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第一章 「残念」

「残念」ってなに?

 「残念」。これは大抵、否定的な悲しいことに対して付される言葉だ。残念でしたね・・・・・・、残念ながら今回は・・・・・・、こんな結果になって残念です・・・・・・。こういう具合にネガティブな言葉として使われる「残念」だが、『一〇年代文化論』がとりあげるのは、二〇〇七年頃からの「残念」という言葉の意味のポジティブな変化だ。それはたとえば「残念な美人」や「残念なイケメン」という言葉に代表され、さやわかは、その言葉についてのニコニコ大百科(主にニコニコ動画のタグについて自由に解説を書くことのできるネット上の百科事典)の説明を引きながら次のように述べる。

 ともかく、これらの説明には、もはや、「残念」という言葉にかなり肯定的なニュアンスが込められていると言っていいだろう。「言葉では言い表せない『ときめき』」だとか、「ただのイケメンより親しみやすさが感じられる」というのは、「美人」や「イケメン」の「残念」さを是々非々に受け入れる態度が窺える。*1

 そして、第五章でこれまでの議論をまとめるとき、彼は次のように書く。「「残念」な要素を受け入れるというのは、つまりどんな個性も許す自由さ、おおらかさを持っているという意味だ。」*2と。つまり、「残念」とはある種の寛容さの思想なのだ。こうした寛容さをこの時代の中心にすえる彼の論は、すぐれて「希望のポップカルチャー論」であると言えるだろう。
 しかし、一〇年代も終わりに近づいたいま、私はこう自問する。はたして時代は寛容さの一〇年間だっただろうか、と。なるほど、寛容という概念が取り沙汰される機会は多かったかもしれない。だが発揮される機会は?
 けれどそれを問う前に、私はもう一度問わなくてはならない。「残念」ってなに?

「残念な」のその周辺

 ニコニコ大百科には、「残念な一覧」という記事がある。この記事は「残念な○○」という言葉を五十音順で――○○の部分で五十音順に並べている。そうでなければ全部さ行に詰め込められたそれこそ残念な五十音順になったことだろう――並べたもので、現在一二項目あるのだが、このなかで最も古いフレーズは「残念な美人」でもなければ「残念なイケメン」でもない。「残念な天才」である。この三つの言葉を並べると、二〇〇八年の五月に初版が作成された「残念な天才」に、同年六月に作成された「残念な美人」、そして二〇〇九年の十一月作成の「残念なイケメン」、という順になる。
 後の二つと並べると、この「残念な天才」なるものは「残念なところのある美人キャラ」や「残念なところのあるイケメンキャラ」と同じように、「残念なところのある天才キャラ」を指し示しているように感じられるかもしれない。しかし、この記事が作成された当初、この言葉が指していたものはそういったものではなかった。とにかく引用しよう。

残念な天才とは、
「その知識が全く持って生かされない主」
「報われない知識の持ち主」
につけられるタグである。

概要
――――――――――――――――――――――――――――――――――
傍から見ると、かなりよい知識を持ち合わせているが、
その知識の使い方が間違っていたり、報われていないなど、まさに残念の一言に尽きる時に使用される。

関連タグ
――――――――――――――――――――――――――――――――――
・才能の無駄遣い
・知識の無駄遣い
・ニコニコ技術部
・隆志

 「残念な美人」「残念なイケメン」が実在非実在を問わず、多くの人物、キャラクターをその一例として挙げるのに対して、「残念な天才」は一人の動画投稿主を挙げるのみで、キャラクターの羅列を一切行わない。もっとも、現在の版では「残念な天才キャラ」のような意味も加筆されており、該当するキャラクターの列挙もあるが、それは二〇一一年の十二月と、後になってからの話である。
 ここで注目してほしいのが「才能の無駄遣い」という関連タグである。概要からも分かるように、「残念な天才」というタグの核心はここにあるのである。つまり、才能や知識を奇妙な方向に無駄遣いしてしまうこと、これが「残念な天才」の意味である。
 ところで、この「才能の無駄遣い」というフレーズの起源はニコニコ動画よりも古い。ニコニコ大百科では、この起源をふたば☆ちゃんねるの黎明期(二〇〇三年頃)にそこで使われた称賛の言葉、「まさに才能の無駄遣い」にもとめているが、「同人用語の基礎知識」ではさらにさかのぼり、雑誌「ファンロード」を筆頭とした「アニメ雑誌や同人系のマンガ雑誌の読者投稿の場」としている。
 なお、「同人用語の基礎知識」はさらに類似した表現として、次のような例をあげている。

