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【小説】 偶然でも運命でもない

高校三年の大河と三十路OLの響子。二人の接点は、通勤・通学の電車だけ。
駅のホームで街角で、二人が繰り広げるのは、なんでもない日常の数分間。
少しずつ変化していく季節に、それぞれの想いが重なっていく。
―― 多分。この出会いは、偶然でも運命でもない。

1.彼女の日常

 日も暮れたばかりの駅を出て早足で歩く。改札を抜けるために取り出した定期券を鞄にしまい、持ち手を肩に掛ける。持ち手のベルトと肩の間で長い髪が引っ張られるのを不快に思いながら、鞄を少し持ち上げて反対の手で髪を搔き上げ、響子はそこで、違和感を感じて足を止めた。
「あれ? そういえば、私……」
 独り言ちて振り返る。会社を出る時は、シュシュしてなかったっけ? 思い返せば、仕事がひと段落してデスクを立つ時に無意識に外したような、そうでないような……。
 とりあえず、鞄の中をごそごそと探るが、それらしきものは見当たらない。うっかりデスクに置きっ放しだといいけど。先週、買ったばかりの紺地にピンクの花柄のシュシュ。安物だけど結構気に入っていた。
 ―― ま、いっか。高いものじゃないし。
 言い聞かせるようにそう思って、溜息をつく。
「ま、いっか。」
 口にするとそれは、諦めよりももっと軽い感じがした。
 コンビニに入り、弁当の棚を眺める。なんとなく心惹かれるものが無くて、棚に並んだおにぎりに手を伸ばす。いつものように、焼き鮭と昆布。定番のそれをひとつづつカゴに入れて、レジへと向かう。鞄から取り出したスマートフォンの画面に、荷物の受け取り用のバーコードを表示させるのと、レジにいた店員が顔を上げるのはほぼ同時だった。
「こんばんは。」
「こんばんは。いつもありがとうございます。荷物、届いていますよ。」
 顔馴染みの若い男性店員はそう言うと、差し出したバーコードをスキャンして、バックヤードへと荷物を取りに行く。
 レジ前のケースに並ぶ揚げ物を眺めていると、その店員はすぐに戻ってきた。
「これで、お間違いないですか?」
 問われて、差し出された箱に視線を落とす。
《鈴木響子様》
 内容物に雑貨と記載されたその小さなラベルには、間違いなく自分の名前が記載されていた。名前と端末に配信されるバーコード、それとレジに表示される八桁の数字――生年月日がそのまま表示される――で本人を確認して荷物を受け取る仕組みだ。
 コンビニエンスストアでの受け取りの場合、そこに住所が記載されることはない。それが気に入って、インターネット通販で物を買う時は、毎回コンビニ受け取りを指定している。一人暮らしの部屋に、配送員が訪ねて来るのは苦手だったから、好きな時に受け取りが出来るこのシステムは都合がいい。
「はい。19870504。」
 小さく頷いて、おにぎりを入れたカゴを差し出し、一緒に会計をする。
「その情報もう要らないですよ。僕、もう覚えちゃいました。」
「私の偽物が出たら、どうするの?」
 響子が笑いながらそう言うと、その店員も笑った。
「その人、相当、変装の腕が良いんですね。それとも鈴木さん、怪盗か何かに狙われてるんです?」
 小さな荷物とカゴの中身を素早くスキャンして、金額を告げると袋に詰めてこちらに差し出す。スマートフォンのケースに差し込んだカードを見せるよりも早く、その店員はレジを操作していた。「カードを置いてください」と、レジに据え付けられたカードをスキャンする器械が抑揚の無い音声を発するのに合わせケースごと端末に乗せ、小さな音を立てる器械を眺める。
 赤いランプが青に切り替わるのを確認して、レジを離れると、そのまま店を後にした。
 後ろから「ありがとうございましたぁー。」と、声がする。
何処かに私の偽物がいたとして、この荷物を奪って何になるんだろう。この箱の中には、浄水器の交換用カートリッジが入っているだけなのに。そんな、どうでもいいことを考えながら、早足で自宅へと向かった。
 赤いランプが青に切り替わるのを確認して、レジを離れると、そのまま店を後にした。
 後ろから「ありがとうございましたぁー。」と、声がする。
何処かに私の偽物がいたとして、この荷物を奪って何になるんだろう。
 この箱の中には、浄水器の交換用カートリッジが入っているだけなのに。

2.窓の外を流れる

 その人はいつも、2両目の先頭側のドアの横に立っていた。

 ドア横に立つ彼女の存在に初めて気付いた時、美しい人だな、と思った。特別、背が高いわけでも、整った顔立ちをしているわけでもない。最初はなにがそんなに目を引くのか、わからなかった。けれど彼女を観察しているそのうちに、わかったことがいくつかある。例えば、彼女は自分の知っている大人達と違って姿勢がいいとか、いつも少し地味な服を着ているとか、スマホはあまりいじらない、とか。気付けば、電車に乗るたびにその後ろ姿を探して、静かに背筋を伸ばして立ち窓の外を眺めている姿を目で追うようになっていた。

 午後六時。部活がわりの補講を終えて、学校を出る。真っ直ぐに。寄り道をせずに駅へと向かい、電車へと乗り込む。
 時々、その人の姿を見掛ける。夕刻とはいえ、あまり混雑しない路線の始発の電車だ。空いた車内にも関わらず今日も彼女は定位置で、じっと夕暮れの街を眺めていた。
 いつもはまっすぐに下ろした髪を、今日はふわふわしたゴムのようなもので緩くひとつに纏めている。
 もうすぐ、彼女の降りる駅だ。
 電車は速度を落としてホームに滑り込む。
「なあ、大河。おまえ、どう思う?」
「ん? ……ああ、ごめん。聞いてなかった。」
 隣に座った海都に呼ばれて、彼女の姿を視界の隅に捉えたまま振り返った。
「なんだよー! だから、今月の」
 何? と、目で問うと、海都は少し憤慨したように大河の肘を軽く引いた。「今月のさ、」
 ゆっくりと停車してドアが開く。歩き出した彼女の髪からそのゴムが滑り、音もなく床に落ちた。彼女はそれに気付かなかったようで、そのままホームに降り立つ。
「おい、聞いてる?」
「あ。海都、ごめん、ちょい待ち。」
 心配そうにこちらを覗きこんだ海都を掌で抑えるようにそう言い捨てて、大河は慌てて立ち上がりドアに駆け寄る。彼女の立っていた場所に落ちた髪留めを拾い、顔を上げた瞬間、目前でドアが閉まった。
 窓の向こうで、階段を駆け上がる後ろ姿が見えなくなる。
 ゆっくりと電車が動き出す。
 加速するモーター音とともに、窓の外を見慣れた景色が流れていく。拾ったばかりのヘアゴムを手のひらに握り込む。柔らかで、滑らかな生地に細いゴムが包まれているのが指先に絡まる。大河はそれを上着のポケットに突っ込んで、ため息を吐く。
「なんだよ、いきなり。らしくないじゃん。」
 大河の視線を追いかけるように窓の外を覗き込んで、海都が隣に並んだ。
 彼女の定位置。そんなことを思いながらドアの横の狭い壁に寄りかかるようにして立つと、答えない大河に海都は呆れ声で呟いた。
「松本くんはぁ、うわの空ですかぁ。」
 現代文の教員の似ていないモノマネに、突っ込む気すらおこらずに、ただ、夕闇に流れゆく光の群れを眺める。

3.シュシュとローファー

 夕陽が差し込む放課後の教室。
 黒板の隅に書かれた松本大河という文字を消す。
消したばかりの場所に武田海都と書いて、手についたチョークの粉を払う。
 明日の日直は海都だった。このクラスの日直の仕事は教室の鍵を開けるところからスタートし、教室の鍵を閉めて次の日直に渡すところで終わる。一緒に廊下に出て鍵を締め、海都の鞄に鍵を放り込む。そのまま自分のジャケットのポケットに手を入れると、指先にスルリと慣れない感触を覚えた。
 紺色にピンクの花柄のリボンみたいな生地のふわふわしたヘアゴム。
「何それ…… パンツ?」
 ポケットのそれを引っ張り出して見ていると振り返った海都が、大河の手元を覗き込んできた。
「は?」
「あ、なんだ。シュシュか。なんでそんなもん持ってるの?」
「しゅしゅ……?」
「知らねーの? なんか、そういうゴムみたいな髪留め。シュシュって言うの。」
「へぇー。」
 海都は姉貴が居るからか、女子にも物怖じしないし、化粧品やファッションにも詳しい。小柄で整った顔立ちに似合わず、行動的でよく喋る。よくいえば陽キャ、悪くいえばチャラ男。だから、やたらと女子にモテる。
 自分とは正反対だと思うが、一緒にいて気が楽だ。
「どうしたの? それ。大河、彼女とかいたっけ?」
「昨日、電車で拾ったんだよ。お前、一緒にいたじゃん。」
「じゃあ、駅に届けようぜ。」
「あー。うん。……直接、渡したくて。」
 大河の言葉に、海都は不思議な物を見るような顔をした。
「なんだ。落とし主わかってるやつ? 渡せばいいじゃん。」
「知り合いじゃないんだよ。」
「どういうこと?」
「帰りの電車で、たまに見かけるんだ。」
「お? 可愛い?」
「うーん。……多分、普通。」
 ドアの横に立って、窓の外を眺める彼女を思い浮かべる。
 スーツでも制服でもないが、ジャケットに白いブラウス。膝丈のスカート。多分、仕事用の服だ。化粧は薄い。睫毛が長い。姿勢がいい。それ以外は、至って普通。普通の女の人だとおもう。
 ……多分、普通。
「なんだよ多分て。」
「学生じゃないし。大人の女の人の可愛いって、わかんないじゃん。」
「お? 歳上? いくつ?」
「知らないよ! 知らない人だよ。おばさんじゃないけど、若いかどうかはわからない。」
 彼女の話を海都にしたのは失敗だ。
 しつこい追求に、うんざりする。
「有名人に例えると?」
「俺、テレビあんまり見ないからわかんない。」
「なんだよー! ヒント無しかよー!」
 大袈裟なアクションで崩れ落ちる海都。
 こいつ、無駄に元気だな、そう思うがそのテンションに釣られてしまう。
「何のヒントだよ!?」
「お前の好きな人。」
「す…!? いや、俺、そんなこと一言も言ってないよね?」
「いやもう、それは恋でしょ。恋じゃなかったらなんなの? 興味なかったら、駅に届けておしまいじゃん。」
 海都は、ニヤリと笑うと大河の胸を指差した。
「落し物を拾ったのは? 好きな人に話しかけるチャンス!!」
「お前、ウザい。」
 笑いながら肩を叩くと、海都も笑って「会えるかな? その人」と大河の肩を叩き返す。
 玄関で上靴をローファーに履き替えて、外に出ると、陽は落ちきってすっかり暗くなっていた。

4.ゆっくりと滑り出す

 ドアが、閉まりまーす……
 独自のイントネーションで車掌がアナウンスする。電車のドアが閉まって、ゆっくりと動き出す。
 滑るようにホームを出て行く電車をベンチに座ったまま見送って、大河は溜息をついた。
 先週、電車の中で、シュシュを拾った。あれから1週間が経った。落とし主には、今日も、会えなさそうだ。
 単語帳がわりの小さなメモノートに目を落とす。受験生の身だ。本来なら真っ直ぐに帰って、勉強をしないといけないのだろう。しかし、このシュシュを直接、その人に返したかった。いつも、美しい立ち姿でじっと窓の外を見る彼女。
 出来るなら、話をしてみたい。
 親友の海都に“それは恋”と言われて、この気持ちをスルー出来なくなった。きっと、真っ直ぐに帰ったとして、集中出来ない。だから、学校帰りに時間を決めて、駅のホームで彼女が現れるのを待ちながら、ひたすらに単語帳をめくる。内容はほぼ全て覚えてしまった。次のノートを作らないとな…と思う。
 スマホを取り出して時計をみる。
20:30
 次の電車に乗ろう。
 平均よりも大柄な男子とはいえ、まだ未成年だ。あまり遅いと、叔母さんは心配するだろうから。いくらなんでも、居候中の身で叔父夫妻の家に迷惑をかけるわけにはいかないし。
 やりたい勉強を出来るところに進学したくて、親父に相談して県外の高校を受験した。学校から電車と徒歩で20分。通学には便利なところに住む叔父が、空いている部屋があるからと、住まわせてくれている。お陰で、衣食住には困らない。家庭の事情が複雑なわけではないが、友人たちや教員といった周囲の人間は気を遣って家の話をあまりしないからそれで困ることもない。お構いなしに家族の話をするのは海都くらいだ。
 進路に関して家族は何も言わない。大学への進学は考えていないわけではないが、早く社会に出て父の仕事を手伝いたかった。高校に入ってから教師やクラスメイトたちに、進学しないなんて勿体ない、あいつは変わり者だと、事あるごとに言われ、考え方の違いを思い知らされた。
 ただ、自分のやりたいように自由に生きることが、こんなにも特殊な扱いを受けるとは、高校を受験する時は考えることもなかった。
 アナウンスと共に、次の電車がゆっくりとホームに入ってくる。顔を上げると、少し離れた場所で見慣れた後ろ姿が立ち止まるのが見えた。
 2両目の先頭側ドア。その前に立って彼女は、ドアが開くのを待つ。電車に乗り込むのを眺めていると、出発のアナウンスが流れた。慌てて鞄を掴み、目の前のドアに駆け込む。自分の後ろでドアが閉まった。大きく息をついて、空いていた端の席に腰をおろすと、向かいに座った制服の女子が二人、くすくすと笑って肩を寄せる。
 ドアの前、姿勢の良いその後ろ姿を眺めながら、どうやって話掛けようか考える。
《あの、シュシュ、落としましたよ。》
 ……いや、違う。
 今、落としたわけじゃないし。タイムラグがありすぎる。
《お姉さん、これを。》
 跪いてシュシュを差し出す。
 ……うっわ、気持ち悪。お前は一体なんなんだ。海都じゃあるまいし。
《すいません、先週、ここでシュシュ落としませんでした?》
 ……これだ。これで行こう。これなら自然だ。きっと警戒されることもない。ああ、待てよ……急に立ち上がって、車内で話掛けたら、警戒されるだろうか……? 落ち着こう。落ち着いて、駅に着いたら一緒に降りてホームで渡そう。まずは、目を閉じて、深呼吸。
 電車は流れるように人を運ぶ。いくつかの駅で、ゆっくりと停車して人を吐き出すと、新たに乗客を乗せて、再びゆっくりと滑りだす。
 彼女の降りる駅名がアナウンスされて、またゆっくりと電車が停車した。
 ホームに降りると、階段を駆け上がる彼女の姿が見える。
 慌ててその後ろ姿を追うが、彼女の足は予想以上に速くて、勝手のわからない駅の構造に阻まれて手が届く範囲まで追いつけない。そのままの勢いで、改札まで追いかけて、ICカードを翳して改札を通り抜ける。
 しまった! と、思った時にはもう遅かった。
 考えるよりも先に、手を伸ばしていた。

5.交差する点

 改札を抜けたところで、後ろから強く肩を掴まれた。
 振り返ると、見知らぬ男性がこちらを見下ろして立っていた。男の子と呼ぶには大きくて、男の人と呼ぶには若すぎる。
 紺色のブレザー、グレーのスラックス、黒いローファー。会社の近くにある高校の制服を着たその人は、少し走ったのだろうか? 肩で軽く息をしていて、頰が少し赤い。響子よりは背は高いが、170後半くらいだろうか? 普段、周囲にいる男性に高身長が多いせいでよくわからないが、目立って大きいわけではなさそうだ。思春期特有のニキビなどはなく肌は滑らかで、わずかに日焼けの残る肌に、軽く整えられた眉は爽やかという言葉がよく似合う。クラスで、5番目くらいにモテるタイプ。
 少なくとも。響子にはこんなに若い知り合いはいない。親戚にも、記憶にある中に高校生の男の子なんていなかった。
 黙って見上げていると、彼は何か慌てた様子で「あの、」と口を開いた。
「あの、これ。先週、電車の中で落としたのを見て。追いかけようと思ったんですけど、間に合わなくて。」
 そう言って、バタバタと鞄を開けると中のポケットから、ラッピングに使うような透明の小袋に入ったシュシュを取り出す。紺地にピンクの花柄。それは確かに、先週、響子が失くしたものだ。わざわざ拾って、汚れないように包んでおいてくれたのだろう。
「ありがとう。」
 両手で小さな包みを受け取って響子は微笑んだ。彼は軽く会釈して「それじゃ」と、改札に向かう。
「待って。」
 制服の後ろ姿に呼びかけると、青年は足を止めてゆっくりと振り返り、不安そうな顔をした。叱られるんじゃないかとか、何かやらかしてしまったんじゃないかとか、そんな感じの、すごく子供じみた表情に、笑いそうになるのを耐える。
「ねえ、キミ、時間ある?」
「え?」
「お腹すいてない? 私はすいてるんだけど。よかったらご馳走するよ。これ、拾ってくれたお礼。」
 シュシュを掲げて笑うと、彼の目が泳いだ。一瞬の思考、唇をわずかに噛んで、それから少し口元を緩める。彼の気配からゆるりと不安が和らいでいく。
「俺、お礼していただくほど、たいしたことはしてないですよ。」
「いいの、私がしたいの。キミに時間があれば。」
「えっと…… じゃあ、少しだけ。……あんまり遅くなると家族が心配するので。」
「そうか。高校生だもんね。」
 高校生か。特に仲良くなるつもりはないけど、せっかく届けてくれたのだ、お礼くらいはしても良いだろう。なんとなく、誰かと話がしたかったところだ。予想外の相手だが、ちょうどいいと思った。
 ちょうど良かった。高校生とか、接点がなさすぎてなんだか面白そうだし。いい暇つぶしくらいにはなりそうだ。

6.年下の男の子

 彼は、松本大河と名乗った。
 18歳。高校3年生で、大学受験だが進学にあまり興味がなく、受かっても受からなくても地元に帰って早く仕事がしたいのだという。
 大河の着ている制服は、県内でもトップクラスの進学校の筈だった。秀才の考えることはわからない。そう思って、響子はそれについて考えるのはやめた。
 テーブルにトレーを置くと向かい合って座る。
「大河くん、本当にそれで足りるの? 遠慮してない?」
 彼のトレーには小さなハンバーガーひとつとセットのポテトとコーラが並んでいた。高校生男子のエネルギーでは、とても足りるとは思えない。それとも響子の知らない間に、高校生男子というのは小食になったりしているのだろうか。
「大丈夫です。帰ったら夕飯あるだろうし。」
「あ。そっか。一人暮らしじゃなければ、それもそうよね。」
「いただきます。」
 そう言って手を合わせて、ハンバーガーの包み紙を開ける大河を、可愛いなと思う。
 響子はさっき受け取ったシュシュで髪を纏めると、自分のトレーからハンバーガーを取り上げ、包み紙を開けた。もっしゃもっしゃと無言で齧り付きながら、失敗したな……と、胸の中で呟く。何よりも両手が開かないし、口元も汚れる。相手が高校生とはいえ、初対面の男性とする食事としては大失敗だ。しかし、これは大河のリクエストでもあった。
 ここで良い? と、カジュアルなイタリアンの店を指差した響子に、彼は遠慮がちに首を振って、このハンバーガーのチェーン店を示した。
 包み紙で口元を隠すようにして、無言でハンバーガーを食べる響子のことを、大河はポテトを口に運びながらぼんやりと見ている。トレーの上のハンバーガーは既に包み紙だけになり、小さく畳まれていた。
「あの、」
「何?」
「鈴木さんは、お仕事は何をされてるんですか?」
 お見合いかな? と、内心で突っ込むが、彼はきっと沈黙に耐えられなかっただけで、それが聞きたい訳ではないだろう。
「オーエル。営業課だけどサポートがメインで、内勤の仕事。」
「ナイキン?」
「……外回りしないってこと。」
 響子は口元を紙で拭くと、顔を上げて大河を見た。
「まず。ひとつ。先に言っておきたいんだけど。」
「はい。」
「私のことは苗字じゃなくて名前で呼んで。響子って。」
「ええっと…、響子さん。で、いいですか?」
 大河は戸惑いながら、小さな声で「響子さん」と繰り返す。
「もう一つ。私に敬語は使わなくていい。」
「えっ。でも……」
「でも?」
「響子さん、歳上ですし。あの……」
「大河くん。もしかして、キミは友達にも敬語を使うタイプなの?」
「……いえ。」
「じゃあ、タメ口で良いでしょ。」
「えっと、ちょっと理解できないんですけど。」
「だから。先生でも先輩でも上司でもない関係って、ただの友達みたいなもんでしょ。」
「えぇ……」
 そうか。普通の高校生は、一回りも歳の離れた人と知り合いになる機会なんて殆どないのか。
「世の中ね、いろんな関係があるの。歳の離れた友人がいても、おかしくないでしょ。」


7.偶然じゃなくても

 響子さんの言葉はもっともだ。
 確かに、歳の離れた友人がいてもおかしくはないとは思う。SNSなんかで知り合った歳上の友人と創作活動やゲームをするなんて奴は、少数だけどクラスにもいる。ただ、そこに自分が関わることになるとは思っていなかっただけだ。それも、響子さんのような、趣味の接点もない、かなり歳の離れた女性が相手だなんて。
 ついさっきまで、眺めるだけで名前も知らなかった彼女は、たった今、俺を指して“友達みたいなもん”と言った。
 彼女は奔放だ。まだ数十分しか話していないけれど、それは確信に近いものがある。きっと、自分の知る大人の中では、かなり自由なタイプの人間だ。
 この1週間、彼女を待ちながら、もしこれがキッカケで仲良くなれたら……あわよくば、付き合えたりしたら……なんてことを、考えなかったわけじゃない。むしろ、そればっかり考えていたけれども。……友達って。そうやって作るものか? 
いや、それを言ったら恋人だってそうなんだけど。
 自問して、それでもまあ、きっとこれはチャンスなんだろうと思う。
 唐突に、チャンスだよ! と、妙なポーズを決めた海都が脳裏をよぎって、思わず笑いが混み上げた。ふいに笑いだした俺を響子さんは不思議そうな顔をして見上げている。
「べつに面白いこと言ってないでしょ。」
「いえ。あの、俺……」
 落ち着こうと、大きく息を吸って吐く。
「響子さんの友達ってことで、いいのかな。」
「駄目な理由ないでしょ。」
 響子さんは笑って「可愛い友達ができちゃった」と呟く。
「可愛いってなんすか。可愛いって。」
「そういうとこ。可愛い。」
「響子さん!」
 流石にからかわれたことに気付いて、声を上げると、響子さんは笑いながら「ごめーん」と謝った。
「あ、じゃあ、連絡先教えてください。メッセージ、します。」
 立ち上がってポケットからスマホを取り出し、連絡先交換用のコードを表示した。テーブルに身を乗り出して、その画面を差し出す。
「それは、やめとこう。」
「え。やめ……? あ……彼氏とか……いるよね……」
 そういえば、訊かれるままに自分の話はしたが、響子さんのことは名前以外ほとんど訊いていなかった。もしかしたら、彼女は既婚者で、今日はたまたま外食の日なのかもしれない。急に不安になって、響子さんを見下ろすと、彼女は真剣な顔をして首を振った。
「全然、全く、いないけど。」
「なんだ……」
 その力強い否定に、膝から力が抜けて椅子に座り込むと、響子さんはふふふと、笑みをこぼした。俺は冷たいテーブルに突っ伏して「じゃあ、なんで?」と、その疑問を投げる。
「どうせまた、電車で会うでしょ。」
「会うだろうけど。」
「その方が、偶然また会えた時に嬉しいじゃない?」
「響子さん、偶然てね、“偶々、自然に起こる”から偶然ていうんですよ。……俺、1週間も待ったのに。」
 その言葉に響子さんはけらけらと笑うと、テーブルに突っ伏したままの俺の頭を撫でた。
 俺、今、完全に子供扱いされてる。
 でも、それはなんだか特別な事のように思えて、少し嬉しくもある。
「じゃあ、今日、会えて嬉しかったでしょ。」
「うん。」
「私も嬉しい。失くしたと思ってたお気に入りのシュシュが返っててきて、おまけに素敵な人を連れてきてくれたんだもん。」
 素敵な人……。
「それ、本気で言ってます?」
「ん?  “可愛い子”の方が良かった?」
 顔を上げると、壁に掛かった時計が見えた。
 21:40……21:41……
「やっべ。帰らなきゃ。」
 デジタルの数字が点滅して切り替わるのに気づいて、慌てて立ち上がると、響子さんは「片付けはいいよ、そのままで。私、やるから」そう言って手を振った。
「ごめん! ありがとう!」
 手を合わせて、店を飛び出す。改札を駆け抜けながら、これ、夢とかじゃないよな……? と、自問する。
 いつもの車両に飛び込んで、息を吐くと、撫でられた髪の中に細い指先の感覚が残っていた。思わず髪を掴んで、そのまま無言でガッツポーズをしてしまった。
 たった1時間。想定外のその時間は、想像した以上に彼女の事を知ることが出来て。まるで、以前から知り合いだったみたいに、自然で。
 思い描いていたよりもずっと、親しくなれた気がした。

8.ラーメン

「あ、大河くん。」
 学校帰り、駅のホームで電車を待っていたら、ふいに名前を呼ばれた。
 広げた単語帳から顔を上げなくても、響子さんがすぐ横に並んで立ち止まるのが視界に入ってくる。
 彼女はこちらを覗き込むと、唇を少し上げた。
「おつかれさま。」
「おつかれさま。」
 単語帳を閉じてポケットにしまうと、俺は大きく伸びをした。
 彼女は「今日はネクタイしてるんだね」と、俺の首元に視線を寄越す。
「うん。今日、寒いし。」
「寒いとネクタイなの?」
「いつもは学校出る前に外してるんだけど。」
「なるほど。……あ、そうだ。大河くんは、ラーメン好き?」
「ラーメン? まあ、多分。人並みには。」
「一人で外食すること、ある?」
 外食……そういえば、一人で店に入ることってないな。あっても、駅前のファーストフードで待ち合わせする時くらい。大体は海都と一緒だし、そもそもそんなに外食をすることがない。
「ないなぁ。響子さんは?」
「私は、気になったらどこでも行っちゃう。一人で。」
「なんかわかる。」
 響子さんなら、一人でどんな店にでも入るだろう。それは簡単に想像出来る。
「この辺に、美味しいラーメン屋さん知らない?」
 ラーメン屋。
 すぐに思い浮かんだのは2店舗。
 駅前で豚骨と言ったら、あの店だ。内装を黒と赤で統一した、有名店がある。
 あっさりした鶏ガラが好きなら、神社の横の小さなお店。食事時の行列には女の人の姿も多い。
 響子さんなら、鶏ガラの方が好きだろうか? …いや、案外、脂と野菜盛りだくさんのやつかも…?
「うーん……響子さんの言うラーメンて、例えば、どんなの?」
「えっ? ……んー、例えば……」
 響子さんは、真剣な顔をして、ラーメンのことを考えはじめた。軽く組んだ腕。顎を触る指先。その姿は、ドラマの探偵みたいだ。
 彼女の好みは、鳥か…豚か…それとも魚介系なのか…?
「あー。そうだ。例えばね、お店の入り口に券売機があるでしょ? あれはちょっと苦手。直接注文するシステムがいい。あと、店員さんが、黒いTシャツ着て腕組んでる看板のやつ。あれも苦手。」
 彼女は真面目な顔で、「ラーメン屋って何で、お店の名前が筆文字で入った黒いTシャツにバンダナなんだろうね」と、こちらを見上げた。
「ねえ、何でだと思う?」
 その眼差しは真剣そのものだ。
 いや、だけどそれ、ラーメンあんまり関係ないでしょ……。
 それが可笑しくて、ついつい笑ってしまう。
「知らないよ。汚れが目立たないからとか?」
「なるほど。」
「そうじゃなくて、響子さんが食べたいラーメンって何ラーメンなの? スープは豚骨とか鶏ガラとか、魚介とか。」
「えっ? ダシの話なの? 味噌とか醤油とかじゃなくて?」
「それ、選べません? 基本のスープがあって、そこに塩とか醤油とか味噌とか。」
「今って、そうなの? 私、あんまりラーメン食べに行くことなくて。」
「じゃあ、何で突然?」
「さっき、会社でね『鈴木さんはラーメンとか食べなさそう』って言われて。」
 確かに。知り合う前の彼女は、ラーメンとか食べなさそうだった。真っ直ぐに窓の外を見る立ち姿から、ラーメンは想像つかない。
「それで、なんか悔しくて。」
「……響子さんは何食べてても響子さんだよ。」
 きっと響子さんは、その誰かのイメージを裏切りたいんだろう。なんとなくそう考えて、そんな彼女を可愛いと思う。
「一緒に、行きます? ラーメン食いに。」
「ううん。行かない。よく考えたら私、そんなにラーメンが食べたいわけじゃない。」
「えぇー。」
 ホームに滑り込んできた電車に並んで乗って、ドアの横に立つ。
 響子さんは、窓の外を眺めながら小さく呟く。
「何食べてても私は私。」
「うん。そうだよ。」
 まるで、何かイタズラをする子供みたいに、顔を見合わせると声を立てずに笑いあった。

