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それでも世界が続くなら 僕はこの世界を許さない

※2013年に「僕はこの世界を許さない/それでも世界が続くなら」を聞いて、聞きこんで、書き上げた物語です。いわば二次創作のような物ですので、解釈違いがある可能性があります。また、曲順はアルバムとは別になっています。

1.自殺志願者とプラットホーム

「あ……」
 3メートル先に立つ彼女は、僕の初恋の人だった。やわらかそうな白い頬、少し丸い鼻、ちょこんとした唇、二重の目は笑うとよりたれ目になる、とても可愛い人だ。身長はあの頃より少し伸びたようだけど、あの頃に比べて綺麗になっていた。
 一目ぼれだった。いや、正確に言うと二度目ぼれか。
 どちらにしても僕は、彼女を見つけて声をかけずにはいられなかった。

「あ、あの、桐島さん……だよね?」
 はっと顔を上げた彼女は、僕の顔を警戒するように見つめた。
「えーと……誰、でしたっけ」
 僕は数歩近づいて彼女の前まで行くと、ドキドキする心臓を抑えながら言う。
「山内だよ、山内賢(やまうちすぐる)。ほら、中学校で二年の時に一緒のクラスだった」
「……あ、確か、生徒会役員やってた?」
「そうそう。よかった、覚えててくれたんだ」
 僕はほっと胸をなでおろし、にこっと笑みを浮かべる。
 すると、駅員の人が慌てた様子で僕と桐島さんをホームの内側へ押した。その時、僕は初めて彼女が、ホームのギリギリのところに立っていたことに気づいた。
 ものすごいスピードで電車がホームへ入ってくる。
 桐島さんは少しさびしそうな顔をし、足元を見つめた。何だか嫌な予感がして、僕は尋ねる。
「電車、乗らないの?」
「……ううん、乗る」
 と、歩き出す。
 僕は彼女の小さな背中を追いかけるようにして、電車へと乗り込んだ。

「桐島さん、どこまで?」
「大泉」
「あ、もしかして帰るところだった?」
「うん」
「そっか。……俺は、富士見台。高校の時、神奈川に引っ越したんだけどさ、今は一人で暮らしてるんだ」
 ちらりと桐島さんが僕の顔を見た。僕はただ、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。
「そっか。いいなぁ、独り暮らし」
「今、何してるの?」
「え、あたし? うーん……あのね、美大に通ってる」
「へぇ、すげぇじゃん! 僕なんて高卒でフリーターなんだ」
 自分とは大違いだと思ってけらけら笑っていたが、僕はふと気づく。
「あれ? もしかして桐島さん……」
「そうだよ、一年だけ留年してるの。でも、卒業できるか怪しいんだ」
「……ごめん」
「何で謝るの? 山内君は悪くないよ。悪いのは、出来そこないのあたしだから」
 桐島さんは自嘲するような笑みを浮かべた。その表情の向こうでキラキラとイルミネーションが光っていた。――でも、彼女の方がよっぽど綺麗だ。
 がたんごとんと揺れる電車。僕には届かない何かを抱えた彼女に、それでも僕は近づきたかった。
「……僕さ、馬鹿だからよく分かんないんだけど」
 と、前置きをしてから、僕ははっきりと告げた。
「僕、もっと桐島さんと話したい。あの頃は話しかけることすらできなかったけど、本当はずっと桐島さんのことを見てたんだ」
「……え?」
 彼女が首をかしげる。到着のアナウンスが響く。
「迷惑だったらごめん。でも僕、ずっと桐島さんのことが好きだった。ううん、今もすげードキドキしてるんだ」
 顔が熱くて、今にものぼせてしまいそうだった。
 いつの間にか開いていた扉が閉まり、桐島さんは小さな声で言った。
「ダメだよ、あたしなんかじゃ」
「え?」
「ううん、何でもない。山内君の気持ち、嬉しいよ」
「あ、じゃあアドレス……」
「うん、そうだね」
 二人で携帯電話を取り出して、さくっとアドレス交換をする。彼女のアドレスは、暗号のようにいくつもの数字が並んでいた。

