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アイデンティティを巡る物語としての「HUGっと!プリキュア」②ーー若宮アンリを中心に

注意書き

 ① 長い。(6000字超え)

 ② 本稿で示す若宮アンリへの批判的な意見というのはあくまでも「ポリコレを称揚する作品としてのハグプリにおける若宮アンリの物語への評価」という観点からのものとして理解されたい。

 ③追記:Xジェンダーやクィアについても考慮するべきであったが、ここでは組み込むことができなかった。ひとえに筆者の勉強不足である。ゆえに、不十分な点も多々あると考えられる。ここでは、現在最も人口に膾炙する「LGBT」という呼称を用い、操作的にセクシュアル・マイノリティをこの範囲に限定する。これが本稿の限界である。Xジェンダーやクィアを踏まえたとき、若宮アンリについていかなる解釈が可能かご教示いただけると大変ありがたく思う。

若宮アンリの受容のされ方ーー19話を中心に

 ハグプリがポリティカル・コレクトネスを標榜している作品として世間に認知されたのは若宮アンリを巡る物語が大きな要因となっていることは疑いえない。ダブル(/ハーフ)、セクシュアル・マイノリティといった、いわゆるマイノリティに対する関心とともに彼は迎えられた。

 筆者はハグプリをリアルタイムで視聴していたわけではないが、アンリに世間の注目が集まったのは19話がきっかけではないかと考えている(8話の「ダブル」という発言かもしれないが)。愛崎正人の前に女性用のドレスを身にまとって現れたアンリ。「自分がしたい格好をする」というセリフ。また、野乃はなの「人の心を縛るな」といった発言も相まって彼は大いに注目されたと思われる。

 おそらく、ここでアンリが注目されたのは「古典的性役割を否定する」というジェンダー論的な描写が明確だったからだと思われる。そして、その後のアンリと正人の関係性からLGBTをはじめとするセクシュアル・マイノリティという文脈も付加したのではないだろうか。

 後に述べるように、アンリは自分が男性であることに違和感を抱いているように思われる箇所がある。ゆえに彼をセクシュアル・マイノリティ的な文脈を踏まえた存在であるとみなすことはそれほど突飛な解釈ではないだろう。しかし、彼を論じる文脈の多くは「ジェンダー(=社会的性)」であり、「セックス(=生物学的性)」に関する描写(たとえば「身体」に対する言及)は十分に論じられていないように思われる。(なお、「アンリ自身はLGBTであると明確に言っていないため、セクシュアル・マイノリティを関連付ける解釈は不当だ」という批判は当たらないと考えている。アニメーションに限らず、LGBTという題材を扱うにはLGBTの登場人物を出さなければならないのだろうか? それは創作物がもつ豊穣な社会的意義の幅を狭める不要な制限のように思われる。)

 彼がセクシュアル・マイノリティの文脈を抱えているのであれば、セックスとしての性を論じないのは筆者としては不満に感じる。なぜならば、セクシュアル・マイノリティにとっては、自身の性指向・性自認と、自身の身体にあてがわれたセックスとしての性の不一致が重要な問題だと考えられるからだ(ただし、筆者はセクシュアル・マイノリティについては不勉強であるため的はずれな見立てかもしれないが)。

 ゆえに、筆者は若宮アンリについて、彼の身体と心の関係をめぐる議論は「ポリコレ作品としてのハグプリ」にとって重要だと考えている。そこで、以下では、アンリの身体と心に関する描写を考察する。メインとなるのは42話であるが、その前段階として、アンリがアイデンティティについて自問する33話について論じよう。身体と心の関係という観点から見て、33話は彼が自身の身体への違和感を示唆する重要な話である。

「身体への疑い」と残余範疇としての「自分」ーー33話を中心に

 33話に提示された彼の問いは「自分とは何者か」というアイデンティティに関する一般的な問題であった。

 33話でアンリは世間の噂や社会的評価を斜に構えた態度からまなざし、拒絶する。「あなたたちが望むストーリーを僕は生きられない」、「自分を貫き通すには強くならなければならない」という発言には、彼が確固とした自己像を抱いていることが示唆される。

