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ちびすけ。3️⃣

大学進学から社会人一年目のお話。


私は指定校推薦の枠で
保育士・幼稚園教諭の資格がとれる
かつ、家から通える範囲の4年制の大学に進学した。

子どもが好きだから、
という1つだけの理由じゃない

私は、本当は臨床心理士になりたかった。
何故なら、私の兄がどういう理由で
こうなったのかを知りたかった。

そしてそういう人のケアをする人になりたかった。

私の兄の場合は、家などの環境要因からくるものだろうと思っていたが
でも、何故、私はここまでやってこれているのだろうか

それが知りたかった。
そしてそれを活かせるような職業に就きたかった。

だから、本当は心理学を専攻して学びたかった。

ただ、学費の面と、
とれる資格等、諸々を考えて

結果的に、以上のような理由で
私は心理学も一応齧れる、
4年制の大学を選んだ。


ーー入学式は勿論1人だった。

友人のグループは自然と出来上がったが、
大学で出される課題は、グループで協力するものが多かった。

私のグループは非協力的でやる気のない、人任せな友人が多く
提出期限が設けられているのに、ある子がやってきていないから
という理由で出せないことがあり、
さすがに私は呆れと怒りを覚えた。

私はそのグループから離れた。

やっぱり、高校までずっと私立で通っていて
お小遣いも貰っていて
私から見ると温室育ちのお嬢様とは
話を聞けば聞くほど、
自分との価値観や考え方がそもそも違った。
話が合わなかった