2.水色の反撃

 あれから数回メールのやり取りをして、僕は彼女を家に招き入れることに成功した。絵を見せてほしいと頼んだら、彼女が恥ずかしいと言ったため、僕の家で見せてもらうことにしたのだ。
「お邪魔します……」
 おずおずと中へ上がる彼女。
 事前に部屋を片付けていたため、室内はわりと綺麗だ。
「適当なところに座っちゃっていいよ。あ、すぐに飲み物用意するから」
 と、僕はそわそわしつつ冷蔵庫を開ける。
 桐島さんはテレビの向かいに腰を下ろし、鞄からスケッチブックを取り出していた。
 僕はウーロン茶の入った二つのグラスを持って戻り、テーブルへことりと置いた。座る位置は彼女の斜め横だ。
「えっと、これ……」
「お、ありがとう! さっそく見せてもらうね」
 僕はわくわくしながら、彼女からスケッチブックを受け取った。
 そっと開いて見ると、まずモノクロの風景画が目に入った。住宅街だろうか。
「あ、あんまり上手じゃないでしょ」
「そんなことないよ。すっげー上手だって」
「そ、そうかな?」
 恥ずかしそうにもじもじする桐島さんは可愛くて、思わずドキッと胸が高鳴る。
 赤い顔を隠すようにして、僕はページをめくった。また風景画だった。
「桐島さん、風景を描くのが好きなの?」
「まぁ、うん」
 三ページ目に描かれていたものも風景画だった。屋外の開けた場所のように見えるが、そこには空がなかった。
「色、つけないの?」
「うん、苦手なの。特に空の色は、あんまり描きたくなくて」
 どうしてなのか尋ねたかったけど、その時の僕には出来なかった。

 再会してから数か月が経った頃、僕と桐島さんは「賢くん」「りさ」と呼び合う仲になっていった。僕のアプローチのたまものである。
 しかし距離が近づけば近づくほどに、僕は彼女の抱えたものの断片を見るようになっていった。

「あれ? その色って……」
 彼女は白いスケッチブックを水色に塗っていた。ぐちゃぐちゃに塗って、染めて、埋めていく。
 僕は彼女のそばへ寄ると、何もなかったように尋ねた。
「りさ、それは?」
「反撃」
 誰に対するだとか、何に対するだとか、疑問がたくさん浮かんだ。でも彼女は、僕のことなど気にする様子もなく、淡々と水色を塗っていく。
「……青い空は嫌いだよ。涙の色も嫌い。でも、空を描けって言われたら、こうするしかないでしょ」
 彼女は手を止めなかった。嫌いな色をただ、ただ塗って。
 僕は理由も分からずに、りさをぎゅっと抱きしめた。
 彼女はようやく手を止めると、おかしそうに笑いながら僕へ言った。
「どうしたの、賢くんったら」
「うん……りさがここにいてくれて、嬉しいと思ったから」
 本当は少し分かっていた。彼女が辛い環境にいること、もがくように生きて、涙さえ流さずに生きて、無理に笑って、他人のために笑って……そして、本気で自殺を考えていること。

