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読書まとめ『ホモ・デウス上』ユヴァル・ノア・ハリ

読書まとめのコーナーです。
インプット→アウトプットの練習で書いてます。
いずれ有料化させます。
と言うのも、
本を読むのが面倒、時間がない。
とう言う方たちでも内容を要約して伝えられたら良いと感じたからです。
今後は読書好き、内容を深化するコミュニティ形成を考えています。

私たちは何者で、どこに向かうのか?

 前作「サピエンス全史」では類人猿がどのように地球の支配者になったのかという人類の過去についての物語である。
 今回は人類の未来を描く。人類市場最悪の敵の問題を解決しつつあり、今後は不死と幸福、神性の獲得を目標とするだろう。人類は自らをアップグレードし、ホモサピエンスをホモデウスに変えるのだ。生物工学や情報工学などのテクノロジーを用いて、世界を、自分自身をも思い通りに作り替え、想像することを目指すのだ。

人類が新たに取り組むこと

人類誕生から今日まで、人々は3つの問題で頭がいっぱいだった。
飢餓」「疫病」「戦争」である。
 人間は幾世代ともなく、ありとあらゆる神や天使や聖人に祈り、無数の道具や組織や社会制度を考案してきたが、飢餓や感染症や暴力のせいで膨大な人が命を落とし続けた。そこで多くの思想家や預言者は飢餓と疫病と戦争は神による宇宙の構想にとって不可欠の要素である。あるいは人間の性質と不可分のものである。したがって、この世の終わりまで私たちがそれから解放されることは無いだろう。と結論した。
 しかし今日のテクノロジーはそれを解決しようとしている。

人類は他に何を目指して努力するのか?

 私たちは自らの幸せを噛み締め、生態学的平衡を守るだけでよしとしていられるのか?
 実はそれが最も賢明な身の処し方なのかもしれないが、人類はそうしそうもない。人間は、既に手にしたものだけでは満足できない。
 何かを成し遂げた時に人間の心が見せるの最もありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望だ。
 成功は野心を生む。だから、人類は昨今の素晴らしい業績に背中を押されて、今やさらに大胆な目標を立てようとする。3つの問題による死を減らすことができたので、今後は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上げることができたので、今度は人間を神にグレードアップし、ホモサピエンスをホモデウスに変えることを目指すだろう。

死の末日

 21世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。
 老齢や死との戦いは、飢餓や疾病との昔からの戦いを継続し、現代文化の至高の価値観、すなわち人命の重要性を明示するものにすぎない。
 私たちは、人間の命こそこの世界で最も神聖なものである。とことあるごとに教えられる
 世界人権宣言で「生命に対する権利」が人類にとって最も根本的な価値である、とキッパリ言い切っている。死はこの権利を明らかに侵害するので、死は人道に反する犯罪であり、私たちは総戦力をあげてそれと戦うべきなのだ。

生命とは?

 歴史を通して、宗教とイデオロギーは生命そのものは神聖視しなかった。両者はつねに、この世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していたので、これらの宗教は死を、世界の不可欠で好ましい部分と見ていた。人間が死ぬのは、神がそう決めたからであり、死の瞬間は、その人が生きていた意味がどっと溢れ出てくる神聖な霊的経験だった。人が息を引き取る間際は、司祭やラビ、シャーマンを呼ぶ時であり、人生の総決算をする時であり、この世界で自分が果たした真の役割を受け入れるべき時だった。

幸福に対する権利

 人類の課題リストに入る大きなプロジェクトの1つが幸福への鍵を見つけることだろう。
 多くの思想家や預言者や一般人が、生命そのものよりもむしろ幸福を至高の善と定義してきた
 ところが人はそう簡単に幸せにはなれないのだ。私たちは過去数十年間に前例のない成果を挙げてきたのにもかかわらず、現代の人々が昔の先祖たちよりはるかに満足しているかどうかは、およそ明白とは言えない。それどころか、伝統的な社会と比べて先進国の方が繁栄していて、快適で、安全であるにもかかわらず、自殺率がずっと高いというのは不穏な兆候だ

幸福とは何か?