やっぱり公立の高校を卒業した子と
自然と一緒に居るようになった。

最初はスノーボードのサークルにはいったが、
結局辞めた。

私は、大学とバイトと家を行き来する
毎日を送った。

20歳になるまでは母親に門限を定められ、
それが過ぎるとチェーンがかけられる。

その時は仕方なしに彼の家に泊まった。

母から、小言から大言
(大言という単語はありません)まで
言われることも多かった。


そんな事もありながらも、
それなりに友達と遊んだりもした。

大学2年の時に、
電車とバスで通うことが嫌になり

また、交通費もバカにならない
勿論自費だったから。

原付のみ免許をとろうと思った。

免許を取る前に、問題集を購入し、
バイト先で退勤後に先輩に協力してもらって
よく勉強をしていた。



ーーある日、バイト終わりにいつものように
問題を出すのに先輩に付き合ってもらっていた。

門限だからと帰路に着こうとする私に、
いつもは「気を付けてね」という先輩だったが、
この日だけはたまたま言われなかった。

自転車に乗って帰る私。
見通しの悪い交差路で横からきた車に跳ねられた。

産まれて初めて、
私は車のボンネットの上に乗った。
そして、そのまま腰から落下した。

潰されずに、ボンネットの上に乗ったのが
せめてもの幸いだった。

生理的に涙が出た。
相手方はしっかりとした方で、きちんと対応してくださった。
警察を呼び、救急車を呼ぶかどうかの検討。

現地に到着した警察から、
「あなたも、ここの‘‘止まれ‘‘は自転車だから守らないと駄目だよ。」
他に寄り添うような言葉はなかった。

‘‘この人、嫌いだ。‘‘
素直にそう思った。

母親に何度か連絡するも、応答せず
パトカーに乗せてもらい、自宅まで送ってくれることになった。

相手方と連絡先の交換、住所を教えた。

自宅に着き、警察が居たのでさすがに母親も
起きてきた。
女性の警官が母に事情を説明してくれた。


母は、
その時私に罵声などをあげることがなかった。
それがせめてもの救いだった。

当日は痛みよりも驚きが大きかったので、
そこまで痛みを感じていなかった。

けれど。翌日、
私は腰が痛くて起き上がれなかった。
母がとりあえずの看病というか面倒は見てくれた。

相手方が菓子折りを持ってきて、
自宅まで謝罪に来た。
誠意の見られる方だった。

後日、病院に通院することを伝えた。

私の家は車を持っていなく、
当時の彼が車を出してくれることになった。
彼の車に乗って病院に向かった。
それに母も同行した。

彼と母の再会は、あの警察沙汰以来。
待ち時間の間に3人で並んで座った時は
何とも言えない空気が漂っていた。

でも、そこで母は彼に対する見方が少し変わったようだ。

幸い、後遺症も残ることなく、
無事に完治した。



完治後、原付の試験は一発で合格することが出来た。

原付自体は彼伝いで、ボロボロのものをタダで譲り受け
動かせるように自費で整備してもらった。

初めて道路に出るのは怖くて、
バイト先の別の先輩に付き合ってもらい
後ろをついて行く事で慣らした。
気を付けること、見ておかなければならない標識、
ガソリンの入れ方まで等

そして、私は原付で家から大学まで通うようになった。


周りの女の子は、いわゆる、THE女子大生な格好をしていたが、
授業を終えたらバイトに直行する私は
ジャージや、雨の日はカッパ、冬はとにかく暖かい服装で。
とにかく楽な格好で大学に通っていた。


相変わらず、母の小言から大言は多く
私に関することから

(例えば、帰って来たら‘‘ただいま‘‘を言いなさい。と言われる。ただ、私は言っていたのにも関わらず、母には聞こえてないことから、そのことを伝えても私が言ったという事実は無かったことになる。)

兄や弟のこと、母の仕事の愚痴などを私によく言ってきた。
アドバイスを求めてきた。

幼いころから何も変わらない
母はずっと悲劇のヒロイン。

弟は新しい中学校に通えず、引きこもっていた。

私は自分のことで精一杯なのに、
相談されることがしんどかった。
でも母はそんな事はお構いなしに、
私のことは気にせずに
立て続けに言ってくる。

私が右耳から左耳へと話を流しているのには
気付いて、

というか、私が全面的にそういう態度を出していた。

フィリピンの文化的に家族を大切にする、
家族論を私にぶちかまし
「兄弟でしょ?助け合わないとダメじゃない。」
そう、言ってくる。

私は、そんな家に居たくなかった。

だから、よく彼の家に居た。居つくようになった。
でも、たまには実家に帰るようにしていた。
面倒なことにならないように。

それに対してもやはり罵詈雑言を
母より言われていたが、全部、無視した。

その心の痛みに気づかないように。




ーーある冬の寒い日

母と弟が口論、というより
いつもの母の罵声の浴び掛けに
弟も、兄と同じように包丁を持ち出した。

母は、咄嗟に玄関から外に出た。
弟は玄関のドアを二重ロックした。

私はその時、自室に居た。

玄関の外から母の声が聞こえる。
「〇〇!!お願い!ドアを開けて!!」
そう、何度も叫んでいた。

私はチラリと自室からリビングを見た。
真っ暗な部屋に、包丁を持った弟が佇んでいる。

‘‘この状況で、私が出られる訳ないじゃない‘‘

私は、無視を決め込んだ。
母の自業自得だ。どうせ警察を呼ぶだろう。
弟の気持ちも痛いほどに分かる。
そうせざるを得ない心情になることも。
私も何度そうしたかったか。

その時は、それなりにタッパも大きくなっていた弟に諭しても意味はないと思っていた。
‘‘分かるよ。それで良いんだよ‘‘
そう肯定してあげたかったけど、出来なかった。

自分の身の危険を案じた。
そちらを優先させた。


私は、寒い中自室からベランダに出て
毛布に包まってやり過ごした。

もう、ここまでくると関わりたくなかったのが本音。

そして、弟は自立支援施設に連れていかれた。
1年ほどの月日を経て、また戻ってきたのだが。


そんな事もありながらも、
なんとかやり過ごしていた。




彼の家に居たり、
実家に居たりを繰り返していた矢先。

ある事件が、彼との間に起きた。
付き合い始めて2年経った頃。

一緒に居る時間が多くなる度に、彼からは距離をおかれたり
退勤後も真っすぐ帰ってこず、連絡もなしに漫画喫茶に行って
日付が変わって私が寝たあとに帰ってくる、
なんてことが多かった。

