々は不思議に思う。もしかしたら、ある角度から見てみたら一直線のまっすぐな松に見えるかもと思う者もあるがそういうわけでもない。そこである眼識のすぐれた者が(安藤英男の『一休 逸話でつづる生涯』(鈴木出版)では蜷川新右衛門と紹介されている)こう答える。
「なるほどまがっている」
 そう、「まっすぐに見る」とはこの現実のまがっている松を無理に矯めてまっすぐなものとして見るということではなく、まがっている木をまがっている木そのままにまがっているものとして見る、ということだったのだ。
 西田の「純粋経験」の「純粋」とは、まさにこのような意味で「まっすぐに見る」ことである。経験を経験そのままにまっすぐに純粋に見ること、これに純一になること、これこそ彼の言う「純粋経験」なのである。
 そして、さらに言えば、西田幾多郎の哲学の実践そのものが「まっすぐに見る」ことを目指したものに他ならなかった。彼は「純粋経験」を指して主客合一で、主観も客観もまだない、見られている物の世界も見ている私の存在というものもまだ定かではない経験と捉えるが、ここで目指されているのは単に物心両極を排除することではない。ここで目指されているのは、物の実在からすべてを見ようとする唯物論の立場や、精神の実在からすべてを見ようとする観念論の立場のような、生きた現実をある一方向から見て「まっすぐ」にしてしまうそれまでの哲学者らに対して、生きた現実をその生きたまま、まがりくねったまま「まっすぐに見る」ことなのである。
 経験というこのふしくれだってまがりくねったものをそのままに「まっすぐに見る」こと。これこそ西田幾多郎の目指したことだった。では「まっすぐ」に見られたときのこの「事実其儘」「純粋経験」とは一体どのようなものなのだろうか。
 「高橋(里美)文学士の拙著『善の研究』に対する批評に答う」のなかで、西田は『善の研究』に対する誤解をその最初の方の記述が原因ではないかと考えたらしく、こう述べている。

『善の硏究』の始に於て純粋経験を論じた所ではこの活動的統一の意味が十分明になって居なかつたと思うのである。(I, p. 303)

 活動的統一。このようなものとして「事実其儘」の「純粋経験」はある。それが『善の研究』の主張であった。

生きた統一にとって思惟とは何か

 私たちがつねにそこにおいて生きている経験、「之をして純粋ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではない。」(I, p. 13)と西田は語る。それだから思惟であるか感覚であるか自体は純粋経験か否かの基準にはならないのだ。

 純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であっって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。反って具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者の所謂単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌の統一であらう。此の中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。併しいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の形を失うことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでも此形に於て現われるものである。(I, p. 12)

 かくして意識のまがりくねった「分化発展」はしかしどこまでも純粋経験を離れないものとされる。これは実際にはどのようなことなのだろうか。判断はどのようにして「判断すら加わらない前」の一部でありえるのだろうか。
 第一章「純粋経験」にひきつづく第二章「思惟」は、判断の根柢にはつねに純粋経験がある、と示すところからはじまる。西田はまず判断についての従来の心理学的な理解に反対する。従来の理解では、たとえば「馬が走る」という文章のもとになる判断は「馬」と「走る」という表象を結合することで生まれるものだ。だが西田は述べる。

 併し我々は判断に於て二つの独立なる表象を結合するのではなく、反って或一つの全き表象を分析するのである。例えば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。(I, p. 18)

 かくして判断はつねに純粋経験からはなれることができない。判断とは、純粋経験を分析することであって、二つの観念を結合することではないからだ。
 さて、ここではこの判断、分析は、しかしまだ純粋経験に加えられるものでしかなく、判断するという経験としては純粋だが、判断のもととなる経験に対しては間接的なものでしかない。判断は統一全体にとってどんな位置にあるのだろうか。
 この点について第一章「純粋経験」では「所謂分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。」と述べられている。これはどういうことだろうか。
 こんな風に考えることができるだろう。
 まず走っている馬に出くわすという純粋経験があるとする。これに対して「馬が走っている」と判断する。この判断は最初の純粋経験に対しては間接的なものだが、しかし判断するという体験としてはこれもまた純粋経験である。しかし同時に、ここでは「走っている馬に出くわして「馬が走っている」と判断する」という経験が成立している。そしてこのようにして成立した経験は、走っている馬に出くわすというはじめの純粋経験にくらべて一層大きな統一であるとは言えないだろうか。