 生物的なレベルでは、私たちの期待と幸福の両方が、経済状況や社会状況や政治状況ではなく、生化学的作用によって決まる。エピクロスによれば私たちは快楽を経験していて不快感がない時に幸福だという。ジェレミー・ベンサムも同様のことを言っている。自然は人間の支配権を快楽と苦痛という二人の主人に与えた。そして、私たちがすること、言うこと、考えることのいっさいは両者のみが決めると。
 ベンサムの後継者のジョン・スチュアート・ミルは幸福とは快楽と、苦痛からの解放とにほかならず、快楽と苦痛以外には善悪は皆無である。と説く。何か別のものから善悪を導き出そうとする者は誰であれ、人を欺いているのであり、ことによると、自分自身も欺いているかもしれない。

科学の世界観では

 昇進したり、宝くじに当たったりしても、さらには真実の愛を見つけたとしてもなお、人は幸福になれない、と科学は主張する。
 人を幸福にするものはただ1つしかなく、それは体の中の快感だ
 私たちを幸せにするのは目標ではなく、そこに至る道のりだからだ。と言う人がいるかもしれない。エベレストに登ることの方が頂上に立つより大きな満足をもたらす。とはいえそれで状況が変わるわけではない。それは、進化は至福や穏やかさの素晴らしい感覚で私たちを誘惑することもあれば、高揚や興奮のワクワクする感覚で私たちを前へと駆り立てることもある。
 動物が生存と繁殖の可能性を高めるようなものを求めるときは、脳は鋭敏さと興奮の感覚を生み出し、動物はそれに急き立てられていっそう努力する。そうした感覚は実に心地良いからだ。人間は成功の栄光の上に胡座をかいているよりも、競争の興奮を好むのかもしれない。とはいえ、なぜ競争がそれほど魅力的なのかと言えば、競争には浮き浮きするような感覚が伴うからだ。しかしこの感覚も勝利の至福と同じで短命である。ことによると、幸福への鍵は、競争でも金メダルでもなく、興奮と落ち着きを適度に組み合わせることかもしれない
 生物化学的作用の操作による幸福の追求は、世界における犯罪の最大の原因となあっている。人は物を忘れるためにアルコールを飲み、穏やかな気持ちになるためにマリファナを吸い、鋭敏になったり自信をもったりするためにコカインやメタンフェタミンを服用する。MDMAはうっとりするような感覚を与えてくれるし、LSDは幻覚の世界への扉を開いてくれる。勉強したり働いたり、家族を養ったりして獲得したいと一部の人が願っている物を、適量の分子を通してはるかに簡単に手に入れようとする人もいる。これは社会的、経済的秩序の存続に対する脅威である。
 国家は「悪い」操作と「良い」操作を区別し生化学による幸福を追求することを望んでいる。

歴史を学ぶ目的

 それは、私たちを押さえつけている過去の手から逃れることにある。
社会契約論でもあったが、人は生まれた瞬間から契約が始まる。
その国の国民として生まれ、その国の法律に従うように契約される。
 歴史を学べば、私たちは先祖には想像できなかったこと可能性や先祖が私たちに想像して欲しくなかった可能性に気付き始めることができる。私たちをこれまで導いた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形をとったかに気付き、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきか分からないだろうが、少なくも選択肢は増える。世界を変えようとする運動は、歴史を書き換え、それによって人々が未来を想像し直せるようにすることから始まることが多い。

地球を征服した人類

 他の動物たちにしてみれば、人間はすでとうも昔に神になっている。
 世界の大型動物の9割以上が人間か家畜であり、野生の大型動物は1割しかいない。地球上の全大型陸生哺乳動物のおよそ半分を絶滅に追い込んだ。それも全て、最初の小麦畑の作付や金属器を作ったり、最初の文章を書いたり、最初の硬貨を作ったりするよりも前に。

