乾徳山登山

1996年7月31日 (水曜日)

 徳和の集落を抜け、林道が徳和川の左岸から右へカーブするわずかなスペースに車を停める。青梅街道を下り、ここまでのアプローチが自宅から100キロ弱。おいらん渕近くでは野生の猿がガードレールに腰かけ、こちらの通過を見送っていた。
 天気はぐずつき気味で、柳沢峠からは深い霧に包まれて甲府盆地へと駆け下りて来た。その霧もところどころで飽和状態になり、霧雨の夜明けを迎えた。

 軽く腹をこしらえ、七時前に出発する。今のところ雨は落ちていないが、なんとなく気分がすぐれない。このまま帰ってしまおうかと、弱気の虫が顔を覗かせる。これは寝不足のせいだ。

 標識に従い林道を登って行くと、すぐに大きな案内板に突き当たる。道はT字路になっており、脇には豊かな水流がある。しかしここで考え込んでしまった。これだけ大きな案内板にもかかわらず、肝心の現在地の記入がないのだ。歩き始めてまだ五分と経っていない林道歩きなのに、もうルートの選択に迷っている。二十数年前の記憶など微塵もない。すぐ右手に、朽ちかけた古い木製の鳥居があった。記憶の糸をたぐり寄せると、おぼろ気にだが、どこかでやはり鳥居をくぐったような気がする。しかし何の標識もないのできっと違うのだろう。乾徳山といえば奥秩父では有名な展望の山だ。標識のないわけがない。

 持参のマップを見ても今ひとつはっきりしないので、徳和川の川音を左下に聞きながら林道を行くことにする。川原では砂防工事の真っ最中だ。そして歩くこと十五分で、案内板や標識の乱立する登山口が現れた。徳和川をはさんだ対岸の尾根上には、整ったピラミッドの1,487峰が姿を見せている。これは東御殿と呼ばれているピークだろう。小さいながら、とてもいい形をしている。

 登り始めてすぐに鳥居をくぐる。記憶の断片に残っていたのはこれだったのだ。いい加減な記憶だが、他の山との混同ではなかったので、まずはほっとひと安心。しかし、夢想国師が修行したという信仰の山なので、襟を正して登らねばならない。無闇なキジ撃ちなどは厳に慎むべきであろう。

 オソバ沢に沿った樹林帯を行く。いつも思うことだが、歩き始めはいろいろな雑念に捕われて困る。今日これから稼がなければいけない高度差と時間のこと。それと併せてザックの重さと体調のこと。天気のこと。任せてきた仕事のこと。おまけに、日々の雑事に追われる暮らしのこと。それらが脈絡もなく大挙して頭を巡る。山に来たよろこびも感じないわけではないが、気持ちの切り替えがうまくいかずに苦労する。

 泣き出しそうな天気のせいで湿度が高く、すぐに汗が噴き出してくる。風も通らず、不快極まりない。本格的に帰りたくなってきた。頭を空っぽにして、とにかく高度を稼ぐ。調子の悪い時は、せっかくここまで登ったのだからと、自分を納得させるまでの工程を早く消化させてしまうに限る。
 一本道には不必要な乾徳山への標識をいくつか見ながら行くと、すぐに伐採地に出た。辺りにはツユクサの群生もあるが、「ああ、きれいだな」と思うだけで通り過ぎる。山菜は得意だが、花の名を覚えるのは苦手だ。ニッコウキスゲとカンゾウの区別すらつかない。

 登山口から十五分で林道に飛び出した。すぐ脇には年代物の錆びた普通トラックが雨ざらしになっている。林道を横切り、たくさんの標識に見守られて進む。ヤマユリを眺めたりしながら五分ほど行くと、古い石垣が現れた。ワサビ田とも違うようだし、これはひょっとすると武田の山城跡かも知れない。もっとも、よく見れば戦国時代にまで遡るほど古くない。正体は不明。