然らば何故に此の如き作用〔反省的思惟の作用〕が生ずるのであるかというに、前にいった様に意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然な状態である、而もその発展の行路に於て種々なる体系の矛盾衝突が起ってくる、反省的思惟はこの場合に現われるのである。併し一面より見て斯の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直に一層大なる体系的発展の端緒である。(I, p. 24)

 何かが近づいてきている。「なんだあれは?」小さいものか、大きなものか、生物か機械か。このとき、経験の内容は判断の材料として単なる知覚の経験として分析的に間接的に目の前におかれる。「あ、馬が走っているんだ」と気づく。そこで知覚経験と思惟との齟齬がやみ、大なる統一が現れる。

真理を知るとか之に従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂である、小なる統一より大なる統一にすすむのである。(I, p. 33)

 しかし、上の例の場合、「馬が走っているんだ」と気づいただけでは問題は解決していない。「このままではこちらにぶつかるのではないか」「よけきれるだろうか」と気が気でない状態に陥るはずだ。そして人は逃げようと意志して足を動かす。逃げ切って、ようやく安堵する。
 こうしてみると、意志は思惟と同様に、経験の統一に安らうことができなくなったときに生まれ、その不和を解消し大なる統一をもたらそうとするのである。
 もっとも意志と思惟は同じではないと主張する向きもあるだろう。思惟は客観的現実に自らの主観的思考を合わせることで、意志は主観的要求に周囲の客観的状況を合わせようとすることである、と言えなくはない。だが、西田にとって、この主観‐客観の区別そのものが純粋経験の統一を失ったがゆえに現れる仮定なのである。はじめの純粋経験に安住できなくなったがために、主観と客観に世界を分け、何をどうすればよいかを調べようとするのだ。
 意志も思惟も、純粋経験をより大なる統一へおもむかせる自発自展の活動的統一の一部なのである。

純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が真理であり兼ねて又実行であるのである。〔中略〕知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる狀態を失った場合に生ずるのである。意志に於ける欲求も知識に於ける思想も共に理想が事実と離れた不統一の狀態である。(I, p. 36)

 しかし、以上のように書くと、一々の統一の経験、つまり純粋経験が矛盾と不統一の経験によって分断されているようにも感じられるだろう。そうすると「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」という西田の試みは失敗しているようにも見える。
 だが、そのように一々の統一のみを純粋経験と見るのは狭い見方である。西田はむしろ小なる統一から大なる統一へすすむ「統一作用」「統一力」そのものに純粋経験を見る。
 しかしそうはいっても、矛盾と動揺によって分断された一々の純粋経験とそれらの経験を突き動かすものとしての純粋経験は別物ではないか。だが彼は奇しくも一休の逸話を想起させる樹木の喩えを用いてこう述べる。

 統一する者と統一せらるる者とを別々に考えるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことができない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かったならば枝葉根幹も無意義である。樹は其部分の対立と統一との上に存するのである。(I, p. 69)

ついに神に至る「統一」

 純粋経験とはこのようにまがりくねっていながらも一つの統一を成している。人は感覚や思惟、欲求にまがりくねりながらも一人の人間として生きた統一を成しているのだ。だが、西田の思想の特色は「経験=個人の経験」の限界を踏み越えるところにある。
 西田幾多郎のよく知られた言葉をかかげよう。

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである(I, p. 4)

