言葉の呪縛

私の持っている資格は、イギリスのオックスフォード大学で出された論文の消える仕事で消える率の低さ(7位ぐらいだったはず)が高い職種です。

少し前に母と話をしていて、言葉の意味を共通理解する必要がある。と書きました。その流れで、ふと単語の意味をその人がどのように捉えて用いているかを理解する事。つまり、その人のものの考え方かぁー。それって、行動に現れるよね。思考してからの行動だから。ってことは?と考えを派生させていく中で、最近の仕事についての考え方をどう捉えていくかについて、ひとつのみかたができた。

職種がどうではなく、その仕事をどのように捉えてどのように実施してるかで将来性がみえるのではないかと思いました。その職業なら誰でも仕事を続けれるわけではないのでは?ってこと。

エンターテーメントの世界でも、残る人と残らない人がいるのは、エンターテーメントをどう捉えているか。ある漫才師が行った漫才を漫才か漫才じゃないか?みたいのが議論に上がったと聞いた事があります。つまり、人によって漫才の定義が異なるってことですよね。

それと同じようなことなんだろうなぁ。

私は、数年前に自分のアイディンティティを考えてた時があります。その時に、資格で働いていた時期が20年近くあるので、物の捉え方やみかた、思考過程はその資格を土台にしたものだから、アイディンティティを構成する要素にその資格がある。仕事だけではなく、私を構成する要素だとその時に気付きました。

つまり、ガソリンスタンド、スーパーのレジ打ち、農業など私が収入を得る行動をしたとしても、その物事に向かって何かしら思考する時その土台に資格の考え方が入り、他者と異なった物の見方捉え方を行うから実施が変わる。見え方が他者と一緒のようにみえても違いが出るはず。

その資格で働かなくても、その資格を実行する人であると私を認識しました。

でも、多分、その資格で働いてお金を貰わないと、他者はその資格者とは認めず、なんなら脱落者ぐらいに言う人も出てくるだろう。

これが捉え方なんじゃないかな?それは、私自身を縛ってる考え方でもあった。他者もそのように思っているから、集団意識でそのように捉えられるのではないか。呪縛のように。でも、アイディンティティの一部であると認識して、その資格で食べていかなくても私はその資格を使用していると思えば、その資格しよう者なのだから。

言葉遊びのように単語のもつ意味とか考えてたら、なにやってても、私はその資格の考え方を用いて動く人であると人に言える。それは私が何者であるか?を考え続けている中での気づきの一つであった。

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