3.17歳

「僕にはちょっと、分かんないんだけどさ」
 前置きをしながら、僕は部屋の隅に置いたギターへ視線をやる。
「この前、尊敬する先輩と久しぶりに会ったんだ」
「へぇ、それってバンドの?」
「うん、むちゃくちゃギターのうまい人なんだ。いろいろ教えてもらったのも、あの人からだった。でも、先輩はバンドを解散しちゃったんだって」
 風のうわさで聞いたことがあったけど、実際に本人から話を聞いて改めてショックを受けた。僕が本気で音楽をやろうと思ったのは、彼のおかげだったから。
「先輩はさ、言うんだよ。十年前に戻りたい、って」
 先輩にとっての十年前は十七歳、高校の文化祭で激しくロックを奏でていた頃だ。
「よくよく話を聞いてみたら、バンドを解散してからずっとアルバイトしてたんだって。でも、バイトもクビになっちゃって、それで嫌になってたんだって」
「そっか……あたしも、十年前に戻りたいな」
 僕とりさにとっての十年前は十三歳、中学校に上がって大人になった気がしていた。
「過去に戻れるわけ、ないけど」
 彼女はそう言うと、ふうとため息をついた。その様子があまりにも寂しそうに見えたから、僕はそっと手を伸ばして彼女の手に手を重ねる。
「きっと、先輩はアパートで今日もギターを弾いてる。そんな気がするよ」
 絶望はしてないはずだと思いたくて、僕は無意識に口にしていた。先輩の目は、りさと同じだったから。
 りさは無言で僕と指を絡めた。指と指との隙間から彼女のぬくもりが伝わってきて、僕は何故だか焦った。すでに気づいていることから、目をそらしたかったのかもしれない。
「……過去には戻れないけど、それって未来の僕から見たら、今なんだよな」
「うん」
「だからきっと、未来の僕が過去を悔やむ時って、今なんだよ。戻りたいって思った過去は、今なんだ」
「うん、そうだね」
「だから……だから、僕は……やっぱり、後悔したくないな。先輩のようには、なりたくないよ。ねぇ、りさ。だから僕は、今をせいいっぱい生きてみようと思う」
 彼女は答えなかった。うんともすんとも言わない。ただ窓ガラスをたたく夜風がうるさかった。

4.この世界と僕の話

 僕はりさを笑わせたかった。何にも考えないで、ただ笑ってほしかった。どうしたら彼女を救えるだろうと考えて、考えて、考えた末に、僕は歌を作った。

 アルバイト代を貯めてライブをすることにした。りさへ歌を聞かせるため、歌を届けるためだけのライブだった。
 バンド仲間や知り合いをいくつもあたって、僕はライブの協力者を集めた。僕一人のワンマンではとうてい叶わないため、当然のように有料のライブになった。
 僕はりさへ、ただでチケットを渡した。彼女は喜んだ。そして、いつものように絵を描いていた。もうすぐ八月になるのに、彼女はいつも長袖を着ていた。

 地下にある薄汚れたライブハウス。
 ギターを抱えて僕は歌う。大好きな彼女を笑わせたくて、少しでも元気づけたくて、腹の底から声を出して歌う。
「賢くん、すっごくかっこよかったよ」
 ライブが終わった後で、りさは久しぶりに満面の笑みを見せてくれた。嬉しくなって、僕は彼女をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、りさ。りさが見てくれてたおかげだよ」
「そんなこと……。でも、賢くんには才能があると思うな。だから、これからもがんばって」
 にこっと笑う彼女を、僕はほんの少しだけ救えた気がした。

 それなのに何故、彼女は泣くのだろう。
 深夜、僕の家までやってきた彼女は、僕の顔を見るなり泣きじゃくった。
「りさ? どうしたんだよ、りさ」
 彼女は答えない。僕が抱きしめて、なだめてやってから、ようやく声を出す。
「もうイヤ……嫌なの」
 この世界が嫌なのだと、僕はすぐにひらめいた。
「……そっか」
 僕は彼女を落ち着かせようと、静かに床へ座らせた。
 華奢な体をぎゅっと抱き寄せて、僕は小さな声で歌い始めた。

 おかしいよな、こんな世界。
「何だよ、それ。苦しいのはみんな同じって、それくらい知ってるよ。それでも生きなきゃダメなんて、僕には理解できない。僕にはこんな歌、歌えないよ!」
 曲を持ってきた仲間へ、僕は反論をしていた。歌詞の書かれたノートをばしんと床へ投げつける。
「ふざけんのもいいかげんにしろよ!」
 虐待もレイプもよくある話って言うなよ。僕はもう知ってるんだ、気づいているんだよ。
 彼女の父親は幼い頃に死んだこと。中学卒業と同時にやってきた父親が最悪な男だったこと。高校の美術部でいじめられて、数えきれないほどの作品を壊されたこと。他人を信じられなくなって、最後に残ったのが「絵を描くことだけ」だったということ。
 そして今日も彼女は、復讐してやるんだと笑いながら、空色の筆を手にしている。