ヘビの子供たち

 人類学や考古学の証拠を見ると、太古の狩猟採集民族は恐らくアニミズムの信仰者だった。彼らは人間を他の動物と隔てるような本質的な溝はない。と。
 アニミズムの態度は多くの先進国の人には馴染みがない。私たちのほとんどは、動物を自分たちとは本質的に異なる尖った存在とみなす
 「創世記」では、人間はヘビの子孫であるとする代わりに、無生物から神によって創造されたとしている。ヘビは私たちの先祖ではなく、私たちをそそのかして天にまします我らが父に背かせる。聖書によれば、人類は無類の被造物で、自分の中に獣性を認めようとするいかなる試みも、神の力と権威を否定することになる。事実、近代の人間は、自分たちは本当に爬虫類から進化したことを発見したとき、神に叛逆し神の言葉に耳を傾けるのをやめた。あるいは神を信じることさえなくなった。

先祖の欲求

 聖書も、そこに示された、人間は独特であるという信念も、農業革命の副産物だった。この革命によって人間と動物の関係は新しい段階に入ったのだった。農業が始まると、新たな大量絶滅の波がきた。そして地球上に新しい生命体、家畜が誕生した。
 進化心理学は基本的教訓を与えてくれる。何千世代も前に形作られた欲求は、現在それが生存と繁殖にもう必要ない場合にさえ、主観的に感じられる。悲惨なことに、農業革命のおかげで、人間は家畜の主観的欲求を無視しながらもその生存と繁殖を確保する力をえたのだ。

生き物はアルゴリズム

 豚のような動物が欲求や感覚や情動の主観的世界を現に持っていると、どうすれば確信できるのか?私たちは動物を擬人化していないだろうか?つまり子供が人形も愛情も怒りを感じると信じているように、人間でないものに人間の特性を持たせてはいないだろうか
 豚が情動を持つと考えても、彼らを擬人化することにはならない。情動は人間だけの特性ではないからだ。情動は哺乳動物は持っているのだ。
 生命科学者たちは過去数十年間に、情動は詩を書いたり交響曲を作曲するためだけに役に立つ、何らかの謎めいた現象ではないと証明した。情動とは生化学的なアルゴリズムで、すべての哺乳動物の生存と繁殖に不可欠だ。
 アルゴリズムとは計算をし、問題を解決し決定に至ために利用できる、一連のステップのことをいう。特定の計算ではなく、計算をするときに従う法則である。
 次の世代に遺伝子を伝えるためには、生存の問題を解決するだけでは十分でない。動物は繁殖の問題も解決する必要があり、確率計算に基づく。自然選択は、繁殖の確率を求める迅速なアルゴリズムとして情欲と嫌悪感を進化させた。
 哺乳動物は食べ物だけでは生きてはいけず、情動的な絆も必要としている。何百万年にもおよぶ進化によって、猿は情動的絆作りに対する圧倒的な欲求を、予め組み込まれた。彼らはまた、金属性の硬いものよりも、柔毛に覆われた柔らかいものとの方が情動的絆を形成しやすいという想定も、進化によって組み込まれた。情動的な欲求があまりにも強いので、ハーロウの猿の赤ん坊たちは、哺乳瓶のついた金属製の代理母を捨て、その欲求に応じてくそうに見える唯一のものに注意を転じた。しかし布の代理母は決して愛着に答えてくれないので、猿たちは深刻な心理的問題や、社会問題に苦しみ、神経過敏で非社交的な大人になった

