強弱

選択至上主義

A:どうしてあの人と付き合おうと思ったの?

B:顔がよかったから

B’:性格がよかったから

C:B’はステキ、でもBはダメ。外見なんて本人にはどうしようもないじゃない!

D:は? 内面のほうがよっぽど変えにくいんだが? ルッキズムなんかより内面至上主義のほうが残酷だろ!

 だいたいこういう思考を品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)氏は展開したうえで、「わりとよくある「常識への反論」」「〔多くの人はそこで〕「論破」した気分になり、気が晴れてそれ以上考えることをやめてしまう」「「それはちょっともったいないかもな」と思うようになってきたので、もう一歩だけ先を考えてみたい」と続けてみせる。
 そのあとは当の記事を見てもらったほうが面白いだろう。

 ここで彼は二人の登場人物に意見をたたかわせ、内面を変えることはできるのか、それともできないのか、を論じさせる。そして、最終的に話は、こんなふうに議論をすることさえ実は「決まっていたこと」かもしれない、というところに行き着く。はじめから性格の悪い人間がいるように、はじめからこうして相対立する議論をたたかわせることも決まっていたのかもしれない。
「もうこれ以上は同じことの繰り返しになりそうだ」
 このセリフで議論はしめくくられる。

 たしかにわれわれは一歩先に進むことができたが、同時に決定論VS自由意志論という袋小路にはまりこんでしまったようだ。なるほど、これ以上は同じことの繰り返しになりそうである。
 ここはひとつ後ろにさがってから別の道をさがすことにしたい。

 さて、人を愛するにあたって、外見を基準にするよりも内面を基準にするほうが尊い、という考え方は古来からよく言われてきたものだ。
 しかし、それは果たして「外見は変えられないから」「内面は変えられるから」という理由で言われてきたものだっただろうか。むしろ逆ではないか。
 いにしえの哲学者や聖者ならばこんなふうに言うに違いない。

めちゃ悟ってる哲学者:外見とか所詮はうつろいやすき肉のズダ袋じゃん。そんな変わりやすいもので人を好きになるとかマジ凡夫。一方内面はそう簡単にはかわらないからな~ 哲学者ならより不滅のイデアにちかいものを愛するべきだろ、哲考(哲学的に考えて)。

 ここまで言わなくとも、外見というのは歳月とともに衰えるものだから年をとっても一緒にいるパートナーは性格いいのがいいよね、くらいの話はよくきくだろう。
 そもそも普通に考えれば、ころころ変わる特徴で人間を判断するよりは変わらない部分で判断するほうがよいに決まっている。外見にせよ、内面にせよ、どちらがより変わりにくいかはともかく、より変わりにくい性質でもって人を判断するのが正しいのではないか?

 ・・・・・・と言ってみることができるが、しかしよくよく読み返してみると、問題は「変わりにくい」「変わりやすい」というところにない。外見/内面で人を判断することが残酷なのは「変わりにくい」からではなく、「当人にはどうしようもない」からである。当人の選択ではどうにもならず、それゆえ当人には責任のないもののために嫌われてしまうことが「残酷」なのである。
 顔や体質を変えることはできないが、どう生きるかは選ぶことができる。それゆえ、悪人は自らの責任で悪をなしたのであり、善人は自らの意志で正しく善を選択したのである。「内面至上主義」の意見はこう要約することができる。一方、反論者は「どう生きるか」もまた、実はわれわれにはどうすることもできないところで決まっているのではないか、と問いかける。

 ところが、善人/悪人が自らの選択に依拠するという発想はけっして普遍的な考え方ではない。キリスト教ではしばしば、「自分の努力と選択で清く正しく善人やってます」というような考え方は、傲慢で独善的な偽善者の考え方とみなされ、パリサイ人、ペラギウス派と罵倒されてきた。人は努力して善人になれるものではない、と彼らは言う。自分は自分の努力で善人になっているんだという傲慢は他人に対して残酷になるのに役に立つだけだ。「神の恩寵」がなければ人はどうしようもない。
 この発想をとことんつきつめるとカルヴァン派が提唱する「予定説」になる。ここでは善人/悪人、救われる人/地獄に落ちる人は世の始まりからあらかじめ神に定められている。誰もこれを変更することは出来ない。

 ・・・・・・ここまでくると「ちょっとついてこれない」と思う人もいるだろう。この考え方の是非は今論ずべきことではない。私が言いたいのは、内面至上主義者とその反論者の議論の土台となっている「自分で選択したものは自分に責任があるが、そうでないものでその人を責めるのは残酷だ」という考え方そのものがけっして普遍的なものではないことである。言ってみれば、「選択至上主義」という特殊な考え方の上に彼らは立っているのである。

 この議論が「選択至上主義」という一つの思考法の内部での格闘であることに気付くとき、議論が決定論VS自由意志論という袋小路に陥ったことの意味がはっきりと見えてくるだろう。
 選択は確固とした因果律が存在する世界でしか意味をなさない。
 「朝起きたら、何の脈絡もなく家の外が砂漠で冷蔵庫がウサギに変わっているし蛇口からトコロテンがでてくる。でもまあよくあることだし、待っていれば事態も好転するんじゃないかな」というような因果律のあやふやな世界では、選択するということはほとんど無意味だ。何を選択しても、何を選択しなくても、その時その時の偶然で世界の状態が定まるのだとしたら、もうどうしようもない。
 「これをすればこうなる、だから(だけど)これをする」という因果律がしっかりしていなければ、選択する意味はないし、選択に対して責任をとることはできない。

因果律があやふやな人:え、人をナイフで刺せば死ぬだろって? いや~、かならずしもそうとは言えませんよぉ。もっとなにかステキなことが起こるかもしれないし、なにも起こらないということだってありえた。僕は断じて殺すつもりはなかったんです。

 上の人がもしも本気でそう言っているなら、彼は狂人として責任能力のないものとして扱われるだろう。
 このような極端な例を出さなくとも、選択において因果律がはっきりしていなかった場合には責任が軽減されることがよくある。つまり「これをすればこうなる」ということが事前にわからなかった場合には、それは「過失」とみなされる、といった具合に。

 つまり、選択至上主義は意味のある選択というものが可能であるために、必然的に「世の中には確固とした因果律がある」ということを前提しなければならない。そして、この「確固とした因果律」をとことんまでつきつめると「なにもかも(私が今あれこれ選択することまで)決まっていたのだ」とする決定論にたどりつく。決定論は自由意志を否定する。だが、選択を下す自由意志が存在しないならば元も子もないのではないか?
 こうして選択至上主義は自分で自分を追い詰めるのである。

 われわれは日々選択して生きている。「これをすればこうなる」と考えながら選択して生きている。だから、もしある人が「自分で選択したものは自分に責任があるが、そうでないものでその人を責めるのは残酷だ」という選択至上主義の特殊な考え方から抜け出しても、因果律(≒決定論)と自由意志を同時に前提しながら生きるほか道はないことになる。

 ・・・・・・もうこれ以上は同じことの繰り返しになりそうだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?