 十分ほどで銀晶水の水場に着いた。期待していたのだが、塩ビのパイプからポトリポトリと雫が落ちるだけで、ほぼ枯れた状態だったのは残念。次の錦晶水を楽しみにしよう。
 ちらほらとある木苺をつまみながら行く。味はともかく、薬品臭は気のせいか。それでもこれを目的とすれば、なんとかジャム1本分は採れるかも知れない。木苺以上に目につくのがさまざまなキノコだ。シメジに似たものや、ふかふかの感触のマンネンタケが目を楽しませてくれる。

 駒止で小休止。手頃な岩に腰かけてひと息ついていると、短パンの男性が登ってきた。ひと声あいさつを交わしただけで通り過ぎて行ったが、本当はここで休憩を取りたかったのではないだろうか。人と交わりたくない単独行の性が表れていたような気がした。
 追いつかないように、たっぷり時間を取ってから立ち上がる。すでに廃道となった林道を横切り、名も分からぬ花を愛でながら登って行く。この辺りまで来れば、もう戻ろうとの気持ちも失せて、今日のペースをしっかりつかんでいる。岩がちな部分を過ぎ、もう一度廃道を越す。深山の趣が濃くなり、やはり来てよかったなと思う。

 錦晶水で短パンの男性に追いついた。水場のすぐ横で腹ごしらえをしている。こちらはその水が欲しいので通り過ぎるわけにはいかない。仕方なく、やや離れた岩に腰を下ろし、男性が立ち上がるのを待つことにした。互いに会話を交わしたいわけでもないので、ただ無関心を装って相手に背を向ける。ここまで来るのに、いかにも疲れましたよと、荒い息をついて見せ、ザックを下ろして意味もなくゴソゴソやり、大休止の態勢に見せかける。やがて男性はあいさつもなく立ち上がり、先へ消えた。

 家から持参した水筒の水を入れ替え、しばらく時間調整をしてから、こちらも立ち上がる。トイレらしき朽ちた小屋があったりで、錦晶水などと素敵な名前を持つ所だが、長くいたいと思う場所ではない。それにしても銀晶水、錦晶水と、その名の由来が分からない。ガイドブックなどをひっくり返しても書いてあるわけではなく、こんな場所にこそ、地元の案内板が欲しい。

 錦晶水からは、緩やかな道をわずかな距離で国師ヶ原に出る。高原状の気持ちのいい所だが、ゴミの多さにはがっかりさせられる。野営の置き土産だろうか、それにしてもひどい。右手には牧場の柵も連なり、すぐ下の錦晶水の水質は大丈夫かと不安になる。

 ここは十字路になっており、標識に従って真ん中の道を行く。この分岐にはタラの木があるが、育ち過ぎなのが残念だ。正面には目指す乾徳山があるのだが、すっぽりと雲に隠れて頂上付近を望むことはできない。天候の回復も期待できそうにないので、いまひとつ意気が上がらない。それでも、先ほどより幾らかの解放感があるのは、空が広いからだろう。少しの間、右に牧場の有刺鉄線を見ながらの歩きになる。白樺がちらほら現れ、ヤナギランやミヤマシシウド、アヤメなどを横目に進んで行く。

 ガレの急登となり、牧場からの道を合わせると、ナツアカネの飛び交う扇平に着く。ここで最後の休憩とし、行動食のチョコを口に放り込む。甲州側から盛んに雲が押し寄せ、眺望は利かない。雲の上からヘリの音がパタパタ聞こえるが、いったいどこで何をしているのやら、とんと見当がつかぬ。意外と近くに聞こえるのだが、それも五分ほどで遠ざかってしまった。

 扇平からは今までと打って変わって原生林のコースになる。もう頂上は遠くないのだが、木の根や岩に阻まれ、時間のかかる部分だ。時折パラパラと雨が落ちて先を急かされるが、雨具もあるし、急ぐこともないのでのんびりと行く。

 髭剃岩で男女五人のパーティーに追いつかれた。前後を男性にはさまれ、女性たちは三人、みな二十歳くらいだろうか。とにかくにぎやかなパーティーで、冗談を言い合い、片時も笑い声が絶えない。トップの男性が社長と呼ばれているので、どうやら職場ぐるみの登山らしい。先行してもらうが、岩場の連続で遅々として先へ進まない。普通の登りでは早そうだが、岩場は苦手らしい。

