見出し画像

全国民へ送る給食讃歌…もうあなたは給食を食べずにはいられない!!

「好きな給食何だった?」

この一言で日本全国の人と最低5分は会話を続けることができる自信がある。
そう、給食とは世代や地域を超え、日本中、いや世界の人間ともコミュニケーションを図ることができるツールなのである。

私は現職の教師である。
当然毎日昼にはおいしい給食をいただいている。
個人的なことを話すと、給食は小学校で卒業。中学校は給食ではなかった。
高校は当然弁当。大学は学食ということで、就職して久しぶりに給食をいただいたということになる。
今気付いたのだが、同郷の同級生たちは教師になっていない者が大半だと思うので、小学校卒業以来給食を食べていないに違いない。
そう思うと私は大変幸せな環境なのだろうと感じる。

実際給食はおいしい。
子どもたちの好きなメニューと、我々日本人が親しんできた伝統的なメニュー、そして栄養バランスを考えた食材という見事なまでのマッチメイクを経て給食は配膳台の上に登ってくる。
いわば毎日の献立は奇跡のメニューなのだ。
栄養士のみなさん、いつも本当にありがとう。

私は子ども時代から偏食な方で、特に小学校時代は野菜と果物がダメだった。
大人になって大方の野菜は食べられるようになったが、ミニトマトとブロッコリーはまだ全然無理だ。
私が教師になって若い頃はミニトマトが結構出た。しかも2個。その日は朝から憂鬱で、毎回一番最初に意を決して口に運んだものだった。
近年はミニトマトがなくなり、代わりにブロッコリーの登場回数が格段に上がった。
木みたいな見た目がもうダメである。しかも無駄にでかい。
果物もまあまあ嫌いなので毎回最初に食べる。みかんだろうがオレンジだろうがフルーツポンチだろうが最初。果物が終わったらやっと給食が始まる。

私の偏食譚はこれぐらいにして。
給食とは明治時代から連綿と受け継がれてきた日本の文化であり、脈々と変化を続け、現代でもさらなる変化を求められている。
最近では牛乳は瓶ではなくパックへ…
そして配膳方法や会食のルールもコロナ対応を強いられている。


「おいしい給食」の舞台は80年代半ば。まだ毎日ロールパンが登場する時代である。
そんな時代で中学校で教鞭を取る甘利田。
彼は給食のために学校に来ている。
母親の作る料理がまずいからだ。
そして彼はその給食愛を誰にも悟られずに生きている。教師が給食を好きなどと生徒にバレたら威厳を失うからだ。
だから彼は、誰にも知られず、心の中で給食を愛するだけ_。

毎度このような口上が甘利田の心で呟かれる。
日中職員室では給食のメニューを眺めているばかりで毎日のように配膳室へ顔を出す。しかし給食など気にも留めていないように振る舞うのだが。
彼には永遠のライバルとも呼べる強敵が。
そう、担任するクラスの生徒、神野ゴウである。
神野も甘利田同様常に給食のことを考えている男たちである。しかし甘利田と違うのは、給食の新たなる可能性を常に模索している点である。
「出されたものを最大限に味わう」のが甘利田だとすれば、「出されたものをいかに美味しく味わうか」と向き合うのが神野である。
毎度甘利田は神野の斬新なアレンジに面食らって敗北するのが恒例だ。
つまり甘利田にも、「もっと給食を美味しく食べたい」という欲求は常にあるのだろう。
2人は何度も衝突するが、神野はいつも飄々とした態度で給食への純粋な愛情を語り、給食を好きとは言えない甘利田は大人のロジックで神野に対抗する。
このアンバランスさがこの作品の最大の魅力なのではないだろうか。

昨日最新映画「劇場版 おいしい給食 卒業」を見てきた。
作品世界はそのままに(マジでテレビと同じレベル)、受験シーズンから神野の卒業までをドラマチックに描いた作品である。
作品を通して思うのだが、なかなかここの製作陣は甘利田や神野に厳しい。
シーズン1最終話では待ちに待った米飯給食を他校に届けてしまうし、劇場版第1作では常節中から給食を奪い去ってしまう。
そして今作ではまたしても教育委員会のあの男が…! ということで常に給食の危機にさらされている男、甘利田。
今回はこのピンチをどう乗り越えるのか…乞うご期待である。

現実の話に移る。
給食とは…家族以外の人間と食べる最高の時間なのである。
級友や教師と共に今日の献立について感想を言い合ったり、異な食べ方をする友達を笑ったり、一点もののおかずやデザートが余った際には命懸けでジャンケンに参加する…
子どもや教師はまさしく「同じ釜の飯を食い」ながら学校生活を謳歌しているのだ。
そんな日々があったのだと、今になって遠い昔のことのように感じる。

コロナが憎い。

コロナは子どもたちのコミュケーションの場である給食の時間をも奪った。
食事中は誰も話してはならない。
食べ終わった後に好き勝手におかわりもしてはいけない。
いただきますからごちそうさままで、静かな時が過ぎる。
聞こえてくるのは食器の音や放送の音だけ。
これが今の給食の姿だ。

甘利田幸男。あなたならばこの状況をどう思う?
会話がなくなった分、料理や食材を最大限味わうことができる好機と捉えるか、食事前の校歌も歌えなくなることへの悲壮感か_。

それでもきっと、甘利田と神野はこんな状況でも給食を美味しくいただくために最善の方法を考え続けるのだろう。

私は現職の教師として、いつか再び訪れると信じたい、「楽しい給食」の時間まで、給食を愛し、給食を愛する子どもたちを育てたいと思っている。

終わりに、「おいしい給食」のスタッフの皆様、そして市原隼人様。
ドラマに劇場版、ごちそうさまでした。
また会える日を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?