 なおちょっとひねった云い方で、「努力の方向音痴」、「その才能を実生活で活かしていれば今頃は…」 とか、「そこまでできるのにヒキニートか…」「才能があるのに童貞か…」 なんてのもあります。 ここらも罵倒っぽい表現ですが、憎まれ口を叩きながらも舌を巻く、賞賛のひとつといって良いと思います。

 このようにいくらか古い由来をもつ表現だが、このフレーズはニコニコ動画に定着するや爆発的に派生表現を生み出していった。
 「○○の無駄遣い」で言えば、「技術の無駄遣い」「画力の無駄遣い」「美声の無駄遣い」をはじめとした様々なフレーズが、さらに「才能の○○」では、「才能の不法投棄」、「才能の排泄」といった派生表現がある。また、上で取り上げられた「努力の方向音痴」というフレーズもニコニコ動画でしばしば用いられるタグの一つとして定着している。
 さて、このように一通り見てみると、「奇妙な方向に無駄遣いしてしまうこと」「残念な方向に才能を発揮してしまった」「努力の方向音痴」というように、ここで問題になっているのは「方向」、そして「無駄遣い」や「発揮」、「努力」といったような行為であることが分かる。
 つまり、ある行為についてそれ自体はすごいのにその方向性が間違っているためにドブに棄ててしまっているようなものだ、というのがこれらの賞賛の意味しているものなのだ。これほどの才能が、発想力が、技術があるならば、もっとこうお金儲けだとかあるいはモテまくったりだとかそんなことだって出来たはずではないか、しかし、それらの能力を発揮してやったことと言えば! 残念なやつだなお前は(褒め言葉)、というわけである。
 

奇妙に方向のずれた行為――ニコニコ動画の基調

 そもそもニコニコ動画の動画は、そのほとんどが「才能の無駄遣い」「努力の方向音痴」である、と言いうる。というのは、このような世間には見向きもされない場所で、仕事にも恋愛にも役に立たないのに、多大な才能と努力、そして時間を投じて、動画を投稿してゆく、ということそれ自体が「無駄遣い」であり、「方向音痴」である、と言ってみることができるからだ。
 だが、そのような一般的な特徴としてだけではなく、個々の動画群に注意してみたときにも、「無駄遣い」「方向音痴」、いや、より抽象的に表現して「奇妙に方向のずれた行為」、といったものが、それらの基調になっていることに気付くはずである。
 たとえば、ある道具に対して、その用途から逸脱した使用をする、というのは、ニコニコ動画ではよく見られることだ。表計算ソフトであるはずのExcelは、絵を描いたり、アニメーションを作ったり、スーパーマリオを作ってそれで遊ぶことに使われる。また、ペンやそろばん、電話機に定規に灯油ポンプは、それによって一曲演奏するために使われる(「異色演奏シリーズ」というタグをのぞいてみるとよい。なお定規で演奏する人々は特に「モノサシスト」と呼ばれることもある)。
 楽器でないものを楽器にすることにかけては、音MADも負けてはいない。音MADとは、古くはニュース番組の音声を切り貼りして架空のジョークニュースをつくるMADテープというものに遡ることができるのだが、今ではアニメの音声などを原型のセリフさえとどめないほど分解してまるで楽器のようにその音としての声を配置する投稿者が数多い。楽器に選ばれる声、音はどんなものでもあり得る。号泣する野々村県議をはじめ政治家の声(「クラブで使える議員リンク」)から、同性愛者向けアダルトビデオの男優の喘ぎ声に、ねるねるねるねのCM。そしてポケモンの鳴き声、ハンマーの音、マクドナルドのフライヤーの揚げあがる音、ファミリーマートの入店音、ウィンドウズの起動音、エトセトラ。時にそれらは「廃材アート」とさえ、呼ばれる。
 初音ミクは、間違いなく歌を歌うためのボーカロイドだが、しかし初音ミクを使って本気で歌わせる、ということも実はこうした楽器でないものを楽器にする行為とつながりを持っているかもしれない。さやわかの『一〇年代文化論』を読んで、けいろーというライターは彼のブログ「ぐるりみち。」のなかで次のように書く。