 ペンキの矢印に従って大岩を右に左にかわし、少しずつせり上って行く。一気に西側の開ける部分もあるが、眺めは雲にさえぎられ、見えるのは、はるか足下の徳和川ばかり。
 クサリ場も現れ、いよいよ最後の詰めだ。頂上直下の長いクサリは五人組に占領されていたので、やや右からコンティニュアスで、2,011メートルの頂上に立った。時計を見ると十一時五十分。少し時間をかけ過ぎたようだ。まあそれも、こうしてピークを極めることができたのだから良しとしよう。

 しかしこの頂上は大きな岩が無秩序に累々と堆積し、ゆっくり落ち着ける場所がない。そんなピークなので、三角点も設置することができなかったと聞いたことがある。雲取山とほぼ同じ標高ではあるが、こちらはアルペン的だ。
 どうにか不安定な態勢で腰を下ろし、例によってコンビニのおにぎりで昼食にする。本来ならば360度の絶景を恣にするところなのだが、すぐとなりの黒金山すら雲の中だ。それでも、ここまで天気が持ってくれたことに感謝しよう。

 三十分ほどとどまり、腰を上げた。回遊コースをとるので、ハシゴを使い北側へ下る。水のタルで、とうとう雨が降り出した。黒金山への色気も少しばかりあったが、これですっきりと踏ん切りをつけて下山と決めた。ここで雨具をつけている間に、また五人組に抜かれた。相変わらず楽しそうに下って行く。

 下山道の最初の部分は岩まじりの滑りやすい急下降だ。ナメのような岩もあり、ストックを使って慎重に進む。はるか東の方では、先ほどから切れ目のない雷鳴が轟いている。これが西側からならば危ないところなのだが、今のところ心配はないようだ。
 やがて傾斜も緩くなり、そぼ降る雨の中を、またキノコなどを見ながら進む。原生林の一本道には、鬱陶しいほどの色テープが巻きつけてある。積雪期のルート確保にしても、あまりにも目につき過ぎる。山での人間の痕跡は最小限にとどめて欲しいと思う。

 そろそろ高原ヒュッテに近づいたころ、西側でまた雷鳴が聞こえ始めた。非常にマズイと思う。雨は小降りになっていたが、うれしくもない。ゴロゴロと雷鳴が続き、こころなしか、それが近づいているようだ。国師ヶ原に出ると隠れる場所もないので、何とか早く錦晶水の辺りまで進んでおきたい。

 高原ヒュッテは、ドアのガラスも破れて荒廃しかかっていた。中を覗くと蒲団が積み重ねてあるので、避難小屋としての役目は担っているのだろう。国師ヶ原の一画に位置しているので小屋前は明るく、営業しているのであれば一夜を過ごすのも悪くない。しかし今はそれどころではない。足早に通り過ぎるだけだ。

 どうにか国師ヶ原の分岐まで戻って来た。あとは登りに使ったコースをそのまま戻る。やはり雷鳴は少しずつ近づいてきている。雨にぬかるんだ道を錦晶水へと急ぐのだが、多少の水溜りも気にせずに歩けるのは、さすがゴアテックスだ。
 錦晶水を過ぎたところで突然、閃光に見舞われ、間髪入れずにすぐ西側で雷鳴が轟いた。危ないところだった。ほっと胸を撫で下ろす。

 あとは一気に下り続けるだけ。そのうちに雷雲も遠ざかり、どうやら雨も上った。雨具を脱ぎ、さっぱりとした気分になる。
 そして二時五十分にトラックの放置してある林道まで戻って来た。ほっとひと息つき、今度は林道を下ってみる。林道といっても、もうとっくにその用は成しておらず、草が生い茂って車の通行もままならない荒れたダートだ。蝶の乱舞に目を遊ばせながらブラブラ歩きで進んで行く。十五分ほどで林道の本線に合流し、あとは徳和川の左岸を一本道だ。途中、長尾之滝を愛で、徳和渓谷の遊歩道を歩き、三時四十分、車に戻った。

 満足のいかない山行だったので、翌日は大菩薩に登った。

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