 しかし、33話中盤で愛崎えみるに吐露するように、アンリは決して明確な自己像を抱いているわけではない。「僕って何者?」と彼は問う。これこそが、この話で中心的なテーマとなる問いである。

 彼は安易なカテゴライズを拒絶する一方、カテゴリーを超越するはずの「ボーダーレス」という評価すら一歩メタ的な視点から拒絶する。このメタ的な視点からの拒絶は第二次性徴という生物的な必然にを根拠とするものだ。ここに、彼が自身のセックスを受け止めきれていない様子が垣間見える。説明しよう。

 話中、吉見リタが放った「ボーダーレス」という言葉は、日常的な常識で考えるならば、「男性であるにもかかわらず、そうは感じさせないほど美しい」という意味を持つ婉曲表現として受け止めるのが自然である。こうした婉曲表現が称賛としての価値を帯びるのは、「ある人物が男性である」ということが自明の前提となり、「その前提を感じさせないほど美しい」というロジックを持つからだ。すなわち、逆説的ではあるが、「ボーダーレス」と称されるには、一度「男性」にカテゴライズされなければならない。

 ただし、「ボーダーレス」という称賛において、「ある人物が男性である」という前提は言及されてはならない。なぜならば、その前提に言及すると「ボーダーレス」ではなくなるからだ。つまり、「ボーダーレス」という称賛はボーダーレスではないことをみんな知っているが、それに目をつむることで成立するという複雑な機制を有する。意識されてはいけないし、疑われてもいけない。当然のように見逃されなければならないという意味で「透明な前提」があるからこそ、「ボーダーレス」という発話は意味を持つ。

 しかし、前述したようにアンリは「ボーダーレス」という評価を拒絶する。ここでは、「男性」である自分は「ボーダーレス」にふさわしくない、というロジックが用いられている。つまり、「ボーダーレス」が成立するためには本来言及されてはいけない「透明の前提」を暴露するのだ。

 こうしたことを踏まえると、「若宮アンリは男性である」ということは彼自身にとっては「透明の前提」ではないといえよう。それは無意識のうちに当然視されるべきものではないのだ。そして、第二次性徴に言及していることを鑑みるに、やはり彼は自身の身体に刻まれたセックスに対して受け止めきれていないのではないか、と筆者には思われる。この違和感ゆえに、彼は「若宮アンリは男性である」ということを「透明の前提」として扱うことができなかったのではないだろうか。

 まとめると、若宮アンリは社会から求められる役割を否定し、それと同時に自身の身体が明確に告げるセックスからも離脱しようとする。そして、「自分とは何者か」と自問自答している。一方、彼は常に自分らしく生きようと志向する。このような両義的な人物像を描くことができるだろう。

 作中で強調されたのは後者の側面、すなわち「自分らしく」、「主体的に」生きようとする姿だ。しかし、筆者は問いたい。彼が言う「自分」とは何か。それは拒絶のたびに立ち上がる残余範疇にすぎないのではないか? であるならば、そこに主体性はない。社会的外圧がなければ自己が立ち上がらないのであれば、極めて受動的な「自分」に過ぎない。

 アンリは「自分らしさ」を根拠に社会的外圧を否定するが、上記の見方に立つと、「自分らしさ」が成立するためには皮肉にも社会的外圧が必要という結果になる。「~ではない」によって「自分」を提示する姿勢は野乃はなを始めとするプリキュアたちのアイデンティティを巡る物語とは大きく異なっている。

 さらに、33話の終盤で彼は言う。「誰もが思う通りに自由に生きられる時代が来てほしい」と。しかし、ここでの「自由」とは何を意味するのだろうか。アイザイア・バーリンによると、自由には二つの類型がある。「~への自由」(積極的自由)と「~からの自由」(消極的自由)である。33話でのアンリの言動を見るに、彼の言う「自由」は後者である。しかし、アイデンティティの確立を目指すのであれば称揚されるべきは積極的自由だろう(たとえば愛崎えみるは「ギターを搔き鳴らす自由」という積極的自由を希求していた)。

