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斉明天皇の朝倉の行宮

 貝原益軒によって淡々と書かれている筑前國続風土記ですが、めっちゃ饒舌に書かれている項目がありました。朝倉の社の場所が、江戸時代には既に筑前國説、土佐國説と分かれていることを知りました。というわけで、益軒氏の力強い?筑前國説を見てみましょうか。


筑前國続風土記 巻十一 上座郡 下座郡 朝倉あさくらのたちばなの廣庭宮ひろにわのみや より (意訳)

斉明さいめい天皇6年(西暦660年)、新羅が百済を攻めてきたため、日本は反撃するために兵を派遣することにしました。翌7年(西暦661年)、天皇は自ら筑紫に赴き、この地に行宮かりみやを建てて居住することにしました。行宮は削られていない黒木を使用して建てられ、木の丸殿としても知られました。その行宮の跡は、須川すかわ村の畑の中に存在しており、村人たちはそれを斉明天皇の行宮の跡と伝えています。行宮の南側は、広大な平原が広がっており、広庭とも呼ばれる場所です。この村の敷地内で、皇居を建てるのに適した平坦な土地は他には存在しませんので、村人たちの言い伝えは正しいと言えます。
 かつては礎石そせきなども多く残っていましたが、田畑の邪魔になるために撤去されました。それでもなお、わずかにその痕跡が残っています。また、花園山はなぞのやま猿澤池さるさわのいけといった古い名残も存在しています。
 隣には宮野村があります。かつては須川村と宮野村は一つの村でしたが、それから少し前に分離して2つの村となりました。この地は斉明天皇の行宮があった場所であり、宮野という名前もその言い伝えに由来しています。また、この地の北側には近くに朝闇寺あさくらでらという寺があり、須川村から分かれた村が存在しています。

 昔、朝闇寺という寺がありました。今(=江戸時代)もその跡がしっかり残っています。この寺は「朝くら」の土地に建立された寺なので、朝闇寺と呼ばれていました。そしてまたこの土地が朝倉と言われる一つの証でもあります。

そういえば、『清輔きよすけ奥儀抄おうぎしょう』には次のように記されています。
天智てんじ天皇は、人目を避ける必要があったため、筑前国の朝倉というところの山中に黒木(木の皮をはがない木材)の宮を建てて住んだとされています。そのため、この宮は「木の丸殿」と呼ばれました。なぜなら、丸い木材を使用して建てられたからです。天智天皇は用心深く、訪問者は名乗ってから入るようにしていたとのことです。

 『したごう和名抄わみょうしょう』では、上座は「かみつ朝倉」と読み、下座は「しもつ朝くら」と読んでいます。したがって、上座郡と下座郡の両方がすべて朝倉といえるでしょう。特に、須川や宮野周辺が朝倉と称されているようです。

 また、『本朝ほんちょう文粋もんずい』第二巻、三善みよしの清行きよゆき意見いけん封書ふうしょを見ると、『備中国びっちゅうこく風土記』の一節が引用されていました。
その内容によれば、皇極こうぎょく天皇6年に、唐の将軍である定方ていほう新羅しらぎの軍を率いて百済くだらを討ちました。百済から救援の要請の使者が日本に送られたとされています。天皇は筑紫に行幸ぎょうこうし、救援の兵を派遣しようとしました。この時、摂政せっしょうとして皇太子であった天智天皇も帝に従ってやってきたとのことです。しかし、結局、皇極天皇は筑前の行宮で崩御ほうぎょし、軍を派遣することは叶わなかったと記されています。三善清行氏は元々博識な人物であり、この意見封書は天皇に奉呈ほうていされる書状でした。
 『備中国風土記』は元明げんめい天皇の勅命ちょくめいによって作成された書物です。清輔奥儀抄と風土記の両書は、この事実について一切の違うところがありません。
さらに、『八雲やくも御抄みしょう』や『十訓抄じっきんしょう』、『藻藍草もしおくさ』などにも、朝倉木の丸殿が筑前国に存在すると記されています。また、近代の人々が集めて作った歌枕うたまくら名寄なよせなども、これらの記述に従っています。

 しかし、一条いちじょう兼良かねよし氏は『梁塵りょうじん愚案抄ぐあんしょう』の中で、朝倉の社は延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょうにおいて土佐国土佐郡に存在すると記されていると述べています。また、『備中国風土記』にも、土佐国朝倉の郷に朝倉の社があるとの記載が見られます。また、朝倉の社は四国の中で伊予いよ国から土佐国へと移されたとされています。したがって、朝倉の木の丸殿は実際には土佐国に存在するものであり、古来の伝承によって筑紫に存在するとされることは誤りであると一条兼良氏は述べています。

