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アイデンティティを巡る物語としての「HUGっと!プリキュア」①ーー愛崎えみるを中心に

はじめに

 2018年から2019年にかけて放映された「HUGっと!プリキュア」(以下、ハグプリ)は社会問題に切り込もうとする姿勢がインターネット上で大いに話題を集めた。育児、出産、ジェンダー、LGBTなど、現実社会でも大いに注目されている題材を扱う内容は、プリキュアシリーズを女児アニメとして捉えていた人びとにとって衝撃的であったに違いない。一方で、その直截的な描写に対して「説教臭い」、「ポリコレを押し付けるな」といった批判の声も聞かれる。総じて、賛否両論という表現がふさわしい作品であることに間違いない。

 本稿は今となっては飽和しているハグプリ総評の1つである。従来、「ジェンダー」や、LGBTをはじめとする「セクシュアリティ」はハグプリ総評で頻出するキーワードであり、本作は「ポリティカル・コレクトネス」を体現する作品として語られてきたように思われる。しかし、もしも、ハグプリが「ポリティカル・コレクトネス」を標榜する作品であるならば、その物語展開について筆者は「片手落ちである」という感を拭うことができない。なぜこのような感覚を抱くのか、なにがハグプリには欠けていたのか、これを説明するのが本稿から始まる一連の記事の目的である。

 先に述べたように、ハグプリ総評では「ジェンダー」、「セクシュアリティ」という概念が頻繁に言及される。しかし、本稿では、これらを包括する概念である「アイデンティティ」を中心概念とする。そして、「アイデンティティを巡る物語」としてハグプリを捉え、総評したい。

 本論に入る前に、簡単に筆者のハグプリ評価を提示しておこう。率直に言えば、それなりに面白く鑑賞することができた。特に愛崎えみるや輝木ほまれを取り巻くエピソードは秀逸なものが多かったと感じている。一方、詳しくは本稿(本格的には次稿)で詳述するところではあるが、「ポリティカル・コレクトネス」を標榜する作品としてみると、首を捻る箇所もあった。

 だが、女児アニメでありながらここまで明確に社会問題を扱おうとする姿勢に対しては最大限の賛意を示したいと思っている。

アイデンティティを巡る物語としてのハグプリ

 アイデンティティという言葉は今や人口に膾炙するものとなっており、その意味する内容は多義的である。そのため、「アイデンティティを巡る物語」とハグプリを形容することはやや乱雑かもしれない。しかし、ハグプリの主要登場人物が紡ぐ物語は、何らかの意味でアイデンティティと関連していることは間違いないだろう。

 たとえば、野乃はなは常に何者かになろうとしていた。「超イケてるお姉さん」という願望は具体的な理想像とするにはあまりにも不定形である。それでも、彼女はその不定形な理想像へ向かうことをやめなかった。道中、幾度もの挫折や絶望があり、自己嫌悪に苛まれることもあった。しかし、どれほど傷ついても立ち上がり、未来を志向し、「なんにもなれない野乃はな」から「私のなりたい野乃はな」に至るための翼を得ることができた。

 野乃はなの物語が理想へと自己を成形する物語であったとするならば、薬師寺さあやはすでに形作られている自己像を壊し、新たなそれを形成する物語であった。彼女にとって女優は特別なものであった。そこには母に対する思慕と憧憬が同居していた。しかし、新たな生命の誕生は、同時に新たな彼女、医者を志す薬師寺さあやの誕生でもあった。決別ではない。彼女は再誕し、知恵の限りに自身の道を切り拓いたのである。

 薬師寺さあやは女優から医者へと推移した。これが一方向への線型の変化であるならば、輝木ほまれは円型の変化をしたと言えるだろう。物語以前の彼女へ回帰する。飛べない自分。思い通りにならない身体。あたかも遠くに存在しているかのように感じる身体をもう一度自身に馴致させ、「スケーターとしての私」へと回帰する。キュアエトワールが「力のプリキュア」であるならば、その力とは「スケーターとしての私」を求める強靭な意志力であろう。深く沈んだ彼女は星まで高く舞い上がる。

 思えば、初期メンバーにとって「私」という概念は自明であった。それがどんなに理想と遠くても、どんなに迷いにあふれていても、どんなに過去の栄光にしか見えなかったとしても、物語を駆動する「私」がそこにいた。

