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4/9『つめつける』~未知子の未探索日記~

SNSは、なかなか止められない。
女子たちは、写真に映る範囲で、とにかく細部まで美しく整えている。

私も、ああいうネイル、一度でいいからしてみたい。
誰か見せたい人もいないし、むしろ、誰かに見られては困る。けれど、爪さえこだわっていれば、美しい写真の世界に入り込めてしまうような、絶対的な自信がなぜか、ある。

いかにもトイレに行きにくそうな爪の長さ、瞼に重くのしかかって締め付けるつけまつげ、異様に光を発散するラメメイク。
そういうものに、自由を感じてしまう年頃なのだと思う。
これは、抑圧された環境で育った結果だ。

ネットで調べると、いわゆる「マニキュア」は初心者がうまく塗るのは難しく、ちょっとしたことで落ちてしまいやすい。「ジェルネイル」なんて、器具を揃えるのも大変。
ましてや、「ネイルサロン」に行くだなんて、さすがに敷居が高すぎる。ああいうキラキラした自発光空間は、そうでないものを寄せ付けないくらいに、眩しく、真っ白い。初めてなんです、とでも言えば、優しく歓迎してくれることは分かっているが。

そもそも、「ネイルサロン」に着ていく服も、メイクも用意がない。ただ、ネイルをしてみたいだけだ。全身をインフルエンサーたちのように着飾りたいのではなく、ただ爪の先を彩りたいだけの私にとって、服やメイクの準備は時間がかかりすぎる。
つまり、人様にやっていただくなどということは、時期尚早なのだろう。

スマホと睨めっこしながら思案した結果、その答えは「ネイルチップ」に落ち着いた。手元が狂って油性ペンを左手に走らせてしまったとき以外には、爪に一度も色を乗せたことがない初心者にとって、その選択が正しかったのかどうかは分からない。

しかし、緻密な作業は得意だ。人様に迷惑をかけるより、ずっとよい。
「初心者向けネイルチップの作り方」を参考に、百円ショップで手に入れた透明のチップに、同じく百円ショップで大量に並んでいた「ネイルシール」を貼る。
どれも、百円。
こんなに洒落たチェック柄のシールが百円?
鮮やかな、少し美味しそうな緑色のシールが?
と一瞬、お得感を抱きそうになったが、文房具売り場に可愛らしいシールがたくさん並んでいるのを見ると、爪の形に切りそろえられただけで、要はシールなのだ、と分かる。
瓶ものは捨てる時に面倒だな、と思いつつ、唯一手に入れた「トップコート」で、表面を仕上げたら、あっという間に完成だ。

実際には、あっという間ではなく、同じ作業を十回繰り返すことに辟易し始めていた。自分の爪の形に、透明チップを重ねていき、ぴったり合ったものを選ぶ。プラスチックの周りがトゲトゲしているので、祖母が持っていた爪ヤスリで軽く磨く。一番味気なく、つまらない作業だった。
それから、シールを貼ったはいいものの、チップからはみ出たシールをハサミで切り取り、ヤスリで削りとる作業に移った。根気強いはずの私も、完成間近の爪からピロピロしたプラスチックの粘着物がはみ出ているのを見ると、もどかしく苛立ち始めた。
トップコートの威力は、素晴らしかった。シールの凹凸や、少し削りすぎてしまった部分も、艶を帯びて、包み込まれていくようだった。

こうしてできたネイルチップを装着し、私はカフェに出かけることにした。だれかと会話する用事もないのに、一人でカフェに行くなんて、人生で初めての贅沢だろう。
私は左手の爪一本一本に粘着テープを付け、チップを乗せた。
まるで、自分の爪のようだ。チップでとんとん、と机を叩いてみると、吸いつくように巻き込まれた爪が引きつる。チップで物を触ったとき、必ずといっていいほど爪の奥に感触が残る。
なんだか、ワクワクする。長年深爪をして丸くなった爪が、縦長の長方形に伸びて、触ると自分の爪なのに、眺めているとつくづく、自分の爪ではないみたいだ。

右手で左手を付けたはいいが、困ったことになった。
右手は、どうやってつけるんだ?
利き手は右手だが、左手も不器用と言うほどではない。しかし、自分の爪が指以上に伸びた状態だと、粘着テープすらまともにつかめない。塩をつまむみたいに指の腹に力を入れるが、財布のような大きいものはまだしも、薄っぺらいテープを爪からはみ出ないように貼って、保護シートを剥がすなんて無理に決まっている。

五分ほど試行錯誤したのち、私は「つまむ」ことに特化した道具を使うことにした。ピンセットだ。なるほど、ピンセットってどういうときに使うんだろうと思っていたが、こういうときだったのか。

私は両手を窓に透かして見た。ネイルチップは、私の手から浮いているように見えた。

タイピングは、チップをキーボードに触れれば、出来る。指の腹でなんとか押さえることも可能だ。
スマホは、チップでは当然ながら反応しない。指の少しだけ反らせて、指の腹を丁寧に動かせば、大丈夫だ。
着替えも、細かいボタンブラウスじゃなければ、可能。トイレも…まあ、なんとか。食事も、蟹とか本場のインドカレーじゃなければ、余裕だ。
プラスチックが割れないか心配はあるが、それはきりがないと割り切ることにした。

私は、視界に入る自分の指を時折眺めながら、自信満々でカフェに向かった。眉毛だけ描いたほぼすっぴんのメイクと、普段着だが、感覚のない指先から、力がこもるような気がしていた。

ホットコーヒーしか、注文したことのない私だったが、思い切って今日は、メニューの下の方にあった緑色の「抹茶ラテ」を人差し指で示した。黒いシャツを着た店員は、にこりと笑って奥に入って行った。

ミッション、クリアだ。
今日は、三つもミッションをこなした。
作る、貼る、行く。
ただ行くだけじゃない、初めて飲む飲み物を注文できた。
ミッションクリアボーナスだ。

私は舞い上がっていた。
だが、そのときの私はまだ知らなかったのだ。

意外と粘着テープがお湯につけても剥がしづらいことや、チップから粘着テープを剥がすのに再びピンセットで四苦八苦することを……

世のお洒落女子の皆さま、
お洒落かはともかく爪先まで気遣っている皆さま、
いつもいつも大変ご苦労様です。

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