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note開設の経緯:生ハム原木と観劇

私が好きな文章に、生ハム原木のツイートがある。有名なので知っている人も多いだろうが、改めて紹介させてほしい。

解説するのも野暮なくらい、大好きなものと過ごす生活の潤いを端的に描いた名文である。元来オタクな私は、生ハム原木を推し香水や高級文房具に置き換えて、戦闘力が求められる現代社会において好きなモノと同棲することの有効性をしみじみと噛みしめていた。

ところで私は観劇が好きである。ジャンルは古今東西を問わない。学生時代にヨーロッパ某国に留学していたときは学割を使い倒して古典バレエオペラを楽しみ、都内でオタ活をエンジョイしていたときはTDC3バル見切れ席からコーレスに熱狂し、今は米国でロッタリーの抽選結果に一喜一憂しながらブロードウェイミュージカルを楽しんでいる。

ある時、「この瞬間に立ち会えただなんて、私はなんて幸せなんだろう」と思うような舞台に出会えた。そして気づいた。観劇体験もまた生ハム原木であることに。もちろん、観劇は体験だから形としては残らない。せいぜい、公演中に握りしめすぎてしっとりしたプログラムと、理性を無くした物販で入手したグッズが手元に残るくらいである。しかし、影や形はなくとも心が大きく動かされた時間は確かに存在するし、それは生ハムの芳しい香りのように、生活のふとした瞬間に活力をもたらしてくれる。

以前から、公演後にスマホに殴り書きのようなメモを残していた。初めの頃は、そのメモを観劇オタクの身内に送りつけていた。全く洗練されていない箇条書きだったが、コメントが返ってきてとても嬉しかった。そして、彼女からきちんとまとめられた観劇レポが送られてきて、まるで一緒に同じ舞台を味わったかのような気持ちに包まれた。そこで私は自分の殴り書きを全面的に書き直してもう一度彼女に送ってみたら、私が気づかなかった作品の深みを教えてくれるような返事がきて、さらに嬉しい気持ちになった。

以降、観劇するたびに幕間と公演後にスマホに殴り書きのメモをし、帰宅後に内容を整理したものを送り続けることが恒例化した。回を経るごとに分量は多くなり、メッセージの直接入力では収まりきらずメモのスクショになり、そのスクショが5ページを超えることが当たり前になっていた。こうなると何かに活かしたくなってくるし、顔の見える身内を想定した備忘録ではなく、もっと色んな人にも伝わるような文章にアップデートしたい気持ちにも駆られるようになった。

だいぶ遠回りしてしまったが、改めて生ハム原木に戻ろう。現代社会において戦闘力をもたらしてくれるのは豚もも肉の塩漬けに限らない。多くの人が引リツで言っているように、人にはそれぞれの生ハム原木があり、更にモノである必要すらない。ここで元ネタに最大の敬意を払いつつ、生ハム原木構文を私の観劇体験に置き換えると次のようになるだろうか。


最高な舞台を観たことがあると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ私はシャーロット・ダンボワーズのロキシー観たことあるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は2019年テニミュ大運動会を観た女だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる現代社会において観劇の思い出と同棲することは有効