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オンラインレクチャーまとめ記事公開!「アイリッシュダンスの歴史」(山下理恵子著)

こんにちは!CCÉ Japan(アイルランド音楽家協会 日本支部)です。

4月に開催した、アイルランドのダンスの歴史に迫るオンラインレクチャー。講師を務めた当会会長の山下理恵子が、レクチャーの内容をまとめた記事を執筆しました!

11項目のうち、最初の4項目は無料でお読みいただけます。恐れ入りますが、残りの7項目は、有料記事(500円)とさせていただきます。当会の今後の活動(クラス、イベント等)の経費に充てさせていただきますので、可能であればご協力いただけますと幸いです。

最後に、山下が1996~1997年に撮影した貴重なアイルランドでの写真のスキャンデータも掲載しています。ぜひご覧ください!

(初めての方へ)記事の中で、「セットダンス」「ステップダンス」等、ダンスの種類に関する用語が出てきます。ダンスの種類について、まずは下の記事をご覧ください。

はじめに

アイリッシュ・ダンスの歴史
山下理恵子

Dia duit!(アイルランド語で「Hello」の意味)

アイルランドの音楽団体の支部で、個人的に運営にかかわってきたComhaltas Ceoltóirí Éireann(コールタス・キョールトーリ・エーレン、通称CCÉ)日本支部で対面クラスができなくなったことから急遽企画した「オンライン講座」の一環として、4月に「アイリッシュ・ダンスの歴史」というレクチャーを担当させていただきました。

このテーマでは昔から本を書いたり、講演をしたりしてきたので、「聞き飽きた話題かな〜?」と思ったのですが、最近アイルランドのダンスに興味を持ち始めた方もいるようで、新鮮だったかもしれません。仕事がちょっと落ち着いたので、つらつらと内容を書き連ねてみようかと思います。

まず私がなぜ偉そうにダンスの歴史について語るのか。

ひとつは「アイリッシュ・ダンスとアイデンティティ」というテーマで博士論文を書いたのでその知識をひけらかしたいから(?)。ただ歴史論やダンス学ではなく、カルチュラス・スタディーズの観点からだったので、社会的コンテキストだとか、ヘゲモニーだとか、どうしても「面倒くさい奴」風になりがち。理屈っぽい意見なんか聞きたくない、という人にはウンザリでしょう。

もうひとつは何だかんだと30年間以上、アイリッシュ・ダンス(主にセット・ダンスとオールド・スタイルのステップダンス)をつづけていて、研究とは別にやっぱりダンスが好きだから。アイルランドで出会ったダンサーたちは本当にラブリーで、SNSを通してではなく実体験としての彼らの姿を語り継ぎたい…という気持ちがあります。

とはいえダンスに命をかけているわけではないので(「あなたにとってダンスは何ですか?」と聞かれて、「生きがいです」という答えを求められているのかなと感じることがあるですが、しいていえば「pastime(余暇の楽しみ)」くらいだと私は思っています)、あまり大袈裟にダンスについて自分から語りたくないという気持ちもどこかにあります。だから歴史についても、さらりと知っていること(もしかしたら間違っているかもしれないけど)を伝えたいな、と思います。レクチャーと同様にQ&Aスタイルで書きますね。

アイルランドではいつからダンスが踊られているの?

これ、よくわかっていないのです。アイルランドに昔から住んでいたケルト人は文字を持たなかったので証拠がないみたい。でもおそらく儀式の場とかでは踊っていたでしょうね。身体表現は人間の本能に近いと思うので。

12世紀ぐらいになると、アイルランドに侵攻したノルマン人がキャロルと呼ばれるダンスを持ち込んだとか、アイルランドについて歌ったイングランドの曲の中にダンスという言葉が出てきた、といった証拠となる文献がポツポツ登場します。

ちなみにダンスという意味のアイルランド語はdamhsaまたはrinceですがともに外来語で、16世紀ぐらいから使われているそうです。つまりダンスは主に外国から来たものだった、と推測されます。

昔は誰が、どんなダンスを踊っていたの? 

中世の時代から文献にダンスの記述がみつかります。当時、アイルランドはイングランドに支配されていました。エリザベス1世(1533 – 1603)をご存知ですか?現女王(エリザベス2世)ではないですよ。母親が父親(ヘンリー8世)に処刑された悲劇とか、メアリー1世やスコットランド女王メアリー・スチュアートとの女同士の確執とかドロドロな歴史愛憎劇で有名。彼女はダンス好きで、アイルランドの宮廷で踊られるカントリーダンスがお気に入りという記述があります。

カントリーダンスとはイングランドの民族舞踊で、列を作ったり、輪を作ったりして大勢で踊りました。ジェーン・オースティン原作の『Pride and Prejudice(高慢と偏見)』に登場するような舞踏会でのダンスシーンなんかを思い浮かべてみてください。

参考動画:オースティンをモデルとした映画『Becoming Jane』のカントリーダンスを踊るシーン

17世紀に入ると、宮廷の貴族だけでなく庶民が同じようなダンスを踊る様子が紀行文などに記されています。お祭りや日常的な集まりで、多くの人が手をつないで楽しくダンスに興じました。カントリーダンスだけではなく、2人、3人でフォーメーションを作って踊る、現在のケーリーダンスの原型となるようなダンスもあったといわれています。

ダンシングマスターって誰?何をしたの? 

18世紀ごろから活躍したダンシングマスターについてはユニークな描写が残っています。

まず身なりがユニーク。「裾が燕の尾のような上着」「ピチピチ半ズボンに膝丈ストッキング」「爪先が上に向いたダンス靴」「銀のヘッドでタッセルがついた杖」…ゲーム風にいうとゲットしたいアイテムがいっぱい!

そして稼ぎ方がユニーク。上流階級の子弟の家庭教師のようなダンシングマスターもいたものの、多くがトラベリング・ダンシング・マスター(巡回ダンス教師)といって自分の縄張りでフィドラーやパイパーを引き連れてダンスを教えて回りました。ひとつの村に数週間滞在し、寝床と食べ物、少しばかりの報酬を提供してもらう代わりに村人にダンスを教えたそうです。滞在中は呑んだり、踊ったりのどんちゃん騒ぎが催されたので、盆と正月が一緒に来たような村のお楽しみだったことでしょう。同時に規律を重んじる教会の神父さんには目の敵にされたようですが。

それから行動がユニーク。きどった風変わりな人物が多かったみたいですが、特に個人的に興味を抱いたのが「ダンス決闘」。縄張り争いが勃発すると、「ダンスで勝負だ!」と観客を集めてダンスでけりをつけようとしたとか。倒れるまで踊ったのかな、踊る場所がどんどん高くなって(名人は椅子や机を重ねてその上で踊ったという逸話があります)最後は屋根の上で競ったのかな、とか思い描くとワクワクします。

ダンシングマスターのおかげで、さまざまな階層にダンスが普及したのです。

参考画像:"New Year's Eve in Ireland," The Graphic (London), 15 Jan. 1870

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