けれど、初音ミクの「残念」さの象徴が「ネギを持たせる」こと=二次創作というのには、若干の異論を挟みたい。そもそも、ミクさんはその存在自体が「残念」なんじゃないだろうか。

 ボーカロイド黎明期に流行った楽曲の多くは、まさに「残念」な作品だったと思う。既存曲のカバーは聞きづらいし、オリジナル曲も「がんばって歌うよ!」な歌詞のキャラクターソング調のものが多かった。

 人間の声をわざわざ電子音声に置き換える必要はないし、オリジナル曲の多くは荒削りで、歌詞表示がないと聞き取りにくい。そんな「未完成」な「残念」さと、「面白そう」という好奇心が、その後の二次創作文化の根っこにあるんじゃないかと思う。「残念」だから応援したくなる、そんな構造が。

 ピノキオピーは二〇一七年に発表した「君が生きてなくてよかった」という初音ミク十周年を記念した曲のなかで初音ミクに「君は変な声で 奇妙な見た目で 時に気持ち悪いと言われてきた」「第一印象はマイナス 変化してったバイアス」と歌わせている。二〇〇九年からボカロPとして活動している彼にとって、このことは実感だっただろう。
 電卓をゲームに見立てて「実況プレイ」を行う者があらわれるかと思えば、ゲーム実況の方でも、どれだけコインをとらずにとか、武器をナイフ以外使わずに、や、歩数を最小限に、といった具合で、そのゲームの想定している遊び方から逸脱した「実況プレイ」が隆盛している。そもそも、ニコニコ動画で最も有名な実況動画といっても過言ではない「幕末志士」らによる「奴が来る」シリーズからして、「スーパーマリオ64」を、1upキノコから逃げ回るゲームとして読み替えて遊ぶ、という代物だったのだ。
 二〇一五年に、「スーパーマリオメーカー」が発売されると、その二週間ほど後には、これを用いて簡単な論理演算の装置がつくられた。はじめは一ケタの足し算くらいのものだったのだが、最終的には千京のケタさえ計算可能になる(「マリオメーカー学会」のタグをのぞいてみるとよい)。これらの成果によって、スーパーマリオを遊ぶことのできるExcelは、計算機の役割も果たすことができる、という動画が投稿されていたりする。
 ゲームの製作者の意図しないバグについても、さまざまなゲームについて、さまざまな動画が投稿され、さまざまな遊びが行われている。
 かくも、奇妙に方向のずれた行為がニコニコ動画の基調になっているのである。

「残念」の意味

 さて、「残念な○○」のニコニコ動画における初出表現である「残念な天才」の背景にあるものをわれわれはみた。「才能の無駄遣い」「努力の方向音痴」、しかしこれらと、「残念な美人」、「残念なイケメン」の間に一体なんの関係があるのだろうか。一方は、動画の投稿者たちについての話、もう一方はキャラクターの造形についての話ではないか。
 いや、関係はあるのだ。というのは、「残念」の本来の意味は、こうしたずれた行動にあるように思われるからだ。
 さやわかは、「残念」の意味の変化の早期の例として千原ジュニアの「残念な兄」ネタをあげている。

 ここで千原ジュニアが言う「残念な兄」とは、「どうしようもない兄」というネガティブな意味合いだが、しかしそれは兄のことを面白おかしく語る笑いのネタでもある。しかもダメな兄のことを面白おかしく語るというのは、同じお笑いのネタでも、序章で紹介した波田陽区の「残念!!」とは少し違った、笑う対象に対する積極的な好意が感じられる。
 千原ジュニアの使った「残念」という言葉は、そういうニュアンスのものだった。*3