 ところで、「私」とはなんだろうか。コギト・エルゴ・スム。もはや陳腐と言ってもよいデカルトの定式化は心身二元論の嚆矢となり、身体に対する精神の優位を宣言した。デカルトの命題の詳細な検討はよそう。だが、もし彼の立場に立つならば、ルールー・アムールの物語はRUR-9500が「ルールー・アムールとしての私」になる過程であった。胸が張り裂けそうな苦しみを覚え、涙を流し、罪悪感に押しつぶされそうになり、音楽を素敵だと思い、親友と呼ばれて未来を志向する。その全てが帰納的に「心」として結実した。彼女の感じた痛みや喜びや愛こそが、他のアンドロイドとは異なる、固有の「ルールー・アムール」を存在せしめるのである。

 このように、ハグプリにおいてプリキュアたちは何らかの意味でアイデンティティを巡る物語を紡いでいた。それは希求であり、転向であり、回帰であり、確立であった。本作に対して「アイデンティティ『を巡る』」とやや曖昧な表現をしたのは、彼女たちのアイデンティティに対する関係の仕方が多様だからである。

 しかし、多様な物語の中にも共通点がある。それは、「心」や「現在/過去/未来の私」といった、自己に関することがらに焦点が当てられている点だ。もちろん、ルールーの心の存在を高らかに宣言したのが愛崎えみるであったように、彼女たちの物語は決して自己への関心に埋没しているわけではない。だが、社会との鋭い対立があったわけではないのも事実である。その中で、愛崎えみるの物語は特異だ。彼女の物語は社会的な役割や規範との葛藤に満ちている。

自己と社会の葛藤ーー愛崎えみるの物語

 愛崎えみる。プリキュアになることを最も強く願ったのは彼女であった。彼女は誰よりもヒーローになりたかった。自分でもごっこ遊びの延長に過ぎないと分かっていても「キュアえみ~る」にならずにはいられなかった。彼女は偽物だった。しかし、同時にその思いの強さゆえに「けっこうプリキュア」だったのだ。

 えみるはプリキュアになりたかった。だが、一人でプリキュアになりたいわけではない。ルールーと一緒にプリキュアになりたかった。なぜならプリキュアになりたいのと同じくらいルールーの親友になりたいから。この強い思いは質量保存の法則を捻じ曲げ、プリハートは分身した。

 えみるにとってハグプリは幸福そのものであった。ルールーと一緒にプリキュアとして街の平和を守ることができるのだから。だが、幸せはいつまでも続かない。なぜならルールーは未来に帰らないといけないから。それを止めることはできない。だって私達はヒーローなんだから。だって未来の世界を守るのもヒーローの大事な役目なんだから。だってみんな我慢しているんだから。だって、だって、だって。どれだけ理由を重ねればルールーが居なくなることの寂しさを納得できるだろうか。葛藤は摩擦を生み、言語野のニューロンは焼き切れた。

 ここに、「ヒーローとしての社会的役割」と「ルールーの親友としての本当の気持ち」の間に鋭い葛藤が生じていることが見て取れる。「社会的自己」と「真性の自己」の葛藤。

 こうした葛藤は、ともにえみるにとって望ましい役割の間で生じたものである。しかし、彼女は自身が望んだわけでもない、外圧としての社会規範とも鋭く対立する。「女の子がギターなんて」、「女の子がヒーローなんて」。彼女自身が抗しがたく女性であるために押し寄せる性規範。ギターが自由の象徴であるならば、「ギュイーンとソウルがシャウトする」ことは自由を剥奪する規範への異議申し立てに他ならない。前段で示した葛藤が「『社会的自己』との葛藤」であるならば、ここで示した葛藤は「『社会そのもの』との葛藤」であると言えよう。

 もちろん、愛崎えみるはこれらの葛藤とうまく折り合いをつける。しかし、それを詳述することは本稿にとってそれほど意味のあることではない。ここでは「アイデンティティを巡る物語」としてのハグプリにおいて、愛崎えみるの物語が自己と社会が対立する構造を有していたことを強調できれば十分である。

 ところで、「アイデンティティを巡る物語」としてのハグプリにおいて欠かすことができない登場人物がもう一人居る。それは若宮アンリである。ある意味では彼こそハグプリがここまで話題作となった原動力だと言えるだろう。そして、彼もまた、愛崎えみると同様に社会と対立した。同時に、えみるを除く他のプリキュアとは違った方法で自己をまなざしていた。次稿では、若宮アンリの物語について説明する。そして、本稿の冒頭で掲げたハグプリの「片手落ち感」について論じる。

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