農耕の取り決め

 家畜の飼い主たちはどうやって自分たちを正当化したのか?
 彼らはこの行動を、新しい有神論の宗教の名において正当化した。そうした宗教は、農業革命に続いて雨後の筍のように出現し、広まった。
有神論の宗教は、世界は様々な生き物からなる議会ではなく、偉大な神々あるいは唯一神が支配する神政国家だと主張し始めた。有神論の宗教は、少なくとも当初は農業と直結した企てたのだ。
 キリスト教によれば、神は人間だけに不滅の魂を与えたという。この不滅の魂の運命がキリスト教の世界の要であり、動物には魂がないので、動物はただのエキストラにすぎないことになる。こうして人間は神羅万象の頂点を極める一方、他の生き物はすべて脇に追いやられてしまった。
 有神論の世界の宗教では、人間以外の存在は黙らされ、人間はもう木や動物と話すことができなくなってしまった。神々が出てきて、雨や豊作や保護をもたらすことを約束してくれた。ただしそれは、見返りに人間が何かを出したとに限られる。これこそが農耕の取り決めの真髄であった。神々は作物や家畜を守り、生産性を増やし、それと引き換えに、人間は収穫を神と分かち合わねばならなかった。この取り決めは双方にとって都合が良かったが、それ以外の生態系が割を食う羽目になった。
 農業革命は経済革命であると同時に宗教革命でもあった。新しい種類の経済的関係が、動物の残酷な利用を正当化する新しい種類の宗教信念とともに出現した。この古代の過程は、わずかに残っている狩猟採集民のコミュニティーが農耕を採用するたびに、動物に大して新しい態度を身に付け、家畜に対しては、野生の生き物とは異なる見方をするようになった。
 農場の運営について農耕民が家畜に相談しなかったように、王国の管理について支配者は農耕民に意見を求めようなどとは夢にも思わなかった。そして、しばしば双方が人間性を剥奪した。「他者を人間より下等の獣として描くことが、彼らをそのように扱うことに向けた第一歩だった。こうして農場は新しい社会の原型になった。そこには、自惚れた主人や、搾取するのがふさわしい劣等人種、絶滅させる機が熟した野生動物、こうした役柄の割り当て全体に祝福を与える。天上の偉大な神が皆揃っていた。

500年の孤独

 近代の科学と産業の台頭が、人間と動物の関係に革命をもたらした。農業革命の間に、人間は動植物を黙らせ、アニミズムの壮大なオペラを人間と神対話劇に変えた。そして科学革命の間に、人類は神々まで黙らせた。この世界は今や、ワンマンショーになった。物理と科学と生物学の無言の法則を解読した人類は、今やそれらを好き勝手に操っている。
 農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教わ誕生させ、その中で人間は神にとって変わった。有神論者が神を崇拝するのに対し、人間至上主義は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するに当たって基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類の神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して良し悪しが決まる
 有神論が神の名において農耕を正当化したのに対して、人間至上主義は人間の名において現代の工場式農業を正当化してきた。工場式農業は、人間の欲求や気まぐれや願望を神聖視する一方で、それ以外はすべてを軽んじる。動物には真の関心を全く持たない。動物には人間が持つ神聖さがないからだ。また神を全く必要としない。現代の科学とテクノロジーによって、人間は古代の神々をはるかに凌ぐ力を与えられているからだ。科学のおかげで、現代の企業は豚や牛や鶏を伝統的な農耕社会で一般的だった状態よりも尚更厳しい状況に置くことが可能になった。