私は、甘えん坊なところもあり、
くっついていたかった。
身体を重ね合わせることも、3か月に1回あるかないかくらいで
自分の気持ちを伝えていた。

でも、彼からは物理的に振り払われたり、距離をおかれていた。
彼は、一度寝たらどんな手を使っても起きない人だった。
私はいつも彼がソファや床で寝てから、布団で眠る。
そんな日々が過ぎていった。


ーーある日
私は彼の家の合鍵を使っていつものように部屋に入った。

最初に目についたのは、私の物ではない
キャミソールが、物干し竿のハンガーに引っかかっていた。

そして、当時私は髪の毛がショートで
私が使う訳のないシュシュが置いてあった。

私は感情が無になった。虚無感。
無言で、即座に捨ててやった。

そして、彼に聞いた
‘‘あのキャミソールとシュシュは誰の?‘‘
‘‘誰か家に来たの?‘‘
捨ててやったことは言わなかった。


彼はそれに対してこう答えた。
「妹が家に来てて泊って行ったんだよね。だからあれは妹の。」


私は不信感が拭えなかった。

そして、彼が寝た後に、
私はいけないことをしていると思いつつも
彼の携帯を開いてLINEのトークを見た。

彼の携帯は何もロックが掛かっていなかった。
容易く開くことが出来てしまった。

そして、見つけてしまった。
彼の元彼女とのトーク履歴を。

飛び交うハートの絵文字。
何度か会っている痕跡。
今の子なんてやめてヨリを戻そうよ。そう捉えられる文章。
彼も満更でもない様子。
飛び交う‘‘好き‘‘の文字

私は絶句した。
無言で、そのトークの画面をスクロールしながら
自分の携帯のフォルダに証拠として収めていった。

そして、夜中
私は泣きながら実家に帰った。

私が居なくなっていたことに彼から言及されることはなかった。

その後のバイトは周りが気づくくらいに
私は魂が抜けていた。
仕事できる精神状況じゃなかった。

店長の
「上がっていいよ」
の言葉に感謝し、甘えた。

そして私は彼に連絡をとり、話をすることを決めた。


先に言っておくと、その話し合いは最悪。
誰から見てもおかしいと感じると思う。
それだけは先に言っておく。


彼とは車の中で話した。
私から話を切り出した。

悪いとは思っていたけれど、最近の行動や態度から
不信感が募って携帯を見てしまったこと。
どういうことかきちんと説明をしてほしいこと。


彼はこう言った。

「元彼女を家に泊めたことは事実だけど、やましいことは何一つしていない。だから俺は何も悪いことはしていない。パンドラの箱を開けたのは〇〇(私)だ。」

「これからも元彼女との関係は続けていくし、そこに口を挟まれたくない。」

正に、逆切れ。
こんなの、絶対に、おかしいよね。

当然、私は別れることも考えた。
十分考えた。


ーーでも。

その時の私は弱かった。
自分の拠り所である彼の家、
1人でいる分には、
自分にとって
唯一安心して過ごせる空間を手放したくなかった。
それを、彼のことが‘‘好き‘‘で思い込んで誤魔化した。


結局。付き合いはそのまま続けることにした。




私は二十歳になり、成人した。

成人式で着るような振袖のレンタルに使うような費用もない私は、
成人式自体に参加することを端から諦めていた。

でも、成人式の着物は、付き合いのある牧師さんづてに
借りられることになり、行きなさいと言葉があり。
自分で柄は選べないにしても、私はそれで
晴れ舞台に出ることが出来た。

そして。こういう時にだけ、また母親が出しゃばってくる。
来ては、色々な所に立ってと指示をだしてきて
写真を撮られまくられた。

まるでリカちゃん人形のよう。

貴方(母)これにかかった費用、
振袖も、着付け料金もヘアセット代も
何も出していないでしょう?

