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【キャプション】/千手観音*[Caption] / Senju Kannon

こんにちわ。センチャの高宮です。

熊本は梅雨が明け、ミンミンゼミと蛙の合唱が始まりました!照り返す暑さと行動を抑制させる湿気の重力には気が滅入りますが…自然の営みを四季ごとに感じれる幸せを忘れず、暑さにちょっとだけ文句を言いながら…四季がある日本と自然と宇宙に感謝しながら、日々を過ごしていきたい。

朝はミンミンゼミの合唱、夜は蛙の合唱から感じた昨夜でした。


さて、本題へ入っていきます。

今回『千手観音』を描きました。

千本の手と千個の目で生きとし生けるものを全て漏らさず救ってくれるという神様が千手観音(以下、観音さま)。


観音さまの仏像は世の中に沢山あり。仏像ごとに形状が異なることも多く、各仏像の形状に合わせた細かい意味付けも、若干、個体に合わせて変化しているようです。


しかし、意味付けが違う千手観音像達も、”全ての救済者”という千手観音が担う意味合いは同じのようですね。


さっそくですが、今回描いた『千手観音』はこちらです。


千住観音


こちらです。集中して描いてしまったので、絵が完成した時には右人差し指が痙攣していました。笑


あまりキャプションは多くありませんが、各パートに分けて絵の説明をしていきます。



”仏の中に見える煩悩””救済の手”


まずは手の数から。中央の合唱している2本の手をのぞいて、両方に羽のように存在する観音さまの手は合計40本あります。20本づつ存在していて、1本の手が25の世界の生き物を救うと言われています。観音さまが救済の時に使うと言われている宝具があり、通常は手に宝具を持っています。しかし、私が描いた観音さまには宝具を持たせず、その代わり、手は手印を結んでいます。

ここからは勝手に私が、こういう観音さまだったらいいなぁという、個人が作り上げた観音さまの物語をこの絵に投影しています。↓

道具で救ってくれるのもとても有り難く感謝が絶えない事なのですが、いくら千手観音さまが使う宝具とて、物は物。道具はいつかは劣化しこの世からなくなります。道具を持ってくる事を忘れるという、人間味のある側面も観音さまにはあるのではないでしょうか。それから、使う宝具を間違う時や、使っている宝具を奪おうという鬼もでてくるのではないでしょうか。

善意のみの救済の行いが次の災いを起こしてしまう…これでは観音さまも本意ではないし悲しまれる。予期せぬ災いもまた救わないといけない…

だとしたら、宝具を使わず、祈りという無形で観音さましか使えないエネルギーの波動を持って救うという方法がとれた…宝具よりも救済へ機能するのではないか。救済をさずに済むように、そもそも災いの種を積んでしまうといいのではないか。

もっというと、観音さまが自ら動いて救済や災いの種が出ないようにするというより、観音さまの救済や災いの種を刈り取る術を世俗に生きる生き物に共有し、共有した生き物がおのおの救済の術を使えるようになったら。観音さまは、そっちのほうが世界が平穏になるのではないか…っとか、観音さまは考えているのではないか。


そんな事を考えていたら、救済を手助けする物より、救済を手助けするという概念を観音さまの手で表現する方が適切だと考え、この絵の観音さまの手には手印を宿したという経緯があります。

一本の手ごとに結んでいる印が違います。

また、観音さまの胸にある黒と白の丸(●◯)。この数は煩悩の数と同じく108個あります。観音さまですら、一般の人間と同じ数と量の煩悩があって。その煩悩を滅するのかいなすのか、または受け止めて昇華させていくのか。観音さまの煩悩への向き合い方までは未知数ですが、一般の人間と同じ煩悩を抱えながら全ての命を救おうとしていらっしゃるのではないか。

そう考えると、仏も人間。そして人間も仏。救ってもらう存在と救う存在。これらはキワどうしの存在のようで実在は同じなのではないか…そんなふうに思っている私の考えを観音さまの胸に入れた108個の丸(●◯)(煩悩)で表現しました。


観音さまが合掌している両手の中に入っている黒い丸。これだけは煩悩から外れています。なぜ合掌の中の黒い丸が煩悩の外にあるかというと(109個目)。これは特異点として絵の中にいれました。

設計されたプログラムでバグがおこらないようにしていても、なぜかバグが生じてします…そのバグが怖い影響を及ぼすときもあれば逆も然り。人を感動させたり改心させたり自然を豊かにしていったり。。。

