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『演じる』ことについて

「他人の思考を覗いてみたい。」
そんな重たい奴をカジュアルな気持ちで発信したら、これまたカジュアルに「『演じる』ことについての解釈をみたい(超意約)」と打ち返されてちょっと楽しくなっています。

というわけで、コラボ記事です。みりさんからのお題は『演じる』ということ。

何故だか横からサッと挙手した清水涼介:夜中の散歩の一歩目による『演じる』記事はこちら

さて。
『演じる』

友人に、「よく名前出しで顔出ししてネットで喋れるね?」と言われることがたまにある。極々たまにだが、ある。
私は思う。
対面で言えないことは、ネットでも言ってはならぬと。そう思う。
それさえ心得ておけば、ネットだろうと対面だろうと、刺される時は刺されるし、恋に落ちる時は落ちるのだ。知らんけど。

文字だけの関わりは、対面での関わりに比べて、印象の操作がしやすい。
これこそが日常における『演じる』行為なのだと思う。
人は、無意識に自分がどうみられたら心地よいかを発信し続ける生き物だと思っている。
喋り方、書き言葉、選ぶ言い回し。
それらは意識的に、時に無意識に、相手によって形を変えて発信される。
あえて粗雑に言葉を選び、自分は強いもの(あるいは、学のない、無害なものだと)だと主張することもある。
必要以上に丁寧に、相手を立てることもある。
これが日常で『演じる』ことだと思う。

話は変わって。
芝居として、役者として『演じる』こと。
これは、役者としてというよりも演出としての話だけど。

私が脚本・演出をすると「この感情がわからない、この時、主人公は何を考えているのか?」そう問われることがある。求めている状況と、セリフの内容がちぐはぐなことがあるからだ。大体の場合「そんなものは無い、脚本に書いてあること以外は考えていない」と、そう答える。
「だけれど、読み方のテンポにだけ気をつけて。」
耳から入る情報は多い。声の高さ、大きさ、抑揚。
そういったものが、受け手の人間の感情を作り出す。
話し方はなんとなくパターン化されているので、「ここをもう少し悲しく」なんて曖昧に言われるよりも「ここをもう少し、低く、言葉は早く、単語の間はたっぷりと間を取って。」の方が伝わることがある。
脚本は楽譜のようなもの。そういう時、言葉の内容は、あって無いようなものだ。
ああ、ほら、いるじゃない?
笑いながら怒るおじさんって。
同じセリフでも、言い方ひとつで伝わることがたくさんある。
『僕は君を愛しているのに。』
喋り出しは大きく、一拍置いて、語尾に向かって小声で早口になる。聞き手は「この人、自信が無いのかな?」と受け取る。
最初の一音から、語尾の最後の最後まで、強く細かくはっきりと発言すれば「これは怒ってるぞ。」と、伝わる。
低く丁寧にゆっくりと…愛を囁く。
感情がわからなかった役者も、二度三度と発音すれば、演出の意図は伝わる。そこに新たに感情を乗せるか、そのままテンポを維持するかは役者次第だ。

私はこれを含めて人前に立つことを『演じる』ことだと思う。



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