 残念な兄の残念さはどこから来るのか。それは彼の行動から来る。彼は高速道路にのり、すでに利用料金も払ってしまったにも関わらず、マクドナルドの注文した品にポテトが入れ忘れてあることに気付くと怒り心頭引き返し、そのクレームを突きつけるが、担当者が低姿勢で応じると途端に機嫌を直して後にジュニアに「あの店は最高やで」などと言う。また、高校時代のマラソン大会では、途中で親戚の運転する車にのってゴール付近でおろしてもらう、という策を講じるも、時速一〇〇km以上という記録のせいで即座にばれてしまう。
 こうした、どこかずれた行動こそが、彼を残念たらしめているものだ。
 ライトノベルにおける「残念」にもまたつねに行動がつきまとっている。たとえば、さやわかがとくに取り上げる『僕は友達が少ない』は夜空という登場人物が「無駄な行動力」でつくりあげた友達作りのための部活、隣人部のさまざまな活動についての話であり、その内容は、友達を作るために部活をつくる、ゲームをする、劇を演じる、といったさまざまなずれた行動によって構成されている。
 このように見てゆくと、既存の残念についての理解は、なるほどその一側面は捉えているかもしれないが、的を得てはいないように思える。
 たとえば、飯田一史は『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』のなかで「残念」について「外見のスペックと、性格や能力におおきなギャップがある状態のこと」としている。だが、あの千原ジュニアの「残念な兄」はイケメンでなければ美人でもなく、ましてや美少女ではなかった。他方さやわかは「従来的な学校教育などからはドロップアウトしてしまうような種類の個性」として「残念」をとらえたが、これもまた正鵠を射ていないように思う。たとえば、『魔法科高校の劣等生』の主人公は「学校では評価されない項目」について習熟していたが、このことは彼を作品の中で「残念」にはしなかった。
 状態、個性、このようなスタティックな属性として「残念」を理解しようとすることはどうしても「残念」を見誤ることになるだろう。「残念」はむしろ行動にまつわる概念であり、行為とその結果についての概念であり、行動が終わった後に残る満たされなかった思いこそが「残-念」の正体なのである。(このことから考えると、ニコニコ動画の動画の多くが、「作ってみた」「演奏してみた」「歌ってみた」、という具合に、作品というよりも行為として表現されている、ということは興味深い。)
 行為が、努力が、どこか見当違いの方向に着地してしまって、当初の目論見からまったく逸れてしまう、この方向音痴。全てが終った後になってわれわれに取り憑き悩ませる残留思念。精神的な残尿感。もの足りなく感じること。悔しく感じること。「残念」の本来の意味、その否定性はこのようなものではないだろうか。
 そのように考えると、「残念」の意味が否定的なものから肯定的なものに変わった、というのは言い過ぎである。意味自体にはむしろ一貫性があるのである。言いうるとすれば、「残念」という言葉にただようイメージの変化であって、「残念」が肯定的な意味に変化した、という事実はないのである。
 もちろん、そのことはさやわかも感じ取っていたはずだ。彼は、『まどか☆マギカ』のファンの界隈で流行った、美樹さやかがこちらを向いて「かわいい女の子だと思った? 残念! さやかちゃんでした!」という画像を取り上げて、次のように言う。

 ここで美樹さやかは、つまりは自分自身が「残念」なものだという。自分は「かわいい女の子」とは隔たりのある、明るいだけが取り柄の少女なのだというふうに振る舞ってみせて、笑っている。それを見ると、なんとも言えない、微妙な気持ちになって、胸を突かれるような感覚がある。*4