9.花の日

 響子にとって、水曜日は花の日だ。
駅ナカの花屋さんでは、水曜日だけのサービスがある。季節の花が1〜2種類、通常よりもずっと手に取りやすい値段で売られている。今週は、コスモス、それと、小さな実のついた枝もの。SNSで見た告知通り、店頭には白・ピンク・赤・オレンジ・黄色と、色とりどりのコスモスが並んでいた。
「お。可愛い。」
 薄く可憐な花びらは、瑞々しくて、思わず声に出して呟く。
 コスモスの枝に手を伸ばすと、その花越しに、大河が歩いてくるのが見えた。紺のブレザーに、グレーのスラックス。よく履き込んだ黒いローファー。多少の形崩れには目を瞑るとしても、そのローファーは丁寧に磨かれているのがわかる。
 彼は真っ直ぐにいつものホームへと向かおうとして、ふと、足を止めて振り返る。
 一瞬、その視線が響子を通り過ぎて、振り返った大河は首を傾げた。歩き出そうとする大河に、響子は花の中から声を掛ける。
「大河くん。」
 聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声。
 この呼び声に大河は気付くのだろうか?
「ねぇ、ここだよ。」
 囁くように小さな声で呼びかける。誰にも聞こえないように、彼が気付きますように……。
 大河は再び立ち止まって、ゆっくりとこちらを振り返った。
彼はまるで幻でも見たみたいに、少し驚いた顔をして、それから小さく笑う。
「響子さん、何やってるんすか。」
「テレパシーごっこ。大河くん、気付くかな? って。」
「いや、今、普通に呼んでたでしょ。」
「うん。呼んだ。コスモス選んでたら、通るのが見えて。」
 やっぱり呼んだんじゃん。呟いて、大河は笑いながら花を眺める。
「花、買うの?」
「うん。部屋に飾るの。」
「ふーん。コスモスってこうやって売ってるんだ。」
「?」
「なんか、学校の花壇に生えてるイメージ。」
「なるほど。何色がいい?」
「え?」
「だから、大河くんはどの色が好き?」
「響子さんの部屋に飾るんでしょ?」
「そう。」
「俺が、選ぶの?」
「そう。色だけ選んでくれればいいよ。」
「……じゃあ、この色かな。」
「うん。」
「俺、そこで待ってるから。あとはゆっくり選んでください。」
 そう言って、大河は花屋の店先が見える柱に背中を預けて、スマートフォンをポケットから取り出す。
 響子は、大河が示した濃いピンクのコスモスを3本と、小さな赤い実のついた枝を1本、大きめの白い実のついた枝を1本、選んで店員に渡す。
 枝分かれしたコスモスは3本でも結構なボリュームになった。自宅用に簡単に包んでもらったその花束を抱えて、大河に駆け寄ると、彼は顔を上げてスマホをポケットに戻した。
 並んでホームへの階段を降りる。
 呼び止めたものの特に話すことも思い浮かばず、隣に立った大河の顔を見上げると、彼はこちらを見て微笑んでいた。
「何?」
「いや、なんでもないです。」
「そう。」
 ふふふ、と笑って買ったばかりの花を眺める。ピンクのコスモスの花言葉は“乙女の純潔”。きっと大河は知らないだろうけど。大河がピンクを選んだのが面白くて、なんだか少し、嬉しかった。

10.繰り返す日々の合間に

「で、結局、例の人には会えたわけ?」
 昼休み。
 椅子を踏み台にした海都が、窓枠に座って弁当を広げながらそう切り出した。
「例の人?」
「ほら、あのシュシュの落とし主。」
 机に広げていたノートを片付けながら、すっとぼけた返事をする。まあ、とぼけたところで、海都の追求は避けられないだろう。案の定、好奇心に満ちた視線と声は、緩むことがなく、俺は居直ることにした。
「ああ、響子さん。会えたよ。」
「えっ!? 既に名前で呼ぶ関係? 早くね?」
「あれから、なんか平日は毎日のように会うんだよ。」
「え、マジか。」
 海都は急に小声になって、踏み台にしていた椅子に座り直した。そのまま、にゅっと顔を近づけてくる。
「で、どこまでヤったの?」
「どこまでって……お前さぁ。」
「いいじゃん、どこまでだよ? おっぱいは? 大きかった?」
「気が早えよ。」
 大河はその顔を押し返しながら、呆れた声をだす。
「まだ、連絡先も交換してねえよ。」
「はぁーーー!?」
「叫ぶな。」
「だって。これだから童貞は。」
 海都を無視して、弁当を広げる。
 叔母さんの作る弁当は簡素だ。ふりかけのご飯、たっぷりの蒸し野菜、肉のおかず。今日は唐揚げ……昨日の夕飯の残り物。それでも、毎日持たせてくれるのを有り難いと思う。
 いただきます、と、大河が手を合わせると、海都も手を合わせた。
「で、どんな人なの、その人。」
「響子さん、な。…っていうか、質問の順番おかしいだろ?」
「だって、大河、毎日会ってるとか言うから。」
「帰りの駅で遭遇するんだよ。」
「待ち伏せ?」
「待ち伏せも、待ち合わせもしてない!」
「で?」
「駅で会って“おつかれさま”って。路線一緒だから途中まで一緒に電車にのる。」
「うん。」
「それだけ。」
「え!?」
「それだけ!」
「マ?」
「昨日は本屋に寄った。駅ナカの。」
「それだけ?」
「それだけ。」
「マ?」
「しつこいよ?」
 弁当から顔を上げようともしない俺のウンザリした口調に、海都は笑って、自分の弁当を掻き込む。俺は箸を置いて、窓の外を眺めた。
 数人の教師が校庭に出て何やら集まって話しているのが見える。
「……俺さ、大人って、もっと大人だと思ってたんだけど。」
「うん。」
「響子さんは、なんか自由な感じがする。」
「子供っぽい?」
「子供っぽくはないかな。」
「いくつなの?」
「多分、30くらい。」
「お、思ったよりも歳上。」
「海都のお姉さんいくつだっけ?」
「26。」
「30代の女性って、想像出来る?」
「ピンと来ねえ。」
「響子さんと話しててもピンと来ない。」
「何を話すの?」
「ラーメン屋のTシャツは何故黒いのか? とか。」
「ピンと来ねえー。」
「漫画は雑誌派だとか。」
「お、何読むの?」
「主に少年誌。週刊の。」
「ピンと来ねぇー!」
「だろ?」
 響子さんは、話題が多い。なんでもないような話ばかりなのだが、それをとても楽しそうに言葉にする。
 でも、それは、思い描いていた大人の女性の会話とは掛け離れていて、彼女の実態は掴めないままだった。
「でも、可愛いんだろ?」
「歳の割に。」
「花柄のシュシュ付けちゃうタイプ。」
「普段は結んでない。」
「そうなの?」
「食事と仕事用だって。」
「へぇ。……あ、前に聞いたことあるんだけど。」
 海都は口の端だけでニヤリと笑う。
 その笑みは嫌な予感しかしない。
「何?」
「シュシュの趣味は下着の趣味だって。」
「は?」
「だから、黒いレースのシュシュは黒いレースのぱんつ、ピンクのサテンはピンクのすべすべしたぱんつ。あの人のシュシュは……」
 紺地にピンクの大きな花柄。指先の滑るような光沢のある、やわらな薄い生地。
「おい、やめろよ!」
「……想像した?」
「……しちゃっただろ。」
「大河、顔、赤い。」
「誰のせいだよ。」
「ダイタイ、オレ、ワルイ。」
「なんでカタコトなんだよ。」
「ゴメン、チョウシ、ノッタ。」
 両手を合わせて頭を下げる海都の後頭部を掴む。
 海都は笑いながら「ごめんて。」と、もう一度呟いた。
「しょーがねぇな。」
 海都を解放すると、髪を整えながら鏡を取り出した。その姿に、しょーがねーなともう一度笑って、残りの弁当を片付ける。その話の真偽を確かめる日はいつか来るのだろうかと、響子さんのことを少しだけ想った。

11.君は誰が為に紅を纏う

「あ、新色出てる。」
 改札からホームに向かう途中、小さなドラッグストアの前で響子は足を止めた。
「ねえ、ちょっとみていい?」
 そう言って、隣を歩く大河を見上げる。
 別に待ち合わせていたわけじゃない。この後に何か予定があるわけでもない。ただ、いつものように、改札前でばったり会って、なんとなく一緒に帰る流れになっただけだ。
「うん。俺、ここで待ってるから。」
 そう言って、近くにあった柱にもたれて、ポケットからスマホを取り出す。溜まったメッセージに既読をつけながら、それぞれに適当なスタンプを送信する。グループでの会話は追わない。一対一のメッセージは、あとでゆっくり返信する事にして、ポケットにスマホを戻す。
 ドラッグストアの入り口。壁に貼られた口紅の広告。ポスターのモデルはカレンという女優で、大河には彼女の良さがイマイチわからないが、クラスの男子の中でも人気があった。
 ポスターの中で微笑む彼女は、花弁みたいな唇をしていた。
 赤というには明るい、ピンクというには濃く深い色。
《kissよりも、深く》
 その文字を、口の中だけで読んで、小さく溜息をつくと響子の口元を思い浮かべる。肌の色に少しだけ赤みの差す艶々と濡れたような唇。あれも、何か塗っているのだろうか……?
 そういえば、クラスの女子達はデートの時は色付きって話をしていた。それなら、響子さんも、デートの時は花弁みたいな色の口紅をつけるのだろうか?
 俺は、仕事じゃない日の響子さんを知らない。休日に会おうと誘っても、多分、はぐらかされるだろう。それどころか、連絡先だって知らないままだというのに。
「おまたせ。」
 袖を引かれて、顔を上げると、いつの間にか響子が立っていた。手には小さな紙袋を提げている。
「何か買ったの?」
「あれ。」
 そういって、響子は大河が眺めていた壁のポスターを指し示した。
「どの色?」
 ポスターの隅に、色違いの口紅の写真がいくつか並んでいる。どれも、花弁みたいな深い色のピンクであることに変わりはない。
「ピンクバーガンディ。」
「……それ、何色なの?」
 歩き出した響子を追いかける。
 大河の歩幅では、すぐに追いついてしまう。並んで、歩くペースをゆっくりに落として響子に合わせる。
 ピンクバーガンディって、それはピンクなのか、ピンクではないのか……。バーガンディってなんだ……?
 そもそもピンクって、たくさんある。
 もしかして、あれに全部、名前があるのか。
「……女の人ってさ、そのピンクなんたらって、全部区別つくの?」
「え?」
 振り返ってこちらを見上げる響子は、不思議そうな顔をした。
「男の子ってさ、ロボットとか、スポーツカーとか……あと、クワガタとか。そういうの色とか形だけでも区別つくでしょ?」
「うん。まあ、大体は。」
「私は、そういうの区別つかないけど。化粧品とか、靴とか、見たらわかるよ。」
 響子の言うことは、なんとなく理解できる。つまり、興味のあるものなら、些細な区別もつくってことだろう。
 響子が口紅を塗る姿を想像してみる。
 ピンクバーガンディがどんな色なのか自分にはわからないが、ポスターのカレンのつけていた深いピンクの口紅は響子によく似合うと思う。

12.弱点

 券売機にICカードを突っ込む。
 定期券の更新ボタンを押す。
 学生、3カ月。
 これが、最後の更新だ。
 乗車区間を確認して、表示された金額を券売機に投入する。
 財布から取り出した数枚の小銭とお札を、ランプの点灯する投入口に差し込む。
 その瞬間だった。
「…!!!!」
 後ろから脇腹を掴まれて、大河は声にならない声を上げた。
 こんなことをするのは、一人しか知らない。
「海都! おまえ、いい加減にしろよ!!」
 怒鳴りながら振り返ると、そこにいたのは響子だった。
「あっ。」
「…………ごめんなさい……。」
「いや、なんか、俺も、ごめん……。」
 響子は真っ直ぐに大河を見上げていた。
 大きく見開いた瞳、怯えるように小さく肩を震わせて。
「私、そんなに、驚くと思わなくて……。」
 唇をぎゅっと噛むように閉じると、彼女はそのまま、下を向いてしまった。
 後ろで券売機が「カードをお取りください」と機械的な声で繰り返す。ピピーと繰り返すブザーに慌てて振り返り、カードと領収書を引き抜くと、雑に財布に入れてポケットにしまう。
「響子さん、ごめん。ちょっとびっくりしすぎた。」
「うん。」
「響子さんだとも思わなくて。」
「うん。……私も、ごめんなさい。大河くん見つけて、ちょっとはしゃぎ過ぎた。」
 俯いて床を見る響子さんの姿に、申し訳ないことをしたな、と、思う。同時に、自分を見つけてちょっとはしゃいだ、という彼女の言葉を嬉しく思った。
 もしかしたら響子さんも俺のことを……ないか。ないだろうな。でも、少しくらいは。
 改札を抜けて、しょんぼりと肩を落として前を歩く響子を眺める。いつもよりも、少し丸い背中。
 彼女は何を思って俺の腰に手を伸ばしたのだろう。
 どんなリアクションを求めていたのだろう。
 そっと、その肩に手を伸ばす。驚かさないように、慎重に。
「響子さん、ごめんなさい。俺、本当に、響子さんだと思ってなくて。」
「うん。わかってる。……カイトくんて、友達?」
「うん。……海都、普段はいいやつなんだけど。ふざけはじめると、わりとしつこくて。今日も何度か腹触られて。」
「それでかぁ。」
「うん。それでつい。……ほんと、ごめん。」
 彼女は顔を上げて俺を見た。
「もういいよ。悪いの私だし。」
 そう言って、少しだけ笑う。
「大河くんてさ、思ってたより大人だよね。」
「えっ? どこが?」
 思わず立ち止まりかけて、慌てて響子を追いかける。
「怒った時の声とか。いつもよりも低くて。あと、お腹も。筋肉ついてて。」
「そう?」
 大河は自分の腹を掴んでみる。カーディガンを着てジャケットを羽織った、シャツのその下、薄い筋肉。これのどこが大人なのか、よくわからないけれど。
 響子さんの手、小さかったな。と、考えて、それよりも自分の不注意で怯えさせてしまった彼女が少しでも笑ってくれてよかったと、そんな風に思う。

13.天使の詩

「冬休みじゃないの?」
「冬休みだけど学校行ってる。図書室開いてるし、先生も誰かは居るし。市立図書館も近いし。」
 響子の問いに、大河は「家にいるより、その方が便利だから」と答えた。
「そういえば、市立図書館って行ったことないな。……ここの図書館には、何があるの?」
「本。」
「いや、それはわかるよ、流石に。」
「あと、雑誌とか、CDとかレコードとか、DVDもある。観賞用のブースも。」
「そういうんじゃなくて。」
 そこまで喋って、響子さんの求めている答えは、図書館の基本機能ではない、全然別の何かだと気づいた。……図書館に、図書館以外の何があるのだろう?
「じゃあ、響子さんは図書館に何を期待してるの?」
「期待?」
「うん。例えば、こんなところだったらいいとか。」
「うーん。私の子供の頃通った図書館には、プラネタリウムがついてた。」
「素敵だね。」
「うん。でも、ちょっと違う。……あぁ。例えば。高ーい天井に丸い照明が並んでいて。吹き抜けになった2階建てで、いくつかの大きな階段がある。」
 壁は本で埋め尽くされていて。それなりに人はいるのに、静かで。吹き抜けを見下ろせるところには、小さな机と椅子が並んでいて……。
 響子が途切れ途切れに呟く彼女の理想の図書館は、行ったこともないのに手に取るように想像出来た。
 静かで、暖かく乾いていて、知識に満ちた場所。
 ふと、どこかで見たことがある……と思う。
 それは、自習中に教師が観ていた古い映画だった。半分モノクロで、半分色褪せたカラーの、薄暗くて静かなストーリー。
天使のダミアンが永遠の時間を捨てて、人間になり、恋をする。
 図書館は天使の溜まり場だ。
 彼女はあの映画を観たのだろうか?
「響子さん、俺、図書館で思い出したんだけど。」
「うん、なに?」
「……人間にはわかるのに、天使にはわからないものって、何だと思う?」
 大河の問い掛けに、響子はこちらを見上げて微笑んだ。
「色と匂い。味。あとは、恋心。」
 きっと、今、彼女は天使のダミアンを思い浮かべた。
「じゃあ、人間になって、最初に与えられるものは?」
「甲冑。」
 響子が思い浮かべたもの、その核心に触れて、大河も微笑む。
 確か、タイトルは……
「ベルリン……」
「天使の詩。……よく知ってるね。あんな古い映画。」
「響子さんだって。多分、産まれる前でしょ?」
「んー。どうかな? 大河くんはまだ、何の存在もしてないね。きっと。」
「そうかも。」

14.メリークリスマス

 クリスマスという浮かれたイベントに電車の遅延と運転見合わせが重なって、駅の中は混雑していた。だから早々に、駅の中のカフェに避難して時間を潰すことにした。
 ざわざわと騒がしいガラスの外とうってかわって、カフェの中は静かだ。囁くように交わされる会話。ところどころで溢れる小さな笑い声。雑誌のページを捲る音。
「お金を出して快適を手に入れるのよ。」
 そう言った響子の言葉に、大河は「響子さんて、時々すごく大人な感じがする。」と、妙なところで感心していた。
「ホームで来ない電車を待ったって、寒いし苛々するだけじゃない。」
「響子さんでも苛々することあるんだ。」
「そりゃ、あるよ。寒いの嫌いだし。」
 暖かく快適な店内で小さなテーブルを挟んで、隣り合うように並ぶ1人掛けのソファにそれぞれ座り、顔を寄せるようにして言葉を交わす。
 ホイップクリームがたっぷりと浮かんだカップには、クリスマスの飾りが添えられていた。
 てっきり、大河も甘いものを注文するのだろうと思っていたら、彼は迷わず「ブレンド、ホットで。」そう言ってマグカップのサイズを指さした。
「コーヒー、ブラックで飲む高校生って、初めて見た。」
「そう? ……変かな? 喫茶店の珈琲、好きなんだけど。」
「変じゃないけど。喫茶店のコーヒーが好きな高校生って、ちょっと変わってる気がする。」
「よく言われる。」
 二人の前にエプロンの店員がやってきて、小さなケーキが載ったプレートを差し出しす。
「こちらはサービスです。メリークリスマス。」
 それぞれの前に小さなフォークを置くと、その店員は隣のテーブルへと同じようにケーキを運んで行った。
「メリークリスマス、だって。なんだかデートしてるみたいだね。」
 響子がそう言って笑うと、大河は照れた顔をマグカップで隠すようにして珈琲を飲んだ。
「そういえば、大河くんはクリスマスっぽいことしないの?」
「クリスマスっぽいこと?」
「ケーキ食べたりとか。パーティーみたいなのとか。」
「今、この状況が、ここ数年で一番クリスマスっぽいです。」
「駅のカフェで動かない電車待ってるのが?」
「デートっぽいって、今さっき、響子さんが言ったんだよ。」
 少し照れたまま、大河は笑った。
 響子はテーブルの真ん中のケーキに視線を落とす。
 言われてみれば、クリスマスに誰かとケーキを食べるなんて、ここ数年していない。
 クリスマスソングの流れるカフェで顔を寄せ、小さなケーキを分け合う。これが止まった電車の再開を待つ時間でなければ、たしかにクリスマスのデートと言ってもよい状況だろう。
「響子さんの、クリスマスっぽいことは?」
「昨日の晩、ビーフシチューを作って、美味しいチーズとパンを買ってきて、ワインを飲んだ。ひとりで。」
「うん。」
「以上。」
「えっ。」
「これが、私のクリスマスの過ごし方。毎年、ビーフシチューとパンとワイン。チキンも、ケーキも特になし。」
「響子さんらしいですね。なんか、すごく響子さんらしい。」
「そう?」
 小さなフォークを手に取って、手付かずのケーキを一口分すくい取る。そっと大河の前に差し出すと、反射的に口を開けて食いついてくる。
「甘い?」
「……あっ!」
 大河は自分の行動に気付いて、声をあげ目を伏せた。その耳が赤く染まる。
「どうしたの?」
「なんでもないっす。」
 わたわたと手を振って、大河は足元を見て「なんでもない」と、繰り返す。
 そんなんで照れちゃうのか。可愛いな、そう思って響子は微笑んだ。
「じゃあ、今のは私からのクリスマスプレゼント。」
 顔を上げた大河は、赤い耳のまま笑った。
「じゃあ、俺も。」
 フォークを取り上げると、小さく切ったケーキを響子の前に差し出してくる。
 真剣な顔をして、真っ直ぐにこちらを見つめる視線。
 目を閉じて口を軽く開けると、少し間があって、遠慮がちに差し込まれるフォークの硬質で冷たい感触。口の中で解ける、軽く柔らかなスポンジとクリーム。
「甘い。」
 唇を舐める響子の言葉に、大河は声をたてて笑った。
 わざわざ目を閉じて顎を上げたのに。上げ膳据え膳のこの状況で、キスも出来ない程に、純情なのか。それとも、思っているよりも、子供なのだろうか。
 照れるくらいなんだから、興味がないわけではないだろう。
「響子さん、甘いもの苦手?」
「そんなことはないけど。」
「眉間にシワ、寄ってる。」
「えっ!? マジで、ヤバいじゃん。」
 響子が慌てて指先でシワを伸ばすように眉間を広げると、大河は笑いながら「メリークリスマス」と呟いた。

15.思い出の再放送

「―― そこで、我に返った秀くんが言うわけ。『違う、キミじゃない』って。」
「響子さん。それ、秀じゃなくて、コウスケなんでしょ。秀が出てるドラマかもしれないけど、役者と登場人物を混同したら失礼って、さっき、響子さん言ってたよ。」
 焼肉屋のテーブル席。
 通された4人掛けのテーブルに、何故か横並びに座って、響子はビールを飲みながら、せっせと肉を焼く。
「え? そうだっけ?」
 大河の言葉に、響子は動きを止めた。
 こちらを覗き込むその目は潤んでいて、耳が赤い。彼女は今、完全に酔っ払っている。
「でもさ、それって酷いと思わない? 期待させといて、突き放すみたいな。」
 広くもないテーブルに並べた椅子の位置は近い。
 響子はさっきから、その身体の半分を大河に預けるようにして座っていた。
 脂で光る唇に気を取られて、響子の言葉は半分も耳に入ってこない。
 きっと、響子さんの耳にも、俺の言葉は半分も届いていないだろう。
 主に、ビールのアルコールのせいで。
「期待?」
「そう。だってさ、やっと手に入るところだったのに。」
「そのドラマ、不倫の話ですよね? 駄目でしょ、そういうのは。」
「駄目だから、燃えるんでしょ。小説も、ドラマも、現実じゃないんだから。多少過激な方がいいのよ。」
 響子はずっと、ドラマの話をしていた。
 若い頃に好きなアイドルが目当てで観た映画が同じキャストでドラマ化されて、毎週楽しみだった事。それは、ヒロインの叶わぬ恋を描いた作品で、今、12年振りに深夜に再放送されているという事。大人になって観たら、とんでもなくドロドロした不倫の話で、それでも、目当ての彼の若い頃はやっぱり魅力的だった事。
 ビールを片手に、かつて好きだったアイドルへの愛を語る響子に、大河は複雑な気持ちになった。
 小さな木の札に見慣れない名前が書かれて並んでいる。その札が載せられた高価そうな肉を、響子は無造作に網に乗せる。
程よく焼きあがった肉を、大河の皿に取り分けてレモンやらタレやらを差し出す。
 提供される肉はどれもトロけるほど美味く、けれども響子の無造作な手つきで肉を焼くペースに圧倒され、大河は自分が一体何を食べているのか理解するのを諦めて、響子の話を聞いていた。
―― 駄目だから、燃えるんでしょ ――
 響子の言葉を飲み込んで、取り分けられた肉を白飯と一緒に口に詰め込む。
 どうしてこうなったのだろう……。
 帰りの電車で一緒になった響子さんに、一緒にメシ行きませんか? と、誘ったのは自分だ。
 今夜は遅くなるから夕飯は外で食べてこいと叔父に言われたのを思い出し、駄目もとで誘ったのだが、あっさりOKが出た。
 それなら行きたい店があるの。お金は私が出すから付き合ってくれない?
 そう言って彼女は、いつもよりもひとつ早い駅で電車を降りて、この店へと大河を連れてきたのだ。

16.ウーロン茶を君に

 数杯目のビールのジョッキをからにして、響子が手を挙げた。そのままこちらを見上げて、「ご飯、おかわりいる?」と訊いてくる。 
「いらないです。」
 即座に答えて振り返ると、店員が立っていた。
 響子がビール、と口を開きかけたので、慌てて「ウーロン茶! 2つください。」と、でかい声で注文する。
 もう、これ以上飲ませるわけにはいかない。
 酔っ払ってタコのようにぐにゃぐにゃになって帰ってくる叔父を思い出して、あれは、何をどのくらいの量を飲むとああなるのだろう……と思う。
 未成年で酒を知らない大河にとって、酔った大人は未知の生き物だ。響子が未知の生き物のようになるのは想像したくなかった。
「ウーロン茶2つで。」
 店員が復唱して立ち去るのを見送って、響子に視線を戻す。彼女はこちらを見上げて不満気な顔をしていた。
 狭い席に並んで座っているせいで、普段よりもずっと顔が近い。上目使いの潤んだ瞳に、柔らかく濡れた唇。シュシュでまとめた長い髪。耳の先がほんのりと紅く染まっている。細い首に絡む華奢なネックレス、胸元まで深く開いた襟の白いブラウス。中に着けた黒いインナー。近くなければわからない響子の甘く柔らかな香り。
 大河は自分の喉が鳴るのに気づいて、慌てて視線を逸らす。
「なーんで、ウーロン茶なのよ。」
「響子さん、飲み過ぎ。」
「そんな言うほど飲んでないわよ。」
「それ、何杯目?」
「まだ3杯。大丈夫よ。明日、休みだし。」
「そういう問題じゃないです。」
「つまんないのー。」
「……それは、俺がお酒も飲めない子供だから?」
「ちがうよー。」
 彼女の言葉に、きっと深い意味はない。楽しい遊びを取り上げられた子供のように、ただ口をついて出た言葉が、それだっただけなのだろう。
 ざわざわとした店内の喧騒のなかで、このテーブルにだけ静寂が訪れたようなそんな瞬間。
「はい、ウーロン茶2つ! お待ちどうさまです!」
 威勢の良い声と共に二人の間に大きなグラスが置かれる。
空いたジョッキと皿を素早く片付けて店員はすぐにカウンターへと消えていく。
 響子はグラスを手にすると、一口飲んでテーブルに戻した。
「大河くんさ、もし、キミが高校生じゃなかったら。私とキミは出会ってたと思う?」
「どうでしょう? ……俺は、出会いたいけど。」
「じゃあ、出会ってたとして。私達がこうして、ここで肉を焼くことがあると思う?」
「あったとして。俺は、響子さんの為にウーロン茶を頼むでしょうね。」
 彼女が何を言いたいのか全くわからないけれど。
 いつも響子はこんな風に、誰かと酒を飲みに行くのだろうか? 酔って、誰か、俺以外の男にも寄りかかって笑うのだろうか……? それは嫌だな、そう思って溜息をつく。
 俺以外の男の前で酒を飲むのはやめてくれ、と、言いたくなった。そんな立場でもないけど。
 響子の細い指が小皿に取り分けた肉にギュッとレモンを絞って、美味そうに頬張る。その横顔は機嫌を損ねた風でもなく、楽しそうだ。
 皿に取り残された飾りみたいな人参を生のままパリパリと齧っていると、響子がおもむろに振り返って、真面目な顔をした。
「私、きっと、大河くんが高校生じゃなくても、ここで一緒に肉を焼いていると思う。」
「え。なんで?」
「だって、そう思ってた方が楽しいじゃない?人生が。」
「そういうもんです?」
「うん。たとえ、ウーロン茶を頼むような男だったとしても。一緒にいたら、きっと、楽しいと思う。」
「響子さん、俺のことバカにしてるでしょ。」
「ううん。ほんとに。きっと楽しいと思うよ。だって、今、私、すっごく楽しいもん。」
 楽しいもん。そう言って、彼女は俺の顔を覗き込むようにして笑った。それは、誇張ではなく心からの言葉なのだろう。
 グラスに残ったウーロン茶を飲み干して、「出ようか、お腹いっぱいだし。」そう言って響子は立ち上がる。
 慌てて立ち上がって、向かいの席に置いたコートを響子に着せると、自分も上着を羽織る。

17.月冴ゆる焼肉の夜

 会計を済ませて外に出ると、冷たい風が心地良かった。
「一駅だけ歩こうか。」
 そう言って歩き出した響子の足取りは、いつもどおりで。だけど、その声は、いつもよりもずっとはしゃいでいて。俺が大人だったら、この人はもっとちゃんと向き合ってくれるのだろうか? と、考える。
 いや、違うな。今でも、ちゃんと向き合ってくれている。まるで大人の友達と過ごすように。そうでなかったらきっと、高校生相手に、焼肉屋で自分だけ酒を飲むような夕飯を選ばないだろう。
 駅前の商店街の外れ。
 向かいの塾からたくさんの学生が出てくる。
「そういえばさ、大河くんは、塾とか行かないの?」
「行かない。俺、居候の身だし。勉強は自分ですればいいし。みんなで揃って勉強するみたいなのは学校だけでいいかな。」
「そっか。いいね。そういうの。」
「そう?」
「自分ですればいい、って言うのがいい。出来ても、出来なくても、全部、自己責任。いい。」
 響子の言い方は、さっぱりしていて気持ちがいい。
 彼女は周りの大人たちと少し違う。
 俺の言葉をまっすぐに聞いてくれて、まっすぐに自分の意見を返してくれる。それは、世間体とか社会人だからとか学生だからとか関係なく対等な感じがする。
 じゃあ、相手にされていないのは俺が高校生だからじゃないのかな……響子の気持ちは、よくわからない。
 ただ、一緒にいるのは楽しくて、その横顔は愛しくて。隣にいるのに、その距離はこれ以上近くなることがない。
 触れることが出来る距離でも、手を伸ばすことは、きっと許されない。
「全部、自己責任。」
 大河は響子の言葉を繰り返すと、歩きながら空を見上げた。
 晴れた空に月が浮かんでいる。そこだけ穴のあいたカーテンのように、黒い空から差し込む青く丸い月の光。
「勉強したいことがあるから進学するはずなのに。進学が目的でする勉強はつまんないよね。」
 そう言って、響子も空を見上げた。
「あ。お月さま、丸い!」
 嬉しそうな声を上げて立ち止まって、それから小さな声で「綺麗ね」と呟いて。
「……もし、私が今、高校生だったら。大河くんとこうして一緒に過ごすことはないだろうな。」
 寂しそうなその声に振り返ると、響子はまだ月を見上げていた。
「じゃあ、響子さんが大人で良かった。」
 大河はそう言って笑う。
 高校生の響子さんはきっと可愛かっただろう。同い年の女子。だけど、接点は無いだろうと思う。もしかして、その頃の響子さんはやりたいこととは別の、ただ進学をする為だけの勉強をしていたのだろうか?
 彼女は、いつからこんな風に笑うようになったのだろう。どんな出来事が彼女に自由を自覚させたのだろう。
 響子は楽しいことをたくさん抱えて、人生は自由だと教えてくれる。
 この人と出会えて良かった。
 二人の間のほんの少しの距離、駆け寄ると、響子は大河の手を引いて歩きだす。繋がれた手に戸惑いながら、大河はその指を絡めるように握りなおした。
 あとは、ただ無言で。いつも響子が降りる駅の改札まで、ずっと手を繋いで歩いていた。
 改札を抜ける大河に、響子は小さく手を振って微笑む。
 手を振り返すと互いに背を向けて歩き出す。
 アナウンスが聞こえて、大河はホームへの階段を駆け下りた。手のひらに響子の指先の感触が残る。温かく細い指。
 電車の2両目、前のドアに滑りこんで細い壁に肩を預ける。
目を閉じると瞼の裏で、月を見上げる響子の横顔が静かに笑っていた。