朝が早くて眠たくて、面倒ごとにはしたくない私は
黙って、されるがままにしてやった。



二十歳になってからは
もう成人しているから、
という理由で私が彼の家に
半ば半同棲状態になることに関して、
言われることが少なくなった。

たまーに、帰るようにはしていた。
とやかく言われないようにの、予防線。

彼は職場が近い場所に引っ越しをした。

私は、彼の家のキッチンに立ち、
自分で料理を作り
お弁当も作り、大学やバイト先に持って行った。

勿論、家賃や光熱費などを払っていなかったので、
せめて自炊にかかる材料費や、彼にもお弁当を作って渡していた。

掃除などは、私が私にとって居心地の良い空間になるようにやった。



2人で一緒に寝ようね、と言って
引っ越しの際に買ったダブルベッドは
最初は一緒に使っていたものの、
いつしか私が寂しく1人で眠るようになった。

彼は、隣の部屋で、布団で。


私は彼に対するモヤモヤが晴れることは無かった。
どこかに一緒に出かけることはあっても、
基本、家には一緒に居ない。

彼は家に居るより外に出ていたい人だった。
でも、何をしているのかは分からない。
聞けない。


付き合った当初は、私から
‘‘女性と2人で会うとかは別に良いんだけど、
隠されるとやましいことがあるんじゃないかと思ってしまうから
先に言ってくれれば良い‘‘

私はそう、言っていたのに。





ーーそこで、私のとった行動は。

‘‘彼に何も言えない状況に私がなる。‘‘
だった。

相手なら居た。
私はその相手の好意を利用して、
事情も説明した上でそういったことをしてきた。

そうやって自分で自分のことを堕としていった。




私が大学3年生の時の夏。
牧師さんとNPO法人の粋な計らいで
牧師さんとフィリピンに3週間ほど滞在できることになった。

目的は、私のルーツを辿る為。

フィリピン本島ではなく、最初は別の島の
海沿いにある集落に向かった。

現地の牧師さんの計らいで、その集落のなかでも
一番の貧困地域の中の
1つの家にホームステイさせてもらうことになった。
海の上に立つ家。ドアも窓もない。
屋根はあるけれど風がよく通る、そんな家。
床の隙間からは海が見えた。

子どもたちが沢山集まってきて、私たちは歓迎された。
その集落では、地域全体で子どもたちを大人が見ていた。

日本人にとっては想像を絶する過酷な経験をさせてもらった。
色々な現地の文化を知ることも出来た。
それと同時に綺麗な海を見せてもらえることになり船を出してくれたりと
貴重な経験が出来た。
レンタルしてきた防水カメラを使って、沢山写真にして残した。

言語のやり取りは難しくとも、
現地の子どもたちとジェスチャー等で交流は出来た。

日本語を教えることもあったし、
それを真似して片言で言う姿に愛おしさを感じた。

日本製のテレビやパソコンがあったり、
それを使ってビジネスをやっていることを教えてもらったり
実際に見ることで自分の中で得られたものが確かにあった。

今までのフィリピン人に対する悪いイメージが
がらり、とまではいかないが
確かに変わった。


そして、本島に戻り空港の付近のWi-Fiに携帯を繋げた。
敢えて、モバイルWi-Fiは借りていっていなかった。
予定には無かったけれど、母から連絡があったことに気付いた。