 なんとも言えない、微妙な。さやわかが「残念」という言葉で示したかったのは、そういったもののもつ奇妙な魅力だった。
 さて、この画像そのものについて言えば、これがいわゆる「釣り画像」、つまり「かわいい女の子」の画像を期待している人を釣り上げてまったく関係のない画像を見せつける、という趣旨の画像であることから考えれば、その「残念」の意味は容易に理解できる。
 つまり、人は期待を込めてクリックする。画像が表示される。目当てのものではない。振り上げた手のおろしどころのない気分になる。場合によっては、ずりさげたパンツをそそくさと元に戻す。はじめの期待は満たされることなく、ただ取り残される。残念。こういうわけである。
 ただし、美樹さやかそのものに注目するならば、彼女自身が言ってみれば残念なキャラクターだったということに気づくことができるだろう。魔法少女になるという彼女の行動は、彼女の思いを裏切って、どこまでもあらぬ方向へ事態を導く。魔法少女になったのは、恭介の腕を直したかったから? 奇蹟や魔法があることを証明したかったから? それとも恭介が好きだから? あるいは町のみんなを守りたかったから? そのどれもがもはや行動とは見合わない。だが後戻りはできない。動けば動くほど傷つくのに、傷つきながら動くほかないのだ。
 「残念」には喜劇と悲劇の二つの顔がある。
 このことをよく理解している漫画家に、『空が灰色だから』という短編集で知られる阿部共実がいるだろう。この短編集は、どうしようもなく気持ちをどん底に叩き沈めるような漫画が数多く収録されていることで有名だが、実際に読んでみると、軽快なギャクをふくんだ笑える作品も多いことに気付く。
 この短編集の「鬱になる漫画」の定評をたかめた有名な一話に、最終話「歩み」がある。主人公はクラスのある小グループにいるのだが、他の二人からは挨拶も返されないし、突然一発ギャグをふられたと思ったら滑っても見向きもされない。そんな彼女は、一発ギャグがつまらなかった罰ゲームとしてクラスから浮いているボッチとの友達ごっこを強制される。そのような経緯ではじまった付き合いは意外にも馬が合い、主人公は自分の誰にも教えていない趣味、将棋を彼女に教える。一週間がたって、主人公の属する小グループの他の二人がやってくる。「じゃあゲーム終了しようか」「えっ? じゃないよ 罰ゲーム終了だから 今日は水戸さんにドッキリのタネ明かしをしてあげるんだよ」主人公は断ることができない。この小グループから追いだされてクラスの居場所がなくなるのが怖いのだ。最後のページは主人公とあの一人ぼっちに逆戻りした子が泣いているコマに、あの楽しかった一週間の一コマ、そして白コマに一言。「ずっと将棋の相手ができる友達が欲しかったくせに」。その端に「『空が灰色だから』⑤/完・完結」の文字。
 ただクラスの居場所のためだけに、本当に欲しかった友達を自ら傷つけることになる。その後は? そんなものはない。どうしようもなく救いようがない漫画だ、という印象を与えるには充分である。だが、このような話はこの短編集の一部にすぎない(少ないとは言っていない)。
 たとえば、第四話の「イチゴズ オブ デスティニー」ではパッとしなかった一〇代からオサラバするために今日発売の数量限定の特注ワンピースを購入するため奮闘する女子大生が主人公だ。しかしこんな日にかぎって銀行のATMは込んでいるしコンビニのATMは故障している。だが彼女はめげない。恥も外聞もなく友人にお金を無心し、高校時代の憧れのクラスメイトの誘いを断り、ようやく購入にこぎつける。いくらかの犠牲はあったが目的は達したのだ。そして帰ってみると、東京に住んでいる姉がその同じ服をプレゼント。思わず叫ぶ、「運命に弄ばれちゃったよお」!
 あるいは第十三話の「僕の家の隣の家のお姉さんは」を挙げてもよい。主人公みず姉は自分では恰好いいお姉さんだと思っているが、しかし実は幼なじみの後輩にとって放っておけないどこか抜けたお姉さんなのだ。このみず姉のキャラクターはまさに「残念な美人」と言ってよいだろう。かわいい。
  鬱になるような話と笑える話、その二種類の作品は、まったく別の作風で描かれているのではなく、ずれた行動、外れた当て、後を引く思い、といったモチーフを共有している。それは「残念」の悲劇=喜劇そのものなのである。

