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これは、まるで遺書を書くように並べた言葉。

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私の手記を時系列に書いていくエッセイです。 自分の生きてきた人生の中で、家族だけでなく他の人も絡んでくる出来事を淡々と書いています。 書き殴ったものをまとめながら少しずつ更新して… もっと読む
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はじまり

私の記憶はここから始まる。 これはまるで遺書を書いているような そんな風に自分の人生の中で感じたことを、 つらつらと並べた言葉。

うつ病の時に傍に居てくれたTへ

私がうつ病と診断され、「死にたくてどうしようもない」と伝えたら、 親戚に自殺したした人がいたようで放っておけなくて 3ヶ月ほど私の傍にいてくれたT 抗うつ剤の飲みはじめのせりあがるような気持ち悪さに涙する私に 手を繋ぎ寄り添い続けてくれた 強制的に日中も眠る薬を処方され、眠り続ける私を見守ってくれた 私はTに対して”好き”の気持ちを通り越した感情をもっていた でも、Tには決まった相手がいた 何度も自分の気持ちを伝えた でも、駄目だった。そこの後悔はない お互いのために良

ー1ー 昔の記憶を拾い集めて

私の名前はれいな(仮名)。 25歳でうつ病と診断された。これはまるで遺書を書くようにつらつらと並べた言葉。 幼い頃の記憶はあんまり覚えていない。というか思い出したくもないような事ばかりだった。でも、児童養護施設で働くにあたって絶縁(当時で7年ほど)していた父にメールを送信するなんて、自分でも予想だにしない行動を起こすほど、この仕事を始めて自分や、家族のこと、幼い頃の記憶がよく思い出された。強制的にでてきては私に詰めよってきた。 夫婦喧嘩というより、それは日々行われるDV

ー2ー 夫婦の板挟み

気付くと父は部屋に引きこもり、菓子を食べながら一日中部屋で過ごすようになった。それは1年間ほど続き、気付くと何やら別の仕事をするようになった。後に知ったのだが、父は何かの会社経営をしており、社長だった。つまり私の家は裕福だったのだ。だが、その会社は倒産し、父は元社員にお金を支払わなければならなかった。人生がどん底になったのだろう。一年引き篭もっても仕方がない。 裕福であった頃、裕福であったからこそ私と兄は私立のカトリック系の小学校に通っていた。電車で1時間弱ほどかけて通学し

ー3ー 初めての夜逃げ

それは突然起こった。 私が小学校4年生の時、夫からのDVに耐えかねた母が「今日の夜、家を出るから持っていけるだけ荷物をまとめなさい。」と言ったのだ。 兄は中学生になってから学校に行かずに自室に引き篭るようになっていた。その為、置いていかざるを得なかったのだろうか。 母・私・弟で夜逃げするかのように家を出た。夏休みが始まってすぐの事で、私は学校で出ていた宿題をランドセルの中にいっぱい詰めた。 洋服も持っていくように母から言われ、必要最低限の物をまとめた。私は何が起こって

ー4ー 2度目の夜逃げ

お金が尽きたのか、父は住んでいたマンションを売り払い、私たちは隣町の団地へと引っ越した。当時私が中学1年生、兄が高校1年生、弟が小学4年生だ。 新しい家は古いが4LDKと広く、その広さが更に夫婦の間の距離を広げていった。最早、家庭内別居状態であった。私は何度も“橋”として夫婦の間に入った。それが当たり前かのように続いた。 私は中学校で陸上部に入部した。自分で言うのもなんだが、瞬発的に動いたり走ることに私は長けていて、短距離走100mでは東京都の大会でギリギリで入賞し、賞状

ー5ー 調停と、彼氏。

両親は離婚するにあたり、親権や養育費などについて揉めたようであった。どうやら、家庭裁判所とやらで「調停」というものが行われるようであった。何度も家庭裁判所に行っては行われていたようだが、父が現れない日も多かったそうだ。 母は難しい法律だとかの日本語の理解が難しかった為、とあるNPO法人のRさんに同行をお願いしてボランティアで通訳をしてもらっていた。(後にこのNPO法人に私は大変お世話になることになるのだが…) 私も調停の場に赴き、裁判官のような人にこう問い掛けられた。「あ

ー6ー 私の夜逃げ。

家を出たいと思った私が助けを求めた先が、  例のNPO法人のRさん。 私は布団に潜り込んだまま母に聞かれないように小さな声で事情を話した。Rさんが手助けをしてくれるとのことで、日時を合わせた。 私はとりあえずの荷物を詰めて、近くのマクドナルドでRさんと合流した。私は家を出た。まずNPO法人の事務所が敷地内にある、 東京タワーが見えるような都会の、教会の方が管理している部屋に少し滞在できる事になった。 彼の家に逃げ込む選択肢もあったのだが、Rさんに諭された。「それは得策

ー7ー 元カノを家に泊めただって?