人間の輝き

 人間がこの世で一番強力な種であることは疑いようもない。ホモ・サピエンスは自分が一際高い道徳的地位を享受し、人間の命は他の動物より遥かに価値があるとも考えたがる。それが正しいかは、それほど明確ではない。他の動物の集団より強力だから価値があるのか?それならばアフガニスタンの人よりもアメリカ人の命の方が本質的価値が大きいことになるだろうか?
 実際問題として、アメリカ人の命の方が高く評価されている。
 それとは対照的に私たちは豚の子供よりも人間の子供を優遇するときには、これは生態的な力の均衡よりも何か深いものを反映していると信じたがる。私たちサピエンスは、自分たちの巨大な力の源泉があるだけではなく、特権的な地位を道徳的な面から正当化してくれもするような、何か不思議な都育成を享受している、と自らに語るのが大好きだ。ではその輝きとはなにか?
 伝統的な一神教ならサピエンスだけが不滅の魂を持っていると答える。動物は魂を持たないので、この壮大なドラマには参加しない。彼らは数年生きるだけで、それから死んで無に帰する。したがって私たちは他の動物とよりも人間の不滅の魂にはるかに多く気をつけるべきなのだ。
 これは現在も何十億という人間と動物の生活を形作り続けている。甚だ強力な神話だ。人間には不滅の魂があるが、動物はただの儚い肉体にすぎないという信念は、私たちの法律制度や政治制度や経済制度の大黒柱だ。この信念によって、例えば、人間が食物のために動物を殺したり、楽しみのために殺したりしても全く差し支えのない理由の説明がつく。

証券取引所には意識がない理由

 人間の優位を正当化するときに用いられる説は、地球上のあらゆる動物のうち、意識ある心をもているのはホモサピエンスだけだというものもある。だが心と魂は完全に別物だ。心は神秘的な不滅なものではない。目や脳のような器官でもない。心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ。これらの精神的な経験は、感覚や情動や思考が連結して形作っている。感覚や情動や思考は、一瞬沸き起こったと思えば、たちまち消える。経験が激しく入り乱れて意識の流れを構成している。永久不滅の魂とは違い、心は多くの部分を持ち、絶えず変化しており、それが不滅だと考える理由は全くない。
 この心の流れを構成する意識的経験とは感覚と欲望である。PCにはこれがない。
 では動物たちはどうだろうか?現在では生命科学は、全ての哺乳類と鳥類、少なくとも一部の爬虫類と魚類には感覚と情動があると主張している。ところが最新の理論は、感覚と情動は生化学的なデータ処理アルゴリズムであるとも主張している。ロボットやPCは主観的経験をせずにデータを処理できる。動物も同じようにしているだろういか?人間の場合でさえ、感覚と情動の脳回路の多くは、完全に無意識にデータ処理をし、行動を起こすことができる。だから、空腹や恐れ、愛情、忠誠といった動物が持っていると私たちが見なす感覚と情動の一切の陰には、主観的経験ではなく無意識のアルゴリズムだけが潜んでいるのかもしれない。
 この説を支持したのがルネ・デカルトだ。感じたり渇望したりするのは人間だけで、他の動物は皆、ロボットや自動販売機と同じで、犬は自動的に尻込みし、吠える。