私は母の家族、私から見ると親戚たちに会うことが出来た。
幼い頃に見てきた僅かに残っている
親戚の顔や景色。

私のルーツはここにあった。

母の兄弟から、私から見ていとこ・はとこ
がどういう生活をして暮らしているのか。

色々な親戚の家を転々としながら
泊まらせて貰いながら交流を図り
私は実際に見てきた。

日本のフィリピンパブで働いていたことがあり
日本語の分かるいとこと、日本語で話をした時の安心感は
とてつもなく大きかった。


そんな、私にとって大事な経験をさせてもらえた。



私は、バイトに対して、姿勢がくそ真面目だった。
多分、職人気質があるのかもしれない。
バイトは、とある宅配寿司屋の中で寿司を握るクルーをやっていた。

自分の負の感情を八つ当たりするような先輩は居なくなり、それを反面教師として私なりに経験年数的にも、気付いたら一番上の立場になっていた。

私よりも一年早くバイトを始めた同い年の子は、
「年下は苦手だから、教えるのも苦手だから」

と平気で言えちゃうような子だった。

かつ、

その時の店長は私よりも経験年数が短く、
何より仕事に対する姿勢が尊敬できるものではなかった。

年下のバイトの子を顎で使い、
自分は休憩室で昼寝をしている。
無銭飲食をする。
ろくに教育もしない、向上心も無い。人任せ。

そんな人だった。

私はそんな人を『店長』とは呼ばず
私から見ると年上だが、呼び捨てで敬語なんて使わなかった。

だから、私はバイトの身でありながら全部やった。
というか、やらないと店が回らないことに気付いていた。

肩書だけの店長に不満を持つ高校生のバイトの子達は勿論沢山いて、よく私は状況やその子の顔を見て、強制的に喫煙所に連れて行って話をよく聞いていた。受容・共感
どうしたら良いかを一緒に考えた。

常に周りやその子それぞれをよく観察していた私は、
その子が何をしようとしているのか、
何に困っているのか
何を探しているのか

を、先回りして考えることが出来た。
それは、自分が此処に至るまで経験してきたものがあったから。

私が声を掛けると

「なんで分かるんですか?」
と言われることが多々あった。

傍から見ると怖い人だったかもしれない。
でも、言葉はきつくても
ど正論を、痛いところを突くところがあったとしても

私の根底にあるところや性格を分かってくれる後輩が多く
「姐さん!」
と慕ってくれる子が多かった。

とにかくお金を稼ぎたい私は、長い時間働くことが出来るように、お店の〆作業が出来るように学び
この頃には、私が出勤する日はほぼ自分が〆られるようにシフトを組んでもらえるように頼み、そうしていた。

本来は『店長』がすべきであろう
食材や梱包材の発注等も、関係なく私がするようになった。

中で動いている私の方が把握している事が多く、
食材などが無くなりそうになる前に『店長』に伝えていたが、
忘れられることが多々あり、
それに困るのは調理クルー。
迷惑をかけるのは顧客になる。

クルーを困らせたくない。
お客様にも迷惑をかけたくない。

だから、自分でやるようにした。
勿論、失敗することもあったが試行錯誤しながら。
時には、他の店舗とやり取りして食材の貸し借りをしたり
色々教えてもらいながら。


また、

〆作業が出来る人は、タイムレコーダーもいじることが出来る。

22時までしか働くことが出来ない高校生も、その後の時間も実質は働いていて
それをタイムレコーダーをいじって出勤時間を前倒しして調整するのが本来の『店長』の役目だが

『店長』はそれをやることを渋った。
時には、「付けといたよ(調整)」と嘘をついて
本当はやっていなかったり。

私はそれが本当に許せなかった。

だから、私がそこを調整した。
働いている事実があるのに、それが無かったことにされる現場なんておかしい。大切な時間を使って働いていることの重要性が分かっていないのだろうか。

だから私はアルバイトの身ながらも
‘‘仕事‘‘をくそ真面目にやっていた。




そんなこんなで私が大学4年生に進級する頃。

彼は転職をして彼の地元・実家に帰ることが決まった。
彼の実家にはご挨拶に行ったこともあるし、
何度も彼の両親に会ったことはあるけれど、


彼の両親から、
「息子がこう言っていたんだけどさ」
から始まり、
「〇〇(私)の母親は嫌いだ。関わりたくない。」
そう言っていたことを教えてもらった。

どういう意図で私に言ってきたのかは
分からない。


そんなことも知らない彼は、
私にこう言った。

「一緒に地元について来てくれないか?」

私のやりたい仕事はその地元の方では余りにも
選べる選択肢が少なかった。
それに加えての彼への不信感。

私はその申し出を断った。

でも、彼は私の状況を考えてくれて、
賃貸の部屋を借り続けてくれた。
私が就職して、引っ越しをして
自力できちんとした形で自立するまで。

それはとても、有難かった。


私は、彼の借りている家を1人で使い、
そこから大学とバイトに行く毎日を送った。

保育士・幼稚園教諭の免許を取得するにあたり
現地での実習は必須。

それは、とにかく過酷だった。

字を綺麗に書くのが得意でない私が、それでも必死に記入した
実習日誌について
「もっと丁寧に書いてください」
と言われたり。

私が実習中に慌ただしくしてもしょうがないと思っていたので、
あくまでも冷静に対応する姿を見て、
「もっとテキパキ動いてください。」
「意欲がないように見えます」
そう言われたこともあった。


