人間やめますか、カメムシやりますか


カラフルなカメムシと遭遇した。
鞘翅の下の黒と黄の警戒色がお洒落だ。
同じ昆虫でもGの次に嫌いなカメムシだが、たまにはこうして観察するのも興味深い。

それにしても初めて見るカメムシである。
早速調べたら「キバラヘリカメムシ」というらしい。

人類にとって害虫ではあるけれど、自分と無関係ならばどうということはないのだが、稲を枯らすとなれば話は違って来る。

友人に毎年々々カメムシの殺戮を繰り返している男がいる。
数千、いや、数万単位の殺生だろう。
彼は言う。
「俺はさんざんカメムシを殺して来たから、来世はカメムシに生まれ、百万回はそれを繰り返すんだ」

もちろん六道輪廻を信じているからこその言葉で、生前の行為の善悪によって死後の方向が定まると疑わないわけだ。
まあ、そこのところは冗談半分で聞いているが、来世をカメムシになって百万回生きるのならば、前世は人間を何回やっていたのだろうとの疑問も生まれる。
天上界で悪事を働き、そのために人間界へ落とされたという可能性だってあるではないか。

彼には及ばないが、私だってカメムシを殺し続けている。
私も十万回はカメムシとして生きるのだろうか。
人間サマから見れば害虫だろうが、それは人間のご都合主義というもの。

それはまるで、支持されているから何でもOKなんだと振る舞い、そのうちに支持率が下がってもやはり何でもOKにしてしまおうと考える暴君とどこか似ている。
危険な性向を持つ者からは危険な意識がそのまま顕れ出るだけのことであって、別に驚くことではない。
六道のどこへ向かうかは、結局、自らの意思や行動から生じる結果の意識世界なのだと単純に思うだけである。

カメムシの大量虐殺と、憲法の逸脱から派生するやもしれぬ人間同士の殺戮を同列に語るつもりはないが、衆愚政治に陥ってしまった責任は国民全体の責任でもある。
それは、いつも死に票になると分かっていながら投票所に行く虚しさを、ここ何年も抱えている私の責任にも通じる。
猛省すべし、猛省すべし…。

おっと、話題が外れたので元に戻す。

生きるか死ぬか以前に、まず病苦とのせめぎ合いがあって、そこで足踏みしながら人間はじたばたするのだ。
生まれてから今まで生きているのが当然だったから、生きていて良かったと思ったことは一度もなかった、でもいつまでも健康でありたいと、病を得て初めて人間は気づく。

以前は輪廻を信じていたが、いまは関心がない。
良く言えばそれだけ真剣に現在を生きていると言えるのだが、正直なところ、そんなことを考えている心身の余裕がないのだ。

余裕の無さは、時に想定外の事態を招く危険も内包している。
3・11以来、「想定外」の文字には手垢がついた感があるが、このもどかしさをうまく表現できない。
弱っている心情を言語化することは一見簡単そうだが、こうして的確に表現できない思考の衰えを意識するばかりである。

キバラヘリカメムシのグループに混じって、黄地に黒二点の昆虫が寄り添っていた。
これも調べたら、キバラヘリカメムシの子供と判明した。
親子一緒に、どこか冬籠りできそうな場所を探しているのだろう。

越冬するんだ!
ということは、最低でも二年は生きるのか?
十万回ではなく、二十万回もカメムシをやらなくてはいけないのか。

しかしそれもよし。
運良くか運悪くかどちらかわからぬが、天敵に食われて生命を全うするのも、生きとし生ける命が循環する訓えの捨身飼虎図のようで面白いではないか。
排泄されれば、今度は土中のバクテリアで生きよう。

個人的な願望を言わせて貰えるなら、原生林に屹立するブナの巨木になりたい。
それは、ひっそりと人目に立たずにいたいという願望。
間違ってもまた人間に生まれ変わるなど、まっぴら御免である。

ナナカマドとウルシが先陣を切り、山が色づきはじめた。

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