 引き続き『善の研究』を読んでゆこう。
 第二篇「実在」は第一篇「純粋経験」と内容上重複するところが多いが、西田がはじめに書いたのは第二篇の方で、第一篇は後から付加したという(I, p. 3)。第一篇が「純粋経験」の性質を明らかにするために後から書かれたのに対し、第二篇は彼の哲学的思想を述べた『善の研究』の骨子というべきもの、と西田は序のなかで述べている。
 第二篇は、「真の実在」を理解するための出立点を得るために「疑ふにももはや疑ひ様のない」(I, p. 47)ものとして純粋経験を見出すところからはじまる。

少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とは唯我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。(I, p. 52)

 「直接経験の事実」のみを実在とみなす西田の思想はきわめて唯心論的にうつるだろう。だが、彼の「純粋経験」とは物心の仮定以前のもの、あるいは物心双方の根源となるようなものである。
 そして、彼は「経験は誰か個人のものでなければならない」という考えをも独断とみなす。

難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。又はさなくとも、各自の意識が互に独立の実在であるならば、いかにして其間の関係を説明することができるかということである。併し意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である。(I, pp. 54-55)

 純粋経験をして「純粋ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではな」かった。そしてここでは、その「統一」という概念が「経験=個人の経験」という限界を踏み越えるために使われている。そして、この「実在」=「純粋経験」は究極的には「宇宙を統一する無限の作用」(I, p. 99)すなわち「神」につながっているのである。
 西田は述べる。

物体現象といい精神現象というも純粋経験の上に於ては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢に於ける統一力と宇宙現象の根柢に於ける統一力とは直に同一である。例へば我々の論理、数学の法則は直に宇宙現象が之に由りて成立しうる原則である。(I, p. 68)
我々の直接経験の事実上に於て如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んで居る。即ち無限なる実在の統一力が潜んで居る、我々は此力を有するが故に学問に於て宇宙の真理を探ることができ、芸術に於て実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底に於て宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神其者を証明するのである。(I, pp. 98-99)

善の研究

 善の研究という倫理学的テーマと純粋経験論という哲学的テーマは『善の研究』において固く結びついている。
 第一篇と第二篇の純粋経験論が従来の主観的観念論の哲学と客観的唯物論の哲学の分裂を乗り越えるために書かれたとしたら、第三篇「善」が乗り越えようとしているのは従来の他律的倫理学(権威、社会をもとに善悪を論ずる)と自律的倫理学(理性、快苦をもとに善悪を論ずる)の分裂であると言うことができるだろう。
 他律的倫理学を、まず西田は否定する。権威を尊ぶ、というも権威には暴力的権威もあれば精神的権威もある。これでは善悪の標準を定めようがない。
 理性をもとにした自律的倫理学もまた、これを否定する。「理性にしたがう」といっても理性によって得られる「かくある」という知識は「かくあらねばならぬ」という実践を生みえない。理性的な倫理学の実践者としてストア派が考えられるが、結局彼らは無欲、アパシーの境に安らうだけにとどまった。「併し我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的を求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。」(I, pp. 133-134)と彼は付言する。
 快苦をもとにした自律的倫理学も、やはり否定される。快を求め、苦を避けるというが、それはそもそも何に快を覚え何に苦を覚えるかにかかっている。人を助けるのでも、自分の腹を満たすのでもそれによって人は快を得るだろう。だが、それは快を求めたがためになされたというよりは、どうしてもそうしなければならないという欲求を満たせたが故に快楽が得られたと考えるべきである。「原因と結果とを混同したものである。」(I, p. 140)と彼は言う。
 しかしこのように否定するも、西田幾多郎は他律的倫理学の核となっただろう「道徳的善の命令的要素」(I, p. 141)と自律的倫理学の核となっただろう「人性自然の要求」(I, p. 129)を決して否定しない。善は自分の要求とも他なるものの要求とも言いうる要求である。そして、それは自由意志の問題と重なる。
 そもそも意志の自由なるものは存在するのだろうか。肯定派は、外界の事情や内的な気質に独立して何かを選択し決定する力を人間はもっていると主張する。否定派は、宇宙の現象は一つとして偶然に起こるものはないとし意志もまたその法則に支配されていると説く。
 西田はそれぞれの主張を概観してから次のように述べる。

