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第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

『善の研究』における他者

 以上『善の研究』を概略したが、ここに他者論はあるだろうか。「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と言い、個人の意識の統一と社会の統一、人類の統一、宇宙の統一までをも同一ととらえる『善の研究』において、個々人の関係などという問題は無視されているようにみえる。善という対他的とも考えられるテーマも、『善の研究』では「自己の発展完成」と捉えられているのである。
 そんな『善の研究』からはじまった西田が、何故その二十一年後に「私と汝」という論文を書きえたのか。『善の研究』にはその手掛かりはあるのだろうか。
 しかしそもそも「私と汝」を普通のいわゆる個々人同士の関係についての他者論とみること自体がその内容を捉え損なっているとみることもできる。
 「私と汝」は次のようにはじまる。
 普通、昨日の私と今日の私が同一の私であり自由にその意識の内容を想起できるが、他者の意識については言語や文字といった表現を用いてようやく知ることができると考えられる。昨日と今日の私はその内面でつながっているが、私と汝は外界の音や形を用いてつながる。だが、その前提は正しいのだろうか。内界とか外界とかいう区分は絶対なのか。「一つの世界の両面という如きものに過ぎない」(VI, p. 341)ではないか。昨日の私、今日の私もまた「私と私とが心の内にて話し合う」(VI, p. 343)のである。

昨日の私と今日の私とは、私と汝との如く共に表現の世界に於てあるのである。(VI, p. 343)

 西田の他者論はつねに「昨日の私と今日の私」の時間論と類比的に考えられている。この類比は二つの側面をもつ。私と汝は、昨日の私と今日の私がそうであるように一つのものであり、無数の個々人よりなる社会も個人の人格のように統一されているのだという「連続」の側面と、昨日の私と今日の私も実は私と汝のように互いに話し合う関係であり、したがって普通に個人の人格と考えられているものも無数の他者を内包している、という「非連続」の側面の二つである。この「連続」「非連続」の二側面、つまりは「非連続の連続」こそ「私と汝」で重要になるのである。
 さて、このような時間上の多数の意識と、空間上の多数の意識の関係の類比は、じつのところ『善の研究』においてすでに登場している。ただし「連続」の側面を強調されて。
 社会というのは結局個人の集まりであって「社会的意識」なるものは存在しないのではないか、という意見に対し、西田はこう言う。

併し分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。個人の意識でも之を分析すれば別に統一的自己という者は見出されない。併し統一の上に一つの特色があって、種々の現象は此統一に由って成立する者と見做さねばならぬから、一つの生きた実在と看做すのである。社会的意識も同一の理由に由って一つの生きた実在と見ることができる。(I, p. 160)

 昨日の私、今日の私は人格の生きた統一を分析したあとにあらわれるものにすぎない。昨日の意識、今日の意識はたしかに各自独立である。だがそれはあくまでも純粋経験の立場を離れたときに見られる独立である。西田は第一篇第一章「純粋経験」の末尾にて述べる。

心理学者は意識は物でなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。併し余はかかる考は純粋経験の立脚地より見たのではなく、反って過去は再び還らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識は何処までも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志に於て一つの目的表象が連続的に働く時、我々は之を一つの者と見なければならぬ様に、たといその統一作用が時間上には切れて居ても、一つの者と考えねばならぬと思う。(I, pp. 17-18)

 一人の人の昨日の意識と今日の意識は、けっきょく同じ人の意識である。それと同じように、個人と個人の集まる社会もじつは一つの統一なのだ。個人の意識における非連続性は、純粋経験の立脚地を離れた見方にすぎない。それは一方向にどこまでも進む時間という概念を純粋経験にむりやり当てはめたにすぎない。純粋経験からみた意識現象はどこまでもつながっている。それは究極的には宇宙の統一にまで通じているのだ、というのが『善の研究』の主張だった。
 それゆえ、社会における個々人の独立性もまた重視されない。

各個人の精神は皆此社会精神の一細胞にすぎない(I, p. 75)
所謂個人の徳性という者は此社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない(I, p. 160)

 だが『善の研究』は個々人の独立性、また意識の内部にひそむ私と汝の独立性について完全に触れていないわけでもない。話が神に及ぶとき、わずかに独立性の側面が照らし出される。その独立性は愛とともに語られる。

愛というのは二つの人格が合一して一となるの謂であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中に於ても現われるのである。(I, p. 176)
神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。(I, p. 194)

 さて、このように『善の研究』のうちにわずかに芽生えた意識の内にひそむ私と汝の関係という問題は、『芸術と道徳』の段階で完全に表面に出る。この本に収録された論文、「社会と個人」にて次のように述べられる。