18.初詣

 いつもは人の気配のほとんどない神社には人が溢れかえっていた。その混雑の中、大河は、人波に流されそうになる海都の手を引いて敷地の外を目指す。
 お詣りは済んだし、御守りも買った。それから、海都に付き合って、甘酒を飲んで、おみくじまで引いた。
 おみくじの結果は、そこそこだった。
 願事、時くれば叶う、ひとの助けあり感謝せよ。待人、来るが去る。学業、困難なし安心して勉学せよ。恋愛、答がでるまでには時間がかかるもの、互いの愛を信じよ。
 気休め程度に目を通して、紐に結ぶ。
 初詣のフルコースみたいだ。
 思いついたそれは、なんだか響子さんが言いそうな言葉だな、と思う。
「これから、どうする?」
「んー。人多いし、帰るか。」
「叔父さん達は?」
「会社の人の家にお邪魔するって。そういや、海都は帰らなくていいの?」
「いいの。親父と姉貴が喧嘩しててさ。叔父さん達も好きなだけ居ていいって言ってたし。」
「また、俺の知らないところで勝手に話進めて。」
 呆れて笑う。
 叔父さんにとっては、海都は赤の他人だ。
 甥の友人。だけど、きっと叔父も叔母も彼を放っておけないのだろう。
 大河が海都を放っておけないように。
「じゃ、好きなだけどうぞ。」
 そういって、駅に向かって歩き出すと、向かいから見慣れた顔が近づいてくるのが見えた。
「あ、大河くん!」
 彼女もまたこちらに気付いて、駆け寄ってくる。
 花柄の長いスカートに、黒い革のライダースジャケット。ふわふわした白いストール。足元は黒いショートブーツ。
「あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
「あけましておめでとうございます。こちらこそ宜しくおねがいします。」
 真似して頭を下げると、響子はこちらを見上げて笑った。いつもよりも少しだけ濃いアイライン、ツヤツヤと濡れた輝きの深いピンクに彩られた唇。
 この色は確か、ピンクバーガンディ。
「大河くん、私服だ。珍し。」
「響子さんだって。私服、初めて見たよ。」
 その服もメイクも仕事着よりもずっと響子に馴染んでいて、とても可愛いと思う。休みの日に私服で会えるなんて、新年早々ツイてる。
 微笑むと、隣から手を引かれて海都の存在を思い出した。人混みからはぐれないように、手を繋いでいたことも一緒に思い出す。慌てて手を離すと、海都はその手を響子に差し出して笑顔を見せた。
「はじめまして、響子さん。大河がいつもお世話になっています。」
 保護者かよ。
「はじめまして。もしかして、カイトくん?」
「そうです。武田海都です。」
「やっぱり! イメージ通りだわ。よろしく、カイトくん。」
 響子は差し出された海都の手を両手でとって微笑む。その横顔はいつもの微笑みとは違って、人懐っこい笑みの裏側に少しだけ警戒心が見えた。
「二人は、もうお詣り済んだ?」
「うん。御守りも買ったし、甘酒いただいて、おみくじも引いた。」
「初詣フルコースじゃん!」
 ほら、やっぱり。思い通りの返答に大河は嬉しくなる。
「響子さんは?」
「これからお詣りして、その後、食事会。」
「食事会?」
「会社の。」
「こんな時まで仕事? 大変だね。」
「仕事関係なくて。仲良いのよ、うちの会社。」
 そういえば叔父達は毎年、どこかでベロベロになるまで呑んで帰ってくる。酔った大人は未知の生き物だ。響子さんの会社の食事会も、お酒を飲むのだろうか?
「お酒、飲み過ぎないようにね。」
「ちょっとー。」
 不満気な声を上げる響子に、大河は苦笑した。
 本当は飲むなって言いたいけど、それは流石に言えない。俺、彼氏でもないし。
「だって、心配だし。」
「もっと他に心配することあるでしょ。」
「えっと……あ、そうだ。神社の中、人すごいんで、潰されないように気をつけてくださいね。」
 その言葉に響子は、ふふふと笑ってこちらを見上げた。
「それなの? まあ、いいけど。ありがとう。気をつけるね。」
 バイバイ、またね。歩き出した響子の背中に手を振り返して、海都と並んで歩きだす。
「大河、響子さんと付き合わないの? なかなか綺麗だし、いい感じじゃん。」
「は?」
「好きなんだろ?」
「好きだけど。……全く相手にされてねぇよ。」
「何言ってんだよ。響子さんだって、お前のこと好きだろ。」
「まさか。」
 響子さんが俺を? まさか。海都は、何を思ってそんな判断をしたのだろう?
「もしかして、お前、鈍い?」
「いや、わかんないけど。でも、脈、ないよ。連絡先も教えてくれないし。」
「えっ?! まだ訊けてなかったのかよ。」
 海都は呆れて「純情かよ」と呟く。
「そりゃ、付き合えたらいいとは思うけど。」
「けど?」
「卒業したら、遠距離だよ?」
「あー。まあ、お前はな。……でも、告るだろ?」
「どうかな……。歳の差がどうにかなるわけでもないし。ガキなんて相手にしないだろ。」
 いくら対等に接してくれていても、彼女から見たら俺たちは子供だから。偶然任せだけど、今も充分に幸せだ。それでも卒業するまでには、せめて連絡先くらいは聞き出したい。それはきっと受験よりもずっと難しいと思う。
 だって、相手はあの響子さんだから。

19.願い

 駅から神社への道は初詣の客で賑わっていた。
 なるべく人通りの少ない道を選んで、近づいてきた大きな鳥居を見上げる。視線を前に戻すと、小柄な男の子と手を繋いでいる大河が向こうからやって来るのが見えた。
「あ、大河くん!」
 一緒に居るのは、友達だろうか?歳は大河と同じくらいで、ふざける彼を大河は引っ張るようにして歩く。
 ああ、きっと、彼が、先日言っていた“カイトくん”だ。なんとなくそう思って、微笑ましい気持ちになった。
「あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
「あけましておめでとうございます。こちらこそ宜しくおねがいします。」
 神妙な顔をしてお辞儀をした大河は、いつもの制服姿と違ってカジュアルな服装をしていた。
 シンプルなパーカーにジーンズ。流行りのスニーカー。
「大河くん、私服だ。珍し。」
「響子さんだって。私服、初めて見たよ。」
 何か言いたげな顔の大河の手を、隣に立った友人が引っ張る。慌てて大河がその手を離すと、彼はこちらに手を差し出して握手を求めてきた。
「はじめまして、響子さん。大河がいつもお世話になっています。」
「はじめまして。もしかして、カイトくん?」
「そうです。武田海都です。」
「やっぱり! イメージ通りだわ。よろしく、カイトくん。」
 響子はその手を両手でとって微笑んで見せる。大河と違って、女の子慣れしていそうだ。ちょっとチャラいな。遊んでる系かな? 大河と会えたのは嬉しいが、彼が居るならあまりゆっくり立ち話はは出来ない。
「二人は、もうお詣り済んだ?」
 お詣りがまだなら一緒に回りたいが、この様子なら、きっと彼らはもう帰るところだろう。
「うん。御守りも買ったし、甘酒いただいて、おみくじも引いた。」
 ほら、やりたいこと、全部やってる。
「初詣フルコースじゃん!」
 響子がそう言うと、大河は随分と嬉しそうに笑った。
「響子さんは?」
「これからお詣りして、その後、食事会。」
「食事会?」
「会社の。」
「こんな時まで仕事? 大変だね。」
 大河は心配そうな顔をしてこちらに視線を向ける。
「仕事関係なくて。仲良いのよ、うちの会社。」
「お酒、飲み過ぎないようにね。」
「ちょっとー。」
「だって、心配だし。」
 食事会は毎年の恒例行事だ。仲の良い皆で料理を持ち寄って、響子の部屋ですることになっている。大河にそれを話すつもりはないが、当然お酒もたくさん用意していた。
「もっと他に心配することあるでしょ。」
「えっと……あ、そうだ。神社の中、人すごいんで、潰されないように気をつけてくださいね。」
 その言葉に響子は、ふふふと笑って大河を見上げた。
素直な優しさは、とても大河らしい。
「それなの? まあ、いいけど。ありがとう。気をつけるね。」
 バイバイ、またね。
 手を振って大きな鳥居をくぐる。
 私もフルコース、しちゃおうかな、一人で。待ち合わせの前にこの神社へ来たのは正解だった。大河に会いたいと思ったのは事実だ。まさか本当に会えるとは思っていなかったけど。
 新年だからと自分に言い訳をして、いつもよりも明るい色の流行りのリップもつけてみた。発売日に買ったけど、結局つけずに置きっ放しにしていたピンクバーガンディの綺麗な色のリップ。
 大河はこのリップに気付いただろうか……?
 きっと、気づかないだろうな、と思い直して参道の砂利を踏みしめる。

 今年も一年が、素敵な年になりますように。
 大切な友人達が、幸福でありますように。
 いつでも快く愉しく過ごせますように。
 少しでもあの子と一緒に過ごせますように。

20.スキ・キライ

「いくら響子さんの言う事でも、それは譲れないです。」
 珍しく大河は、不機嫌を露わにしてそう言った。
 そのまま、響子の方に視線を向けることもなく、じっと向かいのホームを見つめる。
 取り付く島もなし。
 まさに、こんな時の為の言葉だろう、と思う。
 きっかけは、響子の放った一言だった。
「伊達巻って、なんで御節に入ってるんだろうね?」
 御節料理に入っている、あの、伊達巻。
 響子はアレが苦手だった。卵焼きは、温かい出汁巻き以外は甘いものが好みだ。勿論、お弁当の卵焼きも甘くするし、寿司屋で食べる厚焼き玉子も大好きだ。けれど、あの伊達巻の甘さだけは、受け付けないと思う。
 一方の大河は、御節料理の中では伊達巻が一番好きだと言う。なのに、卵焼きは甘くないものが好みだと。冷めたお弁当でもそれは同じで、甘い卵焼きは受け付けないと、彼は言った。
「だって、伊達巻と卵焼きって、全然違う食べ物じゃないですか……。」
「そう? 甘ーくした卵焼きと伊達巻って、殆ど同じじゃない?」
「殆ど同じなら食べられるでしょ。伊達巻と卵焼きは違います。……響子さんは、たい焼きと大判焼きが同じ食べ物だと思うんですか?」
「うん。甘くした小麦粉の生地に、餡子。形が違うだけで、殆ど一緒だと思う。」
「じゃあ、広島のお好み焼きと大阪のお好み焼きは?」
「どっちも一緒でしょ。粉とキャベツと玉子とソース。」
 響子の発言に、大河は頭を抱える。
「それ、怒られますよ。関西人と広島の人、両方に怒られますよ。」
「私は、今、なんだかわからないけど大河くんに怒られてる。知らない関西人でも広島の人にでもなく。」
 一体、何が大河のカンに触ってしまったのかわからないけれど。それらは似て非なるもので、そこには大きな溝があると、きっと大河は言いたいのだろう。
「とにかく、甘い卵焼きと伊達巻は違う食べ物です。俺は、甘い卵焼きは認めませんし、御節料理に伊達巻は必須です。いくら響子さんの言う事でも、それは譲れないです。」
 そう言ったっきりで黙ったまま、じっとホームを見つめる大河の横顔を眺める。
 覚えておこう、そう思って目を閉じる。いつか、何かの弾みで大河に弁当を作る事になった時には、甘い卵焼きは入れないようにしよう。そんな日が来るとは思えないけれど。
 電車に乗り込んでも、大河は黙ったままだった。
黙ったまま、響子の隣に並んで、吊り広告を眺めている。
「あ。そうだ。」
 響子は、吊革を掴む大河の袖を引っ張った。
 流石に無視はしないようで、彼は不機嫌な顔のままこちらを見下ろす。
「何?」
「あのね、思ったんだけど。一緒に御節料理を食べることがあったら、私の分も伊達巻食べてよ。これから、お弁当の甘い卵焼きは私が引き受けるから。」
 名案でしょ? そう言って響子は窓の外に視線を移す。
一緒にお弁当を食べることも、一緒に御節料理を食べることも、きっとない。それでも、それは互いに気分良く過ごす為には良い案ではないかと思う。
 そんなことで大河の機嫌が直るとも思えないけど。
「うん……。」
 窓の外を見る響子の後頭部に、大河の声が落ちる。
「そっか。得意な方をなんとかすればいいんだ。」
 呟くように。こぼしたその言葉は酷く寂しそうだった。
 相手の苦手にばかり目が行って、自分の思い通りにしようなんて、そんなの無理な話だ。一人で克服出来ない苦手は、誰かに助けてもらえばいい。相手の為に自分が出来ることだって、きっとたくさんある。
「そうだよ。お互いに得意なことをして、苦手はカバーし合えばいいんだよ。人それぞれなんだから。食文化も。色々だよ。」
「うん。」
「ごめんね。大河くんの好きなもの、私が苦手で。」
「いいよ。響子さんが嫌いなものは、俺が二人分食べるから。」
 響子は振り返らずに窓に映る大河の顔をそっと見る。大河はもう、不機嫌な顔をしていなかった。少し微笑んだ横顔。
 響子は、その視線の先に映るのが自分だと気付くこともなく、ただ窓に映る横顔を駅に着くまで眺めていた。

21.待ち合わせ

 ホームの隅で通話をしている響子を、ベンチに座って眺める。彼女は大河に気付いてこちらに軽く手を挙げてみせた。
 手を振るのではなく、指先をパタパタと小さく動かす仕草。その独特の動きは、なんだか秘密の合図のようで、大河は嬉しくなる。あ、あれ、今度から真似しよ。そう思って、同じ仕草を返してみる。
 誰かと話しながら、大河の動きに響子は笑った。
 彼女は視線はこちらに向けたまま、通話を終了して鞄にスマホをしまう。ベンチまで真っ直ぐに歩み寄ってくると、迷うことなく大河の横に座った。
「おつかれさま。」
「おつかれさま。……今の電話、仕事?」
「んーん。友達。」
 ―― 友達。
 響子は普段、外で鞄からスマホを取り出すことが少ない。電車の運行情報をチェックするとか、よっぽど着信がうるさい時等は表示を確認するが、それ以上に使っているところを殆ど見ない。
 響子が外で通話に出るような友達とはどんな人なのだろう。
そう考えて、ふと、この流れなら自然に連絡先が訊けるのではないか? と、思う。
「俺にも教えてよ、連絡先。」
「え。やだよ。必要ないでしょ。」
 想像以上にキッパリと一蹴されて、大河は戸惑う。
 連絡先を交換するのって、当たり前だと思っていたのだが、もしかしたら大人の世界ではそうではないのかもしれない。
それでも、諦めがつかなくて、食い下がる。
「……えっと、ほら……待ち合わせとか、さ。」
「待ち合わせるなら、尚更、連絡先必要ないでしょ。」
「えっ。」
 予想外の言葉に、思わず大河は響子を見下ろした。
 こちらを斜めに見上げる瞳と口角の上がった唇。微笑んで、彼女は口を開く。
「小さいころは、携帯なんて無かったし、電話は全部固定電話だったし。待ち合わせはあらかじめ時間と場所を決めて、そこに行くだけだった。」
「うん。……それって、直前に都合悪くなったらどうするの?」
「家に電話してみる。それか、駅とかの待ち合わせスポットには誰でも書き込み出来る掲示板があって、そこに伝言を残しておくの。“待ち切れません、帰ります。pm5響子”みたいに。遅刻する人は大体振られる。だから、みんなちゃんと予定を立てて行動する。」
 なるほど、あらかじめ約束しておいて、万が一の時には掲示板で事後報告の連絡を取る。通信機器を個人所有することの無かった時代、それはとても合理的な気がした。
「その掲示板、今もあるのかな……?」
「無いんじゃないかな。」
「残念。あったら、俺、響子さんに伝言残そうと思ったのに。」
「何て?」
「ひみつ。」
“中のカフェで2時間だけ待ってます。pm5大河”
 そう書いたら、彼女はきっと、帰り道に時計を見てカフェを覗き込むのだ。俺を見つけて、パタパタと指先を動かす仕草をしてみせるだろう。
 待ち合わせて彼女に会えるのは、なんとなく特別っぽい気がする。珈琲を飲みながら本を読み、2時間だけ彼女を待つ。それは約束じゃないから来ても来なくても構わない。
 想像して大河が微笑むと、響子はそれを見上げて不思議な顔をした。

22.足踏み

 ホームに並んで立って、響子の顔をじっと見た後で、大河は少し不満そうな声を上げた。
「……口紅、変えたんじゃなかったの?」
 なんだ、気づいてたんじゃん。
 そう思って、響子は気がついた。もしかしたら、大河は、思った以上に自分のことを見ているのかもしれない。言葉にしないだけで。
「うん。でも、こっちの方が落ち着くし。」
 動揺を悟られぬように、冷静を装って答える。その言葉に、大河は意外そうな顔をした。
「似合ってたのに。」
「そう? あの色、仕事をするにはちょっと派手じゃない?」
「そうかな? わからないけど。でも、深いピンク色、華やかで響子さんに凄く似合ってたからさ。」
 大河の耳が赤いのは、きっと寒さのせいだけじゃない。
目を逸らして、すぐに線路を眺める。落ち着かない大河の視線。似合っていたと言われて、思わず笑みがこぼれる。
「大河くんって、そういうこと言うよね。すぐ照れちゃう癖に。」
「きっと響子さんのせいだね。」
「どういうこと?」
「だって響子さん、なんでも褒めてくれるでしょ。そういうの嬉しいし。だから、今年から俺もそうしようと思って。」
「それ、やめた方がいいよ。」
「えっ、なんで?」
 大河は学校や他の場所でも、仲の良い女の子のことをそんな風に褒めるのだろうか……?
 漠然と、それはやだな、と思う。
「ライバルが増えるでしょ。」
「なんの……?」
「なんでも。」
 鈍いにも程があるな、そう思って、でも、そうなるように大河を遠ざけてるのは自分だと、思い直す。
「響子さん、なんで、そんなに機嫌悪いの? 俺、何か気に触ること言った?」
「別に。ただ、むやみに褒めるのはなんかチャラいな、って思って。」
「じゃあ、やめます。褒めるのは響子さんのことだけにします。」
「えっ? 待って、どういうこと?」
「だって、響子さんは俺のこと褒めてくれるし。今更、俺がチャラいとか誤解だってしないし。」
 そういう理由なの……?
 本当に鈍いだけなのか、本当は興味がないのか、わからない。それでも、はっきりとその口から答えを訊くのは怖くて、今のこの関係が緩くてちょうどいいと思ってしまう。
 答えなんてなければ、正解も間違いも存在しないのだから。
問題に背を向けて、逃げ回って。それは悪い癖だと自覚しながら、それでも笑って過ごすのだ。ひたすら同じ場所で、足踏みをするように。そうすれば、この関係はこれ以上前に進むことはない。
 ほら、大丈夫。響子はその場で、実際に足踏みをしてみる。
「ん? どうしたの?」
 大河は不思議なものを見るような顔で、響子を振り返った。
「足踏みしてる。」
「トイレなら、待ってるよ。別に次の電車じゃなくてもいいし。」
「違う。そういうんじゃない。ただ……寒いだけ。」
 意味なんてない。そう言ってもきっと納得しないだろう。
響子が「寒い」と付け加えて笑うと、その動きに合わせて、大河は片足だけでタンタンとリズムを刻み始めた。

23.持つべきものは

「うっわぁ。外、さっむー!!」
 コートのポケットに手を突っ込んでマフラーをぐるぐる巻きにした海都が、店を出た途端に叫ぶようにして笑った。
 神社の横の小さなラーメン店。商店街を外れたこの場所は、この店を除いて人の気配が少ない。
「思ったよりも美味かったな。いつも味噌を頼むけど、塩いいな。鶏ガラに塩って、もっとあっさりしてるのかと思ってた。」
「うん。意外にもポタージュ系だった。」
 駅に向かって二人で歩く。最短ルートで行くと、商店街の裏の飲み屋街を通り抜けることになる。酔った大人達は賑やかだ。大河は、ビールのジョッキを手に肉を焼く響子を思い出す。隙だらけで、ご機嫌な横顔。
「あ、大河。あれ、大河んとこの叔父さんじゃない?」
 海都は「ほら」と、こちらを振り返る。
 海都に腕を掴まれて視線を上げると、確かにそこには叔父の姿があった。そして、その横には、女の人が立っていた。
 叔父の腕を引く、親しげな笑顔。
 見慣れた横顔に、大河は思わず叫びそうになって、慌てて近くの大きな看板の陰に海都を引きずり込む。
「響子さん、なんで……」
 鼓動が早くなって、耳の奥がザワザワとうるさい。さっき食べた鶏塩ラーメンが、締め付けられた胃の中で暴れている。冷たい汗が薄い手袋を濡らした。
「え、あれ、一緒にいたの響子さんなの?」
 海都は看板から顔をだす。
「やめろよ。気付かれるだろ。」
「大丈夫、今、店に入った。そこの焼き鳥屋。」
 その店は間口が狭く、外から客席が見えることはない。きっと、中からも外は見えないだろう。
「そうか。じゃ、帰ろう。」
 何故だか腹が立って、泣きたい気分だ。
 ふらふらと歩き出す大河を、海都は素早く捕まえて向きを変えた。
「駅こっち! 大河、お前、大丈夫?」
――駄目だから、燃えるんでしょ――
 あの時、ドラマの中の不倫について響子はそんな風に言っていた。
 彼女は酔っ払って隙だらけでご機嫌な横顔で、叔父にも寄り掛かったりするのだろうか……。いつか観たドラマのように、乱れた姿で絡み合い、叔父の肩ごしに微笑む響子の口元。強い嫌悪と怒りと羨望。想像した事の罪悪感。感情がごちゃまぜになって苦しい。
 胸の中心がねじれるような感覚に、これはきっと嫉妬だと気付く。衝動的にこみ上げるものに耐えきれず、その場にしゃがみ込んだ。
「海都。俺、吐きそ……」
「わぁぁああ!! 待って! ちょっと待って!!」
 海都は慌てて鞄に手を突っ込むと、ビニール袋を取り出して大河の前へ差し出した。
 友人に背中をさすられて、胃の中身と一緒に、涙を溢す。
「大丈夫か。お前、ちょっと考え過ぎだろ。」
「……俺も、そう、思う……。」
 だって、叔父さんだし。相手は響子さんだし。うっかり想像してしまったが、あの愛妻家の叔父が不倫とか考えられない。
だけど、それでなかったら、響子の親し気な笑顔は一体何だったのだ。
 そもそも、響子と叔父はどういう知り合いなのだろう。
「……俺、なんで隠れたんだろう。」
 咄嗟に隠れてしまったことを後悔する。
 その場で話しかけて、二人の関係を正面から訊いてみればよかった。叔父はともかく、響子ならきっと本当のことを答えてくれるだろう。
 響子のことも、叔父のことも疑いたくない。
「そもそも、二人だった? 他に連れは?」
「わかんない。一瞬だったし。」
「それ! それ、本当に響子さんだったの?」
「俺が、見間違えると思う?」
「思わない。」
 海都は溜め息をついた。
 側にあった自動販売機で水を買うと、大河に差し出す。
「大河。今日、お前んち、泊まっていい?」
「叔母さんに訊いて。」
「おう。」
 受け取った水を一口、胃に流し込む。口を閉じたビニールをゴミ箱に突っ込んで、タオルで顔を拭く。冷たい水を飲みながら、また海都に救われてるな、と思う。

24.裏誕生日会

「あ、来た来た! 遅いよ、二人とも。」
「岩井くん、ごめん! 仕事が押しちゃって。」
 響子は大袈裟に手を振る同期の岩井に、手を合わせる仕草をしてみせる。後ろから支社長のが「そんなに待ってないだろ?」と笑いながら顔を出した。
「ビール3つ」
 馴染みの焼き鳥屋のカウンター席の端に通されて3人で並ぶ。迷わず端の椅子に座ろうとした岩井を、ハンガーに上着を掛けていた響子が振り返った。
「あ、私、端がいい。」
「え、鈴木さんが真ん中じゃないの?」
「何で?」
「いや、だって、この並びだと、ムサい・ムサい・うるさい、になるだろ。」
 岩井は、支社長・自分・響子の順番に指をさす。
「ムサい・うるさい・ムサい、なら、いいの?」
 響子も真似をして、順番に指をさす。
「まあ、比較的、バランスが。ねえ、支社長?」
「どっちでもいいよ。あ、でも、写真撮るなら鈴木が真ん中の方が絵になるかもな。」
 支社長の言葉に、岩井が満面の笑みを浮かべる。響子は席を変わることを諦めて真ん中の椅子に腰をおろした。
「はいはい。またSNSですか。真ん中座りますよ。真ん中。そのかわり、ケーキも真ん中いただきますからね。他人の顔でイイネを稼ごうとしないでくださいよ。」
 今日は五月生まれの裏誕生日会だ。誕生日のちょうど半年後。一年の裏側の誕生日を祝う会。だから、裏誕生日会。
 本来なら十一月にやる予定だったのだが、3人とも忙しく十二月は忘年会があった為、一月に持ち越してしまった。
 数年前、響子が面白半分で企画したこの会は、岩井が本社に転勤した今も、こうして地味に続いている。
 運ばれて来たビールを手に乾杯する。支社長は自撮りでその姿を写真に納め、妻のヒロコさんにメッセージを送る。
 大将が適当に出したツマミに手を伸ばしながら、響子は上司の姿を、いつもマメだな、と思う。
「そういえば、支社長のところのお子さん、今いくつですっけ?」
「俺の子じゃないけどな。18だよ。受験生。」
「あー。じゃあ、大変な時期ですね。」
 18歳、受験生。そういえば大河も同じだ。あんまり意識したことがなかったけど。
「あいつ、進学する気あるのかなぁ?」
「話さないんです? そういうの?」
「あんまり。あ、でも、学校の話とかはするよ。」
「へぇ。彼女とか?」
「彼女はいなそうだな。でも、なんだか好きな人はいるらしい。」
「仲良いんですね。そういう話が家庭で出来るなんて。」
「親子じゃないからな。友達みたいな感じなんだろ。」
「それもそうか。」
「で、イマドキの高校生の恋愛って、どんな感じなんです?」
「他所の子供より、お前らはどうなんだよ? 二人共、そろそろ身を固める歳だろ?」
 その言葉に、響子と岩井は顔を見合わせる。
「支社長、それはちょっと古いですね。」
「うんうん。それはちょっと古いですよ。」
「相手、居ないの? はーん。居ないんだな。いいか、独身ども。結婚はいいぞー!」
 はしゃぎ出した支社長のドヤ顔を見て、何故か、ふと、大河が笑う横顔を思い出した。
 駅の改札で、ホームで。響子を見つけて微笑む大河の姿。ゆっくりと大股で歩く後ろ姿。響子よりもずっと歳下なのに、同年代の友達みたいに、くだらない話にも付き合ってくれる優しい青年。
「居ます。」
「えっ、鈴木さん、彼氏いるの? ちょっとショック。」
「え、何、岩井、鈴木のこと狙ってたの?」
「いや、全然。ただ、最近ひとりだってきいてたから。裏切られた……。」
 二人のやりとりに、響子は笑って続ける。
「いや、好きな人です。まだ、付き合ってないし。それに、多分ずっと、私の片思い。」
 ヒューっと、支社長が口笛を吹いた。