 私(貝原益軒)は、個人的に日本書紀について考察しました。
 斉明天皇6年、新羅は百済を攻撃し、その王族や臣下たちは全て捕らえられました。その後、百済王族の鬼室きしつ福信ふくしんから救援の兵を要請する使者がやってきて、さらに以前から日本に人質として送られていた百済の王子扶余ふよ豊璋ほうしょうを迎えて百済の王に立てることを請いました。天皇は12月に筑紫に行幸し、福信の要請に応えて百済への救援軍を派遣することを考えました。最初に難波なにわの宮に行幸し、必要な軍備を整えました。また、百済のために新羅を討つために年内に駿河するが国で船を建造させました。
 斉明天皇7年の正月、船は西に進み、海路につきました。甲辰こうしんの日には大阪湾に到着しました。庚戌かのえいぬの日には伊予の熟田津にきたづ石湯いわゆの仮宮に宿泊しました。3月の庚申の日には船は戻って于娜うなの大津おおつに到着し、磐瀬いわせの行宮に入りました。天皇はここでの名を改めて「長津ながつ」としました。
 5月の癸卯には天皇は移動して朝倉の橘の広庭の宮に入りました。朝倉の社の木を切って行宮を建てました。この時、天智天皇は皇太子として同行しました。7月、斉明天皇は朝倉の宮で崩御ほうぎょされました。8月には皇太子が天皇のひつぎを奉じて磐瀬の宮に到着しました。冬の10月、天皇の棺をもって海路に出発し、11月、飛鳥あすかの川原かわらもがりを行ったと記されています。日本書紀の記述はこのような経緯です。

 今(=江戸時代)考えると、天皇が百済を救援するために筑紫に向かう道筋であれば、伊予の海辺に一時滞在した可能性もあるでしょう。今の時代(貝原益軒の時代、つまり江戸時代)では、摂津せっつ国から筑紫に向かう人々も必ず伊予を通るのと同じです。

 新羅の兵は唐の援助を受けて百済を攻め、百済の君臣を全て捕らえました。百済は元々日本に従属していた国であり、王子の豊璋も以前から日本に人質として滞在していました。斉明天皇は百済を救うため、兵を運ぶための船を建造し、自ら筑紫に下り、軍に命令を出すために長期間滞在しました。博多の海辺は突然の襲撃の危険性もあるため、わざと海から離れた上座(朝倉)に朝倉広庭の宮を建てて居住しました。
 土佐は四国の南に位置し、筑紫に向かう道筋からは遠く離れた辺境の土地です。さらに、伊予から土佐へ行くには道が遠く、山も険しいのです。

 しょく日本紀にほんぎには、元正げんしょう天皇の養老ようろうせ2年(西暦718年)において、土佐国への公私の使節を派遣する場合、伊予国を経由する道は遠く、山や谷が険しい難所であると記されています。しかし、阿波あわ国からなら土地が続いており、往来が非常に容易であるため、この国を通ることが許可されているとも記載されていました。

これはまた、伊予から土佐へ行く道が困難であることを示す証拠です。海を回る場合でも、伊予の岬を迂回する必要があり、さらに遠回りとなります。特に海路において難所の地域です。
 天皇が百済を救援するために多数の兵を率いて筑紫に下った時、困難な道を経由して遠い土佐国に朝倉の宮を建て、帝の乗り物を長期間停める理由はありません。確かな古書には筑紫に朝倉の宮があると記載されており、疑いの余地はありません。一條兼良氏は地理的な情報も考慮せず、状況を見ずに朝倉の木の丸殿が土佐にあると結論づけ、梁塵愚案抄に書いたのです。

 5月に朝倉の宮に移り、朝倉の社の木を切って宮を建てたのは、長期滞在を考慮した結果です。
 例えば、豊臣とよとみ秀吉ひでよしが朝鮮征伐の際に肥前の名護屋なごや城を築いたように、筑紫の朝倉に行宮を立て、7月に崩御されるまで長期間滞在されたことは、以前に筑紫に行幸して百済に救援軍を派遣したいという御心とよく一致しています。この事実から判断すれば、朝倉は筑紫であることに疑いはありません。
 実際に、この須川や宮野の両村の近くには斉明天皇の行宮の跡があります。地元の人々も昔からこの話を語り継いでおり、その場所が宮野と名付けられたのも、須川と宮野がかつて一つの村であり、行宮があったことに由来しています。