ピアノを始めたのが大学に入学してからで、
苦手だった私は、課題曲を少し簡単な譜面の方で弾かせてもらえないか打診した時は、

「そんなこと言う実習生なんて今までにいなかった。」
「きちんと練習してきなさい。」

実習日誌を書くのだけでも大変なのに。

実習期間中はとれても3~4時間程度の睡眠だった。
緊張も張り付いたままリラックスできない。

まさに、過酷だった。


そんな中、児童養護施設での実習をさせてもらった時。

子どもたちがそれぞれ抱えている背景や現状
それに対する職員のケアや関係各所との連携について学び

強く興味を持った。

沢山子どもと関わっていく中で、
ふと出てくる子どもからの言葉。
中には過去について教えてくれた子も居た。

私の中の感情が、強く揺れ動いた。



元々、私は保育園等で経験を重ねてから
私が居たことのある母子支援施設や
ゆくゆくは児童養護施設に就職し、
自分の経験を活かして子ども達のケアをしていきたいと思っていた。


私は、実習を経て、
最初から児童養護施設に就職することに決めた。




大学四年生
この大学では卒論とは別で、総括として

グループに分かれて大きな演目をやる
履修必須科目があった。

それを下の後輩が観に来る

グループに分かれて
それぞれ先生が就いた

「誰がリーダーをやる?」

その担当の先生は
そうグループに問いかけた
誰も、何も言わなかった。

私はグループ内の人間を見て
誰にも引っ張っていく度量と器量はないだろう

そう思っていた。

そうしたら、担当の先生から
「貴方、やってみない?」

そう、私に声を掛けてきた。

私に何かを感じてくれたのだろうか?
私は引き受けた。
私が引き受けた方が
誰か適当な人についていくより
よっぽどマシだと思った。

演目は「大きな木」

全て一から創り上げる
グループ内での共同作業

最初は私と先生とで話しつつ
どうしていこうか、考えた。

勿論、グループ内にも声を掛けつつ。

“これ、どう思う?”
“ここ、どうしたらもっと良くなるかな?”

私はこう思うけど、貴方達はどう思う?

「○○(私)と先生の言う感じで良いと思うよ」

そう口々に言う人達だった。


演目に使う小道具から大道具は
全部手作り。

私は立案した計画を基に
木材や幹の部分として人に着させる茶色い全身タイツ。それに色を吹きかけるスプレー
などの材料を買って原付で運んだ。

グループLINEでそれらを製作する日程を調整して
当日になった。

しかし、誰も来なかった。

私は1人で黙々と作業を進めた。
1人だからあまり進められなかった。
何か、‘‘ここはどうしたらいいかな?‘‘
と思い浮かんでも相談相手が居なかったから

1人でぶつぶつと独り言を言いながら
製作を進めた。

最後の方になってやっと。
皆が協力的になった。

そして、演目の本番が終わった後に
皆が寄せ書きしてくれたものを渡してくれた。

私は泣きはしなかったけれど、
単純に私の頑張りが認められた気がした。

メッセージには口々に
「色々任せてごめんね、ありがとう」

等が書かれていた。

今更、言うくらいなら
最初からやりなよ。と内心思ってはいたが。

そして、就活を経て、児童養護施設への内定が決まった。


バイトの話に戻る。

宅配寿司屋の一番の繁忙期は年末年始。
勝負であり、過酷な時。

私は、今までの経験から
ミスや余計な手間が少しでも省けるように
予約の受注の時期になる前にレジュメを作り
クルーに配布した。

それでもミスは起こる。
それはその子自身で修正するように指導した。

そして、過酷の時を皆で乗り越えられるように
その人のスキルや人間関係の相性などを考慮して
人員配置を考え、図に書き起こし
クルーミーティングの場であれこれ意見を聞いた。

