懐中電灯とカント、そして時々デカルト

暗闇の中に、光を灯る懐中電灯を想像したことはある?懐中電灯の姿は見えないが、なんとかそこから出ている光を辿り、想像するしかない。盲人が象を語るような状況と一緒。
カントという哲学者はまさにそれを我々に諭そうとしていた。彼が彼の名著である「純粋理性批判」の中には「真実」は誰にも分らないが、人々が各々の感性・知性・理性を通して、真実を見ようとしているという理論を立てた。それまでの哲学はとある意味で、「我思う、故に我あり」という名言を残したデカルトに代表される様に、あくまでも人間という物事を見る主体が主となり、そこから真実が見えるという考え方が主流であった。ルネサンスという歴史背景を思うと、それもやむなしだが、カントの一喝はまさにコベルニクスの地動説に比敵するようなインパクトがあったと言っても過言ではない。
いきなり哲学のことを言って、どうしたの?と思われるかもしれないが、実は我々の生活の隅々までそれが関係する。例えば、「こんなはずではなかった」という場面に遭遇するだろう。しかし、よく考えたら、自分の中にまず「こうであるべき」という色眼鏡があったからこそ、そう見えるだけであって、それがいかにも真実だと勘違いするのは我々ではないのか?そう思えて来る途端、世の中はうんと楽しく見えて来るはず。

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?