25.つながる

 海都を連れて家に帰ると、叔母はリビングでテレビを見ていた。画面の向こうでは、いつか響子さんが好きだと言っていたアイドルが、スタジオに設置された小さな機械の前でリズムゲームをしている。
 ――なんか、秀くんが微笑んだ時の、あの、陰のある感じが好きなのよね……――
 響子さんは、彼をそう評価していた。
「ただいま。」
「おかえり。センターどうだった?」
「どうって、別に。」
「夕飯、食べてきた?」
「うん。……あのさ、……海都、連れてきたんだけど、今日泊めても良い?」
「あら、ほんと? 構わないよ。」
「ありがと。」
 廊下に出て玄関に居る海都に「良いってさ」と、声をかける。海都は脱いだコートを丸めて小脇に抱えていた。
「おじゃましまーす。」
 海都がリビングに入って行くのを眺めて、大河はそのまま2階の自室へと向かった。鞄を放り投げるように置くとマフラーとコートをハンガーに掛ける。部屋着に着替えて、もう一組ジャージを取り出すとリビングに降りる。
 海都は既に自宅のように寛いで、ソファーの前の床に座っていた。その頭の上に、畳んだ着替えを乗せる。
「先、風呂行けよ」
「一緒に入る?」
「なんでだよ。」
「ひゃー。大河くん、キゲンわるぅい!」
 海都は女子みたいな声をだして、ふざけてみせる。
 そのまま仰向けに床に寝転がってテレビを見始めた。
「タイちゃん、何かあったの?」
 海都の足の間に立って黙ったままの大河を、叔母が振り返って不思議そうな顔をした。
 響子と叔父の関係を、叔母は知っているのだろうか? 
気になるが、いつも仲の良い叔父と叔母が、それで不仲になるのは嫌だった。
 黙り込んだ大河の腰を、海都が軽く蹴る。視線はテレビを見たままのその顔が、何か言えよと、言っている。
「……叔母さん。さっき、叔父さん、見かけたんだ。」
「あら。そうなの?」
「うん。あっちの駅の飲み屋の通りで。」
 言いたくないけど、言わなければ。
 また鼓動が早くなって、耳の奥がザワザワと鳴る。
「英知くん、女の子と一緒じゃなかった? 髪の長い。」
「えっ?」
「あれ? ……違うの? てっきり響子ちゃんと一緒だと思ったんだけど。」
「そうだけど。……なんだ。知ってたの。」
 叔母の口から“響子ちゃん”という言葉が出るのは意外だったが、とにかく、叔母は響子の事を知っているようだ。その親し気な呼び方は、その関係が悪いものではないことを気付かせた。
 急に、肩の力が抜けて、膝から力が抜ける。座り込んだ大河の背中を、海都がまた軽く蹴った。
「あら、やだ。もしかしてタイちゃん、英知くんのこと疑って心配してたの? さっきね、英知くんからコレ送られてきたのよ。今日は響子ちゃん達と裏誕生日会ですって。」
 叔母の差し出すスマホの画面には、満面の笑みの叔父と並んで響子がカメラに視線を送っていた。手には焼き鳥とビールのジョッキ。その横に、知らない男性がもう一人。やけに楽しそうだ。
「……響子さん……」
「そう、この子が響子ちゃん。あと、こっちは岩井くん。二人とも、英知くんの部下よ。」
 見せて見せて、と、海都が起き上がって後ろから覗き込んでくる。叔父はたくさんの写真をメッセージで送っているようで、通知の音と共に新しい写真が表示される。
 なんだ。全部、俺の妄想だったのか……そう思って、ソファーに寄りかかる。
「ってことは、その人達、叔母さんの元同僚?」
 疑いは晴れたが、響子が叔父の部下であるという新しい事実を受け入れたくない。知ってはいけないことを知ってしまった気がして、溜め息をこぼす。
 顔をあげると、目の前のテレビの中でアイドルの男がカメラにウインクをして見せた。

26.届かぬ指先

「響子さん、指先、真っ赤じゃん。」
「うん。手袋、買わなきゃとは思うんだけど。」
 響子はそう言って、鞄から取り出したポーチにハンドクリームをしまい、自分の指先を眺める。
 昔から、手が小さいことがコンプレックスだった。婦人物の手袋は指先が余る。かといって、子供用はつけたくない。好みのデザインで小さいサイズのあるものを探すのに苦労して、毎年買わずに諦めてしまうのだ。
 コートのポケットに入れようとしたその手を、大河が掴んで「ちょっと待って」と、引き止める。
「ポケットに手を入れるのは、よくないんじゃないの?」
 大河は優等生の顔をして、響子を覗き込んだ。モコモコした手袋をはめたまま、両手で響子の両手をまとめて包み込むようにする。
 胸の前で、互いに手を取り合って祈るみたいな、そんな仕草。
「いいのよ。トレンチとかの、こうやって横向きについてるポケットは、物を入れる為じゃなくて指先を温める為のポケットだから。」
「そうなの?」
「ハンドウォームポケットっていうのよ。」
「ほんとに?」
「パーカーのポケットがお腹で繋がってるのあるでしょ? あれはマフポケット。マフラーとかイヤマフとかハンドマフとかのマフ。」
「マフ?」
「マフ……まふまふしてるから、マフ?」
「知らないんじゃん。」
「……あとで調べとく。」
 顔を見合わせて笑う。
「そのポケットが手を温めるものだってのはわかった。でも、やっぱり、手袋はした方がいいよ。」
 大河は、モコモコした手袋から自分の手を引き抜いて、手袋をこちらに差し出してきた。
「よかったら、使って。」
「ありがとう。じゃあ、電車来るまでね。」
 受け取った手袋に指先を滑り込ませる。大河が外したばかりのそれは彼の体温が残っていて、想像した以上に暖かい。大河の手袋は響子の手のひらが全て収まっても、その指先はかろうじて手袋の指の別れ目の先に届く程度だ。
「あったかい。……ね、大河くん、見てこれ。」
 響子はその手を大河に見せて、指先を動かして笑う。
「この手袋、超おっきいね。」
「いや、響子さん、それマジ? 普通のサイズだけど。……響子さんの手が小さすぎるんだよ。」
「……知ってる。」
 大河は手を伸ばして手袋の指先を摘んだ。響子の指先を探して、何も入っていない部分を折るようにすると口許を緩める。
「ほんとに小さい。」
「私ね、自分の手が小さいのずっと嫌だったんだけど。」
「うん。」
「お父さんが“響子の手の小ささは、彼氏が出来たら相手は絶対喜ぶよ”って。」
「うん。」
「でもね、お父さんが言ってたこと、いまだによくわからない。……大河くんも嬉しかったりするの? 彼女の手が小さいの。」
 手が小さいのは、単純に不便だ。
 他の人が片手で出来ることが、両手を使わないと出来ないこともある。
「俺は彼女いたことないから、わかんないけど。でも、女の子の手が小さいと安心するするかも。」
「なんで?」
 大河の大きな掌。手を繋いで得られる、包み込まれ、守られる安心感。大きい手に安心感を与えられるというのは響子にもわかる。
 逆に。小さい手に感じる安心感って何だろう?
「自分の方が大きいって“守ってる”みたいな感じ。」
 大河は自分の手を広げて眺めている。彼は少し考える顔をしたあと、その手を何度も開いたり握ったりして、ふいに噴き出した。なるほど、と小さく呟いて笑いながら響子の顔を見る。
「いろんなものが大きくなったような感じがする。」
「……?」
「あー……。例えば、スマホとか。同じものを持ったとして、俺が片手で持てるものを響子さんが両手で持つとしたら、そのスマホが大きく見えるでしょ?」
「まあ、確かに。」
「両手で持つってところも可愛いって思うし。……確かにちょっと嬉しいかも。」
 響子は大河の手袋の中で指先を動かしてみる。
「なるほど。よくわかんない。」
 何がそんなに楽しいのかわからないが、閉じた口角をキュッと上げて目を細める大河を見て、響子は手袋を外して大河に返す。
 大河はそれをそのまま鞄に突っ込むと「わかんなくていいよ。きっと深い意味はないんじゃないかな」と呟いた。

27.チューリップ

「すごい量、買いましたね。」
「好きなの。チューリップ。大きい花瓶にどさっと飾ろうと思って。」
 駅ナカの花屋から大きな花束を抱えて出て来た響子を見て、大河は驚いた顔をした。青々とした葉のついたチューリップの、やけに数の多い花束を覗き込む。
「これ、何本あるんです?」
「20本。」
「重そう。」
「うん。結構、重い。まあ、生モノだからね、野菜とかも重いし。一緒だよ。」
 響子の言葉に、大河は両手を差し出だす。
「持ちますよ。響子さんの降りる駅まで。」
 そう言って、彼は響子の手から花束を大切そうに取り上げて抱えて、目を細めた。
「チューリップって、こんな香りするんだ。」
「うん。」
「意外。花びらの縁がヒラヒラしてるのも、意外。」
「そう?」
「なんか、もっと単純な色と形の……子供の頃に育てたやつ、あのイメージだった。」
「赤、白、黄色。」
「そうそう、花壇に植えたやつ。」
 淡い色の花束を抱えて、大河は前を向く。キリッとした茎や葉の緑と、ふんわりと淡いピンクに所々グリーンの混ざる清楚な花の開きかけの蕾は、大河の横顔に似合っていた。
 ゆっくりと歩きながらチューリップの歌を小さく鼻歌のように歌う大河は、キラキラと眩しい。
「なんかさ、大河くん、そうしているとアイドルみたい。」
「……え?」
 ぽつりと呟いた響子に、大河は「なんて?」と、振り返る。
「ううん。なんでもない。」
「響子さんて、なんだかいつも楽しそうですよね。」
「そう?」
「うん。ちょっと、羨ましい。」
「そう?」
「きっと、悩みとか、そういうのは当たり前にあるんだろうけど。でも、いつも楽しそうで。だから、会えるとなんか安心する。」
「うん。」
「俺、自分の為に定期的に花を買う人って、初めて知り合いました。まあ、大人の知り合いそんなに居ないけど。そういうところも、なんか自由で、楽しそう。人生、楽しんでるって感じがする。」
 花に埋もれて嬉しそうな顔をする大河に、響子はスマートフォンのカメラを向けた。今、この瞬間がずっと続けばいいのに。そう思って、シャッターを押す。
「今、なんで写真撮ったんです?」
「嫌? 嫌なら消すけど。」
「嫌じゃないけど。」
 両手で抱えた花束のせいで、響子からスマートフォンを取り上げることも出来ずに、ただただ困惑した様子でこちらを見つめている大河を見上げ、小さな画面を見せる。
「なんとなく。チューリップ、似合うなって。」
「え。……これ、俺?」
 表示された画面の中で、チューリップの花束に口元を埋めて微笑む大河の横顔。長い睫毛、前髪の影の掛かる瞳に、少し緩んだ頬。ポートレートモードを使って、ピントをボカした背景は淡くカラフルな光に満ちていて、そこが駅ナカのショッピング街であるようには見えない。
「ね、アイドルみたいでしょ。」
「それは言い過ぎでしょ。……まあ……写真は、好きにしたらいいんじゃないですか。」
 大河は照れたように視線を逸らした。
 響子はスマートフォンをポケットにしまって、少し早足になった大河に歩幅を合わせる。
「あ、1本あげようか? これ。」
「要りません。」
「遠慮しなくていいのに。」
「いや、フツーに。いりません。飾る場所もないし。」
「そう?」
「気持ち悪いでしょ? 俺が、チューリップ1本だけ持って歩いてたら。」
 想像して響子は微笑む。確かに、知らない人から見たら違和感の塊だろう。
「せっかく似合うと思ったんだけどな。」
「俺よりも、響子さんの方が似合うと思いますよ。他のと一緒に飾ってあげてください。俺の部屋には似合わないし。花瓶もないし。」
 響子は大河に見えないように、コートのポケットにしまったスマートフォンを服の上からそっと撫でる。
 この気持ちに気付かれてはいけない。なんとなく、そう思って、隣を歩く大河を横目で追いかける。
 不意に、大河が振り返ってこちらを見た。
「でも、ありがとう。チューリップ、気持ちだけ貰っておきます。」
 彼は幸せそうに笑って、その花束を大切そうに抱え直した。

28.エンドロールまで付き合って

「えっ……やだ……来ないでっ!!」
 響子が震える声で叫んで、立ち止まった。
 大河は、慌てて振り返ると、銃を構えながら響子に駆け寄る。走りながら、響子に手を伸ばすヒトの形をした何かの頭部を正確に狙い、ワンショットで仕留める。
 響子と背中併せに立って、互いの背後を守るように身を寄せた。
「大丈夫。あと少しだから。」
 目指す建物の影に敵の姿がないことを確認し、響子の顔を盗み見た。
「あそこまで走れる?」
 響子は黙ったまま、視線の先に落ちた“かつて敵だったもの”から目を離さずに頷く。怯えきった瞳。
 それでも、俺たちはせーので走り出す。滑り込むように壁に隠れると、隣の響子の息が上がっているのに気付いた。
 上気した頬。額にじわりと汗が滲んでいる。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう……。
「ほんとに、大丈夫?」
「ちょっとこわいけど、大丈夫。」
「あんだけ叫んでちょっとって……」
 大河が苦笑すると、響子は真顔でこちらを振り返って「笑ってる場合じゃないよ」と呟いた。
 射程範囲に敵の入ったことを示す警告音に、ぐるりと辺りを見回す。
「大河くん、上!!」
 響子は頭上に向かってトリガーを引くが、一発も当たらない。横から素早く狙いを定めてその敵を撃ち落とすと、置き土産とばかりに体液をかけられた。
「ゃ…ぁ……熱い! ヌルヌルするっ!!」
 ぬるりと糸を引く液体を浴び、悲鳴を上げて動かなくなった相棒の襟首を掴み、ドアを開けて中に引きずり込むようにして建物に入る。
「いや、熱くはないでしょ。」
「えっ、熱いよ、きっと。だって、あのヌルヌルしたやつ火傷のマーク付くじゃん!」
 確かにゲームの中の響子のアバターは粘性の液体を浴びて、ステータスに火傷のマークが表示されている。実際は熱くもなければヌルヌルもしない。
 イメージだけで、よくあれだけの悲鳴が挙げられるな、と呆れを通り越して少し感心した。
「そもそも、化学火傷なら炎症起こすけど熱くないでしょ。」
「そういうもんなの!?」
 話しながら素早くアイテムを選択して、ステータス異常からの回復を図る。エンディングまであと少し、ここでヘマをしない限りは、あとは屋上への鍵を開けて待機しているヘリに乗るだけだ。
「あっ……だめ……!」
「今度は何!?」
「やだ……指……中に入ってきちゃう……」
「……は?」
 ……指が中に入る?
 切羽詰まった響子の震える声に、大河の脳裏をあらぬ妄想がよぎる。
「後ろ!!」
 響子に背中を叩かれて、我に返る。振り返ると開きっぱなしのドアの向こうから壁を掴む無数の指先が見えた。
 このゲームって、こんなにストレス溜まるもんだっけ……。
ゲームセンターの広くて狭い機体の中。ドーム型の空間には、自分達を中心に架空世界が広がる。
 動きやすいようにジャケットを脱いで腕まくりをした響子の白いブラウスは、今日も胸元が深く開いている。パンプスを脱いで操作パネルを直に踏む、ストッキングに透ける小さな足。タイトスカートで銃を構えるその姿は凛々しいが、射撃の腕はへっぽこである。
 至近距離で響子が声を上げ、乱れた呼吸を整えようと息をつく度に、脳裏にチラつく余計な感情。今は考えないようにして早く脱出しよう、そう心に決め、視界の隅で残弾を確認する。
 なるべく消費しないようにと進めてきたおかげで、たっぷり残っているそれを手持ちの武器に装填すると、響子のアバターに鍵を渡した。
「合図するから、響子さんは階段を上がって鍵を開けて。何があっても足を止めないで。上まで全力で走って。」
 この建物には、階段の最初の5段にトラップのスイッチが仕込まれている。響子は射撃は苦手だが、走る跳ぶ等の動作は大河よりも上手い。響子を走らせて自分が護衛に回れば、罠が発動する前に扉を開けて外に出ることが出来るだろう。
 響子の攻撃が頼りにならない限り、クリアする方法はそれしかない。
「階段、盾にするものないよ。」
「大丈夫。響子さんは、俺が全力で守るから。」
「わ。かっこいい。言われてみたい、ゲームじゃないとこで。」
「ゲームじゃなかったら、響子さんは守らなくても生きていけそうじゃん。」
「それはよく言われる。」
 響子は笑いながら、大河の合図を待つ。
 敵には申し訳ないが、彼等には俺のストレスのはけ口になってもらおう。
 狙いは壁の向こう、何体残ってるか知らないけど。
「来いよ。相手をしてやる。」
 そう呟いて、引き金に指をかけ、ゆっくり息を吸った。
「3…2…1…Go!」
 掛け声と共に走り出し階段をダッシュで駆け上る響子を横目に、壁に向けて弾を撃ち込む。
「クッソ、めんどくせぇ!!」
 俺が。俺自身が。めんどくさい。
 どんなに仲良くなっても近づけない。
 無防備な姿を晒す響子を抱きしめる事も出来なくて。
ゲームの中じゃなくたって、俺が守るって言えばいいのに。
「ああ、もう!! 鬱陶しい!!」
 ……俺が。
 叫んで、後ろ向きに階段を登りながら、攻撃の手は休めない。背後で響子がドアを開けた。
 揺れる視界を無視してそのドアに滑り込み、響子の手を引いて屋上に止まっていたヘリに乗り込む。
 音楽が切り替わり、エンドロールが流れだした。

29.消化不良

 外のモニターの前でスマホをいじっていた海都は、ブースを出てきた大河と目が合うなり吹き出した。
「モニターの動画、撮ったぜ。傑作。」
 そう言って、送信ボタンを押すと、すぐに大河のスマホがファイルを受信する。通知を無視して海都の隣のベンチに腰を下ろすとそのまま荷物に寄りかかる。
「ああー。無駄に疲れた……。」
 呟いて、顔を上げると響子の後ろ姿が見えた。響子は自動販売機の前で、何を飲もうか迷っているようだ。
 ザワザワとしたゲームセンターの店内で、それでも響子に聞こえないように、海都が声を落として大河に顔を寄せてくる。
「響子さん、サイコーじゃん。」
「何が? 叫んでただけでしょあの人。マジ疲れた。」
「それだよ。あの声。天然でエロいとか、ヤバくね?」
「海都、お前さぁ……」
「それ、響子さんの声バッチリ入ってるぜ。お前の声もだけど。」
 海都の言葉に、手元のスマートフォンを見る。
「それを録ろうっていう、お前の発想の方がヤバいけどな。」
 切羽詰まった響子の、喘ぐような吐息と声にならない悲鳴。大河くん、助けて……と、俺を呼ぶ、不安で泣きそうな声。
――やった! 初めてクリア出来た! ――
 エンドロールの流れる中、歓声を上げて抱きついてきた響子の、ブラウスの胸元と柔らかい体温と甘い香り。額に浮かぶ汗。ストッキングに透けるつま先。
 思い出して、余計な感情に頭を抱える。
「面白いかと思ったんだよ。だって、あの人、リアクションのバリエーションがハンパねぇし。」
 溜め息をついた大河に、海都は言い訳めいた言葉を口にする。だからってさぁ、と睨むと、海都は反省のない顔で「てへっ」とおどけてみせた。
「いや、ごめんて。想像以上にアレだっただけじゃん。」
「謝りポイントそこかよ。」
「嬉しいくせに。」
「その動画、消しとけよ。ネットに載せるとか、絶っ対っに駄目だからな!」
 まあ、俺がもらった分は保存するけど。そう胸の中で呟いて立ち上がる。
 自動販売機に近づくと、響子の後ろから小銭を入れてコーラのボタンを押す。
「あっ。」
 驚いて振り返った響子は、大河を振り返った。こちらを斜めに見上げて、唇を薄く開くその微笑み。彼女はそのまま自動販売機に向きなおり、私もコーラにしようかな、と、支払い用のICカードをかざしてボタンを押した。その何でもない仕草ですら、特別に可愛いと思う。しかし、それ以上に頭をもたげた邪な感情に、大河は戸惑っていた。

 なんで、こんなことになっているんだろう……。
 今日は叔母の使いを済ませた後、買い物をして、帰って海都と家でゲームをするつもりだった。用を済ませて、駅に着くと改札の外に立っていた響子に会った。
「電車、止まってるみたい。」
 彼女はそう言って、再開未定の表示を眺めていた。
 休日だというのに、いつもの仕事着の響子は、いつもよりもずっと早い時間に駅で足止めを喰っていたようだ。外は明るく、夕方というにはまだ少し早い。
 大河が海都と顔を見合わせると、響子は笑って「二人はどうする?」と、こちらを見上げた。
「お茶、行きますか。」
 そう言った大河に、響子は「じゃあ、運転再開までのんびりしますかね。」と歩きだした。
 駅前の喫茶店に3人で入り、実のないお喋りをしていた時に、ゲームの話になった。ゲームセンターにその機体が導入された去年、海都と二人でやり込んでランキング1位になった話をすると、響子は目を輝かせて「私もやりたい!」と、言い出したのだ。
 ―― そもそも、あれが失敗だった。
 あの時は、ただ、響子さんが喜んでくれれば良いと思って、その機体の中に入ったのだが。まさか、こんな気持ちでゲームをすることになるなんて。
 抱きしめたい。……でも、それだけじゃ足りない。もっと響子さんの深いところを知りたい。カプセルのようなゲーム機の中でなく、俺の腕の中で乱れた声を上げる姿を見たい。
 現実は、自ら手を伸ばしてただ抱きしめるだけのことですら叶わない。ただただ、悶々と消化不良の欲望に振り回されて、楽しむことよりも疲れの方が勝った

30.C

 響子の視力はあまり良い方ではない。眼鏡を掛ける程ではないが、少し離れたポスターの文字が読めない。そう言ったら、かわりに大河がその文章を小声で読み上げてくれた。響子は大河が追いかける文章の内容よりも、小さく書かれた文字を彼がその距離から読めることに感心していた。
「大河くんてさ、視力いくつ?」
「Aです。」
「エー?」
「1回、Bになったんだけど、Aに戻ったんだ。響子さんは?あれ読めないのって、Cくらい?」
「ちょっと待って。AとかBとかCって何? 私、視力0.7よ。」
「じゃあ、Bかな。」
「だから、AとかBとかCって何?」
「わからないけど、CかDだと眼科行けって言われます。」
 つまり、確実に運転免許の取れないレベル以下がCってことか。大河の口振りだと下はDまでしかない。
「逆に訊きたいんだけど。響子さん、何で自分の視力の細かい数字知ってるの? 何か特殊な検査しました?」
「ふつーの視力検査だけど。健康診断の時に、測るでしょ? あの、黒いスプーンみたいなの持って、齧りかけのドーナツみたいなの見るやつ。」
「齧りかけのドーナツ?」
「なんだっけ? ランゲルハンス島じゃなくって…ええと、ランドルト環? あっち向いてホイで上下左右に向いたアルファベットのCみたいなの。」
 指先を丸めてCの字を作り手首を動かす響子の仕草に、大河は困惑した表情を浮かべる。
「カタカナじゃないんですか? ランダムに表示された文字を読み上げるやつ。」
「は? ……まって。もしかして、今ってそうなの……?」
 教育や健康管理が世代によって変わるのは、響子だってわかっている。簡略化されるものもあれば、より複雑化されているのもある。そんなことはわかっているつもりだけど。
 視力測定って、そんなに簡略化していいものなんだろうか?
「響子さん、どうしたの?」
大河は、眉根を寄せて黙り込んだ響子の顔を覗き込んでくる。
「今、凄く、超えられない歳の差を感じた。」
「まって、まって。俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし。響子さんだって、若いでしょ。」
「そう? 若者に若いって言われても嬉しくないよ。10代と30代は違い過ぎるもの。」
「そりゃ、切り捨てたらそうなりますよ。でも四捨五入したら、20と30。……ほら。追いつくことは出来ないけど、近づくことは出来る。なんなら、あと3年待って。響子さんは切り捨てで、俺だけ切り上げてもいい。」
「埋められないでしょ、歳の差は。」
 悲しくなったって、そんなのどうにもならないことだ。
 きっと、響子の悲しみや不安は大河には伝わらない。それでも彼は響子を安心させようと、あれこれ提案して微笑んでこちらを見下ろす。
 余裕そうな表情の奥で心配そうに揺れる大河の瞳。
「っていうか。埋めなくても、いいじゃないですか。違うのは歳だけじゃないし。」
「うん。」
「俺、こういう話は楽しいですよ。俺と響子さんの当たり前が違うってことも、面白いと思う。」
「面白い?」
「だって、俺、響子さんに教えてもらうまで、ピンクに名前がたくさんあるのも知らなかったよ。駅の伝言板も。ケータイの無い時代の待ち合わせなんて考えたこともなかったし。」
「うん。」
「視力検査も。俺、ちゃんと測ったことないし。」
 言葉を選びながら、彼は響子に笑い掛ける。
「だから、響子さん、そんな顔しないで。」
 そう言って、大河は自分を見上げた響子の顔に手を伸ばしてきた。反射的に目を閉じる。
――俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし――
 苦笑混じりの大河の声が頭の中でぐるぐると回りだす。
 少しの間があって、大河の指が顎の先を掠める。その感覚に、鼓動が早くなって、背中がこわばる。そのまま彼の指は滑るように頬から瞼を撫で、眉間に吸い込まれるように、トンと、着地した。
 目を開けると、響子の眉間を人差し指で軽く押すようにして大河が笑っていた。
「響子さん、眉間にシワ、寄ってる。」
「え。ヤバいじゃん。」

31.煮豆

 惣菜屋が並ぶ一角から出てきた響子は豆腐屋のロゴのプリントされた買い物袋を下げていた。
 いつもは花や甘いお菓子ばかり買う響子が、惣菜を買うのを珍しく思う。
「響子さん、おつかれさま。」
 後ろから声を掛けると、響子は振り返って笑顔を見せた。
「おつかれさま。」
「何買ったの?」
「煮豆。」
「煮豆?」
「うん。五目煮。」
「その店の煮豆、美味しいの?」
 彼女がわざわざ買うくらいだから、きっと美味しいやつなのだろう。そう思って、通路の先の豆腐店の看板を眺める。
 大河を見上げて、響子はちょっと困った顔をした。
「どうかな? 初めて買ったから、わかんない。」
「美味しいといいね。」
「うん。普段、煮豆なんて食べないんだけど。」
「じゃあ、なんで?」
「節分でしょ、豆撒きはするとして。歳の数の豆、そのまま食べるには流石にちょっとキツくない?」
「それで煮豆。」
「納豆と悩んだんだけど。」
 黙々と納豆を数えて食べる響子を想像して大河は吹き出した。
「節分に納豆? 確かに大豆だけど。」
「でしょ? だから、煮豆。」
 なるほど、それなら数が増えてもたくさん食べられそうだ。
炒っただけの大豆なんて、そう美味しいものでもないし。
「響子さんは、恵方巻きは食べないの?」
「あれは、関西の食べ物でしょ?」
「そうなの?」
「ここ10年くらいだよ、関東でも巻き寿司を売るようになったの。」
「そうなんだ。恵方巻きを納豆巻きにしたら一石二鳥だと思って。」
「恵方巻きって、そんなに細いのでいいの? 海苔、切らないから食べ難そうだよ。」
「もともと食べ難いものだろ? 恵方巻きって。」
「食べたことないんだよね。食べてみようかな。切らずに黙ってそのまま齧るんだよね?」
「俺は、普通に切って食べても良いと思うけどね。」
「何で?」
「何でって……」
 彼女はきっと知らないのだろう。恵方巻きの由来を。
 日本の節句の慣習は8割下ネタだと、古典の教師が言っていたのを思い出す。自分で振った話題なのに説明を求められて、しまったな、と思う。
「それ、俺にはちょっと説明出来ないです。納豆巻きも撤回します。」
 響子が恵方巻きを黙々と食べる姿を想像して、大河は思わず視線を逸らす。そんな大河の顔を見て響子は笑った。
「何で、そんなに後ろめたい顔するのよ。」
「え。いや、後ろめたいとか。……そんなことないです。全然。」
「じゃあ、帰ったら調べよ。恵方巻きについて。」
「やめてください!」
「やっぱり何か隠してるじゃん。」
 説明するにせよ、調べられるにせよ、完全に退路を塞がれた。恵方巻きについて知ったら、きっと響子さんはこれから、俺を冷たい目で見るのだろう。

32.懐かしい歌

「それ、何、聴いてたの?」
 外したイヤホンのコードを巻き取って鞄にしまう。その手元に、響子の視線を感じる。大河がその男性アイドルグループを知ったのは、最近になってからだ。解散したのは“もうずっと昔”と叔母は言っていた。
 彼女はそのグループを知っているのだろうか? スマホの画面を見せると、響子は数度瞬きをしてこちらを見た。
「懐かしい。……いいよね。」
 響子は小さな声で昔流行った曲のサビを歌いだす。
 今、聴いていたばかりの曲を歌う響子に、大河も小さな声でハモる。
 途中まで歌って、彼女は何か思い出したように大河を振り返った。キュッと結ばれた口元に、真っ直ぐにこちらを見据える真剣な眼差し。
「ぜったいキレイになってやる。」
「えっ? なに、それ?」
 響子の言いかたはやけに芝居がかっていて、吹き出して笑うと、彼女も可笑しそうに顔をゆるめた。
「そういうCMがあったの、昔。」
「へぇ。知らない。」
「あれ? スベったか。…でも、まあ、大河くんは世代じゃないよね。」
「世代じゃないっすね。」
「なんでその曲知ったの?」
「先週、ラジオ聴いてて、いいなって。」
「私が高校生の時に解散したのよ。3年の……ちょうど今くらいの時期で。全国的に雪が降ってる日で。」
「うん。」
「テレビは解散と入学試験と雪のニュースばっかりだったの。」
 響子は遠い目をして、ホームの隙間の空を見上げ、それからじっと足元を見る。何か、大切な思い出でもあるのだろうか……? 黙って俯いた響子の横顔は寂しそうだ。
 普段はにこにこと明るく振る舞う癖に、時々、こんな顔をしていることに彼女は自覚がないのだろう。
 その寂しさの理由を知りたい、埋められるなら、自分がその隙間を埋めたい。そう思うが、ただ黙って見つめることしか出来ない。
 普段は気にならない沈黙が、妙に気になって話題を探す。
「……ああ、そういえば。今日も天気予報は雪だったね。」
「降らなかったじゃない。」
「これから、降るんだろ?」
「うん。」
「冷えるね。」
 ざわざわとしていた周りの音が、急にしんと遠くなった。冬の夜は早いから、そのぶん街の明かりがキラキラと煩い。ふたり並んで黙ったまま、暗い線路とその向こうに広がるカラフルなネオンを眺める。
 どれほどそうしていただろう、ホームに流れるアナウンスに揃って顔を上げると、白く輝くものがふわりと舞い落ちてきた。
「「あ、雪。」」
 同時に声を上げたのを、なんだか恥ずかしく思って視線を逸らす。
「降ってきたね。」
「うん。」
 響子が雪の舞う黒い空に手を伸ばして掲げると、掌に結晶がのってキラリと光り溶けて消える。
「キレイ。」
 呟いて響子は笑った。
 大河はそんな響子をそっと眺める。
「ねえ、響子さん。これ、積もるかな?」
「積もったら、休みたい。」
「仕事、休めないの?」
「うん。電車動いてなかったら休むけど。基本的には行くかな。」
「大人は大変だね。」
「大河くんだって、これからはそうなるでしょ。」
「うん。でも、雪とか台風の時は家でも仕事が出来ればいいのに、って、叔父さんとか見てると思うよ。」
「いいねぇ。そんな会社、一握りだろうけど。うちの会社もそういうシステムにならないかな。」
「そのうち、それが当たり前の社会になるよ。」
「なるかなぁ。」
 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、雪の降る景色を眺める。
 朝には積もるのだろうか……?
 積もったら、朝イチで海都からメッセージが来る、きっと。図書館に行くのはやめて、庭に出て、遊びに来た海都と一緒に雪だるまでも作ろうか。
 響子さんは、なんだかんだ言いながらも、雪の中でも仕事に行くのだろう。危ないから家にいて欲しいけど、そんなことは自分が口を出すべきではない。
 でも。
「響子さん、明日の朝は気をつけてね。」
「うん。ありがと。」
 微笑んでこちらを見上げる響子に微笑みを返す。
 明日は会えないな、そう思って少しだけ寂しくなった。
 会えるのはいつも、偶然なのに。