 道徳は通常、我と汝との間にのみ存すると考えられるのであるが、私は我と我との間にも道徳的関係というべきものがあると思う。私が他人に対して義務責任を有する如く、現在の私は私自身に対して義務責任を有すると思う。我々が我々の祖先に対し、我々の子孫に対し責任を有する如く、現在の自我は過去の自我に対し、未来の自我に対し道徳的責任を負わねばならぬと思うのである。(III, pp. 396-397)

 『芸術と道徳』は前著『意識の問題』とともに、『自覚に於ける直観と反省』にて到達された立場から書かれた本である。そのため、この『善の研究』からの変化の理由を知るためには、『自覚に於ける直観と反省』で何が起こったかを見なければならない。

『自覚に於ける直観と反省』と『善の研究』の「見方の違い」

 直観とは主客未分の「現実その儘な、不断進行の意識」(II, p. 15)である。反省とは、この進行の外にたって之を翻って見ることである。この二つはどうやって関わり合うことができるのだろうか。『自覚に於ける直観と反省』は「自覚」においてこそ直観と反省は関わり合う、と答える。

自覚に於ては、自己が自己の作用を対象として、之を反省すると共に、かく反省するということは、自覚の意識に於ては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識其者の必然的性質であるのである。(II, p. 15)

 すでにみたように『善の研究』では、「判断すら加わらない前」の「刹那」の経験としての純粋経験と「活動的統一」としての純粋経験という二つの側面が整理されることなく同居し混乱を生んでいた。そこで『自覚に於ける直観と反省』では、「判断すら加わらない前」の純粋経験を「直観」、自発自展の活動的統一の純粋経験を「自覚」として捉えることで混乱を回避したと言えるだろう。
 『自覚に於ける直観と反省』では「自覚」は次のように説明される。
 自覚とは「自己が自己に対して働く」(II, p. 19)ことであり、「思惟が思惟を思惟する」(II, p. 19)ことである。そして、思惟すること、知ることは「判断の必然性とか論理的明白の感情」(II, p. 20)としてあらわれる「超越的当為」(II, p. 20)をその根拠としている。それだから、自覚は「価値意識が価値意識自身を承認する」「当為が当為自身を承認する」(II, p. 20)と言い換えることができる。純粋経験は、その深まるところ自然法則から倫理的当為まで貫く活動的統一であった。自覚が「当為が当為自身を承認する」と呼ばれるのは、まさにその点を言ったのである。
 しかし、自覚をそのような当為と同一視することは問題を生む。そのような当為と我々の自己意識とはあくまでも別物ではないか、という問題である。

真理は我々が之を考えると否とに関せず真理である、価値意識は単に一般的妥当性の意識であって、我々の現実の知的作用とは何等の交渉もない。(II, p. 23)

 こう考えてしまえば、当為と我々の現実の思惟とを同一視する「自覚」という概念は問題含みである。ここで問題になっていることをさらに明確に言うと、「現実の知的作用」、つまりある人がある時ある場所で考える、という現実の時間上における思考作用と、超時間的な超越的当為、つまりある「意味」との関係、ということになる。

我々が普通に考える様に、或人の或時、或場所に於ける意識が或意味を有つということ、即ち我々が或意味を考えるということは如何にして可能であろうか(II, p. 28)

 『善の研究』ではこのように書かれていた。

例えば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であって、もはや一の意識とは看做されないと考えて居る人がある。併し直接経験の立脚地より考えて見ると、此の如き区別は単に相対的の区別であって絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考えて居る思惟又は意志等について見ても、其過程は各相異なって居る観念の連続にすぎない、精細に之を区別して見れば此等の観念は別々の意識であると考えることができる。然るに此の連続せる観念が個々独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亘りて或一の問題を考え、又は一の事業を計画するという場合には、明に同一の意識が連続的に働くと見ることができる、唯時間の長短に於て異なるばかりである。(I, pp. 72-73)

 ここではある知的作用を、時間上の複数の観念の連続とみるのと、「或一の問題」「一の事業」といった「或意味」を考える一つの意識活動としてみるのは、単に見方の違いにすぎないとされる。だから、昨日の意識と今日の意識の違いは「相対的」なものにすぎないのである。
 だが、『自覚に於ける直観と反省』ではまさにその「見方の違い」が問題になる。

余は無雑作に一つの意識を種々の方面から見るというが、何に依って之を一つの意識ということができるであろうか。(II, p. 29)