生命の方程式

 先頃、生物学者たちはごく単純な答えを出した。主観的経験は私たちの生存に不可欠だ。人間がライオンから逃げるのは怖かったからだ。なぜ逃げたのか?怖かったからだ。人がライオンを見かけると、目から脳に電気信号を伝える。入ってきた信号で特定のニューロンが次々に刺激され、今度はそれらのニューロンが信号を発する。その信号に他のニューロンが刺激され、十分な数の適切なニューロンが充分な速さで繰り返し発火すれば副腎に命令が送られて体中にアドレナリンが行き渡り、心臓は鼓動を早めるように指示される一方、運動中枢のニューロンは脚の筋肉に信号を送り、筋肉は伸びたり縮んだりしはじめ、人は人間から逃げ出す。
 皮肉にも、この過程を上手く叙述するほど、意識的な感情を説明するのが難しくなる。脳をよく理解するほど、次第に心が余分に思えてくる。電気信号によって全システムが昨日しているなら、一体全体、私たちはなぜ恐れを感じる必要まであるのか?なぜこの連鎖に主観的経験を加えるのか?
 私たちに心が必要なのは、心が記憶を保存したり、計画を立てたり、完全に新しいイメージやアイデアを自発的に産み出したりするからだと主張する人がいるかもしれない。こうした記憶や想像や思考とは皆、なんなのか?どこに存在するのか?
 次のような立場を取る科学者もいる。意識は現実のもので、重大な道徳的・政治的価値をもつかもしれないが、生物学的機能は一切果たさない。意識は特定の脳の作用の、生物学的には無用な副産物だ。ジェットエンジンは騒音を出すが、その騒音が飛行機を前に進めているわけではない。人間は二酸化炭素を必要としないが、息をするたび、それを増やす。同様に、意識は複雑な神経ネットワークの発火によって生み出される、一種の心的汚染物質だ。意識は何もしない。ただそこにあるだけである。もしこれが正しければ、何億年にわたって無数の生き物が経験してきた苦痛や快楽は、ただの心的汚染物質にすぎないことになる。
 生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる。生き物は計算によって決定を下す機械である。と考えられている。人間のすることは全て、理論上は、非意識的アルゴリズムの働きかもしれない。それでも私たちは人間の場合、自分には意識があると誰かが報告したときにいつも、それを信じることができる。この最低限の仮説に基づいて、今日私たちは意識の存在を示す脳のシグネチャーを識別でき、今度はそれを体系的に使って意識のある状態とない状態を区別できる。動物の脳は人間の脳と多くの特徴を共有しているので、意識のシグネチャーの理解が深まれば、それを使って、動物には意識があるのか、いつ意識があるのかを突き止められるかもしれない。

自己意識のあるチンパンジー

 動物は人間と違って意識がないという主張がある。憂鬱や幸福、空腹や充足は感じるが、自己という概念は持っておらず、自分が感じる憂鬱や空腹が、「私」と呼ばれる唯一無二のものに属している自覚はない、というのだ。自己意識には様々なレベルがあり、人間だけが、過去と未来のある永続的な自己として自分を理解しており、それは、人間だけが言語を使って過去の経験と未来の行動をじっくり考えられるからかもしれない。

革命万歳!

 歴史を振り返ると、大規模な協力の決定的重要性を裏付ける証拠が多い。勝利はほぼ例外なく、協力が上手だった側がえた。人間が世界を征服したのもこの力のおかげだ。権力はしっかりした組織を持っていることが唯一の取り柄である。

セックスとバイオレンスを超えて

 サピエンスが密接な関係を結べる相手の数は150人が限度であることが調査でわかってる。最後通牒ゲームは古典的な経済理論を覆し。経済学の発見を成し遂げるに重大な貢献をした。私たちが不公平な申し出を断るのは、狩猟採集民族だった頃の社会的メカニズムを反映していて、そのような申し出を大人しく受け入れる人は石器時代には生き延びなかったからだ。
 現代の狩猟採集民の生活集団を見ると、この考え方が裏付けられる。ほとんどの集団は平等主義の傾向が強く、ある狩猟者が鹿を持ち帰ったら、誰もがそのお裾分けにあずかれる。これはチンパンジーにも当てはまる。
 棒腹絶倒の実験や最後通牒ゲームのおかげで、霊長類には自然な道徳性が備わっており、平等は普遍的で普遍の価値観であると信じるようになった。人は本来、平等主義者であり、不平等な社会は憤りや不満のせいで、決して上手く機能しない。とはいえ、人間の大集団の振る舞いを見ていると、完全に異なる現象が見えてくる。人間の帝国や王国のほとんどは不平等であったが、多くの人が驚くほど安定していて効率的だった。ではなぜ先述したような反応が起きなかったのか?それは、大人数の集団は少人数の集団とは根本的に違う行動を取るからだ。脅しと約束は安定した人間のヒエラルキーと大規模な協力ネットワークを生み出すのにしばしば成功する。
 人間はただの気まぐれな思いつきではなく、必然的な自然の摂理あるいは神の神聖な命令を反映していると信じている限りは。大規模な人間の協力は全て、究極的には想像上の秩序を信じる気持ちに基づいている