33.白い絨毯

 期待に膨らむ胸で、朝日の透けるカーテンを開ける。
ヒーターをつけた暖かな部屋では、外の寒さは想像出来ない。
きっと今日も、とても寒いのだろう。
 夜になって降り始めた雪は深夜には止んでしまって、結局、積もったのは、畑や公園や民家の庭の土の部分だけだった。
道路はシャバシャバになったシャーベット状の氷がところどころに落ちているだけで、すっかりと乾いている。
「なんだ。いつも通りじゃん。」
 開けたばかりのカーテンを閉めて、カップスープに湯を注ぐと、トーストしないままの食パンをちぎりながら食べる。片手間で、タブレット端末でニュースや天気予報を開く。一通りチェックして、画面をSNSに切り替える。表示されたタイムラインにざっと目を通して、その画面もすぐに閉じた。

 昨日。帰りに手袋を買った。
 流石に寒くて、もう半月もすれば春だというのに耐えられなかった。ぴったりなサイズはみつからなくて指先が少しだけ余るが、何年でも使えそうなシンプルで上品なデザインの羊革の手袋。ワインのような赤みのかかった濃い茶色で、履き口にフワフワした兎毛のファーがついていて、裏地のシルクの滑らかな肌触りが心地よい。
 歯磨きをして、ついでに花瓶の水を変え、寝室に戻る。身支度をしながら、その手袋を包みから取り出してタグを切る。クローゼットからその日に身に付けるものと鞄を取り出して、ベッドに放り投げるように並べた。
 鏡の前でブラウスを羽織り、スカートに足を通して、タイツを履く。ボタンを閉めて整えたら、髪を梳かし、化粧をして、アクセサリーを着ける。
 仕事用のアクセサリーはシンプルなピアスと揃いのネックレス。今日はターコイズ。
 所定の位置に並べた鍵や財布やスマートフォンと一緒に、化粧品の入った小さなポーチと、のど飴やチョコレートを入れたポーチも鞄に詰め込む。
 ジャケットを羽織って、コートを着てストールを巻く。仕上げに手袋を嵌めて、もう一度、鏡をみて微笑んだ。
 よし、今日も完璧。
「いってきます。」
 誰もいない玄関でいつものように呟いて、外に出ると、冷たい空気が頬を刺した。
 風は冷たいが、しっかり防寒しているので寒いのは顔だけだ。鍵を閉めながら、指先が冷えないのは心地よいものだな、と思う。
 アパートの前の空き地は、陰になったそこだけ四角く雪が積もって、白い絨毯を敷いたように見える。
 雪だるま、作りたいな。そう思いながら駅に向かう。
 きっと、帰る頃には日陰の雪もすっかり溶けてしまって、跡形もないだろう。積もり積もった、様々な記憶も、叶わない思いも、この雪のように溶けて消えてしまえばいいのに。
 まるで一夜の夢みたいに。
 ついた溜息は、白く凍って空に溶けた。
34.初恋
「響子はさ、いつまでも独身でそれでいいの?」
「べつに。今、困ってないし。子供が欲しいわけでも結婚願望あるわけでもないし。」
「いいなー。そこまで割り切れたら楽だよねぇ。」
 菜々は「あとは親かー」と、大袈裟に溜息をついてグラスに手を伸ばす。
 響子の部屋、買い込んだワインを二人で飲みながら、絨毯に転がってくだらない話をする。支社への数日の出張で久々に関東に戻ってきた同期の菜々は、本来は九州にある本社勤務だ。彼女は実家で結婚しろと散々言われているらしい。
 もうすぐ日付けが変わる。菜々は実家を宿代わりにしていたけれど、今日はもう帰る気もないのだろう。明日は休みだし別に構わない、と思う。
「大体、相手が居ないんだから。するもしないも、ないじゃない? 結婚なんて。」
「わ。羨ましいわ、響子のその余裕。」
「余裕じゃなくて、事実。……余裕は……あんまり、ないかも。」
 あら、珍しい……そう呟いて、菜々は手にしていたグラスをテーブルに置いた。
「どうしたの? 響子らしくないよ。」
「らしい、ってなによ。 あー、でも、ねー。相手が手の届かない存在だったら、どうしたらいいんだろうね。」
「え……? ちょっと、ヤダ、今度は誰? どのグループ? まさか、いまだに秀くんだとか言わないよね。」
 心配して損したと言わんばかりの菜々の言葉に、響子は思わず吹き出す。
「待って、アイドルじゃないよ。S☆Sからは5年前に足を洗ったから。」
 確かに若い頃は周囲にオタクと言われる程度に追いかけていたけれど、今は本棚の一角にその痕跡が残る程度だ。
「じゃあ、響子の手の届かない存在って、何?」
 問われて、思わず目を逸らす。
「どう頑張っても、今すぐに結婚できるような相手じゃないの。」
 いくら親しい友人とはいえ、菜々に、大河のことは話せない。ましてや、片思いの、その相手が高校生とは言えない。
「まさか、相手、既婚じゃないよね?」
「違うよ。不倫はしない主義。そもそも、相手が居ないって言ってるじゃない。」
「響子、矛盾してるよ。」
「わかってる、わかってるよ。ただ、私は、結婚なんて出来なくても今が楽しいからいいの。」
「本当は居るんでしょ、彼氏?」
「居ないよ。居たとしても彼氏じゃないし、手の届かない場所に居る。それでそのまま、どこか遠くの私の知らないところに行くの。」
「知らないところ? まるで、これから何かあるみたいなこと言うのね。」
 図星を突かれて、響子は返答に困る。きっと菜々のいう“何かある”は出会いのことで、現実に待っているのは卒業してここを離れる大河との別れだけれど。
「どんな人? 響子がそんなこと言う相手、初めてじゃない?」
「え、そう?」
「うん、響子、昔から彼氏いても、そういう感じじゃなかったじゃない。」
「どういう感じ?」
「彼は彼、私は私って。一緒に生きていけるかと、愛と恋は別って。超冷めてた。」
「うん。」
「今は、なんか、恋する乙女みたい。」
「ねえ、菜々。私達、乙女って歳じゃないでしょ。」
「そうよね、親に行き遅れを心配されるくらいだもんね。」
 私が自分で乙女とか言える歳だったらいいのに。そうしたら、こんなに迷うことはなかっただろう。
「でもね、相手の気持ちだってわからないし、別に、付き合う気もないの。結婚したいとかも思わないし。それは、本当に。」
「うん。」
「ただ、ちょっと会いたいって思ったり、この時間が終わらなければいいなって思うことがあるだけ。それだけなんだけど。」
「それを恋って言うのよ、世間では。」
「じゃあ、これは初恋なのかな。処女でもないし、行き遅れババアだけど。こんなふうに思うのは初めて。」
「響子、歴代の彼氏達が泣くよ? 今の聞いたら。」
「どこで? 自分を振った相手が行き遅れババアなところ?」
「違うよ! そういうところだよ。」
 ひゃーと、声を上げて笑う菜々の言葉に、つられて響子も笑う。菜々はゲラゲラと笑いながら、グラスを空にしておぼつかない足どりで立ち上がった。
「お腹すいちゃった。ラーメン食べに行かない?」
「いいね。こんな時間に開いてるラーメン屋さんあるかな?」
「そこのコンビニでカップ麺買ってくる?」
「それいい! そうしよ。」
 上着を羽織りポケットに財布を突っ込んで、ふと、大河の言葉を思い出す。
「菜々は、ラーメンて、醤油とか塩とかで選ぶよね?」
「うん。あたしは醤油。」
「豚骨とか鶏ガラとか、出汁じゃなくて、味付けだよね。」
「そうだけど、何で?」
「今ってね、出汁でお店を選ぶんだって。」
「えー。なにそれ。」
「先に出汁だって。味付けは後から選べるからって。」
「なにそれ?」
 菜々はもう一度そう言って、響子を振り返った。
「わかんない。若い子が言ってたの。」

35.月の地図

「カニにもウサギにも見えない……。」
 そう言って、響子はその写真に視線を落とした。
 十年で一番明るいという満月を見逃したという響子に、大河が差し出したそのスマートフォンの画面いっぱいに表示された白くまるい月は、クレーターや影の部分がはっきりと写っている。
「すごい。大河くん。……月ってこんなに綺麗に撮れるものなのね。」
 画面を食い入るように見つめて、響子は小さく溜め息をこぼす。
「それくらい、ちゃんと三脚で固定して設定合わせれば、誰でも撮れると思うけど。」
「ふつーはね、その“三脚で固定して”とか“設定して”とかが出来ないのよ。」
「そういうものです?」
「みんながスマートフォンのカメラを“使える”のはシャッターを押すだけで写真が撮れるからで、“使いこなせる”かは別の問題よ。」
「そうなの?」
「機械なんて、大体なんでもそう。」
「うん。」
 響子はカップのミルクティーに口をつけて、それから、また月の写真を眺めた。
「……こんな風に、写真に収められるようになっても、人類が月に降り立って、そこに何にもないってわかってても。月には月の伝説があって、それが語り継がれているの、不思議じゃない?」
「本当はないかもしれないけど、有るってことにした方が楽しいからじゃないかな。」
「この模様が、ウサギに見えなくても?」
「うん。……あ。響子さん、この模様、名前あるって知ってます?」
「模様の名前? クレーターとか?」
「違くて。その、クレーターとか黒い模様の一つ一つに、山脈や海の名前があるんです。地球みたいに。」
「そうなの?」
 大河はテーブルの上のマグカップを端に寄せて、鞄からペンケースとノートを取り出すと、シャープペンシルで白いページに月の絵を描き始めた。
 製図用の細いシャープペンシルの先は、白いノートに小さく擦れる音を立てて、写真で見た月の模様を描き出す。
「大河くんて、絵、上手いんだね。」
「そうです? 暇な時、ずっと描いてたからかな? 四角いものの製図は得意だけど、丸いものって難しくて。月で練習したんです……」
 ノートから顔を上げることなく答える。
「製図? 将来は建築系に行くの?」
「……いや、機械工学です。響子さんの言葉だと、工業系って言うのかな。」
 大河は、一瞬、手を止め顔をあげて響子を見た。それから、ノートに視線を戻して、最後のクレーターを丁寧に書き込むと、シャープペンシルをケースにしまう。
「描けました。」
 そのページをノートから破り取って、響子へと差し出して微笑む。響子は神妙な面持ちでそれを受け取って、ふたりの間に月の絵を置いた。
 大河は、今度はペンケースから青いペンを取り出して、月の真ん中から外へ向かって真っ直ぐに細く線を引く。
「これが、中央の入江。」
「入り江?」
「暗いところが海で、白いところが山。だから、間には入り江もある。」
「なるほど。地名なのね。」
 大河は線の先に小さな文字で“中央の入江”と書き込んで、次の線を引いた。
「ここは、蒸気の海。」
「うん。……この、黒いウサギのところはなんていう海?」
「神酒の海、豊かの海、静かの海、晴れの海。」
「なるほど。別の海なんだ。」
「こっちは、危難の海。」
 大河は次々と線を書き込んでは、海の名を記す。
 海と入り江が終わると、次は山と小さなクレーターの名前を書き込んでいった。
 思ったよりも、月の地名は多いらしい。
「最後に、これがティコ。」
 大河はそう言って丸いクレーターを示して、“ティコ”と小さく書き加え、ペンをしまった。
「ティコ?」
「そう、ティコ。」
「……ティコ。」
 響子が繰り返すと、大河は小さく笑って、冷めたコーヒーに口をつける。
「響子さん、それ、気に入ったんでしょ。」
「ティコ。気に入った。言葉の響きが可愛い。あと、真ん丸な形も可愛い。……ね、この紙、貰ってもいい?」
「いいけど、何に使うんです?」
「月の地名、覚えようかな、って。」
「役に立たないですよ。」
「いいの、無駄は大事なの。」
 そう言って響子は、大河を見つめた。
「もし、月に住むことになったら。私、虹の入江に住みたい。」
「神酒の海じゃないんだ?」
「ちょっと、どういうイメージよ、それ。」
 響子の言葉を大河は笑って誤魔化す。
「ティコでもないんだ。」
「うん。ティコでもない。虹の入江がいい。」
「なんで?」
「嵐の大洋、雨の海、氷の海……周りは過酷だけど。虹の入江だけ守られているみたいに、明るくて穏やかなところだといいな、って。」
 響子は雨上がりの浜を想像する。
 砂浜ではなく、ツヤツヤと光る濡れた玉砂利。凛と冷えた空気と雲の隙間から伸びる柔らかな陽射し。凪いだ海と、空に架かる大きな虹。
 静かで穏やかな入り江の先端に白く大きな灯台を思い浮かべて、そこに住めたら……と、思う。

36.告白

 放課後の教室。クラスの女子に呼び止められて居残った大河は、ぼんやりと陽の落ち掛けた空を見ていた。
 バレンタインには1日早い。
 空と街は、夕陽に照らされて染まっている。オレンジと赤が曖昧に混ざるその色に、この教室も飲み込まれる。薄暗いオレンジ色の世界に取り残されて、視線を目の前に移した。
 見慣れた制服を少し崩して着て、スカートは短く折っている。寒くても脚は出す主義。上履きに掠れたマジックペンで丁寧に書かれた片野という文字。長く伸ばした染めていない黒い髪。校則で禁止されているのに、それでも化粧をしたい彼女は、睫毛をカールさせて薄く色の付くリップクリームを塗っている。
「だからね、松本くん。松本くんが、もし、よければなんだけど。私と付き合って欲しいの。」
 彼女の話は回りくどく、その提案に至るまでに随分と時間が掛かった。
「……なんで?」
「えっ?」
「それ、俺じゃなくてもいいでしょ。」
 溜息混じりの俺の言葉に、彼女は泣きそうな顔をして俯く。片野って、こんな顔もするんだな、と、他人事みたいにぼんやりと思う。
「残念だけど。受験が終わったからって理由で誰かと付き合いたいなら、他を当たった方がいいと思うよ。俺、卒業したら実家帰るし。」
 彼女の話を要約すると、“お互いに受験も終わったし彼氏になって欲しい”というような内容だった。……それは、きっと片野の本当の気持ちではない。彼女は好意を伝えるような言葉をひとつも使わずに、自分達が付き合うメリットのようなものを並べていたから。
 3年間、ずっと同じクラスだった。特に親しいわけではないが、メッセージグループのメンバーの中にいて、言葉を交わすことは比較的多かった。きっと片野は彼女なりの勇気を持って、俺を呼び出したのだろう。
 それでも、彼女に友人以上の興味を持つことは出来なかったし、もし付き合ったとして、その回りくどさに振り回されることに苛立つことも多いだろうと思う。
「なんで、そんな言い方するの……?」
 俯いた彼女に申し訳ないとは思うが、それはこっちのセリフだった。好きなら好きと素直に言ってくれたら、きっと、少しは興味が持てただろう。それでなくても、もう少し別の言葉を選んで断ることも出来たのに。
「片野さんが、そういう提案をしたんだよ。」
「……ごめんね。松本くんは、理由がはっきりしてた方がいいかと思って。」
「だから、理由がそれなら付き合えないよ。俺、受験の為に勉強してるわけじゃないし。」
 受験が終わったから。……きっと片野は、進学の為の勉強をしていたのだろう。勉強の為の進学ではなくて。
 ふと、寒空の下で、月を見上げた響子さんの寂しそうな横顔を思い出す。それから、よく動く表情、笑う唇、真っ直ぐに立つその背中、ねえ、と、俺を呼ぶ声を。
「……でも、やっぱり、ごめん。理由がそれじゃなくても、付き合えない。」
「何で?」
「俺、好きな人いるし。」
「えっ?」
 彼女は顔を上げて、驚いた顔でこちらを見上げた。
「え、嘘…知らなかった。……ねえ、それ、誰?」
「片野さんの知らない人。」
「可愛い?」
「うん。可愛い。……可愛くて、美しい人だよ。」
 響子さんと違って、片野はきっと自分の可愛さを自覚している。実際、片野はクラスを超えて人気があったし、狙っている男子は多かった。
「……その人、年上なの?」
「うん。年上。……なんでわかるの?」
「なんか、褒めるのに“美しい”って使わなくない?」
「そうか、それもそうだね。」
 大河はまだ、響子への想いを伝えられていない。たとえ付き合うことが出来なくても、一緒にいる間、彼女が笑うだけで嬉しい。
 響子さんに対して、思ったことは何でも言葉に出来るのに、一番大事なことは言えない。好きだと言ったら、きっと困らせてしまうだろう。響子さんが言うように13年という歳の差はそう簡単に埋めることは出来ない。だけど、そばにいられることが今は充分だ。
 それに、なんとなく気付いたことがある。響子さんと付き合うのに理由は要らない。ただ、彼女が興味以上の感情を自分に向けてくれるのを、じっと待つしかない。
「えー。ずっと、好きだったんだけどなー……。」
 片野は呟いて、暗くなった窓の外を眺める。その声は、普段通りで、大河は少し安心した。
「俺さ、女の子はそうやって素直にしてる方が可愛いと思うよ。」
「えっ!?」
「俺だけかもしれないけど。理由とか、相手がどうとか、そういうのより、思ったこと素直に話してくれる方が嬉しい。」
 振り返った片野は、大河の顔を見て驚いたような呆れたような顔をしていた。
「……松本くんて、そういう事言うんだ!?」
「あのさ、片野さんは、俺の事どういう風に思ってたの?」
「寡黙で大人で感情よりも理屈で動くタイプ。」
 片野の言葉に、大河は思わず吹き出す。
「俺さ、わりと感情的だし、自分のことガキだと思ってるんだけど。」
 それでも、響子さんの前では、そんな自分も嫌いじゃないと思える。
 誰かの顔色を伺ってばかりじゃ、本当の気持ちは見えてこない。自分に素直なのは良いことだ、そう教えてくれたのは響子さんだ。
「片野さんさ、さっき、俺には理由があった方がいいと思ったって言ってくれただろ?」
「うん。」
「断っといてごめんだけど。人を好きでいるのに理由なんてないよね。」
「うん。」
「少なくとも、俺は、ない。だから、どうせなら俺達が付き合う為の理由よりも、片野さんが俺をどう思ってるかの方が聞きたかった。」
 あははは、と、彼女は声を立てて笑った。いつも教室で見せる笑顔で。
「私、松本くんのこと好きだよ。振られちゃったけど。」
「うん。勇気出してくれたのにさ、ごめん。」
「じゃあ、これはあげない。」
 そう言って彼女は、鞄から取り出した包みを抱き締めるようにして窓を開けた。
 一緒に校庭を見下ろすと、海都が玄関を出て行くのが見える。
「武田ぁーーー!! これ、あげるーーーー!!!」
 片野はそう叫ぶと、その包みを海都に向けて振って見せた。
こちらを見上げた海都が手を振り返して笑う。
「それ、大河のじゃねーのーーーーー?」
 大河は黙って、海都に手を振った。
「ここで待ってるから、二人とも、早く降りて来いよ!」
 海都は片野の気持ちを知っていたのだろう。
 きっと、告白されて大河が断ることも。
 なんか、青春っぽいな。響子さんなら、きっとそう言う。
 確信に近い気持ちでそう思って、窓から離れる。
 冬休みが明けて当番の仕事はなくなった。
 誰かが教室の鍵を締める必要もない。
「帰ろ。海都、待ってるみたいだし。」
 大河は、そう言って鞄を掴むと、教室を後にした。

37.理由

 路線の違う片野とホームへと続く階段の前で別れて、海都と並んで階段を降りる。階段の途中、ホームに響子の姿を見つけると海都は「響子さーん!」と呼びかけた。
「おい。」
 慌てて海都を引っ張る大河に「いいじゃん」と笑って海都は階段を駆け下りる。一緒に引き摺られるようにして階段を降りると、響子はこちらを見上げて笑っていた。
「ちーっす。」
「おつかれさまです。」
「おつかれさま。」
 すっかり慣れた挨拶を交わすと、海都は大河の耳元で「俺、やっぱ戻るわ。片野、心配だし」そう言って、今降りたばかりの階段を2段飛ばしで駆け上がって通路の向こうへと消えて行った。
「何? 海都くん、何かあったの?」
 響子は不思議そうな顔をして、海都の消えた階段の先を覗き込むようにして眺める。
「んー。ちょっと。」
「ちょっとって、何?」
「話さなきゃダメ?」
 大河が溜め息をつくと、響子はその顔を覗きこんだ。
「うん。だって、大河くんも元気ないし。なんかあったでしょ?」
「うん。まあ。」
 片野に告白されたことは言いたくないな、そう思うが、響子は真面目な顔をして、こちらの目を覗き込んでくる。
「長い話なら、どこか入るけど。」
「響子さん、俺、そんなに深刻な顔してます?」
「してる。」
 やっぱり、話そう。隠して余計な心配を掛けるよりも、話して呆れられる方がいい。
「……俺、さっき、告られたんです。クラスの女子に。付き合ってって。」
「あら。」
「断りました。」
 きっぱりと断ったと告げる大河に、響子は、眉を顰めて意外そうな顔をしてみせた。
「どうして?」
 こちらを見つめる響子に、貴女が好きだから……なんて言えるわけもなく。今更ながらに、片野の勇気は凄いなと思う。
「俺は、誰かを好きになるのに理由はないと思うんです。」
「うん。私もそう思う。」
「でも、その子は違ったんです。付き合う為にたくさん理由を並べて。でも、一番大事な気持ちは、最後まで言葉にしなかったんです。」
「うん。」
「それって、寂しくないですか?」
「寂しいね。」
 大河は顔を上げて、遠くまでたくさん並んだホームを見る。離れたホームに海都と片野が並んで歩く姿が見えた。すぐに入って来た電車にその姿は隠されて見えなくなる。
――その方が良いと思って。――
 そう言った片野は、自分の気持ちを大河の行動に合わせようとしてくれたのだろう。俺に片野の気持ちがわからないように、片野にも俺の気持ちはわからない筈だ。擦り合わせることもせずに、相手に合わせたつもりの行動は、受け入れ難いと思う。
 恋をすることと、付き合うことは別の問題だ。
 だから本当は、好きになるのに理由はいらないけど、付き合うのに理由があってもいいと思う。
 それでも、響子さんと過ごす時間を重ねるたびに、付き合うことに対するこだわりは減っていった。付き合えたら嬉しいけど、それよりも、相手のことがもっと知りたい。きっと、恋人という肩書きは、身体を重ね独占する為の手段でしかない。
 どちらにせよ、卒業したら会えなくなるのだ。
 遠い場所で連絡が取れない以上、自分達の関係に未来はない。ならばせめて、繰り返す偶然の時間を、笑って過ごせるように。

38.そういう意味

 改札を抜けると、響子はいつもと違う方向に足を向けた。
大河は黙って、数歩後ろをついていく。駅ナカの洋菓子店が並ぶ通りで響子は足を止めてショーケースを眺める。
「大河くんは、何味がいい?」
「えっ?」
「チョコレート、買おうと思うんだけど。」
「うん。」
「何味が好き?」
「何で俺に訊くの? それ。自分のでしょ。」
「うん。そうだけど。いつも同じもの買っちゃうから、参考にしようと思って。」
「じゃあ、苺。チョコはイチゴ味が好き。」
「苺?」
「……変、かな? 子供っぽい?」
「ううん。ちょっと意外だなって。苺のイメージはなかった。変ではないよ。」
「そう?」
「買ってくるから、ここで待っててくれる?」
「いくらでも待ちますよ。」
 響子は、チョコレートの並んだショーケースの前であれこれと店員に伝えて、小さな紙袋を2つ抱えて戻ってくる。大河の前で立ち止まると、ひとつをこちらに差し出して、「これ、あげる」と、笑顔を見せた。
「えっ? ……何で?」
「バレンタイン、当日は会えなかったでしょ。次の日も。だいぶ間があいちゃったけど。」
「うん。」
「だからこれ。遅くなっちゃったけど、あげる。」
「いいの?」
「駄目だったら、渡さないでしょ。……いらない?」
「や、いただきます。……嬉しい。」
 響子の差し出した紙袋に慌てて手を伸ばすと、指先が触れ合った。歩き出した響子に並んで、受け取ったばかりの紙袋を覗き込む。響子は隣で、ふふふと小さく笑うと、歌うように呟いた。
「苺、それと、オレンジとピスタチオ。ほかは私のお勧めのやつ。」
「うん。」
「手作りとかじゃなくてごめんね。」
「……充分ですよ。」
 本当に、充分だ。たとえ、それが義理チョコだったとしても、自分にはもったいないくらいだ。
「大河くん、私ね………」
 何か言いかけた響子はこちらを見上げて、立ち止まった。
目が合って、彼女は少しだけ戸惑うような顔をする。
伸びた前髪と薄い化粧。少し潤んで輝く瞳に自分の姿が映る。
「……何?」
 大河が促すと、響子は瞬きをひとつして、小さく息を吐いた。言い難そうに言葉を選んで、困ったような表情で笑う。
「……んー。……実はね、ちゃんと当日にも用意してたんだけど。」
「もしかして、チョコ? 手作りを?」
「ううん。お店のやつ。こことは別の。」
「うん。」
「でも、全然会えないんだもん。ずっと持ち歩くわけにもいかないし。食べちゃった。」
 その言葉に、大河は笑う。
 響子はその包みをどんな気持ちで開けたのだろう。
 バレンタインの前日に、告白を断ったと伝えた時、響子は少し安心したように微笑んだ。だけど、自分の気持ちを告げたとして、困らせるばかりで相手にされることはないだろう。
 おそらく、彼女は恋人を必要としていない。だから、きっと“これ”は、そういう意味じゃない。それでも、響子が自分のことを考えてくれていたことが嬉しい。
「それ、美味しかった?」
「当然。」
 手元の紙袋の隙間から、リボンの掛かった箱が見える。
「俺、こういうチョコって初めてかも。ケーキみたいにケースからひとつづつ選んで買うやつ。」
「美味しいよ。」
「開けるの、楽しみだな。ありがとう。」
「どういたしまして。」
 響子はホームの電光掲示板を見上げる。
 小さな腕時計で時間を確認すると、暗い線路の向こう側を覗き込む。また一つ、小さな溜息をこぼして。再びこちらを振り返った彼女はいつものように笑っていた。

39.前髪

 前髪を切り過ぎた。
 いや、切ったのは自分じゃなく、いつもお願いしている美容師なのだが。いくら短めが流行りでも、眉ギリギリまで切られるとは思っていなかった。
 いつもより早く仕事を済ませて美容院に寄る。パーマをかけてもらい、毛先と前髪を整える。
 いつもの通りそれだけの予定だった。
「ちょっと重たいから、軽くして明るい印象にしましょう。せっかく整っているんだから、隠すのは勿体ないですよ。」
 そう言って、その美容師は響子の前髪にサクサクとハサミを入れた。彼の腕は確かで他の客からの評判もいい。だから、彼の言う通りそれは「いい感じ」なのだろうと思う。
 ……客観的に見たら。
 長めに揃えて流していた前髪は、スッキリと短めに整えられて、表情の印象も明るく見える。ただ、慣れないだけだ。
 改札を抜けてホームに向かう間、今日は誰にも会いませんように、と祈る。今日、会わなくても、少なくとも明日には会うことになるだろうけど。とにかく、今は誰か知り合いに会う心の準備が出来ていなかった。
だから、ホームに大河の姿が見えた時、響子は迷わず回れ右して、たった今、降りたばかりの階段を登ろうとしたのだった。

「大河!」
 呼ばれて、俺は階段を振り返った。海斗が階段を駆け下りながらこちらに手を振っていた。
 ふと、海都が何かに気付いて足を止める。海都は階段を登り始めたばかりの女性の進路を塞いで、満面の笑みを浮かべた。
 立ち止まったその女性の、後ろ姿。見馴れたコートに白いストール。大きめのハンドバッグにパンプス。背中に下された髪はくるくると綺麗にカールしていて、蛍光灯の光を反射して輝いている。
「響子さん、何してるの?」
 海都に手を振り返しつつ歩み寄り、後ろから話しかける。彼女は一瞬何かに驚いた小動物のように肩を跳ねさせると、固まって、それからゆっくりと振り返った。
「おつかれさま。」
 何かを諦めたように溜息混じりにそう言ってこちらを振り返った響子は、大河を見上げて「あ」と、声をあげた。
「え。大河くん、髪切ったの? めっちゃ短い。」
 問われて、大河は自分の髪に手をやる。
「だいぶ伸びてたから。響子さんも髪切ったんだね。パーマもした? 髪、ツヤツヤ。」
 その言葉に、響子は慌てて前髪を隠す。
 海都がそれを見て、ニヤリとした。
「その前髪、可愛いっすね。」
 海都の言葉に、前髪だけでなく両手で顔を隠すようにした響子の顔と首元が紅く染まる。
「…………変じゃない?」
「隠したら、わからないよ。」
 大河が呟くと、海都が声を立てて笑う。
「大河、響子さん、めっちゃ可愛い。」
 横からそう言ってばしばしと腰を叩いてくる海都を避けながら、大河は響子の手首を掴んでそっと降ろす。
「どうしたの? 響子さん、別に変じゃないよ。」
「本当に、変じゃない?」
 少し俯いたまま上目遣いだけでこちらを見上げた響子の、長い睫毛と整った眉。遠慮がちな瞳。実際、短く切り揃えられた前髪は、響子にとても似合っていた。恥ずかしがる仕草も可愛い。
「可愛い、と、思うけど。」
 そう言って大河は、響子の手を離した。
 響子の頼りなく細い手首。いつまでも顔を隠す仕草に焦れて、思わずその手を掴んでしまったが、響子は抵抗しなかった。俺、今の、ちょっとキザ過ぎたかな……そう思うと、急に恥ずかしくなる。目の奥と、耳が熱い。
「……なら、別にいい。なんでもない。」
 響子は赤い顔のまま、大河から目を逸らす。
「俺も。俺も可愛いと思う!」
 海都が大河にまとわりつきながら、はしゃいだ声を上げる。
「海都、ちょっとお前、鬱陶しい。」
 大河が苦笑すると、釣られたように響子も笑った。