 少なくとも33話段階では、彼の統一的な自己像が見えない。アイデンティティを「自分らしさ」と理解したとしても、それは何かを「核」として編み上げられた統一性や斉一性を持つ自己ではないだろうか。そしてその「核」こそが、未来の理想的な自己像を提示する。本来的な意味でのアイデンティティとはそういうものではないだろうか。(1990年代以降のアイデンティティ論では「不動の中心を持つ自己」という観念の疑わしさは指摘されており「常に変化する過程としてのアイデンティティ」という見方が提唱されており、筆者は同意する。しかし、「過程としてのアイデンティティ」と「根無し草(デラシネ)」は異なる。筆者にとってアンリはデラシネに見える。)

 最終的に33話では、彼は「氷上のプリンス」として自己規定する。が、これ自体社会的に構築された若宮アンリ像ではないだろうか。「え? それでいいの?」という感を拭うことができない。

 もちろん、これは33話段階の話である。ここで彼の物語を評価付けるのは性急だし、アイデンティティ確立の過程では残余範疇でしか自己を定義できないこともあるだろう。それに、アンリがLGBTとしての文脈を背負っているならば、「自己を明確に提示せよ」という要求は暴力とすらいえる(たとえば、生物学的には男性のトランスジェンダーの人に「あなたは女性になりたいの?」と問うことは暴力的だろう。記述的にしか表現できないアイデンティティは確かに存在する。ただし、アンリは記述的アイデンティティも提示してはいなかったが…)。

 追記:Xジェンダーについて示唆を受けた。アンリをXジェンダーに至るまでの存在として位置づけるならば、ここでの議論は空回りになるのかもしれない。

 彼のアイデンティティの物語は42話で完結する。そこで、42話の感想でしばしば言及される「若宮アンリの体でも若宮アンリの心をしばることはできない」というセリフを中心に42話の考察に移ろう。

どうにもならないこの身体ーー42話を中心に

 8話、49話など、プリキュアには「数字で伝わる話」がいくつかあるが、42話もその一つに入るかもしれない。それほど画期的な話であり、42話を巡る議論は賛否両論、百家争鳴である。それもこれも「キュアアンフィニ」の誕生がきっかけだ。しかし、ここではキュアアンフィニよりも、42話で描かれたアンリの身体と心の関係について論じたい。

 さて、「若宮アンリの体でも若宮アンリの心をしばることはできない」という言葉は何を意味しているのだろうか。言葉通り受け取るならば、心と身体は別次元のものであるということや、ここから一歩進んで、心は身体に拘束されない優位な存在である、という考え方を受け取ることができるだろう。しかし、筆者の見立てでは、42話は皮肉にも身体と心の強固な結びつきが暴露されると同時に、「身体が心のあり方を規定している」という感想を抱かざるをえない。

 33話では「氷上のプリンス」として自己規定した彼であるが、42話ではより根源的な自己の欲求に到達することができた。それは「自分のスケートでみんなを笑顔にしたい」というものである(アイデンティティを「存在証明」と理解するなら、彼はアイデンティティを確立することができた)。この強い思いと野乃はなの応援の相乗効果によってキュアアンフィニは誕生した。

 この展開はアンリが明確になりたい自己像を結ぶことができた寿ぐべきものである。残余範疇としか呼べなかった彼はもう居ない。明確な理想像があるからこそ、彼はプリキュアになることができた。

 それにしても、彼はなぜ自己の欲求に気がつくことができたのだろうか。野乃はなのおかげ? 確かにそれはあるだろう。しかし、本質的には足の故障や不慮の事故が大きな要因となっているのではないだろうか。すなわち、それを叶えることが極めて難しいからこそ、根源的な欲求に気づくことができたのではないだろうか。(卑近な例だが、ここで述べているのは「病気になって初めて健康のありがたさが分かる」というものと近いことである。)