そして。遂に私は母の元へ戻る時がきた。NPO法人の理事であり、母がよくお世話になってる司祭と共に。母は私の大好きなシニガン(フィリピン料理)を作って、“あの日”のことがまるで嘘だったかのようにドアを開けて歓迎した。 そこにRさんの姿はなかった。私は道中司祭に話を聞くと、どうやら母は「れいなをRにとられた。」と思い激昂していたようだ。私が望んで家を出たのに。 私は本当は戻ってきたくなんてなかった。でも、進学の為には我慢せねばならないと自分に言い聞かせて取り繕った。 家に戻

ー8ー 堕ちてゆく

また、彼は性のことについて淡白であった。 どんどんセックスする回数は減っていき、気付くと2〜3ヶ月に1回、性行為があるかないかぐらいであった。加えて元彼女の事も頭によぎり、私は不安に襲われた。 勿論、私から何度か彼に性行為の話を会話の中で挙げた。「もう少し身体接触したい。」と、つまり性行為がしたいと思っている事を。しかし「疲れているから。」などど理由をつけては、はぐらかされた。 そして更に回数は減っていったのだ。私は最後にセックスしてから何日経過したのかカウントアップす

ー9ー 「結婚しよう」そう言った彼は「Tinder」をやっていた

社会人2年目。私は異動することは無かったが、先輩2人はそれぞれ別のグループへ異動し、もう1人はパート職員となった。ガラリとグループの職員が変わり、別の職員がきたが人柄が良く、そして面白くもあり、お互いが気にしあってチームとして仕事することが出来た。後輩の男性職員も入り、2年目の私は仕事がとても充実していた。 新しい気持ちで自分のやりたいように、のびのびと色々なことを考えては挑戦していった。とっても充実していた。 交際している遠距離の彼とは月に1度会うペースで交際を続けてい

ー10ー 私の出した答え。

彼とは私の自宅近くの喫茶店で会った。私の自宅にはまだ彼の荷物が沢山置いてあり、私は持てるだけ荷物を袋に詰めて原付で向かった。 着いた時、冷や汗が止まらなかった。あぁ、あのナンバーの車は彼の車だ。と容易に見つけることができたから。彼は先に店内に入っているようだ。 どんな顔をして、一言目は何て言おう?そう考えても良いアイデアは見つからず、半ばやけくそで私は店内に入った。彼を見つけ、彼は私が持っている大きな袋を見て何か察したようだった。 私はいつも頼むミルクコーヒーを頼んだ。

ー11ー いわゆる「出会い系アプリ」

出会い系アプリで出会う男性にはよく翻弄された。沢山の人とあっては身体を重ね、虚無感を感じた。会う約束の当日の日に連絡がつかなくなりバックれられることも少なくない。 会ったら「写真と実物が全然違う!」なんて人も殆どだった。でも、1人好きになれるかなと思う男性に会ったんだ。航空関係で働いている人だった。(以下彼の事をAと呼ぶ) Aとは夜通し電話をしたり、私の生育歴を。自身の少し深い部分を話せる、受け止めてくれるような人だった。何回か会い自宅にも招き入れ、シニガン(フィリピン料

ー12ー 自殺願望と夕陽

2020年7月1日 その日私は休みだった。昼まで雨が降っていたので私は部屋でのんびりと過ごしていた。夕方、いつの間にか雨は止んでいて、部屋に夕陽が差し込んだ。私の部屋はベランダに通ずる窓の他に、角部屋であるため西側に小さな窓がある。 私はベッドに座り、窓から外を覗き込むようにして夕陽を見ていた。ただボーッと眺めていた。 そこでふと思った。「私って何の為に生きているの?」「何のために頑張っているの?」「そもそも頑張れているの?」「奨学金を返済する為に頑張っているの?」「私