配達クルーとの連携、商品管理方法も
その時にいた同い年の配達クルーのリーダー的立ち位置の子とよく話し合った。

『店長』そっちのけで。
あまり首は突っ込んでこなかった。
私はあくまでも同じクルーとして接した。

ただ、責任をとるのは『店長』だから
確認などはしつつ。

私にとって最後の年末年始。
上の立場として何が出来るか、何をどうしたら上手くいくか
それを後輩に伝えられる、最後に私が出来ること。

私はそれを自分の背中を見せてやりたかった。

レジュメも、今後使えるように遺したり
ホールの配置をクルーが考えられるようにしたり。


ーーそして勝負の時。

何度もこの役割はやってはいたが、私にとっては
頼れる『店長』は居ない状態での
初めてで最後の、闘いであり過酷の時。


私は調理クルーとして‘‘司令塔‘‘という立場に立ち、
自身も調理しながら、
他のクルーの進捗状況を聞きつつ把握し
助けが必要なところは手を回して。
配達クルーと連携しつつ、
全体で助け合いつつ回るようにした。

朝はかなり早く、というよりほぼ日をまたいで数時間後

眠たい瞼を擦りながら、
モンスターエナジーを飲みつつ
頭をフル回転させ続け、
声掛けをし続ける。

その中でも、周りが重たい空気にならないように
くだらない話をしながら。

というか、そうでもしないと
自分もやってられないくらい過酷な闘いだから。


そして、休憩を回すタイミング。

ちょこちょこ『店長』に進捗状況は聞かれて答えていた。

『店長』に休憩を回すように役割を与えていたけれど、
全く彼は動かなかった。
無駄な動き・ミスが目立った。

私はキレた。

自分で考えて、アルバイトの子達が少しでも多く休憩がとれるように
自分の時間を削ってまで回した。

自分が休憩に行くときはちゃんと信頼できるクルーに引継ぎをしてから。
レトルトのカレーを飲み込んだ。

そんなこんなで私にとって最後の闘いが終わった。


私は、今回のこの闘いで『店長』のことが生理的に嫌になり、
嫌悪感しか感じなくなり、

事情を話して、他店舗の店長に全てを言って
他の店舗にヘルプとして
就職するギリギリまでそこで働いた。



新しい年になり、

就職にあたり、引っ越しの手続きや準備。
彼も内見に付き合ってくれたりしてくれた。

準備は引っ越し業者の比較から手配まで自分でやった。
彼の家電をそのまま持って行って、私は引っ越しをした。

やっと。自立して生活出来る‘‘大人‘‘になれたんだと
そう思った。


そして社会人1年目として奮闘した。

私は2歳から未就学児までのお子さんを預かっている部署に入ることになった。

初めは、勿論右も左も、子どもへの関わり方も分からず模索していった。
様々な背景がそれぞれにあり、どう対応したら良いのか分からない子ども達ばかりだった。

最初は、家事や掃除などから教わり、
子どもの背景を知る為に、書類を読み漁った。
それから、先輩職員の子ども対応の方法を見たり
自分の対応で上手くいかなかった場合に先輩だったらどうするか
色々な方に聞きまくった。

勿論、それを丸々真似したところで、新人であり
子どもとの関係性が出来ていない私は上手くいかないことだらけだった。

そして、子ども達はよく大人を見ていて、
新人職員に対して当たりが強かったり、暴力・暴言はざらにあった。
腕を引っかかれて爪痕で腕が真っ赤になったこともある。
それでも、受け止めるしかない。
そういう、仕事。