インターネットの残念さとは

 「残念」という言葉の意味は実は変化していないのだと考えるとき、さやわかの示す「新旧の世代的な断絶」*5なるものに対しては懐疑的にならざるを得ない。そこで、旧世代的な「残念」の用例としてさやわかの示す、梅田望夫の発言をみてみよう。

 とはいうものの残念に思っていることはあって。英語圏のネット空間と日本語圏のネット空間がずいぶん違う物になっちゃったなと。

 これは以下の記事のインタヴューの中での発言である。

彼は『ウェブ進化論』で知られるこれからのインターネットをきわめて肯定的に描いた人物だったので、その転身は物議をかもした。
 さて、さやわかは、このインタヴューから梅田望夫にとっての日本のウェブの残念さとは、彼の好きな「ハイブロウ」なものではなく、サブカルチャーが隆盛している現状のことである、と読み取り、「ニコ動=サブカルチャー=残念」*6という等式を取り出してみせる。しかし、この読みが正当かどうかには疑問がある。
 そもそも、このインタヴューで、梅田望夫はインターネットの「残念さ」についてそれがいかなるものなのか、まったく意欲的に語ろうとしていない(「仮に今のWeb空間がネガティブなものになったとしても、それを分析しようというモティベーションがそもそもないんですよ 」)。彼は、インターネットについての「評論家」と見なされることを、まったく心外だと考えているようであり、ただただ将棋やシリコンバレーといった彼自身の好きなものについて語っていたい、と願っているようだ。そのため、彼の口からこぼれた「残念」が一体なにを示しているのか、文章からははっきりとしないのである。
 とはいえ、彼が「ハイブロウ」なものを好んでおり、サブカルチャーにはあまり興味がない、ということはその通りである。しかし、彼が、自分の趣味にそぐわない日本インターネットの発展それ自体を「インターネットの残念さ」と考えている、というのは言い過ぎではないか。「ただ僕自身がサブカルチャーはそんなに・・・・・・。僕は漫画読まないしアニメみないしさあ。」それが彼のサブカルチャーに対する全姿勢である。
 ただし、彼はこうも言っている。

 ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。

 さやわかもこの文を引用しており、これを自身の読みの根拠にしている。しかし、これは本当に「サブカルチャー=残念」という意味なのだろうか?
 ここで一歩後ろに下がって全体を眺めてみよう。そもそも、このインタヴューはいかなる状況、前提でなされているのか。
 インタヴューの前文で、梅田望夫についての簡単な説明がなされている。『ウェブ進化論』を書いた二〇〇六年から、インタヴューが行われた当時二〇〇九年へはまだ三年しか経っていない。この前文に、次のように書かれていることは注意すべきだ。

 だがここ最近は、Webについて語ることは少なく、昨年11月にはTwitterに書き込んだコメントが炎上するという“事件”も起きた。
 一方、今年5月には、最新刊「シリコンバレーから将棋を観る」(中央公論新社)を出版。 〔中略〕
 3年前、Googleを賞賛し、Webの可能性を力強くに語った梅田さんが今、Webについて語ることを休み、一流の棋士たちに魅了されている。
 梅田さんは日本のWebに絶望し、将棋に“乗り換え”てしまったのだろうか――記者は新刊からそんな印象を受け、梅田さんに疑問をぶつけた。

 このインタヴューはおおよそこのような経緯で行われたのである。そうすると、この”事件”についても気になるところだ。
 当然、インタヴュアーはそのことについて聞く。まず、こんな質問を投げかける。「日本のネット空間の「悪いところ」って例えばどういうところでしょう 」しかし、梅田望夫は十五秒間沈黙する。インタヴュアーは今度は直球に、あの”事件”について尋ねる。彼はしぶしぶ答える。