5.チルの街

 りさはいつの間にか、僕の部屋で生活するようになっていた。
 僕が言ってもいないのに、彼女は掃除や洗濯をし、食器洗いまでしてくれた。しかし彼女が大学へ行くことはなかった。どうしてなのか、それとなく探りを入れたら、りさは悪びれることもなく答えた。
「だって眠れないんだもん」
 僕は知っていた。

 夜、僕とりさは一つの布団に入る。手をつなぎあったり、身を寄せ合いながら。
 僕は十分もあれば眠りに就く。でも彼女はそうじゃない。
 寝たふりをして、ごろんごろんと寝返りを打つ。ぎゅっと両目を閉じて、僕に迷惑をかけまいとして、ただ大人しくしている。
「りさ、お願いだから話してくれないかな」
 ある夜、僕は彼女へそう言った。
「眠れないなら、君が眠れるまでずっと話を聞いてるからさ」
「賢くん……でも、それだと賢くんが寝不足になっちゃうよ」
「僕のことなんていいよ。だって、りさはいつも眠れないんだろ?」
 彼女は布団にごそりと潜ったが、すぐに出てきた。
「じゃあ、話すね」
「うん」
 僕は彼女の横に座りなおして、ふとアコースティックギターに手を伸ばす。そうだ、歌にしよう。
「あの、ね。あたし、高校生の時からうまく眠れないんだ。いろんなこと考えちゃって、頭が痛くなってきて、苦しいの」
 僕は短く相槌をして次の言葉を待つ。
「賢くん、勘がいいから気づいてるかもしれないけど……あたしね、お父さんが怖い。あの家にいるとね、夜、お父さんが部屋に来るの」
「お母さんは?」
「知らない。あの人の目には、あたしなんか見えてないんだと思う。もうね、あたし、我慢できなくなっちゃったんだ」
「そっか。だから、僕のところに来たんだね」
「うん、ごめんなさい」
「謝らないでよ。りさのそばにいられて、僕はすごく嬉しいよ」
 僕はギターの弦を一つ弾いた。
「でも、でも怖い。またお父さんが来るような気がして……眠ってしまったら、また壊されちゃう気がして」
 大事にしたかったものを奪われた彼女には、傷だけが残されていた。深く、深く、夜を迎えるたびに痛む傷。
「……大丈夫、大丈夫だよ。僕は君のそばにいるから、君を守り続けるから」
「うん。賢くんは、信じられるよ。優しいし、一緒にいて落ち着くもん」
 僕は再びギターの弦を弾いた。ぽろりぽろりと紡がれていく、即興の曲。
「でもね、だからこそあたしは不安なの。賢くんにあたしは、不似合なんじゃないかって」
 ギターの音が止まった。
「何言ってるんだよ、りさ。それはむしろ、僕のセリフだ。君みたいな人が、僕と一緒に生活してくれるなんて……本当に、夢みたいなんだから」
「優しいね、賢くんは。いいよ、気を遣わなくて」
「気なんか遣ってないよ。本当に僕はそう思ってるんだ。だからこそ、僕は君を心から愛したい、愛し続けていきたいのに」
 言葉では伝わらない気がして、僕は彼女へキスをした。
「ん……っ」
 呼吸ができないくらいのキスをして、僕は唇を離した。
「僕はりさが好きだ。世界でいちばんに愛してる。誰よりも、何よりも一番に、君を大切にすると誓うよ」
 ゆっくりと目を細めた彼女は泣いていた。笑いながら泣いていた。

 僕は彼女のために歌を作る。眠れない彼女のために歌を作り、時には歌って聞かせた。
 りさは僕のために眠ったふりをする。僕がアルバイトに出ている昼間の時間、彼女は日向の中で両目を閉じる。

6.スローダウン

「寝るのが怖い」
 ある夜、りさは突然そう言った。今にも泣きだしそうな顔をして、どこか遠くを見つめたままで。
「……どうして?」
「だって、眠ってしまったら、明日が……明日が、来ちゃう」
 明日に予定なんてなかった。僕はアルバイトに行って、りさはいつもどおりにこの家で過ごすはずだ。
 しかし、りさは言う。
「いっそのこと、ずっと眠り続けていられたらいいのに」
「それじゃあ、僕が寂しくなるよ。明日だって、明後日だって、僕はりさと話をしたい」
「それなら、それならせめて……来年の誕生日には、死なせて」
 僕はりさをぎゅっと抱きしめた。心臓がどくどくと嫌な高鳴りを始める。
「ダメだよ、りさ」
 彼女のことは理解しているつもりだった。だけど、僕は彼女とずっと生きていくつもりだった。
「……ごめんなさい、賢くん」
 りさは小さな声で謝ると、静かに両目を閉ざした。