 「見方の違い」という考え方は『善の研究』で多用されてきた。ある経験が純粋経験かそうではいかというのも結局は「見方の違い」にすぎないのである。だが、それはつまりどういうことなのか。『自覚に於ける直観と反省』はこの問題を深めていったのである。

分離数と連続数

 さて、そもそもこの二つの見方はどのように異なるのだろうか。「或一の問題」から意識をみることは、それを内から見ることである。その内面的結合を見ることである。他方、それを時間上、空間上の連続として見ることは外から見ることである。その外面的結合を見ることである。
 この外から見られた時間、空間における結合は、同質的なものの結合と考えられる。時間や空間はそのどの一部分も同質である。あるものを時間上、空間上のものとして見るということはそうした「同質的媒介者によって経験を統一するということ」(II, p. 40)である。
 そうした同質的媒介者について西田は、すでに『思索と体験』に収められた「論理の理解と数理の理解」にて論じている。そこで彼は時間・空間のこうした均質性、同質性はそもそも数の同質性に基づく、と考えている。
 数は何に基づくのか。ポアンカレによればそれは「我々の精神が同一の働きを無限に繰り返し得ると自覚する力」(I, p. 256)である。だが同一の働きを繰り返すといっても単に1、1、1、・・・・・・と繰り返すのではない。1、(1+1=)2、(2+1=)3、・・・・・・とつづくのである。そこには「観念を配列して其全体の上に於て新なる直観的統一を見出す」(I, p. 259)想像力がなくてはならない。そしてそのような「新なる直観的統一」が無限につづくのである。ここに数の無限の系列が成立し、そこから時間の無限性、空間の無限性というものが可能になるのである。
 そして、こうした数の無限性は思惟の無限性に由来する。

我々は我々の反省的意識に於て、自己を思惟の対象とすることを又自己の思惟の対象とすることが出来る。斯くして恰も両明鏡の間に映ずる影の如く、又ロイスが挙げて居る英国に居て英国の完全なる地図をひく例の如く無限に進んで行くのである。此処に所謂無限の真相がある、時間、空間の無限という如きことも斯くの如き思惟の無限性に由るのである。(I, p. 264)

 この反省によって無限に進行して行く思惟こそ、『自覚に於ける直観と反省』で西田が「自覚」と呼んだものである。
 『自覚に於ける直観と反省』では、この思惟の無限性によって成り立つ数の無限性について算術と解析幾何学の問題がとりあげられる。解析幾何学では、幾何学的図形を方程式に、また方程式を幾何学的図形におきかえる。これを西田は思惟と直覚の結合とみた。このような方法によって従来直覚的には理解できないように思われていた複素数さえ直覚的に理解しうるようになるのである。
 さて、算術と解析幾何学とはどのように違うだろうか。それは簡単に言えば、1、2、3、と言っていたものを、1、2、3、と続く直線として図形として示す、という違いである。1、2、3、という分離的なものに対して連続的な直線、とも考えられるが、算術的な数においても1、1.1、1.11、とどこまでも考えることができ、ついには無理数を考えることもできるだろう。だが西田が指摘するのは、そのような考えられた数学的連続に対し解析幾何学は「全体」の直覚を与える、ということである(II, p. 177)。そしてこの直覚こそがより具体的で根本的である。それによって数学的連続、そして分離数が成り立つのである。
 このことを、連続数は分離数の主体subjectumである、とも西田は表現している(II, p. 193)(II, p. 200)。
 subjectumといえば、主観の原語だが、西田はこれをあえて主体と訳している。その理由は、subjectumを中世哲学でもともと使われていたような「基礎とか本体」(II, p. 130)「認識作用の背後に横たわる具体的基礎」(II, p. 286)の意味で用いるためと思われる。そのため主「観」という単に観る側という意味しか示唆しない訳語が不都合だったためであろう。この連続数と分離数の関係を、西田は続く著書、『意識の問題』においては次のように表現している。

有理数は「考えられたもの」で、連続数は「考える作用」其者である。(III, p. 92)

 こうした数の無限性は、思惟の無限性、自覚にこそ根拠をもつのだから、数の体系にとって根本となる連続数のあり方はそのまま思惟のあり方につながっている。分離数における一点一点と連続数における一点一点とは性質が異なるものである。連続数において、その一点はどこまでも達することのできない極限点であるとともに、その内に連続を形成する力をもつ点、つまり能生点でなければならない。そして、我々の自己とはまさにこのようにしてあるのである。