とにかく、関係性を自分なりに作る為に
自分からアプローチをし続けた。


ーーある日、就寝時の寝かしつけで落ち着かない子がいて、
とことんその子に向き合って付き合い、取っ組み合いにもなった。

その私の姿勢が、上司に評価された。


そして、私は上司が担当している子どもを分担して
その子どもから見ると、上司と私の2人の担当がつくことになった。

(基本的に職員1人につき、担当の子どもが2人いる)

当時の上司は男性で、私は男性が苦手だった。
父のことがあったり、痴漢などで男性への恐怖心があったから。

それに加えて、その上司はあえて私のやることに口を出さずに、見ていることが多かった。

それが、私の一挙一動を見られているような感じがして怖かった。



ーー職場での、子ども対応に関する会議の場で。

まだ入職して3か月の私に、
同僚だけではなく、他の専門職員や外部の方が来ている
そんな状況の中で、上司はこう言ってきた。

「〇〇は、これが出来ていない。ここも出来ていない。全然ダメだ。」


私は涙が止まらなかった。
嗚咽になり、先輩がティッシュボックスを差し出してくれるも

誰も。上司の話を遮る人は居なかった。


それから。私は職場に行く前にお腹を下したり
上司とシフトが被る日の前日は眠れなくなっていった。

そのことを先輩職員に相談すると、
シフトがなるべく被らないように配慮してくれた。

結果的に、その上司はそれから3か月後に
自己都合ということで退職した。

職員が減ったことにより、やらなければならない仕事は増えた。
補充する人員も居ない。

当時の1つ上の代の先輩は2人(女性)居て、
そこで結託することが多かった。
何か決まったことがあっても向こうから話してはくれない。
私がリーダーで子どもの動きを回している時に、
少し離れた場所でトラブルが起ころうとも、
こちらは入浴介助をして目が離せないのに
「こっちでトラブってるよー」
とのみ、言い、一切そこに関してはフォローに入る姿勢が見られなかった。


後から知ったのだが、その先輩が一年目の時に
上司からされたことをそっくりそのまま私にしてきていて、

‘‘こういうトラブルが起こる前に出来る策を考えるように‘‘
が目的だった、のだと思う。



上司の場合は、それで場が荒れたとしても収めることができるけど
正直、その先輩はそこまで出来る器量は無かった。



なんだか、自分は蚊帳の外に居るような気がしていた。


月に6回の夜勤。子どもの夜泣き対応や、
アンビバレントな行動に振り回されてろくに仮眠ができない
そんなことが続いた。

当然かのように、夜勤の前日はお腹を下したり、眠れなくなった。

安心して仕事が出来る状況になかったから。
同僚と連携して回すことが出来ない状況だったから。


勤務の直前になって泣き出し、玄関まで行くも
靴が履けなくて、度々休むことが増えた。

職場の産業医と相談するように、と管理職からあり相談すると

「精神科に行くように」
そう言われた。





私は通いやすそうなクリニックを探し、通院することになった。
職場でのことと、睡眠の事に加えて、
これまでの私の成育歴と現在の家庭状況を伝えると

カウンセリングが必要、だと診断された。

そして、抗不安薬と睡眠導入剤を処方された。


カウンセリングで幼少期のことを話していったり、テストをしていく中で
カウンセラーより
「今より、幼少期の方がうつ状態が酷かったと推察される。」
と言われた。


確かに、そう言われればそうだ。
解離していたし、毎日明日になったら記憶がなくなりますようにと祈っていた。散々家庭に振り回されて、安心できるひとときなんてなかった。


でも、今はそこから飛び出して逃げて、
ある程度関係を断ち切って自立して1人で生きている。

だから幼少期よりはマシになったのかもしれない。
環境的に。


それから月一度ペースでカウンセリングには通っていて、
定期的に主治医の診察を受けた。

社会人一年目の年度末。
辞めた上司のかわりに、グループのトップに立った
当時8年ほど経験のある女性の上司からこう言われた。

「もう少し、自分の体調をコントロールしようね。」


心にグサッと刺さった。
やりたいのに、私だってそうしたいのに。
こうなりたくて、なった訳じゃないのに。

それは、言えなかった。



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