 正解はどこにあるのだろう。僕は彼女を救い出したいけれど、それは、果たして正解なのか?
 僕にとっての世界と、彼女にとっての世界は違う。それは分かっているけれど、彼女にはもっと、もっともっと、幸せになってほしい。幸せにしたい。僕が、この手で幸せにしたい。
 だけど、僕たちの正解はどこだ?

 生きることが辛いと、僕は知っている。彼女を見ていれば、誰だって分かる。
「りさ、大丈夫だよ。だから、眠ろう」
「嫌だ……眠りたくなんて、ない。寝ちゃったら、明日もまた――っ」
「何も怖いことなんてないよ、りさ。大丈夫、大丈夫だから」
「ねぇ、あたし、がんばるから。賢くんのために、がんばるから。だから、お願いだから……来年の誕生日には死なせてよ」
「……うん」
 生まれて、生きて、死んでいく。ただ、それだけのことだと頭では分かっていても、僕には彼女を手放す理由が見つからなかった。

 りさのスケッチブックを埋める水色。僕がどんなに愛を伝えても、届いていない証拠。
 りさの手首を埋める赤色。僕がどんなに腕を伸ばしても、指先すら届かない証拠。
 僕はまだ、りさのことを何一つ理解っていなかった。

「ねぇ、少しずつ分かってきたよ。この世界には、死ぬことよりも辛いことの方が多いんだって」
「賢くん……?」
「だから、死ぬ方がいいってことも、分かってきたよ。早いか遅いか、明日か明後日か、ただそれだけのことだってことも」
「……それじゃあ、あたし」
「うん。りさは、偉いよ。この世界で、ちゃんと生きてきた。この世界で、ちゃんと……だから、もう、いいよ」
 そこにはきっと初めから、何もなかったんだ。

7.アレロパシー

 数年後、僕がここで歌ったことなんてきっと誰もが忘れてしまうだろうけど、僕はそれでも歌いたい。
 桐島りさという名前の女の子が、心を壊されても必死で生きていたこと。
 桐島りさという名前の女の子が、綺麗な絵をいくつもいくつも描いていたこと。
「僕には、やっぱり君の心の中なんて分からないよ」
 理解してあげたかったけれど、分かっていてあげたかったけれど、君はもう――僕の前から姿を消していた。

「それでも、僕は今、歌いたい」
 桐島りさという名前の女の子が泣いていたこと。
 この世界は狂っているということ。

「だけど、僕は君の、心の形を絶対に忘れないから」
 桐島りさという名前の女の子が、泣きながら描きあげた絵。
 桐島りさという名前の女の子が、心の痛みを必死に表現しようとして描いた絵。

 僕は返信のないメールを飽きずに送る。
「君がもし自殺をする、その時が来たら、きっと僕は歌うことなんてどうでもよくなるんだろう。たぶん、君も同じ。僕が死んだ時、君はきっとどうでもいいって思ってくれる。それが僕は嬉しくて、悲しいよ」
 彼女が今、どこで何をしているのかは分からない。この世界に生きているかどうかさえ、怪しい。
 それでも僕にとっては唯一の、かけがえのない人だった。
 季節が秋から冬へと変わっても、僕は彼女を思い続ける。彼女へ聞かせる歌など、もう存在しないけれど。
 ギターを弾く回数が日ごとに減っていっても、僕はずっと彼女へメールを出し続けた。彼女の残り香の、とうに消えた部屋で。
 
