見出し画像

教会学校 礼拝再開

今日から、教会学校の礼拝が再開しました⛪✨
とてもうれしいです。
(今日は聖徒の日だったので、昇天者の方々の写真を飾り、想いつつ礼拝をしました)

今日の聖書の箇所も、預言者エリヤが礼拝をする箇所でした。
📖列王記上18:30~40📖

エリヤの礼拝は、命がけです。
なぜかというと、アハブ王は、何年も雨が降らないのは、エリヤのせいだと思っているからです。
でも、雨が降らないのは、アハブ王が主なる神さまを信じないからだったのです。アハブ王はイスラエルの王様なのに、バアルという偶像の神を信じる女性と結婚して、イスラエルの神さまを信じる預言者が次々と殺されていきました。エリヤは、最後に生き残った預言者で、命をねらわれていました。

いよいよ、雨を降らすときがきて、神さまはエリヤにアハブ王に会いに行くように命じました。バアルという偶像の神、主なる神と、どちらが本当の神か、アハブ王や民に知ってもらうためです。エリヤはそのために、勝負を挑みます。

アハブ王と、大勢の人を連れて、カルメル山にのぼりました。
バアルの神と預言者450名に対し、エリヤはただ一人。
それぞれが、神さまのために祭壇を築き、雄牛の献げ物を薪の上に火をつけずに置き、神の名を呼び、火をもって答えた神こそが、まことの神であるとしました。

午前中はバアルの預言者たちの番です。必死になって祈ったり、踊ったり、叫んだり、剣で自分を傷つけたりしますが、何も起こりません。それはそうです。バアルの神なんて、初めからいないからです。

午後は、エリヤの番です。祭壇を修復して、薪を並べ、その上に雄牛をのせました。そして、祭壇がびしょ濡れになり、外にもこぼれるほど、たっぷり水をかけました。エリヤは礼拝をささげました、
「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」

すると、天から炎が降りてきて、献げものの雄牛は焼き尽くされ、びしょ濡れだった祭壇は乾いてしまいました。
エリヤの神さまに献げた礼拝を、その場で一緒に聴き、天からの炎を見た民は、ひれ伏し、「主こそ神です、主こそ神です」と、告白をしました。
そして、恵みの雨がもたらされたのです。

エリヤの命がけの礼拝。主なる神さまを、真の神さまとして、ささげる礼拝。神さまを忘れてかたくなな心になっていた神の民を、神さまのもとに立ち返らせました。
自分たちの都合のいい、豊作を願うバアルの神と、主なる神との間にいた、アハブ王とイスラエルの民。それは今日の、商売繁盛、合格祈願などと、真実の主なる神さまの間にいる、私たちとつながります。

わたしたちも今日、神さまに名前を呼ばれ、招かれて、この礼拝に出席しています。神さまの御言葉を聴き、「主こそ神です」と神さまに告白し、さんびをささげます。神さまからの祝福を受け、新しくされる礼拝を、心から感謝します。

⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 ⛪📖 

実は、エリヤはカルメル山頂での勝利の後、イゼベルの追跡と迫害が過激に強くなり、エリヤはイスラエルを脱出します。そして荒れ野で、「死を願うほどの敗北感」に打ちのめされます。そのようなエリヤは殉教することさえ許されませんでした。

主なる神が、御業を実行するための器としてエリヤを用いられる理由は、エリヤが自身の無力を思い知ったからなのです。私たちは、カルメル山でのエリヤのみに注目しがちですが、預言者エリヤの偉大さは、死を願うほどの自分の無力を自覚した点にあるとも言えるそうです。旧約聖書を読むって、難しいけれども、なんだかすごく恵みを感じます。