40.変わらないもの

 ホームへの階段を降りると、すでに電車は来ていた。
 慌てて手近なドアから乗ると同時に後ろでドアが閉まる。イヤホンを耳に突っ込んで、昨晩、聞き逃した深夜ラジオのつづきを再生する。
 ふと、顔を上げると、いつものドアの横に響子の姿が見えた。こうして遠くから眺めるのって、なんだか久しぶりだと思う。だいたいは改札からホームのどこかで会って一緒に電車に乗り込む。寄り道をしたり、何か話をすることもあれば、挨拶だけでお互い言葉を交わさないこともある。
 無言のその時間も、それはそれで心地よかった。それは、家族とも学校の友人たちとも違う、独特の空気感で。曖昧な関係だけど、俺はそれを失いたくはないと思う。
“好きなんだ。”
 胸の中だけで何度も呟く。気持ちを伝えてこの関係が壊れるのは、こわい。だから、気付かれないように、静かに溜め息を吐いて、視線をそらす。

 響子は相変わらず姿勢が良い。
 いつも同じ場所で、背筋を伸ばして、ずっと窓の外を見ている。時々、ほんのすこしだけ、スッと目を細めて微笑んで。
 彼女は一体、窓の外の何を見ているんだろう?
 最初はドアの横に立つ彼女の姿を、ただ美しいと思っていた。その美しさの正体が、姿勢の良さと彼女の纏う空気だと気付いたのは少し経ってからだ。
 彼女の纏う、清潔で几帳面そうな、凛とした空気。ベージュのトレンチコートにストールを巻いて、真っ直ぐに立つその姿。コートの下は、きっと、シンプルできちんとしたジャケットに白いブラウス。膝丈のスカート。シンプルなパンプス。何かのお手本みたいに、隙のない彼女の着こなし。
 整った眉に、短めの前髪。長い睫毛、少しだけ光る瞼。細く引かれたアイライン。艶のある紅をさした唇。……全体的に薄い化粧。
 特に際立って美人というわけではないが、垢抜けていて笑顔が似合う。
 ―― 人は見た目で相手を8割判断するけど。それでわかるのって、結局、見た目だけだからね。でも、家族でもないならそれで充分。――
 いつだったか、響子はそう言って笑っていた。
 会うたびに、話すたびに、彼女は自由だと思う。自由で、自分の世界が大切で、楽しいことをたくさん抱えて、でもきっと、その心は繊細で。近付かなければ、わからなかったこと。近くにいても、わからない、その気持ち。
 ―― 残り2割のうちの最後の1割を、全部知りたかったら、それは恋。――
 彼女が小さく呟いた言葉が、ずっと頭の片隅に落ちている。

41.甘い企み

「あら、珍しい。」
 響子の声に、こちらを振り返った大河は、太いストローの刺さったプラスチックのカップを手にしていた。
 ピンクベージュの液体に琥珀色の粒が沈んで、大河が口にしたストローで掻き回される。
「タピオカです。いちごミルクティーの。そんなに珍しいです?」
 大河は少し困ったような顔をして、ふにゃりと笑う。
「違うわよ。珍しいのはタピオカじゃなくて、大河くん。」
「え? 俺?」
「あんまり、買い食いとかしないでしょ?」
「ああ。海都が、流行ってるからって。さっき、みんなで行ったんだけど。」
「うん。」
「なんか……飲みきれなくて。」
 思ったよりも甘かった、そう言って大河は、こちらにカップを差し出してくる。
「響子さん、飲みません? ……あ。俺の飲みかけが嫌じゃなければだけど。俺、もう無理。」
 中身が半分以上も残るカップを差し出されて、響子は笑いながらそれを受け取った。「気にしない」と、ストローに口をつける。
 確かに、その苺フレーバーのミルクティは必要以上に甘い気がした。
「タピオカ、流行ってるんだ?」
「うん。……駅前の店、めっちゃ並んでました。」
「へぇ。なんか今更って感じもするけどねぇ。」
 啜りあげたタピオカの粒をモチモチと噛んで、響子はまた複雑な気持ちになる。出会った頃は気にならなかった歳の差が、最近、やけに気になって仕方がない。
「夏くらいからずっと流行ってますよね。」
「あ、ちがう、ちがう。私が高校生の頃にも流行ったの。タピオカ。」
「えっ!? そうなんです? じゃあ、一緒ですね。」
「何が。」
「高校生の時に、流行ったものが。……一周してますけど。」
 一周。響子はアハハと笑って、大河は良い子だな、と思う。
 高校生の時に流行ったものが同じ……か。
 いつか遠い未来に、この話をすることがあったら、“高校生の頃、流行ったよね”なんて、さも同年代みたいに話したら確かに面白い。
「ところがね、そのあとにもう一回流行った時期があったの。だから流行は二周してる。」
「そうなんだ。」
 ストローを強く吸って、甘い液体と共に粒を咀嚼する。
 流行は巡るのだ。何度も同じところを螺旋階段のように、少しずつ変わってぐるぐると。今は組み合わせる飲み物が選べるらしい。私の時は、普通のミルクティーしかなかった……。
 大河は、何か思いついたような顔をして、響子を覗き込んできた。「何?」と呟いて顔を上げると、彼はイタズラな笑みを浮かべて口を開く。
「ちなみに、タピオカの次は何が流行ったんです?」
「んー。ええとねぇ……アレ。……ナタデココ。」
「なたでここ?」
「なんか半透明で四角くて……コリコリとグニャグニャが共存した感じの……」
「響子さん……ごめん、それ、ちょっとわかんない。」
「ココナッツの何か。」
「それ、次も流行るかな……」
「大河くん、何考えてるの?」
「海都に勧めたら面白いかと思って。」
「知らない顔して?」
「そう、預言みたいに。流行を先取りする。」
「外したらどうするの?」
「ただのマイブームで、無かったことにする。」
 顔を見合わせて笑うと、響子は思い出した。その後に定期的に流行るいくつかの甘味を。
「あとはねぇ、パンナコッタとクリームブリュレ、フレンチトースト、ラスク。クリームの挟まったメロンパン。それから、ふわふわしたワッフル。」
「ベルギーワッフルじゃなくて?」
「うん。パンケーキみたいな柔らかいやつ。」
「へぇ。」
「あ、これだけあったら、ひとつくらい流行るのあるんじゃない?」
 響子は視線だけで大河を見上げる。
「ラスクは去年、流行った。フレンチトーストはお店が増えてる。」
「あら。」
「他に、甘くないやつある?」
「……ない。」
「ないか……。」
 残念そうな大河を横目に、響子は最後の粒を吸い上げた。
「大河くんは考えが甘い。だって、スィーツの流行だもん。」

42.未知の生き物

 駅のホーム。ベンチから離れたところにぽつんと設置された自動販売機のボタンを押し、カードをかざす。
 ゴトンと音を立てて取り出し口に落ちたボトルを拾おうとして、不意に後ろから抱きつかれた。
 身体に回された手首が臍の上辺りで交差している。小さな手がジャケットの裾を掴むような仕草で振り解かれまいと主張する。細い指先と薄いピンクに塗られた爪。
 乱暴に上げそうになる声を飲み込んで、首から上だけで振り返ると、響子がこちらを見上げて満面の笑みを浮かべていた。
「大河くん、一緒に帰ろ?」
「わかった。わかったから、ちょっと離れてください。」
「ヤダ。」
「水、買ったんで、それ取る間だけ。」
「ヤダぁ。だって、大河くん、逃げちゃうもん!」
「逃げないですよ。」
 抱きつかれたことに、嬉しさよりも苛立ちが勝った。大きく溜息をつくと響子にしがみつかれたまま、屈んでボトルを取り出す。
「だって、さっき逃げたじゃない。」
「逃げたんじゃなくて、“荷物あるからちょっと待ってて”って、そう言ったじゃないですか!?」
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない。」
「怒ってるじゃん!」
「じゃあ、もう、それでいいです。」
「なんで怒ってるの?」
「だから……」
 怒ってない、と言おうとして、いや、怒ってるな、と思う。
 最終の飛行機で実家から戻り、いつもの駅で空港からのバスを降りたところで、コンビニから出てきた響子に会った。
 会えて嬉しかったのは、一瞬だった。
 響子は完全な酔っ払いで、既に未知の生き物のようだった。
大河はもう一度大きく溜息をついて、片手に持ったペットボトルを見つめる。
 背中に触れる響子の体温。あいた手で彼女の手首を掴み、引き剥がすようにして向き直る。
「うわ。酒くさ。……一体、何をどれだけ飲めば、そんな状態になるんです?」
「えっとねぇ、覚えてない。……6時前から飲んでたの。夕方の6時。」
「今、11時半ですよ。もうすぐ日付け変わりますよ。分かってます?」
「うん。」
「で、何であんな場所に、ひとりでいたんです?」
「だって、みんなオネエちゃんの居る店に行っちゃって。」
「なるほど。」
 一緒に飲んでいた会社の男性達はキャバクラか何か、そういう店に行ってしまったのだろう。
 呆れた。
 響子はきっと、ひとりで帰れると言い張ったのだろう。それでも酔った女性を一人で駅前のターミナルに残し次の店――それも、別な女性達のいるような店――に、向かったという男性達にも呆れる。
「コーヒーでも飲んで帰ろうと思ったんだけど。なんか、面倒くさくなって。」
「それで、コンビニ入って、何でプリンとお菓子買ったんです?」
「なんとなく。あ、大河くん、食べる?」
「食べない。」
 間髪いれずに返事をすると、ペットボトルのキャップを開けて響子に渡す。
「とりあえず、それ、飲んで。」
 荷物を置きっぱなしのベンチに戻ると、響子は慌てて後をついてくる。まるで、カルガモの雛みたいだ、とぼんやり思った。
「まって。おいてかないでよ。」
「置いていかないですよ。荷物取りに戻るだけ。」
 自分の荷物と響子の荷物をまとめて持ち、腕を組もうとする響子を避けて、その手を繋ぐようにとる。
「電車、一緒に降りて、家まで送ります。」
「ううん。いい。だいじょうぶ。」
「大丈夫じゃないでしょ。」
「だいじょうぶ。送ってもらったら、大河くんの帰る電車、無くなっちゃう。」
 なんで、そういうところだけ、しっかりしているんだろう……。
「まだ時間あるし、終電に乗れれば平気なんで。」
「じゃあ、改札まで。」
「響子さん。もし一人で帰らせて、帰り道で響子さんに何かあったら、俺は後悔します。今日のことをずっと。」
「大河くんに家まで送ってもらっても、何も無いって保証はないでしょ。」  
「……は?」
「だって。私、オバサンだけど一応女だし。一人暮らしだし?大河くん、若い男の子だし?」
 響子はこちらを見上げてまた嬉しそうな顔をする。
 それはつまり、俺が彼女を……。全く信用されていないのか、過剰な期待をしているのか、そもそも彼女が何を考えているのか、掴みどころがない。
「響子さんは、俺が、酔った相手に手を出すような人間に見えるんですか。」
「見えないけど。でも、断れないでしょ。」
 さも当然というように、大河の言葉じりに被せる様にあっさりと言い放った響子の返答に、叫び出したくなった。
 一体、なんなのだろう。
 繋いだ手は指先まで温かく、響子はニコニコと嬉しそうで、でも、やんわりとした拒絶の言葉を並べる。それが、なんだかとても腹立たしい。
 きっと、彼女が酔っ払いで、その笑顔は相手が自分だからじゃない。だから苛々するのだ。全部アルコールの所為だ。
 ホームにアナウンスが流れる。大河は溜息をつくと暗い線路へと視線を落とした。遠くから明かりが近づいてくる。
「酔っ払いがみんな無害とは限らないじゃない。」
 響子は笑顔のまま、そう言った。
「それは、俺も全く同じ意見です。」
 彼女の言う言葉の意味は、きっと、大河の思う事とは違うものなのだろうけど

43.それぞれの朝

「やっっっっっちまった……。」
 ベッドの上で身体を起こして、毛布に包まったまま、響子はたっぷり溜め込んだ深い息をついた。
 昨日は夕方から会社の飲み会だった。キャバクラに行くという部長達と別れて、ひとりでコンビニに寄ったところで大河と会った。彼が何故、そんな時間にそんな場所に居たのかは響子にはわからない。が、つい嬉しくなってしまって、気が緩んだ。抱きついて甘えて、ひとりで帰ると駄々を捏ねて、心配だから送ると言い張る大河にまた甘えて、結局、アパートの隣のコンビニまで送ってもらった。
 そこまでは、曖昧だが、覚えている。
 頭が痛いのは、飲み過ぎたせいか、それとも部屋の惨状のせいか……。
 顔をあげ、部屋を見渡す。床に脱ぎ捨てられて、部屋中に散らばった昨日の服と下着。中身の半分出た鞄。ベッドのサイドテーブルの上に、飲みかけのペットボトルの水と、袋のスナック菓子、室温でぬるくなったプリンが6個、並んでいた。
「なに、これ。」
 悪い癖だ。酔うと甘いものが食べたくなって、コンビニに寄ってしまう。それはいつものことだ。
 問題はその数だった。
 6個のプリンのうち、2つは駅前のコンビニのものだ。残りの4つは、アパートの隣のコンビニのラベルが貼られている。
「……待って。覚えてないんだけど。」
 大河にコンビニまで送ってもらって、それからどうしたっけ……?大河が来た道を戻るのを確認してコンビニに入った?それとも、大河と一緒にコンビニに入った?
 そもそも何で、私は裸のまま寝ていたのだろう……。もしかして、私はこの部屋に大河を招いたのだろうか……?
 そこまで考えて、いや、それはないな。と、思い直す。
 大河はそういうタイプではない。奥手だから……などという理由ではない。どちらかというと潔癖で真面目な彼は、酔った相手に手を出すようなことはしないだろうと思う。
 棚からぼた餅が出てきても、食べずにそっと元の場所にしまうタイプ。ちなみに、二階から目薬は避けるタイプ。
 万が一、大河がこの部屋に上がっていたとしても、こんな惨状にはなっていない筈だ。
 そう結論づけて、響子はそれについて考えるのをやめた。

***

 眠れないまま外が明るくなってしまった。
 酔った響子を駅前で拾って、アパートの最寄りだというコンビニまで送ったのはいいが、やはり、部屋まで送り届けるべきだったと思う。終電なんて逃してしまっても、少し遠いが歩いて帰れない距離でもなかった。
 どうせ眠れなかったのだし。

 昨晩。コンビニの前で手を振った響子は、そのまま吸い込まれるように店内に入って行った。その背中を見届けて、来たばかりの道を駅まで走り、終電に飛び乗る。家に帰ると、叔父が玄関先でぐにゃぐにゃになって眠っていた。
 こうなることは、なんとなく予想が出来ていた。
 叩き起こしてリビングまで運び、叔父の形をした未知の生き物に水を飲ませる。
「叔父さん、この状態でどうやって帰ってきたの?」
「んぁー。そりゃ、んー。」
「叔父さん、人間の言葉でお願いします。」
 大河は、泥酔した叔父の顔を見る。おそらく、響子に酒を飲ませたのも、一人で帰したのも、この人が真犯人なのだろうと、察しがついた。
「呆れた。……ほんと、情けない。」
 思わず呟いて、溜め息をこぼす。
 酔っ払いは外ではどんなにしっかりしていても、気が緩んだ瞬間に酔いが回ってスイッチが切れたみたいに未知の生き物になる。叔父や叔母、親父がそういうタイプだった。家に帰りついた途端に、ぐにゃぐにゃになって、人間の言葉を発しなくなる。
 響子さんは、ちゃんと部屋まで帰りついて、ベッドで眠れているのだろうか……? 流石に道端で寝てるってことはないだろうが、廊下で寝てるくらいはあり得る。
 せめて、響子の連絡先を知っていたら、メッセージのひとつも送って、安心して眠れたのだろうけど。
 叔父のことはソファーに放置して、自室に戻る。
 ベッドに横になって、ぼんやりと響子のことを考える。洋服越しの体温とか、柔らかそうな唇とか、小さな掌とか。気がつけばそんなことにばかり思考が行き着いてしまう。
 酔って隙だらけの彼女を見て“抱きたい”と一瞬でも思ってしまった。きっと今なら響子さんは俺を拒絶しないだろうと。でも、それはフェアじゃない。そんな自分に苛々する。
 無邪気な笑顔で抱きついてくる彼女の体温。洋服越しでもわかる、細くて柔らかな身体のライン。あの服をはだけて、その肌に触れることが出来たら。俺を受け入れて、彼女はどんな声をあげるのだろう……? どんな表情で、俺を見るのだろう……。
 やり場のない気持ちに自分を慰めながら、罪悪感に苛まれる。

 廊下越しに叔母の足音が小さく聞こえて、もう朝なんだな、と思う。
「疲れたな……。」
 今日、何度目かの溜め息をこぼして、大河は目を閉じた。

44.青春を取り戻せ

「大河くんのお母さんって、どんな人?」
「うーん…。ふつー。ふつーの母親だと思う。少し痩せてる。料理と編み物が趣味。」
 質問の意図を汲み取れず、返答に困って“普通”と答えると、響子は少し苦笑した。
「お父さんは?」
「……仕事が好きで、スーツよりも作業着の方が似合う。」
「なるほど。大河くんはお父さんに似たんだね。」
「似てないよ。俺、母親似。親父、チビ・デブ・ハゲで役満だもん。」
 彼女は、ちらりと俺の足元を見て、それからまた俺の顔を見上げる。
「見た目じゃなくて、お父さんの仕事好きってところ。大河くん、勉強好きでしょ。」
「あー。まあ、嫌いな教科もあるけど。調べるのとか好きだし。」
 実際、見た目は母に良く似ていると思う。自覚はないが、性格はきっと父譲りなのだろう。勤勉で家族思いの父だが、あの見た目で、母の心をどうやって射止めたのか、不思議に思うことも多い。――大河は、いいとこどりして生まれたんだな――と、叔父は笑うが、自分では父に似なくて良かったと結構本気で思っている。
 響子さんの家族は、どんなだろうか?
「響子さんは?」
「んー。お母さんはよくわかんない。」
「よくわかんない?」
「嫌い過ぎてもう、十五年くらい会ってない。」
 想定外の返答に、戸惑ってその横顔を見る。彼女はまっすぐに遠くを見ていた。いつもの笑顔でも、不満に膨れた表情でもなく、ただただ無表情で遠くを見ている。
「……う、うん。……親父さんは?」
 大河の問いに響子は表情を緩める。
「お父さん? 勝手だよ。身勝手過ぎてさ、こっちも十年くらい会ってない。」
「えっ!?」
「どこにいるのか、わからないんだよねぇ。連絡はたまに来るから、元気なんだろうけど。」
 いつもの柔らかな口調で。それでも、心底どうでも良さそうに言い放った響子に、失礼なことだとは思いつつ驚きを隠せなかった。
「……それでいいの?」
「何が?」
「……や、よくわかんないけど。家族って、それでいいのかな? って。」
「別に。困ってないし。みんな大人なんだから、自分の面倒は自分で見るでしょ。」
「寂しくない?」
「全然。清々してる。……私は、あんな風にはならない。」
「うん。」
 思わず口をついて出た疑問に、響子はしっかりとした口調で、あんな風にはならない、と笑った。
「ちゃんと社会人して、自分のことも大事にして。他人には求めない。もちろん、家族にも。自分以外の誰かが、自分の思い通りになるなんて、思わない。」
 その決意が、彼女の優しさや自由さの理由の全てなのだ。ふと、だからいつでも彼女は自分の機嫌を自分でとっているのだと気付いた。なるべく、楽しく快適に、誰よりも自分が納得出来るように。
 きっとそれは、そうならない期間があったからなのだろう。
「……響子さんのお母さんは、求める人だったんだね。」
「うん。だから、家を出るまで窮屈だった。」
「うん。良かった。響子さんが自由になれて。」
「あのね。……夢をみたの。高校生の頃の夢。夢じゃなくて、辛かった記憶かな。」
「うん。」
「起きたら、大河くんを思い出したの。……私ね、大河くんがちょっと羨ましかった。」
「俺? 何で?」
「親元を離れて好きなように勉強して、やりたいことやって。自分で決めた進路に向かっていくのが、羨ましいなって。」
「うん。」
「目標なんてないのに。他人の決めた道を怒られながら進んで。失敗したら自分のせいで、上手く出来てもそれが当然で。」
「…… うん。」
 足元を見るように俯いて、ゆっくりと膨らんで静かに溢れ落ちる彼女の感情。
「勝手に期待されて、でも出来なくて。すごく、すごく嫌だったの。…… 今は、自由だけど。でも、もっと早く、逃げればよかった。」
「うん。」
 掛ける言葉は見つからない。ただ、抱きしめたい、と思った。出来るなら。中高生の頃の響子さんに“大丈夫だよ”と伝えたい。
 “逃げても大丈夫。何も心配いらないよ。響子さんは自由がよく似合うんだ。だから、笑ってよ。”
 手を伸ばして彼女の髪にそっと触れる。手のひらで頭を包むように撫でると、響子がこちらを見上げた。
 見た事もない制服を着た幼さの残る響子の姿が、スーツの彼女に重なる。その顔を直視出来なくて視線を逸らす。
「ごめん。響子さん。」
 小さく一言、謝ってから、その肩を抱き寄せた。
 背中に手を回して、ぎゅっと腕に力を入れる。俺が悲しい気持ちになったところで、響子さんが救われるわけじゃないけど。
 響子も大河の背中に手を回して、そっとトントンと背中を撫でるような仕草を返してくる。
「ありがとう。大丈夫だよ、私は。」
「……それなら、いいんだけど。」
 身体を離すと、響子は大河を見上げて口元だけで微笑む。
「大河くんが泣くことないでしょ。」
「……泣いてないし。」
 手の甲でぐっと目元を拭うと、顔を上げる。ホームの案内表示を大袈裟に見上げて、瞬きを繰り返すと、滲んだ視界はすぐにもとに戻った。
「ねえ、たこ焼き食べに行こう? ハンバーガーでもいい。」
 明るい口調の響子の声。振り返るといつもの響子がそこにいる。
「今から?」
「うん。今から。……私ね、高校生の頃、学校帰りに友達と買い食いするとか、夢だったの。」
「それ、断れないヤツじゃん。」
「いいでしょ? 鈴木響子の青春を取り戻すの。」
 ケラケラと楽しそうに響子が笑うのを見て、大河もつられて笑った。

45.満員電車

 大河の腕の中で目を瞑る。
 小さなリズムで揺れる彼の身体は暖かく、妙に心地が良いと思う。
 いつもの位置に乗り込んだ時は、まだ電車は空いていたのに。気付けば超満員の電車で、響子と大河は向かい合っていた。最初は壁に手を突くようにしていた大河は、今は響子を抱きしめるように、背中と腰に手を回している。
 ぎゅうぎゅうに押し込められてそれ以上のスペースを確保するのは難しい。それでも、最低限の空間で、肘を張り、響子を潰さずに守ろうとその身体を抱き寄せる大河の仕草は優しかった。
 制服のシャツ越しでもわかる、骨格と筋肉。先日、抱きしめられた時には気付かなかったが、大河は、見た目よりもずっとがっしりした肉体をしている。その体格は高校生と言えども既に大人の身体となんら変わりはない。
 響子の耳に顔を寄せて大河が「ごめん」と呟く。
「どうしたの?」
「俺、汗くさいかも……」
 申し訳なさそうな大河の声に、何故か鼓動が早まる。
 昨晩から急に気温が上がって、今日はみんな薄着だ。ぎゅうぎゅうとすし詰めになった車内はジャケットを脱いでも暑いくらいだ。
 それまで意識することのなかった大河の匂い。大河の着たシャツから漂う洗剤の仄かな香りに、彼の匂いが混ざる。
「そんなことないよ。大河くん、男の人の匂い。」
 響子が囁くように返事をすると、大河は「えぇ…」とも「うん…」ともつかない、戸惑うような妙な声をあげた。
「なんでだよ……」
 小さく小さく呟いた大河の言葉は、自分に向けられたものではなく、独り言のようだ。
「なに?」
 聞き返そうとして顔をあげると、大河と目が合う。同時に、臍の下に熱の塊を押し付けられるような違和感を感じた。慌てて目を逸らした彼の仕草で、その熱の正体に気付く。
「あ……あの……俺。……響子さん、ごめん。嫌だろ? 降りて次の待とう?」
 響子がそれに気付いたことを察して、大河は申し訳なさそうにそう提案してくる。
「駄目。降りたら次の電車がいつ来るかわからないし、多分、帰れなくなるよ。」
 年頃の男の子だ。相手が自分とはいえ、こんな風に女性と密着していたら、そういうこともあるだろう。
 私の、このドキドキも伝わっているのだろうか……。顔を見られたくなくて、俯くように大河の胸に顔を埋めると、大河はもう一度小さな声で「ごめん…」と呟く。
「大丈夫。嫌じゃない。生理現象は仕方ないでしょ。」
 そのままそう言って、目を閉じる。電車が揺れる。こんなに詰まっているのになお、降りるよりも乗る人の方が多い。大河のそれは熱を帯びたまま、響子との間で存在を主張している。
互いの匂いと体温に包まれて、人混みに動くことも出来ず、ただじっと抱き合って、その波をやり過ごす。
 あと3駅。響子の降りる駅まで行けば、乗るよりも降りる人の方が多くなる筈だ。終電に近くなって再開した電車は、後続がいつ来るのかわからない。ひとりだったら、とっくに帰るのを諦めて会社の近くに宿をとっていた。
 自分はともかく、大河を家に返さねば、親御さんは心配するだろう。それに、大河の腕の中は、なんだか安心できるのだ。
押し付けられたそれだって、こんな状況でなければ受け入れてもいいとすら思える。
 きっと彼は、そんな状況を作ろうとはしないだろうし、受け入れててもいいだなんて、本人には口が裂けても言えないけれど。
 人混みに押されて成す術もないまま、響子は顔を上げた。
「どうしたの?」
 至近距離で見つめ合う形になり、不安そうな顔でこちらを窺う大河に、そっと耳打ちをする。
「満員電車がちょっと楽しいなんて思ったの、初めて。」
 響子の言葉に大河は呆れたように顔をゆるめた。
「何それ。ヘンタイじゃん。」
 揺れる電車の中で押しつぶされながら、二人でくすくすと笑い合う。

46.誤解

「響子さん、ごめん!」
 拝むように手を合わせて頭を下げる大河を、まっすぐに見下ろして、“この子、つむじが2つあるんだな……”と、どうでもいいことを考える。
「べつに。大河くんが謝るようなことじゃないでしょ。知らんけど。」
「でも、俺が、周りが見えてなかったから。響子さんに迷惑かけたでしょ?」
 今も周りが見えてないでしょ。冗談も通じないし。思わず苦笑するが、大河にはそれすらも見えていないようだった。
「あのね。……今、ここで。人通りの多い駅のホームで。制服を着た高校生にデカい声でひたすら謝られる方が、ずっと迷惑だけど。……目立つし。」
「あっ! ……ごめん……。」
 慌てて顔をあげて、今度は小さい声で呟くように謝る大河を見て、響子は何度目かの溜め息をついた。さっきから、通行人の視線が刺さる。無遠慮にこちらを振り返る人までいて、みんな他人の痴話喧嘩の何にそんなに興味があるのだろう? と、訊いてみたくもなる。
「で。何で私、謝られてるの?」
「……学校のやつらに、見られたんです。俺が、女の人と抱き合ってたって噂になってて。」
「抱き合ってたの? 女の人と。へぇ。」
 わざと冷たい声を出して視線を逸らすと、大河は慌てたように手を動かしてその視線の先に回り込んでくる。
「まって。響子さんだよ? 他に居ないよ?」
「うん。知ってる。……で?」
「海都が、余計なこと言っちゃって。」
「うん。」
「そしたら、あいつら“その人、見かけたら、声かけてもいい?”って。駄目って言ったんだけど。」
「海都くんは何て?」
「響子さんのこと“ただの友達。彼氏は居ない。大河は相手にされてない”って。」
「へぇ。」
「いや、まあ、……事実だけど。」
「ふぅん。事実なの?」
 響子の適当な返事に、大河は慌てたり言い訳したりと忙しい。必死な大河のリアクションがだんだんと面白くなってきて、顔に出ないように笑いを耐えた。
「響子さん! ……まって。それ、なんの話です? 事実じゃないの、どこ? どれ!?」
「いいじゃない。べつに。……たいしたことじゃないし。」
「よくないです。俺には重要なんです。」
 目撃されたのがいつのことかは知らないが、大河に抱き付いたのも、抱きしめられたのも、事実だ。
 響子に彼氏が居ないのも、大河を友達のひとりだと思っているのも事実だ。
 大河のことを恋愛対象として相手にしていないわけではないけど、それは、きっと彼には伝わらない。……伝わって欲しくもない。
「よくわかんないけど。つまり、大河くんと私が抱き合っていたのを学校のお友達に見られて、大河くんがからかわれたってことね。」
「うん。……うん? ……俺、からかわれてる?」
「だって、相手は私のこと知らないでしょ?」
「まあ、目撃したやつじゃなければ。」
「ほら。声かけようがないじゃない。」
「……変なやつに絡まれたりしてない?」
「してない。今、大河くんに絡まれてる以外は。」
「俺、変なやつ?」
「側から見たら。」
「響子さん、俺、迷惑じゃない?」
「……ごめん。今は、ちょっとだけ、迷惑。」
 こちらを見て、絶望的な顔をする大河の表情があまりにも不憫で思わず吹き出した。
「うそうそ。大丈夫。迷惑じゃないよ。」
「ほんとに?」
「ほんとに。いいじゃん、噂なんてどうでも。それに、たとえ、話かけられても迷惑だと思うのは大河くんに対してじゃないよ。」
「……うん。」
「私のことは気にしないでも大丈夫だよ。……それより、大河くんこそ、迷惑だったんじゃない? こんなオバサンと誤解されて。」
 高校生って、恋愛とか噂話とか気にする年頃だよね。きっと、相手が見るからに年上だったから、からかわれたんだろう。そう思うと、急に申し訳なく感じて俯く。
「響子さんはオバサンなんかじゃないです。」
「そう? でも、誤解されて迷惑だったんじゃないの?」
「そんなことないです。」
「そう。てっきり、自分が嫌だったから私も嫌だろうと思って謝ったのかと思った。」
「違います! ……ただ、迷惑かけたら嫌だなって。」
「大河くんて、苦労性よねぇ。」
 まっすぐにこちらを見つめる大河を見て、響子は思わず呟いた。先回りし過ぎて起こらぬ迷惑を心配する姿は、しみじみと優しいなと思う。