「君のこと、また歌にするから。やっぱり君には、生きていてほしいんだ」

8.unknown

 僕の心にぽっかり空いた穴を埋められるのは、りさだけだ。

 音楽仲間でもあった友人に、久しぶりに呼び出された。
 そこには友人と、見知らぬ誰かがいた。そして友人は、その人を音楽プロデューサーだと紹介した。僕の歌を聞いて興味を持ってくれたのだと言う。だけど、僕は言った。
「申しわけないですが、僕はもう、音楽はやめました。その曲だって、もう二年も前に作ったやつですよ」
 いつか、彼女のために歌った歌だった。
 しかし彼らは引き下がらない。新しく曲を作って聞かせてくれないか、なんて、馬鹿みたいなことを僕へ言う。
「すみません。本当に僕にはもう、やる気がないんです」
 彼女の消息はいまだに不明だ。きっと、どこかのホームから飛び降りたんだろう。
「僕に興味を持ってくれて嬉しかったです。ですが、僕にはもう歌う理由がない」
 それでも世界は続くから、僕はこの世界を許せない。
「僕はただ、りさのために歌っていただけなんです。お金を儲けようとか、音楽で食べていこうだなんて考えたのは、高校生の時だけです。……すみません、これで失礼します」

 優しくなりたい。あの頃のように、りさと楽しく笑いあって過ごしたい。
 きっと僕は未練がましい男なのだろう。だけど、僕はりさのことを最後まで理解してやれなかった。
 もう一度だけ、りさに会いたい。りさに会って、話をして、抱きしめて、キスをして、手をつないで歩きたい。真っ白なスケッチブックを持って、誰もいない場所へ、何のしがらみもない場所へ行って、笑いたい。
 ――いつになれば、この世界は終わるのだろう。

9.死刑宣告

 一人で迎える三度目の冬だった。
 いつものようにアルバイトを終えて帰路を行く。吹きすさぶ木枯らしに少し肩を縮めて、塀の上で鳴いている猫を横目に歩く。
 僕にはもう、何もわからなくなっていた。自分が何のためにここにいて、どうやって生きていけばいいのかさえ分からない。僕はいつの間にか、僕を見失っていた。
 たどり着いたアパート。冷たくかじかんだ手でかちゃりと鍵を回して、自分の部屋へ入る。時々、おかえりなさいと言う彼女の声が聞こえる気がしたけれど、今はもうそんなことさえなくなった。
 電気をつけて、コートを脱いで、寂しい部屋の敷きっぱなしにしてある布団に座り込んで、ため息をつく。
 台所に立つ彼女の幻影さえも、もう見えない。過ぎ去った時間は、あまりにも長すぎた。それは僕が彼女と過ごした時間の何倍にもなっていて、僕の中から少しずつ、彼女という存在を削り取っていく。
 彼女へ聞かせるために手にしたアコースティックギターも、もう長いこと手入れをしていない。少し触れば、きっとすぐにでもすべての弦が切れて弾ける。何も奏でられない、歌など歌えない。
 ふと腰を上げて冷蔵庫を開けた。缶ビールを手に取って、開ける。適当に飲みながら、風呂を沸かせるために風呂場の蛇口をひねる。
 部屋に戻って、缶ビールを机の上へ置いた。
 いつになれば分かるのか、僕にはわからない。こんな自分も、理想も、すべて壊してしまわないと、たぶんきっと分からない。形あるものを壊しつくして、ようやく見えてくる、形のないもの。
 しかし、僕は壊せない。ほんの少しでも、彼女が愛してくれた僕自身を壊せない。ほんの少しでも彼女がほめてくれた、僕の理想を壊せない。
 だから僕は、ずっと何も分からないままだ。彼女が諦めた理由も、僕のことも。
 それでも、ひとつだけ分かることがある。彼女が僕の前から消えたあの日から、僕は死刑を宣告されたも同然だということだ。

 空っぽになった僕の心を埋めるのは、彼女しかいない。
 彼女が泣いて、心に傷を作って、隠すようにして生きて。僕と出会って、笑って、泣いて、キスをして、また笑って、笑って、無理して笑って……死んで。無力な僕だけが、ただ生きて。ただ、何もない未来を生きて。少しずつ、だけど確実に、彼女のことを忘れていく。

 ――それでも世界が続くなら、僕はこの世界を許さない。



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