 上記の見方に立つならば、筆者は、身体こそが心のあり方をアンリに気づかせたように思えてならない。ここに、身体と心の密接な関係を読み取ることができるだろう。(試みに、故障や不慮の自己がなかったと仮定すると、33話でも述べていたように、彼は「常に勝ち続ける」ことを第一の目標にし続けたのではないだろうか。)

 また、未来を期待されるスケーターたるアンリにとって、身体上の故障は彼に襲いかかる理不尽に他ならない。こうした理不尽を前に、アンリは「スケーター以外の若宮アンリ」のあり方を模索すると病床で語る。彼は、スケーター以外の道にも開かれた、無限の可能性が満ちる未来へと飛び立とうとする。しかし、皮肉にもこのような決断を迫ったのも「足の故障」という身体的な事情であった。これは理不尽な身体に対して心を馴致したとも言えるかもしれない。すなわち、ここでは身体が下部構造として心のあり方を規定する重要な役割を担っているのではないだろうか。

 こうした身体と心の関係は、彼のセリフとチグハグな印象を与えるという作品内在的な問題にとどまらず、「ポリコレの象徴としての若宮アンリの物語」という観点から見てもやや不十分な印象を受ける。すなわち、たとえばセクシュアル・マイノリティの議論にひきつけるならば、彼/彼女たちの苦悩は「心の下部構造として身体が機能していない」点にこそ根源があるのではないだろうか。身体的性と心(=性指向・性自認)が直結していない点にこそ生きづらさが存しているのではないだろうか。

 筆者が考えるに、身体の理不尽さを前にしてもスケーターとして復活しようとする結末でも良かったように思われる。ただし、42話の後にもリハビリをしている様子が描かれていたため、何らかの形で理不尽に抵抗しようとしている様子が見て取れる。また、最終回ではスケートに携わっている様子も描かれた。こうした結末は大いに「アリ」だと筆者は考えている。しかし、これらの描写は挿話的なものである。ゆえに、42話で描かれた「身体が心を規定する」という物語展開を覆すほどのインパクトやメッセージ性を有しているとは思われない。

 もちろん、ここで展開した「若宮アンリの体でも若宮アンリの心をしばることはできない」というセリフの解釈はやや意地悪であるし、ハグプリ全体のテーマを踏まえると誤読だろう(ハグプリのテーマに即して解釈するなら「理不尽な身体を前にしても未来に絶望しない」という意思表明として受け取るべきだ)。

 しかし、セクシュアル・マイノリティという文脈を背負った(と筆者がみなしている)登場人物であることや、33話で自身の身体に違和感を示していることを踏まえると、身体/心を規定/被規定関係として位置づける物語展開には首をかしげざるをえない。少なくとも、若宮アンリという登場人物をセクシュアル・マイノリティと結びつけた上で、「若宮アンリの体でも若宮アンリの心をしばることはできない」というセリフを「名言」として称揚するのはややまずいのではないかと思われる。このセリフが「名言」たりうるのはあくまでもハグプリという作品全体のテーマ(「輝く未来を抱きしめて」)に即してのことだろうと思われる(作品のテーマを踏まえると上記のセリフは名言たりえると筆者は考える。理不尽を前にしても未来を意志する姿は崇高である)。つまり、冒頭でも示したが、本稿での若宮アンリへの批判的な意見というのはあくまでも「ポリコレを称揚する作品としてのハグプリにおける若宮アンリの物語への評価」という観点からのものである。

 しかし、筆者の抱いているハグプリへの「片手落ち感」の本質はこうした身体と心の議論にあるのではない(!)。愛崎えみるや若宮アンリが紡いだ物語は社会との葛藤という側面があったわけだが、「ポリコレ」という文脈で重要視されるべき「アイデンティティの評価」に関する問題、ひいては「アイデンティティ・ポリティクス」に関する問題が扱われなかった。この点にこそ筆者がハグプリに対して抱く「片手落ち感」がある。次稿ではこの点について論じる予定である。

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