 さて此の二つの反対論の孰れが正当であろうか。極端なる自由意志論者は右にいった様に、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるという。併しかかる意義に於て意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなければならぬ。縦ひ、之が明瞭に意識の上に現われて居らぬにしても、意識下に於て何か原因がなければならぬ。又若し此等の論者のいう様に、何等の理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々は此時意志の自由を感じないで、反って之を偶然の出來事として外より働いた者と考えるのである。(I, pp. 113-114)
それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、反って自己の自然に従うが故に自由である。(I, p. 116)

 意志の自由とはこのようなものであるが、そもそも意志とは何等かの苦境や矛盾に際してそれを解決しようとする力だといえる。すると、意志とは活動的統一としての純粋経験そのものと言うことが出来る。活動的統一においてはつねに小なる統一から大なる統一への移行が目指された。意志もまた同様だとすると、善について次のように述べることができる。

我々の意識は思惟、想像に於ても意志に於ても又所謂知覚、感情、衝動に於ても皆其根底には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡て此一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々の所謂自己であって、意志は最も能く此力を発表したものである。かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。(I, p. 145)

 さて、上の文章では意識の統一力を「所謂自己」と見ている。だがすでに触れたように、西田にとって「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない」のだ。それゆえ自己の発展完成としての善は、そのまま社会規模、人類規模、宇宙規模の善につながっているとされる。

 善とは一言にていえば人格の実現である。之を内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、其極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到って其頂点に達するのである。(I, p. 163)

 第三篇「善」の最後の段落にて西田は次のように語る。

 終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る、我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実に此処に尽きて居る。(I, p. 167)

 かくして、『善の研究』における善の研究はしめくくられる。

宗教

 ついに第四篇「宗教」にたどりついた。西田が「かねて哲学の終結と考えて居る宗教」(I, 3p)である。しかしその概念はすでに折々に触れられていた。それらで強調されていたのは、宗教が人の最も深い要求であるということだった。
 西田は改めて述べる。

 宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求や又精神的要求をもって居る。併しそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。(I, p. 172)

 宗教とは「生命其者の要求」(I, pp. 172-173)である、と彼は言う。だかそのような宗教とは一体どのようなものか。「宗教とは神と人との関係である。」(I, p. 173)と彼は言う。しかし、どのような関係か。神が単に超越的で人と全く隔絶していているのならば、そこに宗教は生まれない。何か強力な力をもつ存在がいるというまでである。神と自己の関係は、神に帰することが同時に自己自身の根柢に帰することである関係である。

実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。(I, p. 181)

 さて、このような神は決して対象化してとらえることのできないものだ。意識統一が統一される意識内容に対して無であるように、神は対象的有ではない。それは否定神学者らのように否定をもって論ぜらるべきものである。西田はとくにヤコブ・ベーメの「物なき静さ」「無底」「対象なき意志」といった言葉を引用している。
 しかし、統一力であるがゆえに無である神は、まさに統一力であるがゆえに人格でもなくてはならない。
 西田にとって、人格とは我々の精神活動の根柢に働く統一力そのものである。そうすると、宇宙そのものの統一力である神は「宇宙の根柢たる一大人格」(I, p. 182)でなければならない。こうして彼は言う。

神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずという者は、最も能く神を知り居る者である。(I, p. 200)