47.プレゼント

「なあ、どんなのが似合うと思う?」
 駅前の商業ビルの雑貨店。小さなピアスが並ぶ展示台の前で、キラキラと光るそれを大河はひとつづつゆっくりと眺める。
「自分で選べよ。俺が選んだら意味ないじゃん。」
「うん、そうだけど。」
 もうすぐホワイトデーだった。バレンタインのお礼を言い訳にして、響子さんに何か贈り物を……そう思って、アクセサリーを見にきたが、イマイチぴんと来ない。
 彼女はいつも、ピアスとネックレスを揃いにして3種類くらいをローテーションしているようだった。指輪はどの指にも着けていない。
 海都は隣で、髪留めのコーナーを見ている。
「シュシュって意外と値段するのな。」
「そう、それ、俺も思った。」
 振り返って、同意すると、海都は笑って「いっそ、ペアリングにしたら? 響子さんへのプレゼント」と、展示台の上でカゴに積まれたリボンと布の塊を眺めて手に取る。
「それじゃプロポーズみたいじゃん。そんなんじゃねぇよ。」
「冗談だよ。」
 海都は珍しく真剣な顔をしてシュシュや髪留めをいくつか選び取り、レジに向かう。「それぞれ別のラッピングを」と、店員に伝えるのが聞こえた。
「大河は? 決めた?」
「うーん……やっぱやめ。」
「え。」
 どんなものが好きなのか? 高校生の自分が小遣いで買えるようものを、大人の響子さんが喜んでくれるのだろうか……? そもそも恋人でもないのに、アクセサリーなんて、迷惑じゃないだろうか……? もしかして、俺、重すぎる? 考え出したら、キリがないなと思う。
「残るものはやめよう。」
「今、残るもの買った俺にそれ言う?」
「海都のは、お姉さんとか叔母さんの分だろ?」
「うん。あと、片野の分も。」
「ああ、そうか、片野さん。」
 大河は、ひと月前に片野の告白を断ったことを思い出す。海都と片野は、あれからなんだか距離が近い。何も言わないが、きっと海都は上手くやっているんだろうと思う。
「そもそも、残らないものって何だよ」
「ホワイトデーだし無難に、お菓子とか、消耗品。……あ。ハンドクリームとか。」
 ふと、叔母がよく使っているハンドクリームを思い出す。
 綺麗なラベルのついたアルミのチューブに入ったそれは、季節ごとに違う香りの新作が出る。プレゼントとしては、多分、定番だろうけど。響子のポーチには、叔母が使っているものと同じ店のものが入っていた。それなら、間違いなく貰っても困らないだろう。
「ハンドクリームいいじゃん。あれだろ、あのいい匂いする店の。」
「そうそう。」 
「行こうぜ。俺も買い物あるし。あそこのシェービングクリーム好き。」
 大河の思い付きに、海都は自分のことのように嬉しそうな顔をしていた。
「海都、剃るほど生えてなくね?」
「いや、鼻の下と顎の先だけ生えるんだよ。伸ばしてもダンディーな髭には程遠いけど。」
「俺も使ってみようかな。最近、濃くなった気がする。」
「黄色いのより、青い瓶のがお勧め。」
「何が違うの?」
「……匂い?」
「他にあるだろ?」
「あ。クリームとか泡の固さが違う。」
「それ、ほとんど全部じゃん?」
 大河のツッコミに海都はアハハと笑って、それから真顔になった。
「大河、おまえ、なんか響子さんに似てきた。言い方とか。」
「そう?」
「もっと愛想無かっただろ。……まあ、いいけど。」
 似てきた、と、そう言われて大河は俯く。考えないようにしていたが、響子さんに会える日は、あとは数えるほどもない。
「プレゼントちゃんと渡せよ。あと、いい加減に連絡先も訊けよ。」
「それはいいよ、もう。」
「それ、一生後悔するだろ。」
「……どうかな。」

48.目先の幸福

「響子さん、これ。」
 大河は小さな紙袋を響子に差し出す。
 紺地に白抜きのショップロゴ。赤いリボン。中にはラッピングされたハンドクリームが2本入っている。ひとつは定番の、甘いブーケの香り。もう一つは限定の、フルーツの混ざった紅茶に似た香り。どちらも響子の凛とした立ち姿に似合う香りだと思って、大河が選んだものだ。
「ん? 何? これ。」
「ホワイトデーだし、あと、お世話になったから御礼。」
「うん? 私に?」
「そう。明後日、卒業式だし。もういつ会えるかわからないから。食べ物は響子さんの方が詳しいから、何がいいか悩んだんだけど。これ、中身、ハンドクリーム。……迷惑じゃなかったら、受け取って。」
「うん。ありがとう。」
 伝えるなら、今しか、ない。深呼吸を一つして、それから勢いだけで口をひらいた。
「あのさ、響子さん。俺……響子さんが、」
「大河ー!!」
 好きなんだ、と言いかけた言葉を飲み込んで、声の方へと視線を向ける。海都が手を振りながら階段を降りてくるのが見えた。
 海都の隣で、片野が笑っている。
 海都、お前さ、もうちょっと空気読めよ……と、胸の中だけで呟いて大河が手を振り返すと、片野は何かに気付いたように振りかけた手を止めた。表情からスッと笑顔が消えて、瞬きを繰り返す。
「おつかれさまでーす。」
「海都くん。おつかれさま。」
 振り返った響子は微笑んで、海都の隣に視線を向ける。
 響子が何か言い掛けるのと片野が口を開くのはほぼ同時だった。
「……誰?」
 若干の警戒心が透けて見える片野の言葉に、響子は柔らかな笑い声をこぼした。
「はじめまして。鈴木響子です。安心して。海都くんとは、ただの友達よ。」
 片野は不機嫌そうに眉根を寄せて、大河を見上げた。
「松本は?」
「大河もただの友達。」
 答えたのは響子でも大河でもなく、海都だった。
「……知らんけど。」
 3人分の視線を浴びて、海都は付け加えて笑う。
 片野は不機嫌な顔のまま、響子は苦笑を浮かべて海都を見ていた。俺は、今、どんな顔をしているのだろう……。
「そう、ただの友達。」
 動かない表情筋を無理矢理に動かして、大河はそう言って笑った。ただの友達。たった今、告白を遮られたうえ、その犯人に現実を突きつけられて、悲しいやら情けないやら、わからなくなる。
 でも、これは片野の気持ちを知っている海都なりの助け船なのだろう。
「海都くん、こんな可愛い彼女いたんだねー。やるじゃん。」
響子は海都と片野を見比べて、楽しそうな声を上げる。
「あ、私、片野っていいます。なんか、色々、ごめんなさい。」
 片野が名乗って響子に片手を差し出すと、響子は迷わずにその手を引いて一瞬抱きしめた。
「片野さん、海都くんは友達思いの優しい子よ。」
 小さな声で呟くようにそう言うと、響子は片野を解放して、大河と海都を振り返る。
「みんな卒業なのね。」
「うん。」
「寂しくなるなぁ。」
「響子さんが寂しくなるとか、あるの?」
「あるわよ、流石に。」
 海都の言葉に響子は笑って歌うように言葉を零す。
「別れはいつだって寂しいし、少し嬉しい。」
「嬉しい?」
 聞き返して、海都と片野は顔を見合わせて首を傾げる。
「こういう門出みたいな別れって、寂しいだけじゃなくて。きっと、ずっと先の幸福に繋がっているでしょ? ……だから、嬉しい。」
 響子さんはきっと、相手の未来が幸福であると心から信じて、それを願っている。
「ずっと先の幸福。」
 伝え逃した気持ちを胸の奥にしまいこんで、大河は響子の言葉を繰り返す。
「うん。きっといろんなことがあるよ。あ。そうだ。ちなみに、今の私の目先の幸福は、これ。」
 響子は片手に提げた小さな紙袋を二つ、目の高さに掲げて見せた。大河の渡した赤いリボンの掛かった袋と、クリーム地にゴールドの猫のロゴが入った洋菓子店の袋。
「何買ったんです?」
「フランボワーズチョコレートのムースと、チーズプリン。」
「甘いものばっかり。」
 大河は咎めるように呟いて、笑う響子を眺めた。
 思わず笑みが溢れる。彼女の“目先の幸福”に、自分の贈り物が含まれていることに嬉しさが隠しきれない。
「あ、その袋! そのプリン、限定のやつですよね? この辺にお店あったんだ!?」
 片野が目を輝かせて響子の紙袋を見た。さらりとした紙質の袋に箔押しされているのは、向かい合って座り鼻先を合わせた二匹の猫のシルエット。尻尾がハートを描いている。いかにも女子が好みそうなパッケージ。
「そう、今ね、駅ナカに出店してるの。真ん中の階段の横のところ。」
「チーズプリン、まだありますかね?」
「さっきは結構残ってたよ。」
「ほんと!? いいこと知った! ありがとうございます! ねえ、武田、戻ろ?」
「えっ!? ちょっと!? ちょっと、待って!」
 走り出す片野を、海都が追いかけて階段を登って行く。
 階段の上から手を振る片野に、響子と並んで手を振り返す。二人きりでホームに取り残されて、嵐みたいだったな、と思う。
 中断した言葉の続きを伝える気にはなれなくて、小さく溜息をついた。

49.卒業

「ねえ、卒業式の帰りって、そうやって一人で帰るもん?」
 制服の胸に花を差したまま電車を待っていた大河は、前置きなく話しかけてきた響子を振り返って笑った。
「仕方ないじゃん、叔父さんも叔母さんも仕事だし、海都は女子に囲まれてカラオケに連れて行かれたし。」
「一緒に行けば良かったのに。」
「いいよ。さっきまで一緒だったんだ。昨日も遊んだし。それに、俺、カラオケってそんなに得意じゃない。」
「女の子は?」
「学校の女子はあんまり。あ、女性に興味ないわけじゃないよ。一応。そういうわけじゃなくて。みんなで作る思い出って必要?」
「何、その、青年の主張みたいなの。」
「なにそれ?」
「むかーし流行ったテレビ番組。高校生がカメラの前で、学校の屋上から思いの丈を叫ぶの。告白したり、給食の焼き魚を廃止してくれみたいなこととか。」
「くだらな。」
「主張したいこと、ないの?」
「卒業したのに?」
「これからのこととか。」
「……ないかな。」
「ないんだ。」
 電車の中、いつもの定位置に並んで立って、窓の外の景色を眺める。
 大河と会うのは、これがきっと最後だ。
「あ。やり残したこと、ひとつあった。ひとつだけ。」
「なに?」
「響子さんの連絡先、教えてよ。俺、メッセージ送るから。」
「それは……んー。やっぱダメ。」
「なんでさ。もう、会えなくなっちゃうんだよ。」
「どっちにしろ、離れちゃうなら会えないよ。」
「うーん。じゃあ、いいや。……でも、いつか。もし、どこかでもう一度、出会うことが出来て。その時、響子さんがフリーだったら俺と付き合って。偶然、また会えたら運命でしょ?」
 ――偶然てね、偶々、自然に起こるから偶然て言うんですよ―― 初めて話をした夜。ファーストフード店の片隅で、テーブルに突っ伏した大河を思い出す。
 でも、私たちが会うのは、全然、偶然じゃなかった。通勤も通学もある程度は時間が決まっているし、乗る車両だって大体同じだ。
 もし、本当に、どこかで偶然また会うことが出来たら。それは、大河の言うように、運命なのかもしれない。
「でもさ、それ、一体いつの話よ?」
「わからないけど。ダメ?」
「わかった。またいつか。次にどこかで会った時、お互いにフリーだったら、付き合おう。」
 響子の会社は転勤がある。独り身の響子は異動のターゲットにされやすい。数年後……彼がこの駅を訪ねてきたとして、ここにいる可能性はあまり高くない。
 大河とは多分、二度と会うことはないだろう。酷い約束だな、と思う。でも、十代の彼はすぐに忘れるのだろう、不確かな運命なんて信じないで同年代の可愛い彼女を作って、幸せになって欲しい。
 響子の降りる駅が、近づいていた。
 アナウンスと共にホームに電車が滑り込む。ドアの隣に並んで立つ大河を振り返り、「大河くん。卒業おめでとう」と、手を振る。
「……元気でね。バイバイ。」
 そのいつかは、永遠に来ない。だから、最後は笑顔で別れようと、微笑む。
 開いたドアを越えてホームへと降りようとした瞬間、振っていたその手を、強く掴まれた。
「えっ!?」
 グイッと強く後ろに引き寄せられ、顔を上げた響子の頬に大河の鼻先が触れる。
 柔らかく温かな、唇の触れ合う感覚。
「響子さん……」
 耳元で囁く大河の声を搔き消すように発車のベルが鳴る。直後、響く笛の音と共に、突き放すようにポンと軽く肩を押されて、響子はホームに押し出された。
『ドア ガ シマリマス……』
 呆然とする響子の前で閉まるドア。その小さな窓から覗いた大河が、指先をパタパタと動かす仕草で手を振る。
「また、いつか、どこかで。」
 大河の唇が、呟いて微笑んだ。
 電車がゆっくりと動き出し、遠ざかる。
 その姿を見送って、ホームに立ち尽くす。
 人波が階段に吸い込まれ、ホームには響子ひとり取り残された。停止した思考の中で、大河の声が「響子さん」と呟いて消える。耳の中に、響く発車のベルに混じって大河の言葉が小さく残っている。
―― 俺は、あなたが ――
「……なにそれ、ズルくない!?」
 思わず叫んで、膝から力が抜けた。その場に座り込んで、両手で顔を覆う。今更、大河の気持ち知ったところで、もう二度とその時間は戻らないというのに。
 ねえ、どうして。

50.散る花の痛み

 響子の降りる駅に近づく。
 結局、連絡先は教えてもらえなかった。悔し紛れに「また会ったら、付き合って」と言うと、意外にも彼女は「また会ったらね」と笑った。たとえ冗談だとしても、断られると思っていたのに。
 俺も、多分、彼女も。本気でまた会えるとは思っていない。だから、それは叶わない約束だ。
 これが最後。
 本当は伝えたいことがたくさんある。言いたいことも、知ってほしいことも、たくさんあった。お礼だって、まだ全部言えていない。たった一言の、好きだという、この気持ちだって。
 だけど、今からどこかに誘って、この別れを数時間先延ばしにしたところで、全部を伝えることなんて出来ない。きっと、寂しさが募るだけだ。そんなのは男らしくないな、と思う。
 アナウンスと共にホームに電車が滑り込む。
「大河くん、卒業おめでとう。……元気でね。バイバイ。」
 響子は、ドアの隣に並んで立つ大河を振り返りるとパタパタと指先を動かす仕草で手を振った。そのまま、開いたドアに向かって、彼女が足を踏み出す。
 いつものように軽い足どりで。

 嫌だ、離れたくない。
 気付けば、反射的に手を伸ばして、その腕を掴んでいた。初めて話したあの日と同じように、肩に手を掛けて、振り返った彼女の顔を見下ろす。
 それは、長くて短い一瞬。彼女の纏う香りが鼻腔をくすぐる。俺が選んだハンドクリームの、甘い花の香り。ピンクバーガンディの口紅に彩られた唇に、掛けようと思った言葉は頭の中で白く溶けて消えた。
「えっ!?」
 肩を抱くように力任せに引き寄せると、顔を上げた響子の戸惑う瞳と目が合う。瞬きをするだけのその時間。吸い寄せられるように、唇を重ねる。
 俺の、初めてのキスは、さよならのキスだった。
 発車のベルが鳴る。
「響子さん、俺は――」
 ――あなたが好きだ。
 そう、伝えようとしたわずかな言葉は、そのベルに掻き消されて。きっと、彼女には届かない。
 タイムリミットだ。まだ開いたままのドアの向こう側へ、ホームに向かって軽く肩を押して、彼女を電車から押し出すように解放する。
『ドア ガ シマリマス……』
 笛の音と共に、無機質なアナウンスが流れる。
 閉まったドアの向こう側、ガラス越しに響子が振り返った。泣いてるような笑っているような中途半端な顔をしてこちらを見つめる響子に、微笑んで手を振って、合図みたいにパタパタと指先を動かすと、小さく呟く。
「また、いつか、どこかで。」
 見える間はせめて、泣かないように。
 二度と出会うことがなくても、彼女が俺のことを忘れないでいてくれるとして。その記憶の最後は、笑っていたかったから。

 窓の外、遠ざかるホームを見送る。
 俯いて足元を見ると、花びらが一枚、落ちていた。
 胸に差したその花は少しずつ崩れて、やがてバラバラになる。
 溢れる涙の代わりみたいに、散らばって足元を彩る。
 またいつか、会うことが出来たとき。今度こそ離れることのないように。
 響子の言うように、この別れがいつか、幸福へと繋がるように。
 大河は祈るような気持ちで、目を閉じた。

51.窓の外の忍者

 その景色は、変わらないようで、少しずつ変化する。
 毎日眺めているはずなのに。遠くに建設中のビルは階層を増やして、気づけば周りの建物の倍の高さになっていたし、線路沿いのアパートはいつのまにか壁の色が変わっている。
 公園の木々や街路樹や庭の草花も、少しずつ色や姿形を変えて、季節の流れを教えてくれる。

 響子は、決まって2両目の前のドアの横に立つ。
 ドア横にしては、少しだけ広い空間。小さくて四角い窓が気に入っていた。
 窓の外、流れる景色の中を、小さな忍者が走る。響子の生み出した空想上の忍者は、街の中を軽い身のこなしで走る。その小さな窓で四角く切り取られた景色の中を、誰にも気付かれないように慎重に。
 屋根から屋根へ飛び移り、塀を走り木に登る。壁を登ってビルの屋上へ出ると、電飾のついた看板を蹴って、高く高く宙を舞う。
 時折、鳥や猫に邪魔をされて、失敗することもある。
 風が強い日は、ゴミが舞っているから危ない。
 あのアパートの奥さんは早起きだ。晴れた朝は、布団を干して棒で叩く。
 散歩の犬。夜だけ人通りの多い道、公園に集まる猫。
 障害物を避け、景色の中を駆け巡る忍者。まるで、ゲームのような想像をしながら外を眺めるのが、通勤の楽しみになっていた。
 夏の朝の光に満ちた鮮やかな緑の堤防、秋の夕方の刻々と変わる空の色、冬の雨に濡れたネオンの輝く夜の駅前と静かな住宅街。駆け抜けて見上げる、遠くに浮かぶ月や雲。
 1日として同じ景色は存在しない。
 寒々としていた木々は芽吹き、花の色も目立つ。花壇が鮮やかになるにつれて、道行く人々の装いも明るい色が増えていく。少し早い桜と桃の花が混ざり、舞い散る花吹雪が窓に当たり視界を奪う。
 響子は影を見失って、目を閉じる。

 その景色は、毎日、変わらないようで、少しずつ変化する。
 季節が巡り、そして、また。
 ―― 春がやってくる。

52.回想列車

「あ、それと4月から、鈴木は本社だから。引き継ぎと、荷造りしといて。」
「は? 聞いてないんですけど!?」

 3月の始め。
 月初のミーティングの終わりに、オマケみたいに切り出された転勤の話に響子は思わず声を上げた。
 支社長は半笑いになって「そう言うと思った」と、呟く。
「俺も、昨日、聞いたんだよ。社長のご指名だ。……まあ、お前なら大丈夫だろ。あっちには岩井も菜々もいるし。」
「いや、どう考えても大丈夫じゃないですよ……九州ですよ。引っ越しとか、部屋探すのとか。今からじゃ無理ですよ。」
「費用は会社持ちなんだから、業者に丸投げすりゃいいだろ。」
「私、一応、女子なんですけど!」
「荷造りなら、ヒロコにも手伝わせるからさ。」
「仕事は? 引継ぎの準備なんてしてないですよ。」
「それは、俺が手伝う!」
「……うーん、まあ、それなら。」
 支社長に奥さんの名前を出され、手伝うと宣言されて、響子はなすすべも無く大人しく主張を引っ込めた。
 きっと、また本社の社長の思い付きなのだろう。彼は仕事ができる代わりに、誰にも文句は言わせない。穏やかで愛嬌のある風貌で皆の信頼も厚いから、それでも誰一人として離れる人はいない。けれど、時々、とんでもない思いつきで周りを振り回す。今がそうだ。
 でも、岩井の時はもっと酷かった。来週から本社に来て。ただ、その一言で、彼の転勤と引っ越しが決まったのだから。だから、これはまだマシなのだ。響子は溜息をつくと、自分の席についてメールを開いた。

 仕事が終わりそそくさと会社を出ると、いつものように駅に向かい改札を抜け、買い物をしてホームに降りる。そうしていつものように2両目の前のドアの傍、定位置に乗り込んで窓の外を眺める。
 ふと、視線を感じて振り返った。
 紺色のブレザー、グレーのスラックス。見馴れた制服を着たその見知らぬ学生はヘッドホンをつけたまま、響子の頭上の電光掲示板をジッと見ている。
 響子は溜め息をついて、窓の外に視線を戻す。
―― もし、どこかで、もう一度出会うことが出来たら ――
 頭の隅で声が聞こえる。忘れようと思ってもずっと頭の隅に残る、ふざけていて、でも、優しい、大河の声。
 ひとまわり以上も年下の男の子。彼には、ずっと、からかわれているんだと思っていた。どんなに隙を見せても、優しくかわされて。困ったように曖昧に笑う姿も。年頃の男の子って、もっとグイグイ来るもんだと思っていたから。純粋でただ鈍いのか、それとも、本当に興味がないのかも、わからないままで。時々甘えたようなその言葉も。きっと、全部、冗談で。
 会えなくなる相手に連絡先なんて教えたくなかった。
―― 偶然、また会えたら運命でしょ? ――
 そんな都合のいい運命なんて、きっとない。だから、それは忘れてしまおうと思っていたのに。

 それなのに。一年前のあの日。最後の、最後に、強引に口づけをひとつ。離れる瞬間に甘い声で私を呼んで「俺は、あなたが好きだ」なんて囁いて。微笑んで。
 私をひとりホームに取り残して、そのまま、彼は去っていった。
 その言葉は、溶けない魔法みたいに、不確かな約束を胸に刻み込んで離れない。
 私がここを離れたら、大河と再会することはきっと無いだろう。あるいは。もっと早く、彼の気持ちを確かめていれば……。もし、連絡先を交換していたら。ここを離れることに抵抗はなかっただろうか……?

 彼の行き先は知らない。
 彼について知っているのは、年齢と、名前と、海都という親友がいることくらいで。あとは、コーヒーが好きだとか、チョコレートはイチゴ味が好きだとか、甘い卵焼きが嫌いだとか、漫画は単行本派だとか、月の絵とゲームが上手いとか、そんな些細なことばかりだった。

53.曖昧な現実

「関東支社から移動してまいりました。鈴木響子です。あ。岩井さんとは、以前、同じ部署で仕事をさせていただいていて、今回も――」
 響子の言葉を遮るように、事務所入り口のドアが、派手な音をたてて開く。
 本社、初出勤の朝。数人の新入社員と移動組は自己紹介をするようにと事務所に並べられて、響子の番が回ってきた時だった。
 ガタ、ダン! と、勢いよく開いたドアが弾むように壁に当たる音に、言葉を止めて振り返り、響子は自分の目を疑った。
 白いシャツにネクタイ。黒に近いくらいに濃いグレーのスラックス。きちんと手入れの行き届いた革靴。ここまで走ってきたのだろうか? 見慣れた鞄と脱いだジャケットを小脇に抱え、両手を膝について前屈みのまま肩で息をする、その姿。
 顔は見えないが、彼は……。
―― 偶然、また会えたら運命でしょ? ――
 あの日の声が、頭の隅で響いている。
 皆がドアを一斉に振り返って静まり返った社内に、息を切らしたその人の「おはようございます」という声が響く。
 聞き慣れたその声。
「……嘘……でしょ。」
 思わず口の中だけで呟くと、彼が顔を上げた。
 制服ではなく、スーツを身に着けた彼の視線が流れるように響子を捉えた。唇の端を僅かに上げて微笑む。
 それは、間違いなく。
「松本ぉーーー!! アウトぉーーーーー!! お前、今日は早く来とけって言っただろ。アホか。廊下出とけ!!」
 彼が何か言いかけるよりも早く、岩井が早足で歩み寄り、彼の肩を掴んでドアの外に押し出す。
「わぁぁあ! すんません!!」
 廊下に消えていくその声と、ふざけたトーンの岩井の言葉に、社内の張り詰めた空気が一気に和み、ところどころから笑い声が溢れた。
 ただ、響子だけは固まったまま、閉まるドアの向こうに消えるその後ろ姿を見ていた。
 すぐに戻った岩井が、困ったような笑顔を響子に向ける。
「鈴木さん、今のは松本。ああ、松本大河って言うんだ。あいつが本当、若造って感じで。あとで紹介するけど。まだ、19なんだよ。大学……えーと、あ、今日から二回生か。」
「松本大河……19歳……。」
 小さく呟いて、現実と記憶の答え合わせをする。
「さ、挨拶、とっとと続きやって終わらそう。」
 岩井に促されるままに挨拶の続きをして、後のことはあまり覚えていない。時々、岩井から“あれはドッキリでした”なんて言葉が出ないかと、ほんの少し期待する。ドッキリでもそうでないとしても、何故、大河がここに居たのか、響子には説明がつかず、気持ちは混乱するばかりだった。
 大河はあの一瞬で、響子に気付いたのだろうか? あの約束だって、忘れている可能性もきっとある。彼女だって、いてもおかしくない。
 もやもやと過ごす響子とは反対に、響子との再会を岩井はとても喜んでいた。「また一緒に仕事が出来るのが嬉しい」と、そう言って、一日中、社内のあれこれを世話を焼いて回る。
 同期のくせに先輩面をする岩井を、今日ばかりは有り難く思って、響子は目を閉じた。気付けば終業時間は目前で、この後は近所の居酒屋で歓迎会の予定だった。
 あの朝の出来事から大河の姿は見ていない。きっと疲れすぎて、夢でも見たのだろう。そう、思いたくなるほどに、それは現実離れした再会だった。

 1年前。
 彼と最後に会った電車を思い出す。
 別れ際に掴まれた腕。強引な割に小さく震える、触れた唇の温もりと、“あなたが好きだ”と呟いた大河の少し掠れた声。
 叶わないはずの約束。
 もし、本当に、運命なんてものがあるとして。それは果たして、こういうものなのだろうか。