観音さまですら認識できていない理が宇宙には存在しているのではないか。そういう意図を観音さまの合掌の中の黒い丸で表現しています。


写真右下にある手の先の紋様は悲しみの象徴です。

観音さまの右下の手の先にある黒い紋様はコウモリと鹿の半分の顔です。鹿は悲しみや失意を表す象徴的な動物として認知されていて、コウモリは哀愁や悲しさを感じさせる動物とされています。

観音さまが救うという事はそこに悲しみがあるという事。

千本の手がずっと悲しみに触れ続けている。そういう観音さまの気持ちを、この鹿とコウモリで表しています。

コウモリと鹿と観音さまの手の周りに舞う点は涙です。観音さまの慈悲の涙、救済されるものの感謝の涙、辛かった時を思い出して流れた涙…良い悪いでは認識できない無数の流れている涙を、浮遊する点という表現で描きました。


選択と決断でこの世は構成されている。


観音さまをとりまく不規則な三角(▲▷)の背景。これは選択と決断で世界は構築されているという意味を表現しています。

右にいくか、左にいくか、また、どっちにもいかず何もしないか。はたまた真ん中をいくか…人生には動かないという選択も含め、必ず自分の行動を選択し、決断しなければいけません。

影響力がない人もある人も。

影響力がない人の選択と決断ですら、バタフライエフェクトという言葉があるように。長期的には世界を変える現象の種になっている可能性がある。

その、人間や動物の決断で世界が構築されている様子を無数の不規則な三角の記号を羅列し、白い三角と黒い三角があるのは白が選ばれなかった選択肢。黒が選ばれた選択肢。選ばれなかった選択肢も現象としては世界に影響はないけど、選ばないという決断をした本人の中では、”選ばなかった”という要素も本人の人格形成やその後の言動に影響をしている。その人が”選ばなかった”という要素を含んで決断していくから、結局”選ばれなかった”決断は世界に影響を与えているのではないか。そんな意味を込めています。

背景を描く時。三角の角と角が繋がっている所を黒く塗りつぶし、三角の面が触れているところは白色にするというルールを決めて描いていきました。しかし、この自分で決めたルールをわかった上で破っている所があります。

その理由は、人生、ルールどうり、予想通りにはいかないという事を表現したく、あえてルールを破って色をぬっています。

また、三角以外の曲線が入っていたりもします。これは世界のバグです。ルールの中になんか間違って入っちゃった。このバグが世の中を壊してしまうときもあるけど、幸運を運んでくれるときもあって。そんな矛盾の先に咲く花を表現しています。


人も物も仏さまや宇宙も、結局は同じ存在なのでは


最後に。観音さまの紋様を背景と繋がるように描いているのは、仏教では、空の思想というのがあったように覚えています。一切は空である。実は何もこの世には存在しないという。

この絵では、何も存在しないとは表現できないので、全ては粒子の集まりである、と過程して。人も粒子の集まり、人の決断や行動もじつは粒子の行方や速度を変える現象であり。宇宙も粒子の集まりで結局みんが一緒で繋がっている。そういう事を背景と観音さまが同化して見えるように観音さまの模様を描いていきました。


簡単ではありました以上がこの絵のキャプションです。


長文でしたが、読んで頂いてありがとうございます。


携帯で撮影した写真ですので、ちゃんと映っていませんが、肉眼で原画を見ていただくと臨場感が全く違います。

お店に置いていますので、是非、熊本にお越しの際は当店にたちより、私が描いてきた絵たちも見ていただけたら嬉しいです。


この絵もそうですが、今まで描いている絵の原画の販売もしていますので、気になる方がいてくださいましたら、お気軽にお問い合わせくださいませ。


最後に。この絵は私の感情が連想させた世界観で作られています。色合い的にも重力がかかる絵になっていますが、絵に込めた外側の祈りとしては、この絵を手にとり、家に飾ってくださった方の幸福を祈り、災いや困難をこの絵が時には身代わりになったり、サポート役として味方についてくれたりと。この絵とともに良き人生を過ごして頂けるようにと、心を込めて描いています。


こちらから絵の購入ができます。↓


素敵な方のもとへお届けできる事を楽しみにしています。


それでは。


今日は休んで、明日から、新たな絵の制作へかかります。

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