 先に述べたように、「かみつ朝倉」「しもつ朝倉」という呼び方は、両郡が「あさくら」と呼ばれることの証拠です。また、斉明天皇が滞在された磐瀬は、筑前遠賀おんが郡に位置しています。かつての馬宿うまやどであり、延喜式二十八巻にもその名が記載されています(延喜式二十八巻、諸国しょこく宿しゅく伝馬でんばの章、西海道さいかいどうの項目、筑前国宿馬しゅくばの文に「石瀬」の文字がみえる)。
 難波から上座朝倉(かみつあさくら)の宮への道にあるので、これも朝倉の宮が筑前に存在していたことを示す証拠です。
 土佐にもまた朝倉の社が存在します。これは延喜式神名帳にも記載されています。同じ地名や神社の名前が複数存在することは珍しくありません。土佐に朝倉の社があるからといって、どうして筑紫に朝倉があるという昔からの諸説を疑うのでしょう。朝倉の宮の木の丸殿が筑紫にあることや、昔の人々の多くの説、そして明確な跡が存在することを考えれば、疑う必要はありません。日本書紀の文章の意味をよく理解しない人は、風土記や本朝文粋、八雲御抄、奥儀抄など、昔の著作に記された説に多く触れることで、間違いではないことを理解するべきです。 


文中用語簡単解説

斉明天皇…皇極天皇、重祚(=2回天皇の位につくこと)して斉明天皇。斉明天皇としての在位、斉明天皇元年1月3日(西暦655年1月15日)-斉明天皇7年7月24日(西暦661年8月24日)。

行宮…(かりみや または、あんぐう)仮に建てられた宮。現在だと神様を遷座せんざする仮の社の意味として使われる。

清輔奥儀抄…「奥儀抄おうぎしょう」平安時代末期の歌学書。著者が藤原清輔なので、清輔奥儀抄とも呼ばれる。

順和名抄…和名わみょう類聚抄るいじゅしょう。平安時代中期の辞書。源順みなもとのしたごうが編纂。

本朝文粋…平安時代中期(11世紀)の漢詩文集。全14巻。藤原ふじわらの明衡あきひら撰。

三善清行…平安時代前期の公卿・漢学者。菅原道真と同時代の人。

三善清行意見封書…「意見いけん封事ふうじ十二じゅうに箇条かじょう」、序文に皇極帝こうぎょくてい百済救援の話が記されている。

備中國風土記…古風土記こふどき逸文いつぶんに一部記されているが、風土記そのものは現存していない。

蘇定方…中国の唐の軍人。

元明天皇…在位期間慶雲4年7月17日(西暦707年8月18日) - 和銅8年9月2日(西暦715年10月3日)。

八雲御抄…順徳じゅんとく天皇が著した歌論書。

順徳天皇…在位期間承元4年11月25日(西暦1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)。

十訓抄…鎌倉時代中期の教訓説話集。

藻鹽草…藻塩草、室町時代の連歌用語辞書。宗碩著、永正10年(西暦1513年)頃の成立。

歌枕名寄…鎌倉時代末期の歌学書。

一條兼良…一条兼良。室町時代前期から後期にかけての公卿、古典学者。

梁塵愚案抄…室町中期の歌謡注釈書。一条兼良著。

延喜式神名帳…延長5年(西暦927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十。当時の官社に指定されていた全国の神社一覧。

鬼室福信…百済の王族で将軍

扶余豊璋…百済最後の王である義慈王の王子

熟田津の石湯…道後温泉

于娜大津…現在の那の津、博多湾

殯…古い日本の葬儀。棺を長期間仮安置する祭祀。

摂津國…現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部

伊予國…現在の愛媛県

阿波國…現在の徳島県

肥前の名護屋城…唐津市呼子の名護屋城。

馬驛…街道にある旅行者のための馬の駅。

延喜式…平安時代中期に編纂された格式(律令りつりょう施行しこう細則さいそく)。醍醐だいご天皇のちょくにより、藤原ふじわらの忠平ただひら等が弘仁こうじん貞観じょうがんの二式をまとめた。

本朝文粋…平安時代中期の漢詩文集。

奥儀抄…平安時代後期、藤原清輔が著した歌学書


 邪馬台国みたいですね。筑前國説、土佐國説、定説は筑前國ですが、土佐國説も根強いです。機会があれば調べてみたいですね。他にも「筑紫の日向の小戸」についても、筑前國説、日向國説があって、益軒氏は筑前國説派で筑前國続風土記に持論を記載しています。

 別の項で、朝倉の社の木を切って行宮作ったのですが、無断で切ったため、斉明天皇一行は、朝倉の神に怒られてる逸話が書かれてます。

 百済救援の為とはいえ、帝が長く飛鳥の宮を空けてていいのかしら、という疑問があります。個人的には乙巳いっしの変の影響で、飛鳥にいることができなくなり、斉明天皇(=皇極天皇、乙巳の変の現場にいた帝)を連れて中大兄皇子が筑紫まで逃れてきた可能性もあるかなと思います。そしてそのときの飛鳥には天武天皇?がいてにらみ合っていたかもしれません。想像が広がります。


2024.1.24 ルビを追加しました。

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