我々の自己は之を無限に反省することができると共に、また到底之に達することのできない極限点である。一つの連続を形成する極限点は我々が到達することのできない点であると共に単なる点ではなくコーヘンのいう如く方向を含んだ点である、否、方向を含むが故に、即ち自動的なるが故に、連続の極限点ということができるのである。コーヘンが曲線の点を能生点der erzeugende Punktというのは之に依るのであろう。而して我々の自己も之と同様の意味に於て能生点である。(II, p. 166)

 連続数のあり方、そして極限点、能生点のあり方を「我々の自覚の事実に比べて見ると、我々の一生は全体を通じて一つの自覚であるばかりでなく、時々刻々に独立の自覚である」(II, p. 168)ということがはっきりするのだ。
 ここで「昨日の意識と今日の意識」のとらえ方が変化する。『善の研究』では「昨日の意識と今日の意識」は純粋経験を分析したあとに出てくる「考えられたもの」、分離数的な一点にすぎなかった。だが『自覚に於ける直観と反省』においてそれは自覚という連続体における一々の極限点、能生点である。単なる分析されたものでなく「時々刻々に独立の自覚」なのだ。

『自覚に於ける直観と反省』の到達点

 さて、「昨日の意識と今日の意識」のとらえ方の変化の原因は確認できたとして、『自覚に於ける直観と反省』で問題になっていたのは、『善の研究』では無造作に「見方の違い」と片付けていたものを、そもそも「見方の違い」とはどういうことか、どうしてさまざまな見方を一つの意識がとれるのか、そして一つの意識に対してとれるのか、と問い直したところにあった。これに対してはどのような答えが出されただろうか。
 そもそも「極限点」がもちだされたのは「一つの立場から一つの立場への移り行き、アプリオリとアプリオリとを結合する極限概念」(II, p. 163)を探るためであった。

点の集合が其極限に於て連続的直線に移り行き、多角形が其極限に於て円に移り行くには新らしい直覚がなければならぬ、極限の考の根柢には新らしい立場の直覚がなければならぬ。而かもこの新なる立場は前の立場とは無関係のものではなく、前の立場を其中に完全に包含したものでなければならぬ、或一つの立場の窮極する所、新なる高次的立場が要求せられ、後者に依って前者が包含せられるのが極限の考である。極限点は到底達することのできない点、導来Ableitungは高次的立場の集合である。此処にはリップスの躍入Einscnappen、ベルグソンの躍進élanがなければならぬ。(II, p. 164)

 そうすると、自己が極限点である、ということは、自己を点の集合として見ることも連続的直線として見ることもできるということである。だが、自己をこのように二つの見方で見ることと、自己が何かを二つの見方で見ることとは違った話ではないか、という疑問もあるだろう。しかし、それはすでに主客対置の独断に走っている。自覚の立場では、自己を二つの見方で見ることと自己の意識内容を二つの見方で見ることとは同じことなのだ。
 それゆえ自己が極限点であるということは、自己が種々の見方を自由にとることができる、ということに等しいのである。
 そしてこの極限点、「時々刻々に独立の自覚」はこの現在の意識でもある。

消極的には達することのできない対象の極限点は、積極的には此現在である、此現在の意識である、現在は即ち意識、意識は即ち現在である。(II, p. 274)

 そして、それは意志である。

 此の如き思惟の達することのできない深さ、思惟体系の統一の極限、即ち積極的には自動不息なる此現在、それが意志である。(II, p. 275)

 ここに西田が『自覚に於ける直観と反省』で到達した、絶対自由の意志、アプリオリのアプリオリ、作用の作用の立場があらわれる。

我々は此の現在の「我」を通じて自由に何の世界にも出入することができるのである。(II, p.344)

 これが西田のひとまずの答えであった。
 こうして達成された立場を引き継いだ『芸術と道徳』所収の「社会と個人」では、時々刻々の意識と個々人の「独立自由」に光があてられるとともに、「現在」の価値をきわめて高く見ている。

普通に考えられる様な単に個人の団体という如き社会は、心理的個人と同じく、我々の認識対象界に属し、我々の自由なる人格に対して、その材料となるのみであって、その規範となることはできぬ、存在価値を有するのであって、道徳価値を有しない。自由なる人格的発現は、唯時々刻々の自由なる現在意識にあるのみである。此点から見れば社会も個人も同様である、所謂社会的内容も、個人的内容も、同様に現在の自由の意識に於て創造せられるのである。(III, p. 411)

 凝り固まった社会を創造に転ずるのはあくまで個人でなくてはならない。同様に、凝り固まった個人、日々の生活のなかで凝り固まった個人を再び創造に転ずることのできるのは、現在の自己をおいて他にいないのである。

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