中心帰納との出会い(1)


1.ある種の人に刺さる動画

合気道の成田新十郎先生の動画▽

みなさん、この動画を見てどう思ったでしょうか?

胡散臭い、ありえない、忖度だろ?
そういう感想もあるでしょう

しかし、私は「これだ!!」
と思いました。
同じように感じる人は実は割と多いようです。
武道や武術、あるいは格闘技などで、ある種の趣向を持つ人間は、そう思うことが多いようです。
軽い自己紹介をしますと、私は合気道歴約18年、ほかに神道夢想流状術を少し、一応キックボクシングなどの格闘技歴のあるものです。
塩田剛三、佐川幸義などにあこがれ、大体大学生あたりから始めました。
最初は、色々な技を覚え、コツを発見したり、できることが多くなり
これは大変面白いなと思ったものです。
しかし、経験がある人ならわかると思いますが、これらの技はコツを知っている者同士、あるいはそれ相応に鍛錬したものには、まったく通用しなくなるのです。
経験が三年四年と中級者になるあたりで、ほとんどの人がぶつかる壁だと思います。
技をかけるより、技を防ぐほうが簡単で、またその上、経験者は体もできてますから、猶更効きません。
「身体操作」?「タイミング」?「角度」?

こういうことはみんな試してます

「フェイント」?

うーむ。。。

「緩急」?

うーむ。。。。

目で見てわかることを試すうちは、どうも駄目らしいのです。

2.先について

そこで、成田新十郎先生の動画をまた改めて見てほしいのですが、
成田新十郎先生は、相手が力を出そうとした瞬間、動こうとした瞬間、もうその時には適切な位置にいるのです。
あいてが技に対抗しようにも、常に常に「先」にいる。
この感じは三船久蔵先生からも感じ取れるものであり,
どうも、合気道に限らず、柔道や剣、、空手などにおいてもかなり重要なものらしいのです。
三船久蔵先生の動画▽

少し、長いですがこの動画も素晴らしいです▽


武道を何年かやっている人間の中には、この「先」の重要性について気が付く人がいるようです。(これが先ほど書いた趣向というやつです。)

そこに気が付いてる人は、それこそ、先ほど書きましたが、起こりを出さないような「身体操作」、相手の動き出しの「タイミング」、自分が力が入り相手には力が入らない「角度」、相手の思考や動きを誘導する「フェイント」、「緩急」、「攻め」etc….そういうものを考え抜き、また試しているはずです。

しかし、どうでしょう?中々難しいのではないでしょうか?

何故、難しいのか?

それは「意図」したことは見破られるからです。

人間の「予測機能」「修正機能」これは大変優れておりまして、
これのおかげで、人間は不安定な二足歩行にも関わらず倒れずに歩行できるし、キャッチボールなどもこの機能があるおかげで可能だし、さらには、危機の回避においては、自分が思っている以上の能力を発揮できるものです。

ですから、猶更ですが、「意図的」な技は、相手の「予測機能」「修正機能」によって、防がれます。

「意図的」な技、すなわち「方向性」のある技は、人間の「予測機能」「修正機能」には合わせられてしまうようです。

よくある風景の図

3.相機

ところで、皆さんは合気(あいき)の語源はご存じでしょうか?
諸説あるのですが、古流剣術用語の「相機(あいき)」がその語源として有力なようです。
「相機(あいき)」とは、簡単に言えば膠着状態のことです。上記のようなことが原因で、剣を出せば相手も合わせてくるので出るに出られず、意を決して出たとしても刃と刃がぶつかって刃こぼれするか、あるいは最悪相打ちで死ぬか、相手が速ければこちらだけ死に、相手の力が強ければ、かち合った時に押し切られ、こちらに力や速さがないと、あんまりいい結果は生みません。
またどんな豪の者でも、これを繰り返していけば消耗し、いずれ死にます。

相機とはタイミングがお互いあってしまう状態で、よーいドンの世界でして、物量がものを言う畜生剣法として戒められ、相機は外せと古流剣術では教えられえるようです。

そう!合気の語源、相機はなんと悪い意味だった

では、外すには?そこでフェイントとかやったり、緩急とかつけたりも
そこには「意図」があるもので

結局読まれてしまうものなのです😢

4.結局どうすりゃいいんだ?

じゃあ、どうすりゃいいんだよ!!
もう、これは途方に暮れてしまうわけです。
何をやろうとしても「意図」がでて、やるころには合わせられる。

「身体操作」「タイミング」「角度」「フェイント」「緩急」「攻め」etc….

それらは個別に磨いて「やろうとすると」「意図」が出る
これらの研磨は無意味なの?間違いなの?

私は、今現在、無元塾で白石先生の教えを受けてるわけですが、その上で思うんですが、「身体操作」「タイミング」「角度」「フェイント」「緩急」「攻め」etc….は、間違いではないんだけど、これらをまとめ上げるOS的なものが、これらを個別に磨くだけでは決定的に足りないんです。

このOSという表現は私個人の言い方ですが、無元塾ではすべての技がある「思い方」によって支えられており、その「思い方」を中心に稽古をしています。

その思い方の名は、、、、

「中心帰納」

といいます。


続く。。。次回は中心帰納の体験を語ります。


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