意味のWEB

 人々が「想像上の秩序」という概念を理解するのに手を焼くのは、現実には客観的現実と主観的事実の2種類しかないと思い込んでいるからだ。客観的現実では、物事は私たちが信じていることや感じていることは別個に存在する。例えば重力は客観的現実だ。重力はニュートンよりはるか以前から存在し、その存在を信じている人だけでなく、信じていない人にも同じように作用していた。
 一方、主観的事実は私個人が何を信じ、何を感じているか次第だ。
 たいていの人は現実は客観的なものか主観的なもののどちらかで、それ以外の可能性はないと思い込んでいる。単に自分が主観的に感じているものではないと納得がいったときには、それは客観的なものに違いないという結論に結びつく。神の存在やお金が世界を回していたり、国家主義が戦争を起こし、帝国を建国したりするなら、これは単に私が主観的に信じているとは言えない。したがって、神とお金と国家は客観的事実に違いないというわけだ。
 ところが、第3の現実レベルがある。共同主観的レベルだ。個々の人間が信じていることや感じていることではなく、大勢の人間のコミュニケーションに依存している。歴史における重要な因子の多くは共同主観的なものだ。お金には実質的な価値はないが、人々がそれを信じるjことによって、それを価値として交換することができる。貨幣が共同主観的現実であることは比較的に受け入れ易い。たいていの人は、古代ギリシアの神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け入れたがらない。なぜなら、これらのものは、自分たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、実のところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークでしか意味がない。
 意味は大勢の人が共通の物語のネットワークを織り交ぜた時に生み出される。教会で結婚式をあげたり、ラマダーンに断食したり、選挙の日に投票にいったり、特定の行動は、なぜ有意義に思えるのか?それは親もそれが有意義だと考えているし、兄弟や近所の人、近くの街の人々、さらには遠い異国の住人までそう考えているからだ。

ホモ・サピエンスが世界に意味を与える

・物語の語り手
 宗教の物語には必ず3つの要素がある。

1「人の命は神聖である」という倫理的な判断
2「人の命は受精の瞬間に始まる」といった事実に関する言明
3倫理的な判断を事実に関する言明と融合させることから生ずる「受精からわずか1日後でさえ、中絶は絶対に赦すべきではない」といった実際的な方針

 人間の価値観の中には事実に関する言明が常に隠されているので科学は常に倫理的ジレンマを解決できるようになった。人間は皆、苦しみを最小化し、幸福を最大化するという単一の至高の価値観を持っており、したがって倫理的な議論は全て、幸福を最大化する最も効率的な方法にまつわる、事実に関する議論である。
 科学は私たちが普段思っているよりも倫理的な議論にはるかに多く貢献できるとはいえ、少なくとも今のところは科学には超えられない一線がある。何らかの宗教の導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能だ。大学や研究所でさえ、宗教的な後ろ盾を必要とする。宗教は科学的研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与える。そのため、宗教的信仰を考慮に入れねば、科学の歴史は理解できない。科学者がこの事実についてじっくり考えることは稀だが、他ならぬ科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容で宗教的なことにかけては史上有数の社会においてだった。
 社会は何をおいても秩序に関心がある。宗教は社会構造を創り出して維持することを目指す。科学はなにをおいても力に関心がある。したがって両者は相性がいい。
 したがって近代と現代の歴史は、科学とある特定の主教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は人間至上主義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。21世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論にとって変わられることはなさそうだ。
 とはいえ、科学と人間至上主義を結びつける契約が崩れ去り、全く異なる種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教の取り決めに場所を譲る可能性は十分にある。

後編にてこの契約が崩れかけている理由と、その後釜になるかもしれない新しい取り決めを説明する。

人がたいてい変化を怖がるのは、未知のものを恐れるからだ。

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