 この文章をもって『善の研究』は終結を見る。

「判断すら加わらない前」の謎

 『善の研究』の概略を終える前に、一つ従来の理解に対する疑問、あるいは『善の研究』における西田に対する疑問を提示しておかなくてはならない。
 純粋経験はいかなる偏見をも取り払った純粋な経験、としてしばしば説明される。たとえばチューリップの花を見たとき、これを「チューリップ」と見たとき、それはすでに純粋経験ではない。そのような概念さえも一種の偏見である。「チューリップ」であるとも「花」であるともいえないいかなる概念も無化された直接の経験、それこそが純粋経験なのだ。
 だがすでに見たように純粋経験の「純粋」とは「分析ができぬとか、瞬間的であるとかいふことにあるのではない」のだった。思惟する経験もまた思惟する経験としては直接で純粋なのである。
 西田はデカルトと同様にあらゆる偏見を排除して純粋経験を見出したとも言われる。だが西田の純粋経験は偏見するという経験を排除しない。

 かくの如く主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それで若しこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。 物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。此点より見て学者よりも芸術家の方が実在の真相に達して居る。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。(I, pp. 60-61)

 純粋経験はこのように個人的偏見* を含んでいる。「単に存在ではなくして意味をもった者である。」と言うのである。だから、もしも園芸家か植物学者がチューリップを眺めたなら、「チューリップ」という概念はおろかその学名や生育の状態までその純粋経験のなかに組みこまれていたとしてもおかしくない。もっともこの文章は「冷静なる知識」をもって真実在と同一視しようとする考え方に対する批判であるのでこの「意味」が情意にアクセントをおいた「意味」であるのはたしかだ。それゆえ西田は「学者よりも芸術家の方が実在の真相に達して居る。」とも言っている。だが学者が実在の真相から離れていると言われるのはその経験に概念が混入してしまったからではない。物理学者が純物質のものだけをもって世界とみなすように概念から組み立てたものだけを世界とみなしてしまったという「此点」からみて実在の真相から離れてしまったのである。概念を無化した先に純粋経験があるのではない。逆に純粋経験から情緒・意志を除き去った先に概念があるのである。
 では「今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。」(I, p. 47)というのはどういうことか。
 ここで言われているのは経験の中の偏見ではなく、経験に対する偏見ではないかと思われる。
 「純粋経験に関する断章」では同様の内容が以下のように述べられている。

宇宙及人生の根柢を究め、知識的欲求の最深なる満足を得んとする哲学の出立点は何処に求むべきか。普通の知識の中には多くの独断がある。最深なる知識は最深なる疑より生れねばならぬ。嘗てデカートの為したように、疑いうるだけ疑うて、もはや疑いようのない所から出立せねばならぬ。(XVI, p. 568)

 こう述べてから、物や心、力、空間、時間というのは根本的な事実ではないということに触れ、次のように続ける。

然らば、かくの如き出立点は何処にあるか、経験学派の人は経験を以て凡ての知識の本と為して居る。併し多くの人の経験的知識といって居る者は純粋の経験ではない、之に加うるに独断的思想を以てした者である。ロックの如き人すら経験に由りて物其者を知り得ると信じて居た。(XVI, p. 569)

 ここで疑われているのは、真実在を考えるにあたっての独断である。物や心を直ちに真実在と考える独断が疑われているのである。「物あって経験がある」のでもなく「心あって経験がある」のでもなく「経験あって経験がある」のである。これらの独断は日常的な意味での独断というよりも唯物論者や唯心論者、経験学派にジョン・ロックといった哲学者が真に直接な実在をを捉えようとしたときに陥ってしまう独断である(また物理学者が「世界」と言うことで犯してしまう独断である)。経験に含まれる独断というよりも、真実在について考えるにあたって経験に対して働く独断、それがここで「疑いうるだけ疑」われているものではないか。
 第二篇第三章の冒頭 「まだ思惟の細工を加えない直接の実在」(I, p. 58)での「思惟の細工」というのもそのような哲学者の手つきについて言った言葉であると解釈することができる。なおこの章は先に触れた個人的偏見を含んだ真実在についての章でもある。
 その次の章の冒頭ではこう言われる。

此の如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。(I, p. 63)

