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天才が天才とは限らないじゃないか。

某清水くんと話していて、そう思ったんですよ。(某って…)

彼は天才の類に数えられる人だと思うんです。
エモーショナルな脚本を書く天才。
そして、エモーショナルな芝居をする天才。

でもね、天才だから何でも出来るわけじゃない。むしろ、才がない部分は常人よりも出来ない部分が多い……と、思う。
例えば、日常生活とか。
例えば、何かを理論的に説明するだとか。
良いプレイヤーが良い監督になるとは限らないのは、なにもスポーツに限った話ではなくて演劇にも言えることだと思います。私は。
つまり、そう、彼は“説明”が、凄く……まあ、何と言いますか……控えめに言って下手なのです。
彼の中には、とても凄いものが出来上がっているんですよ。
それを彼が言語化するとですね……
……何でも、小説になってしまうんです。

具体的な企画書出せって言ったのに、提出されるのはエモーショナルなポエム。(彼の中では十分に“具体的でわかりやすい”つもりらしい。)
「役者としての心構えを後輩に教えるのに、全然伝わらないから文章にまとめてみたんすよ。」と、彼が見せてくれたのは、どこまでも広がる壮大な短編小説。(演技論じゃないん?)
いや、同じ立場の私が見ても「うん、で?」ってなってしまうんですよ。書いてある内容は凄い。すごい凄いので伝わらない。ミリも。

彼が原稿用紙4枚程度にみっちり書いた言葉の概要はこうだ。
「演技力とは自分の感情を作って見せるものではなく、その感情がそこにあるように見せる技術のことだ。」
え。短か。でも、これ。
『舞台上で風を感じるんじゃなくて風になれ、今この瞬間を吹き抜ける風という存在になれ』みたいなこと書いてあるんですよ。原稿用紙4枚にわたって。
何の話だって感じですけど、視点の話です。舞台上の誰にも見えない感情論ではなく、客席から見た視点で演技をしろって話です。
私は(そして清水くんは)、台本っていうのは楽譜だと思ってるんですよ。
(あれ、これ前にもどこかに書いたな…?)
楽譜。
日本語は諸外国語と違い、アクセントひとつで意味が変わり、そのアクセントは音程のコントロールに支配されている。
だから、台詞は全て、音程とテンポと間のとり方で感情を作ることが出来る。
極端な話、その時、言葉を発する側の感情なんてどうでもいいわけ。それを聞いて見た相手がどう受け取るかが大事。

「ピーマン」って低い声で音を伸ばして言ってみてください。
そう、残念。どんなに嫌いでもそれはピーマンです。
もう一度。
「ピーマン」って、今度は語尾を高めに早口で言ってみてください。
何をそんなにピーマンで、はしゃいでるの?
そう、こんな風に。



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