 僕はあのとき「はてなの取締役であることを離れて言う」と言ったんだよね。それで自分のブクマコメントの非常に限定されたことについて、Twitterでひとことつぶやいたというか、そういうことをしたわけだよね。はてブコメント事件、というのは。事件でも何でもない話で。
 だけどやっぱり、日本語圏のネット空間において、ユーザーが100万人とかいるはてなの取締役であると。そうすると、日本語圏のネット空間について、何かネガティブなことを語るということは、「おまえは自分の利用者を批判するのか」というコメントがあったわけ。
 それについてコメントすることも、僕はやめようと思ったんだよね。新聞なんかにも取材を受けたけど。「僕がはてなの取締役を辞めたらその質問に答えます」と。
 僕自身がはてなの取締役でいる限り、「(ネットユーザーに対して)お前たち、こうしろよ」とか「こういうこと言ってるやつはよくない」と言うことは許されないんだなと思ったんです。

 どんな事件があったのかはわからない。ただ、彼ははてなブックマークのコメントを批判したようである。そして、彼はできるだけこの事件について語りたくないようである。ここから分かるのは、彼の言う「残念」が何を指すかの不明瞭さは、決して偶然の産物、あるいは彼の表現力の問題ではなく、彼の置かれた状況と決断によるものだった、ということである。
 だがこれでは埒があかない。別の視点から見てみよう。

 中川淳一郎。『ウェブはバカと暇人のもの』を著して『ウェブ進化論』で示されたバラ色の未来図に早くから批判をしていた人物は次のように述べる。

 梅田氏の「日本のウェブは『残念』」発言には伏線があったように思う。昨年11月8日、梅田氏は「はてな取締役であるという立場を離れて言う。「はてぶ」のコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ」とTwitter上で発言。これは、梅田氏が『日本語が亡びるとき』(水村美苗著・筑摩書房)という書籍をブログで絶賛したことに対し、この本を読んでもいない人々(恐らくタイトルだけで「『日本語が滅びる』とはなにごとだ! この売国奴め!」と脊髄反射で不快に思った人々だろう)がネットの様々な場所で批判をしまくったことに端を発する。

 この記事で、彼は「残念発言」に対するありそうな反発の一つとして「サブカルチャーをバカにされたと思った」をあげるが、サブカルチャーの代理人面をしてふきあがるのはよせ、と返す。そして、こう続ける。

「上の人が出てこない」については、当たり前じゃないか。だって、その人が何か秀逸な意見を言おうが、この世の中にはアンチが必ず存在し、ウェブ上で矛盾を突いて「オレはあの高名な○○のヤローを論破した」とやりたがる匿名人間が出てきて余計な揚げ足取りをしたり、妙ないちゃもんをつけてくるわけだ。そんなネットという世界、しかもカネをもらえるわけでもない場所に「上の人」が出てくるわけがない。出てくるメリットがない。

 ここで今一度梅田望夫の発言を振り返ろう。「残念」というのは何に対してか。それは「“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実」である。そして、その現実についての中川淳一郎の認識を見てみよう。最後に、そもそもなぜあのインタヴューの席が用意されたか、その発端となる事件を見てみよう。
 これで、明らかになったのではないだろうか。インターネットの残念さとはこのようなコミュニケーションの残念さである。つまり、発言があらぬ方向に作用し、まったく本意でない方向に事態を導いてしまう、ということの残念さなのである。
 本を褒めると、タイトルだけで読みもせずに批判される。そのことについて批判すると、利用者を悪く言ってよいのか、自分の立場を考えろ、と批判される。もう何を言っても駄目じゃないか。コメント、発言は揚げ足取りといちゃもんを引き寄せ、本当に言いたかったこと、伝えたかったことは伝わらない。そんな環境では「上の人」だって、沈黙するのが得策だ。
 残念。梅田望夫が体感した、日本のインターネットの残念さとは、このようなコミュニケーションの残念さである。そして、その場合、ここでもやはり、残念とは、動的な概念なのである。ここにおいて、残念の概念はむしろ一貫しているのだ。断絶はないのだ。

*1 さやわか『一〇年代文化論』(星海社新書)、52頁。
*2 同上書、153頁。
*3 同上書、46頁。
*4 同上書、185頁。
*5 同上書、193頁。
*6 同上書、39頁。

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