 再び出会った私たちは、恋人ではなく同僚として。
 今日から同じ職場で働くことになる。

54.始まらないままラブストーリー

歓迎会は貸し切りの居酒屋だった。
 広間に各部署の人間が部署ごとに固まって座っている。その隙間を挨拶をしながら各テーブルを回っていた響子は、開発部の部長に捕まっているようだった。部長が響子の隣の席に無理矢理に座ってにこにこしているのが見える。
 大河は、遠目で響子のビールグラスが空きそうなのを確認すると、ウーロン茶を注文した。受け取ったそれを持って、響子の後ろへ、そっと近づく。先にこちらに気付いた部長が、大河を機嫌良さそうに呼んだ。
「お? 松本、こっち! …鈴木クン、紹介するよ。これ、うちの一番若いの。開発のエース。松本。」
 部長が手を挙げるのを見て、響子は大河を振り返って目を細めた。
「大河くん、久しぶり。」
 大河は部長に促されて、響子の後ろの狭いスペースに座り込む。
「響子さん……。相変わらずだね。」
「おい、松本、先輩には敬語使え! 敬語!」
 響子は、部長の膝に手を置いて「いいんです」と笑う。二人の時には見せたことのない、大人の仕草。
「部長、いいんです。私には。ね? 大河くん。」
 微笑んで、響子が振り返る。その笑顔に大河は戸惑った。そこにいたのは、仕事向けの大人の皮を被った響子だ。あんなに会いたいと思っていたのに、きっと、ここでは以前のように振る舞うことが出来ない。
 これから毎日、これが続くのだろうか……。それはやだな。
「地元ってここだったんだ。」
「そう。」
「大学はー?」
「一応、行ってる。今、こっちはインターン扱い。」
「そうなんだ。早く働きたいって言ってたもんね。」
 二人の顔を交互に見比べて、ようやく事態を飲み込んだ部長が、驚いた声をあげた。
「え。なに? 松本と鈴木クン、知り合いなの!?」
 朝、ドアを開けた瞬間の響子が一瞬浮かべたのは、駅で会った時と同じ、あの驚きと喜びの混ざった微笑み。人前で様子を伺ってはいるが、響子が大河に呼びかける言葉は、あの時のままだ。
 だとしたら、響子は間違いなく約束を覚えている。
「俺の、彼女です。」
「「は?」」
 そう言って片手で響子の肩を抱く大河の言葉に、部長と響子の声が重なった。それがなんだかおかしくて、咄嗟に下を向いて笑いを堪えた。
「だって響子さん、次に会ったら付き合ってくれるって。」
「いや、言ったけど。」
「じゃあ、合ってるじゃないですか。」
 顔を寄せ、小声で囁き合う。
 目が合って、彼女は、ふふふ、と弾けるように笑いだした。
「何? 君達、そういう関係なの!?」
 部長は「はー。若いなー。」と呟いて立ち上がる。彼氏持ち、しかも、その彼氏が大河だと思って、響子は部長のターゲットから外れたらしい。
 立ち去る部長を見送って振り返ると、響子はもう笑っていなかった。少し怒ったような戸惑うようなそんな表情を貼り付けて、こちらを見ている。
「あのね。」
「もしかして、彼氏、出来ちゃいました?」
 響子が何か言いかける前に、大河は畳み掛けた。
 返事はきっと、想像通りで。
「いないけど。」
 相変わらず潔いの良い否定の言葉に思わずにやける。
「じゃあ、問題ないじゃん。」
 大河は部長が開けた席に座り直すと、響子の顔を覗き込む。
「響子さん、俺のこと嫌い?」
「……どっちかっていうと、好き。」
「これって、きっと、運命だよね。」
「まあ、そう、かな。」
 珍しく、煮え切らない響子の態度。
「何が不満なの?」
「うーん。」
 響子は大河を眺め、無表情で大河の手にしたウーロン茶を指差した。
「それ、かな。」
「響子さん、俺、まだ未成年だから。」
「それ、私の分でしょ?」
「……よく気が付きましたね。」
 吹き出しそうになるのを堪えて、響子にグラスを握らせる。
 響子はそれを受け取って素早くテーブルに置くと、振り返って大河の席に置かれたコーラのグラスを眺めて、静かに笑いだした。
 耐え切れずに、大河も笑う。
 何かのスイッチが入ったみたいに、しばらく二人でゲラゲラと笑って、響子は以前の空気を纏う。
「んふふ。だって、ほら! あそこに飲みかけあるじゃない!」
「ありますよ。あれは俺の分。これは響子さんの分。」
「私のビールは?」
「知りません。お願いです。約束してください。俺の知らないところで、お酒を飲むのをやめてください。」
「えー。じゃあ、大河くんと一緒の時はいいの?」
「うーん。ご……」
「ご?」
 覗き込むように近づけてくる響子のその顔に、大河は指を広げて手のひらを突き付ける。
「5杯。全部で、5杯までなら。」
「ぜんぶで、ごはい。……ワインは?」
「どう考えてもお酒に含みます。アルコール全部ですよ。」
「厳しい。」
「あのね、俺は、響子さんが未知の生き物みたいになるのが心配なの。」
「未知の生き物?」
「あと、響子さん、酔うとめちゃくちゃだし、可愛いから。」
「……だから?」
「だから、あー。もう。心配なんだよ。」
 その言葉に響子は俯いて肩を震わせた。
「……何笑ってるんですか!? ちょっと、響子さん、わかってるなら言わせないで。」
 響子はウーロン茶のグラスを手に取ると一口飲んで小さく息を吐く。
「っていうか、響子さん、そんなに酔ってないでしょ?」
「さーねー。どっちでしょ。」
 苦笑する大河に寄りかかるように座り、響子は小さな声で呟いて笑った。

55.約束の行方

 自分の歓迎会だというのに二次会を断った響子と、公園の歩道を並んで歩く。
 4月とはいえ、夜風はまだ冷たくて、ジャケットの上から巻いたストールは彼女の顔を半分隠してしまう。
 結局、急な転勤で転居先の手配の間に合わなかった響子は、関東に転居前の部屋を残したまま、会社の近くにウィークリーマンションを借りているらしい。
「響子さん、もう、部屋決めたの?」
「ううん。まだ。」
「じゃあ、もし、響子さんが嫌じゃなかったら。俺と一緒に暮らさない?」
「私たちまだ、お互いの連絡先すら知らないのに?」
「そういえば、そうだね。」
「通勤30分圏内、間取りは2LDK以上、キッチンのコンロは電気じゃなくて都市ガス、お風呂は追い焚き可。」
「うん。」
「そんな物件が来週中に見つかるなら、一緒に暮らしてもいいかな。」
 まるで、呪文のように唱えた響子は「無理でしょ?」と、大河を振り返った。ぐるぐると巻かれたストールで半分隠された表情。声は明るいのに、大河を見つめる目は笑っていない。
「マジ? マジで? マ?」
「部屋は別よ。家具と家電は私の持ち込みが優先。」
「響子さん、それ、本気で言ってる?」
「うん。本気。」
 その物件に、大河は心当たりがあった。
「うちに来て。」
「何言ってるの?」
「今、響子さん、本気って言いましたよね。」
「言ったけど。……まさか。」
「うち。俺の今のマンション。バス通り沿い、通勤は徒歩でも15分、間取り広めの2LDK、コンロは都市ガスのカウンターキッチン、浴室乾燥機付きで追い焚きも可! おまけにコンビニ徒歩1分。隣にコインランドリー。近くにスーパーとパン屋、喫茶店もある。」
「まって。今、実家じゃないの? なんでそんな広いところに住んでるの!?」
「大学も会社も近い方が効率いいだろ? 友達とルームシェアしてたんだけど。そいつ、年末に彼女作って出てっちゃって。」
 苦笑する大河に、響子は笑いだした。
「なにそれ、ウケる。」
「だから、俺、一人暮らしだよ。……響子さん、うちに来なよ。」
「大河くんさ、私、もう32よ?」
「知ってる。俺、19だよ。」
「知ってる。……ねえ、大河くん。この歳の差は、埋まらないんだよ。」
「埋める必要ないでしょ。……俺、響子さんのそばにいたいんだ。ずっと。追い越すことも追い付くことも出来ないけど。そんなの関係ないだろ?」
 前にも、似たような話をした気がする。あの時は、こんな風に想いを伝えるなんて、出来なかったけれど。
 どちらともなく立ち止まって、空を見上げる。
「響子さん。世の中いろんな関係があるって、響子さんが俺に言ったんだよ。だったら、すごく歳の離れた恋人がいてもおかしくないでしょ。」
「そういうもん?」
「そういうもん。」
 溜め息をひとつこぼして、響子は口を開いた。
「そうだね。当たり前だと思ってたのに。自分のことだと、わからなくなることってあるんだね。」
「あるねー。あるある。……でも、さ、俺。今日、わかったことがあるんだ。きっと、これは俺にしか、わからないこと。」
「うん、何?」
 月のない空は暗く、かわりにたくさんの星が瞬いている。響子も、大河も、顔を上げて星を眺める。
 離れてからずっと、一人で考えていたこと。伝えないと彼女は、きっとまた俺から距離を置こうとしてしまうから。
 ……ちゃんと言わなきゃ。
「俺、やっぱり、響子さんのことが好き。」
「うん。私も。……自分、大好き。」
「そっち!? 俺は?」
 思わず振り返って、響子の顔をみる。
 ゆるんだストールから、細い首がのぞいている。
「大河くんのことも、大好きだよ。同じくらい、それ以上かも。」
 彼女は珍しく真剣な顔をして、まっすぐにこちらを見返していた。遠い街の灯を反射してキラリと光る、嘘のない瞳。意志の強そうな赤い唇。
「え。」
 思わず漏れた声は、我ながら間抜けだな、と思う。
「本当に。好きだよ。」
 それでも、彼女は目を逸らさずに、好きだと繰り返す。ずっと、好きだったのだ。きっと、互いに不安だったのだ。
 だから彼女は、あの日、自分を遠ざけたのだ……そう気付いて、一方的に切り出した残酷な約束に胸が締め付けられる。
「俺と、付き合ってくれますか? ……約束だからじゃなくて、俺はあなたの特別になりたい。」
「うん。ずっと、特別だったよ。」
「……俺、あの時、約束してよかった。自分でも、無理があるって思ってたけど。」
「本当に。むちゃくちゃだよ。」
 大河の左手を響子は右手でそっと掴んで笑った。
 大河はその指を絡めるように握りなおす。冷たくて、細い指先。
「……一緒に住むなら、家賃も光熱費もワリカンね。」
「うん。響子さんがそうしたいなら。俺も、助かるし。」
「素直で、よろしい。」
 響子は笑いながら、大河に背を向けた。
 時折、遠くで車が通る音がするだけの公園に、響子の笑い声が響いて夜空に吸い込まれる。
「帰ろっか。」
「うん。」
 あとは、ただ無言で。部屋の前まで、ずっと手を繋いで歩いていた。それぞれの歩幅で、でも、同じスピードで。
 いつかの夜と同じように。

56.偶然でも運命でもない

 狭いベッドの大半を占拠して、真ん中に猫のように丸くなって眠る響子の寝顔を、大河はそっとつつく。
「響子さん、そこ、どいてくれないと俺、響子さんの部屋で寝ますよ? いいんですか? 響子さんの花柄の布団で、俺が寝るんですよ?」
 耳元で囁くようにすると、彼女は眉間に皺を寄せて、ちょっとだけ嫌そうな顔をした。身体を伸ばしズルズルとすみの方に寄って場所を開け「おいで」と、微笑む。
「俺のベッドなんだけど。」
 隣に潜り込み抱き寄せると、響子は笑って手を伸ばして大河の髪を撫でる。なすがままに撫でられていると、ふと、初めて話した日のことを思い出した。―― それから、響子と再会する少し前のことも。

 2月の初旬、大河は先輩の岩井と社長に呼び出され、一冊のファイルを渡された。
「開発と営業の間に、岩井を中心に社内でどちらの動きもサポート出来るような部署を作りたい。そのファイルの名簿から一緒に仕事をしたい人物がいたら教えて欲しい」と。
 渡されたファイルを開くと、確かに、本社と各支社の営業や開発に関わる人物の実績が記載された名簿が挟まっていた。
 いくつかの名前に、色付きのペンでメモが入っている。
「メモが入っている人は、僕の推薦。知らない人がほとんどだろうけど、気になる経歴の人がいたら松本もメモ入れておいて。あとで、社長が確認して問題ないようなら、それをもとにチームを組んで4月から稼働するから。」
 そう言って、岩井は忙しそうに自分の仕事に戻っていった。
 営業の成績や、アプローチの仕方、開発の実績………知らない名前もたくさんあったが、岩井の資料を頼りに、気になる人物にチェックを入れていく。ページをめくり2枚目の名簿に目を通すと、覚えのある名前に行き当たった。
《 関東支社 鈴木 響子 営業推進マネジメント事業部 》
 彼女の名前の横には既にメモが入っていた。他のメモよりもずっと簡素なのに一際目立つ《鉄板》という、岩井の書いた赤い文字。
 そのまま、響子の名前に青いペンで丸を付ける。
 あとは岩井のメモだけを見ていくつかチェックを入れて、ファイルを返した。
 岩井はファイルをパラパラとめくり、大河のメモを見て「お」と、声を上げる。
「鈴木さんは、なかなか手強いよ。仕事がまた楽しくなるなぁ。」
 そう言ってニヤリと笑った。

 響子との再会は、きっと、偶然でも運命でもない。

「どうせいつか、お前がまとめるんだ。いつか追い抜いた時にみんなが納得できるように、しっかりやれ。」
 岩井はいつだって、そう言って俺の尻を叩く。
 いつか、彼らは俺の部下になる。だって、俺達の勤めるこの会社を立ち上げたのは、俺の親父で。彼女 ―― 響子は叔父の部下、つまり、親父の会社の従業員だったのだから。
 おまけに、響子と叔父と岩井は飲み仲間だった。

 ただ、それを響子に言えないまま、こうして再会して二人暮らしが始まってしまったのだった。
 大河は溜め息を飲み込んで、腕の中で眠る響子を眺める。
この事実を知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう……。

57.噂の真相

「えっ!? 社長の!? ねえ、それ、マジで?」
 目を見開いて固まった響子を、岩井が慌てて手近な会議室に引きずり込む。
「廊下で叫ぶなよ。」
 呆れたような岩井の言葉に、響子は俯いて足元を見つめた。

 響子と大河の噂はあっという間に広まった。
 それ自体は特に気にすることもなかったが、大河の所属する開発部の部長と課長が妙に響子の顔色を伺うようになったのが気になった。はっきり言って、仕事がやり難い。それで、岩井に相談すると、彼は言ったのだ。
「そりゃ、噂の相手が社長の息子だからねぇ……。」
苦笑混じりの岩井の言葉に、「今、なんて?」と訊き返す。
「だから、松本は社長の一人息子だよ。」
 響子の本社に初出勤の日、その姿を見て驚かなかった大河を思い出す。おそらく彼は知っていたのだ。響子がここに来ることを。

 掴まれたままの肩から岩井の手を払うように振り解いて、響子は俯いたまま頭を振った。
「だって。……それ、本当なの?」
「僕が嘘つくメリットがないだろ。」
「そうだけど。全然、似てないじゃない。」
 信じられない、というよりは、信じたくない。けれど、それは事実なのだろう。駄々を捏ねるように言葉をこぼすと、呆れた声が返ってくる。
「そりゃ母親似なんだろ? 知らないけど。」
「あーそうか。そうよね。」
 そういえば大河は、自分で母親似だと言っていた。性格は父に似ていると。ついでに、たくさんの余計なことまで思い出して、頭を抱えたくなる。
「でも、松本、変わってる。ここにいるのもコネとかじゃなくて、自分で求人に応募してきて、実力でここに入ったんだ。あいつの出生を気にしてるのは、あの二人くらいだよ。」
「……そう。」
 大河なら、きっとそうするだろう。
 大学でやりたいことがあるから進学はするけど、それよりも早く働いて一人前になって、父親の仕事を助けたい。知り合ったばかりの頃、彼はそう言っていた。まさか、その父親というのが、この会社の社長だとは夢にも思わなかったけれども。
 だとしたら、自分が社員であることを、彼はいつ知ったのだろう?
 響子は溜め息をつくと、岩井の顔を見た。
「ねえ、ってことはさ、大河くんの叔父さんて……」
「あの支社長だよ。」
「うーわー……」
 大袈裟に仰け反るようにして壁にもたれる響子を見て、岩井は「そんなにショックなことかよ」と、笑ったまま眉間に皺を寄せる。
「親族経営なんてよくある話だし。鈴木さん達だって、ただの噂なんだから、気にしなくて良いんじゃないの。」
「……噂じゃないから気にしてるのよ。」
「ちょっと待った。鈴木さん、マジで松本と付き合ってるの?」
「うん。……実は。一緒に住んでる。」
「あいつ……マジか。」
「何か、問題ある?」
 眉間の皺を深くして、岩井の顔から笑みが消える。
 社内恋愛が禁じられているわけではないのだが、探るようなその言葉に咎められた気がして、言葉に棘がのってしまった。
 チラリと視線を向けると、彼は天井を仰ぎ見て「そうか…」と、呟いてこちらを振り返る。
「無い。いや、無いことも無いんだけど。……マジか。僕は今、お前とあいつに訊きたいことが山ほどある。」
「それ、長い?」
「おう。長い。」
「……岩井くん、今夜、あいてる?」
「あいてる。」
「菜々と飲みに行くんだけど、一緒にどう?」
「わかった。続きはそこで。」

58.ヤバいヤツ

「えー!? じゃあ、松本くんの運命の人って、マジで響子だったの!? ひゃー!」
 酎ハイのジョッキを片手に、「ロマンチックにも程がある」と声を上げて笑う菜々に、響子は頷きかけて違和感を覚えた。
「ん? ……何、その運命の人って。」
 付き合っているとは言ったが、菜々にも岩井にも約束や再会の話はしていない。
「前に飲み会のときにね、松本くんが言ってたの。彼女居ないの? って訊かれて、『彼女はいないけど、ずっと好きな人はいます。今は遠くにいて、全然相手にされてないけど。その人は俺の運命の人なんです。だから、他の人と付き合うことは考えてないです』って。」
「大河くんが?」
「すっごいインパクトだったから、覚えてる。だって、十代の男の子が真顔で『運命の人』って言い切ったのよ。」
 岩井は既に中身の半分になったビールのジョッキをテーブルに置いて遠い目をする。
「僕も覚えてる。相手にされてないって言う割に、自信満々でさ、『いつかその人にドレスを着せるのが夢です』って。」
「言ってた! 背中の大きく開いたウエディングドレス!!」
 岩井の言葉に、菜々が同意して、響子を振り返る。
「正直、あたし、コイツちょっとヤバいんじゃないの? って思ったもん。」
「……そう。」
 ウーロン茶のグラスを傾けると、響子は溜息をついた。
 大河は相変わらずだ。相変わらず優しくて、真っ直ぐで、照れ屋で、余裕なんてない癖に余裕ぶっている。大河のような朴訥とした男の子が『俺の運命の人』とか言い出したら、確かにちょっとヤバいと思う。しかも、真顔で。
 そりゃ、菜々じゃなくても引くわ。
「まあ、そのヤバいヤツと、付き合ってるんですけどね。私。」
 そう言って、響子が自虐に口元を緩めるのを眺めて、岩井は少し安心した顔をした。
「鈴木さん、今日は本当に飲まないの?」
「ヤバいヤツに、止められてるんです。」
 岩井はメニューの端末を使って追加のビールを注文し、口の端で笑うと、それ以上の追求はしてこない。
 代わりに菜々が興味深々といった程で身を乗り出してきた。
「響子、松本くんとどうやって知り合ったの?」
「彼が高校生の時に、駅でよく一緒になって。落し物を届けてくれたのをきっかけに仲良くなったんだけど。」
「それで、告白されたとか?」
「ううん。友達のまんま。」
「あ。あたし、思い出した! 響子、前に、どう頑張っても結婚出来ない相手を好きになったって言ってたよね? ……なるほど。高校生!」
「そう。それ。高校生。」
「今、付き合ってるのよね?」
「うん。一応。」
「一応ってなんだよ。同棲してるんだろ?」
 響子の言葉に、岩井が呆れた声を出す。
「だって、彼、何考えてるかわかんないし。……あー。あのね。知り合った時ね。だいたい毎日、駅で会うから連絡先を交換しなかったんだよね。……彼、卒業したら関東を離れるって言ってたし、連絡先を交換したって、離れたら二度と会わないだろうって思ってたし。だから、油断したのよ。それで、最後に会った日に、“連絡先は交換出来ないけど、もし再会することがあったら付き合おう”って約束しちゃって。」
 菜々と岩井は顔を見合わせて、こちらを振り返った。
「まさか、それで、ここで再会したの!?」
「その、まさかなの。」
 菜々の悲鳴のような言葉に、響子は両手を上に向けて広げ、降参のポーズをしてみせる。
「そりゃ、運命だわ。」
「でも、何で、彼が私がここに来るのを知ってたのか、わからないんだよね。私、仕事の話なんてしてないし、勤め先だって教えてなかったのよ。」
 響子の溜息に、岩井は何か思い出した顔をした。
「……すまん。僕それに加担してた。」
「えっ?」
「この部署立ち上げる時に支社からも人を呼ぼうって話になって、名簿を渡したんだ。一緒に仕事をしたい人がいたら印付けといてって。」
「松本くん、見つけちゃったんだね。響子の名前。」
 菜々は自分のことのように嬉しそうだ。
「鈴木響子なんて、同姓同名いくらでもいるでしょ!?」
「うちの会社に他に居ないじゃない。」
「だから、勤め先は教えてないんだって。」
 盛り上がる菜々と響子に、つまみを取り分けながら、岩井は他人事のように口を開いた。
「まあ、鈴木さんが異動してくるのは、その時は既に決まってたんだけどな。」
「ちょっとまって!? ねえ、岩井くん、それいつの話?」
「1月……2月にはなってなかった。うん。1月の終わり。」
「私、移動の話を聞いたの3月に入ってからだけど!?」
「まあ、他のメンバー決まらなかったからさ。」
「待って。私、それ知ってたら、部屋探す時間あったよね!?」
「お、おう。」
 顔を上げた岩井が、戸惑うような声を上げた。「しまったな」と小さく呟いて、響子に視線を戻す。
「そしたら、大河くんと同棲する必要もなかったってことだよね!?」
 喰ってかかる響子の言葉に、岩井は溜息をこぼして両手で顔を覆った。
「……嫌なのかよ。」
 その返答は後ろから聞こえた。
 聞き慣れた、呆れたような声。
 響子は振り返ると、思わず叫んでいた。
「大河くん! 何でいるの!?」

59.運命の先

「なんでいるの……」
「すまん。僕が呼んだ。」
 何度目かの響子の問い。蚊の鳴くような岩井の声に、響子は恨みがましい視線を送って、大河に押し付けるようにウーロン茶のグラスを差し出す。
「ちゃんと、約束は守ってるからね。」
「響子さん、俺の質問、はぐらかさないで。」
「嫌なわけないじゃない!」
 酒を飲んでいるわけでもないのに、こちらを見上げた響子の瞳は涙で赤く濡れていた。大河は響子の隣の空いた席に腰を降ろすと、パーカーのポケットに手を入れて溜息をつく。
 菜々と岩井が静かに見守る視線に、申し訳なくなって目を逸らした。
「……ねえ、私がこの会社にいること、いつから知ってたの?」
 居酒屋の喧騒に、寒い冬、海都と歩いた夜の街を思い出す。締め付けられる胃の痛みと、初めて知った嫉妬という感情。
「センター試験の帰り道。」
「……えっ?」
「海都と一緒にラーメン食って。商店街を抜ける時に、叔父さんと女の人が二人で歩いてるのを見かけたんだ。響子さんだ、って、すぐに気づいた。」
「センター試験って、1月……?」
「あ、裏誕生会。」
岩井がポツリと呟いて、響子と顔を見合わせる。
「俺、パニックになっちゃって。場所が場所だったし、叔父さんが不倫してると思ったんだ。……それで、叔母さんに……」
「言ったの!? ヒロコさんに!? それを!?」
 叫んで、溜息をついた響子の眉間に皺が寄る。大河はそれを見て、苦笑した。
 そういえば、この人達は叔母の元同僚でもあるんだな……。
「笑われたよ。その人、響子ちゃん、英知くんの部下よ。今日は飲み会よって。その場で送られてきた写真、見せられて。海都と一緒に確認したんだ。叔父さんの横にいたのは、やっぱり響子さんだった。」
「いや、それ、僕もいただろ。」
「松本くん、それで知ったんだね。響子がお父さんの会社の社員だって。」
 菜々が神妙な顔で、「だから、また会えるって、自信あったんだ」と大河を見る。
「うん。でも、それとこれとは関係ないです。」
「なんで?」
 関係ない、と言い切った大河を見上げて響子は「関係なくないでしょ」と、唇を震わせる。
「だって、知り合う前から、ここに入るのは決めてたし。叔父さんにも叔母さんにも、響子さんのことは話してない。もちろん、親父にも。誰にも。」
「うん。」
「知ろうと思えば、連絡先だって知れたかもしれないけど。自分で手に入れなきゃ意味ないって思ってた。だから、響子さんの勤め先がどこだろうと関係ない。会えるまで待つつもりだった。会えなかったらそれまでだよ。」

***

 ああ、そうだ。大河はそういう子だった。そうじゃなかったら、きっと、その場で響子にそれを伝えていたはずだ。
「名簿に名前を見つけた時、嬉しかった。俺が指名して響子さんがここに来ることになったら、それは偶然じゃなくなっちゃうけど。それでも、また会えるのが嬉しかったんだ。」
 大河の言葉に、菜々と岩井は顔を見合わせて、小さく笑った。
「……俺、響子さんにずっと隠し事してた。海都に口止めまでして。……ごめん、響子さん。偶然でも、運命でもなくて。」
「ちょっといいところ、失礼するよ。」
 俯いた大河の肩に岩井が手を伸ばして、ポンと叩く。
「松本、鈴木さんの異動はお前の指名は関係ないよ。お前に名簿を渡す前に、決まってたからな。」
「えっ……そうなんです!?」
「お前らは、間違いなく、出逢うべくして出会ったんだ。」
 そう言い放つと、岩井はビールをぐびぐびと飲んで、ジョッキを空にした。
 大河の耳が赤くなるのを見て、響子はそれを愛しいと思う。きっと、彼は後ろめたい気持ちを抱えて、それでもまた会えたのが嬉しくて、ひとりでぐるぐると悩んでいたのだろう。
 思えばずっとそうだった。
 互いの感情から目を逸らし、曖昧なまま友人として過ごしたあの半年間。互いに踏み込む勇気もなくて、偶然という言葉に都合よく甘えた日々。

***

「大河くんさ、ひとつ勘違いしてることがあるよ。」
「何?」
「運命って、その先があるの。人生ってくじ引きみたいなもんだよ。たくさんの選択肢がごっちゃに入ってて。その中から一つ引いて手にした選択肢を、今度は自分の判断で進んでいく。だから、これで良いんだよ。例えば、初めて話したあの日、私は大河くんを食事に誘った。それは私がそれを選んだから。転勤も。私がそれを選んだから。だから、私はここにいる。」
「……例えば、俺が響子さんのシュシュを拾った日。駅に届けなかったのは、俺が直接、響子さんに渡すことを選んだから?」
「そう。これは、全部、自分で選んだこと。」
 響子は大河を真っ直ぐに見て「そうでしょ?」と、呟く。
 それから響子は笑った。イタズラを仕掛けててくる時の、斜めな上目遣いと口角の上がった唇。
「で、いつ着せてくれるの? 背中の大きく開いた白いドレス。」
「ちょっ……!? 待って!? 何で響子さんがそれ知ってるの!?」
 赤い顔をして狼狽える大河に、岩井と菜々が「ごめん」と笑って拝むように手を合わせる。
「今度は、ちゃんと待ってるからね。」
 響子は満面の笑みで、大河を見る。
 その笑顔はしあわせに満ちていて、自由だな、と大河は思う。

60.未来の幸福

「おはよう。」
 響子を振り返った大河は、すぐに手元に視線を戻し、タイマーを見ながら真剣な目付きでポットのお湯をドリッパーに注ぎはじめる。
 寝巻きのままの響子は大河の隣に立ち、食パンを袋から取り出して半分にちぎる。立ったままスマートフォンを弄り、パンを口に運ぶ響子を見て、大河は呆れたように眉根を寄せて見せた。
「座って食べなよ。」
「だって、時間ないんだもん。」
「じゃあ、珈琲は要らない?」
「えっ。やだ、飲む。」
「じゃあ、カップ出して。」
「はい。ありがとう。」
 大河の淹れる珈琲は美味しい。
 先日、岩井と菜々が『二十歳のお祝いに』とプレゼントしてくれたドリップスケールとポットを大河はとても気に入ったようで、珈琲の研究に余念がない。
 日に日に上達する珈琲の味は、今すぐにでも喫茶店のカウンターに立てるのではないかと思うほどになっていた。
「今日の予定は?」
「午前中は学校。午後から事務所に顔出して、夕方また学校戻るよ。……あ。ミーティングの準備してないや。」
「資料なら出来てるよ。」
「響子さん、お願い! それ、借して。」
「いいよ。……夕飯は?」
「どうしようかな……響子さんは?」
「菜々が中華行かない? って。駅前に出来たとこ。」
「いいね。俺も行きたい。ダメかな?」
「いいんじゃない? 岩井くんも来るでしょ。中華は大勢の方がいいよね。」
「わかった。じゃあ、終わったら連絡するよ。」
「うん。菜々たちには伝えておくね。」
 そう言って響子はカップに残った珈琲を飲み干すと、洗面所へと向かう。
 歯磨きをして、ついでに花瓶の水を変え、自分の部屋に戻る。身支度をしながら、クローゼットからその日に身に付けるものと鞄を取り出して、ベッドに放り投げるように並べる。鏡の前でブラウスを羽織り、スカートに足を通して、タイツを履く。ボタンを閉めて整えたら、髪を梳かし、化粧をして、アクセサリーを着ける。
 小ぶりなピアスと揃いのネックレス。今日はガーネット。それと、大河から貰った、小さなダイヤのついたシンプルな指輪。
 所定の位置に並べた鍵や財布やスマートフォンと一緒に、化粧品の入った小さなポーチと、のど飴やチョコレートを入れたポーチも鞄に詰め込む。
 ジャケットを羽織って、もう一度、鏡をみて微笑んだ。
 よし、今日も完璧。

***

 10月の空は青く晴れて、朝の空気はひんやりと涼しい。
 玄関に鍵をかけて振り返ると、響子はアパートの階段を降り始めたところだった。
 会社と大学へ向かうには途中まで同じ道を通る。早足で歩く響子に並んで、分かれ道の交差点で信号を待つ。そろそろ変わる信号にフライング気味に足を延ばすと、響子に腕を掴まれた。
「あ、待って。」
 響子は少しつま先立ちをして、大河の顔に頬を寄せる。互いの頬を触れ合わせて、大河はその前髪にキスをする。メイクが崩れるからと、唇にキスはさせてくれない。その癖、人前で気にせず顔を寄せる響子に、大河は「慣れない」と思う。何度繰り返しても。一緒に暮らしてずいぶん経つというのに、いまだに照れてしまう。家の中では平気なのに。
 恋い焦がれたものが、手に入った今も。それは相変わらずで。彼女はいつだって、無邪気だ。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。また後でね。」
「うん。気をつけて。」
 手を振る響子の後ろ姿を見送って、大河は苦笑した。
 あの後ろ姿に恋をした。3年前。彼女を追いかけて電車を降りたあの日から、俺たちの関係はゆっくりと変わっていった。あの頃は、付き合うどころか、一緒に暮らすなんて想像もつかなかった。
 赤くなった耳を冷ますように、少し早足で歩き出す。
 時々、相手にされてないんじゃないかと思う瞬間がある。ドキドキしているのは、自分ばかりで。そんなことはないって、充分にわかっているはずなのに。
 自分の二十歳の誕生日に、響子に指輪を贈った。
 響子はこれ、どういう意味? と、大河を見上げて笑っていた。本当はちゃんとプロポーズしようと思っていたけど、その笑顔を見たら、そんなのどうでも良くなった。
―― これからもずっと一緒にいてください。――
 口から出たのはそんな言葉で。
 響子は、小さく頷くと、指輪を眺めて、
―― 今度は、ちゃんと逃げずに待ってるから ――
 そう言ってまた笑った。
「俺、成長してないな。」
 思い返して呟く。きっと響子さんも、変わっていない。
「素直じゃないよな、あの人も。」
 歩きながらイヤホンを片耳に入れて、昨晩、聴き逃した深夜ラジオの録音を再生する。片耳のイヤホンから、ゆったりとした音楽が流れ始めて、歩く速度を緩めた。

偶然でも運命でもない・終

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