 この一文では、分析し対象化された経験、「思惟の細工」をうけた経験を実際に自得された経験と同一視してしまう「経験に対する偏見」が批判されていると解釈できる。つまり、何かを分析し対象化する経験自体が純粋経験から排除されているわけではないのだ。
 これら「経験に対する偏見」は哲学者だけが事とするのではない。普通の人も普通に暮らしているなかで行っていることである。それだから、西田の「疑いうるだけ疑うて」はある程度「経験の中の偏見」に対する批判にもなってしまう。そのために読者は「疑いうるだけ疑うて」得られた純粋経験をいかなる偏見も取り払われた経験と誤認してしまったのではないか。つまりいかなる偏見も概念も無化した経験として純粋経験をみることは誤読なのではないか。
 そう簡単に言い切ってしまうことはできない。なぜならすでにみたように西田は『善の研究』の冒頭で間違いなく「いかなる概念も無化された経験」としての純粋経験についても語っているようにみえるからだ。
 「普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから」は「経験に対する偏見」と捉えることができるから、続く「毫も思慮分別を加えない」も経験に対して思慮分別を加えてこれを「感覚」とみたりする偏見に対する掣肘ともとれる。だが問題は次だ。

たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前(I, p. 9)

 この一文はどう解釈してもいかなる概念をも交えない純粋経験について語っている。「これが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考」は経験に対する思惟の細工として理解することができるが、「この色、この音は何であるという判断」は間違いなく判断する経験そのものである。
 だが「この色」「この音」と判断する経験もまた純粋経験なのではないか。たとえばヘレン・ケラーが生まれて初めて「この水」と判断しおおせたその経験はそれまでの未整理な感覚経験と比べればよほど「統一」の意義をもったもので純粋経験にほかならないといえる。「刹那」「判断すら加わらない前」と純粋経験を特徴づけることは「分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない」という西田の言葉に反するのではないか。我々の経験のすべてが純粋経験といいうるはずである。それとも「一生懸命に断崖を攀づる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する場合の如き」(I, p. 11)特殊の一時的で直観的な経験だけが純粋経験なのか。
 「『善の研究』の始に於て純粋経験を論じた所ではこの活動的統一の意味が十分に明になって居なかった」という言葉を参照するなら、西田は単に芽生えたばかりの思想を明確に表現できなかったと解釈することもできる。
 しかしそう解釈するには『善の研究』の冒頭はあまりに堂々としている。そもそも「『善の研究』の始」である第一篇「純粋経験」は実際の執筆においては第二篇「実在」第三篇「善」の後に書かれた(I, p. 3)。そうすると思想の未熟さとして解釈することは無理がある。つまり、西田は真実在を我々の知情意により成り立ったもので「即ち単に存在ではなくして意味をもった者である」と書いた後であえてこう書いたということになる。

真の純粋経験は何等の意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。(I, p. 10)

 「何等の意味もない」。これは一体どういうことなのだろうか。「判断すら加わらない前」の「刹那」の「何等の意味もない」経験としての純粋経験と、そうした経験を内に包み「分化発展」する「自発自展」の「活動的統一」としての純粋経験。この純粋経験の二つの側面は一体どういうことだろうか。
 この問題について考えるためには『善の研究』の内部にとどまることはできないだろう。その後の西田の思索を追わねばならない。

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*ここで「個人的偏見」と言っているのは西田の文中で「我々の個性」「自分の心持」と書かれているものに相当する。「偏見」という概念はそれ自体中立的な真理(≒冷静なる知識)の対概念であるので、このように西田の純粋経験を「個人的偏見を含んでいる」と記述することは問題含みである。この点について、試問中に私は注意を受けた。学術的な厳密さ、慎重さを心掛けた言葉選びをすること、「自分の理解しやすい言葉」にそのままとびつくのではなく、禁欲的に言葉を放出してゆくこと。そうした意識はこれから重要になってくるだろう。

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