ご先祖さま
2017.9.10
壮大な叙事詩の始まりのような太陽が昇った。
慌てて窓辺にソファーを引き寄せ、イヤホンで姫神の「秀衡のテーマ」を聴きながら、しばし濃尾平野を照らす暁光に見入っていたら、訳のわからぬ涙が出そうになった。
歳のせいである。
(姫神 秀衡のテーマ)
⬇️ (イメージ画像なので再生はこちらから)
https://youtu.be/e_SngENK-Kc?si=3Tbf9ocVldTPeyeO
方角は恵那山方向だが、そのずっと手前、多治見の辺りと見当をつけたものの、中部地方の地理に疎いので、どこがどこやら見当が付かぬ。
テレビの天気予報は今日の晴れを告げていて、能登半島の予報などを伝えている。
首都圏や甲信越地方で暮らす私には、そんなことが新鮮に思える朝だった。
朝食のバイキングを早々に済ませ、ナビをセットして出発。
数十年前の記憶は断片的に残っていて、それでも二日ほど前に、名古屋市内在住の遠い遠い親戚に連絡を取り、お寺の情報を仕入れていた。
昨夜は、その親戚と私はどのくらい離れているのだろうと家系図を頭に描いたけれど、六親等か七親等以上は確実に離れているはずで、途中で考えることを放棄してしまった。
この数十年で会ったのは弔事で二度だけ、会話らしい会話もなかった。
それくらいの薄い関係では、身内というより、ほぼ他人である。
仏花も線香も用意して行かないと、お寺さんでは何も調達できないと聞き、前日にスーパーでお花は購入済み。
線香やお数珠は、車内に常備してある。
この歳になると弔事や墓参が増えるので、いずれ私の順番が来ると、すでに肚は据わっているいる。
ホテルからお寺まで、車で10分ほどの距離だった。
駐車場があると聞いていたが、お寺を一周してもスペースはなく、路駐した。
周囲は小さな工場や民家があるだけで、ほとんどは稲田だった。
ああ、自己防衛大臣のことだなと連想したりするのは、まだ生臭い世俗に関わっているからで、愉快ではない。
最近は教育勅語の道徳観を見直そうとの意見も見聞きするが、道徳を強要する不道徳さに思いが至らぬのかと、嫌悪感が先に立つ。
敢えて主張はせぬが、要するに主義主張は呑み込んで、日々を穏やかに暮らしたいだけなのだ。
それらは、私のパーソナルスペースの外のことであって欲しい。
いきなり脱線したが、ここは私にとって母方の曽祖父母が眠るお寺で、数十年前に祖母と母と三人で一度だけやって来た記憶がある。
祖母は嫁に出たので分家筋という立場になり、それでもご本家の方(どなたかは不明)がお墓をお護りされているようだ。
お寺の過去帳や檀家の名簿などで簡単にわかるのだろうが、そこまで深入りはしない。
すぐ見つかると安易に考えていたが、同姓の墓石が三基あり、どれがどれやらわからない。
社務所兼自宅のチャイムをしつこく押すと、やがて高齢の男性が出ていらっしゃって、これこれこういう者ですが、○○のお墓はどちらでしょうかと尋ね、やっとわかった。
お布施をお納めさせて頂き、ねんごろに掃除し、無沙汰をお詫びして合掌したが、水道はあったけれど、取っ手の取れたプラスティックのバケツと、これまた柄の折れた柄杓しかなかったのは、少し哀れを感じた。
曽祖父母とはこれで二度目の対面だが、もう来ることもないだろうし、母も祖母もすでに彼岸の人になっている。
このお寺とて、記憶にあるご住職はかなり前にお亡くなりになり、本堂も全焼したと聞いた。
姿の良い、木造の古いお堂だったが、現在の本堂はコンクリートで頑丈に再建されていた。
どうぞご自由にとのお言葉に甘え、広いお堂のひんやりとした畳に正座してお賽銭を納め、しばし合掌しながら首を垂れて阿弥陀様に向き合った。
祖母はお西の祖父に嫁いだが、元々はお東である。
西も東も浄土真宗だから何の障りもないのだし、極楽往生を希う心情は同一だから、僭越ながら、むしろお西以上の親近感も湧くというもの。
久し振りの正座で足が痺れ、持ち堪えたのはたったの5分だった。
後は堂内や天上の装飾や意匠を丁寧に拝見して、おそらく、もうこちらへお参りすることもないでしょうが、どうぞ曽祖父母を永遠に見守って下さいと、最後にまた正座で合掌、本堂を出た。
墓域は小さいが、檀家さんが多いようで、このお寺も廃れることはないだろうと安心した。
コンクリート造りながら、立派なお堂だった。
車で1分か2分、歩いても10分とかからない場所に小さな神社があり、ここも曽祖父母ゆかりの地だ。
石灯籠が対であり、これは曾祖父が奉納したもので、かなり風化してしまっているが、曾祖父の名前が刻んである。
夜、灯が入ったら、さぞ美しいだろう。
曾祖父が何を生業にしていたのか祖母に聞いたことがあるけれど、すべて忘れてしまった。
墓も一番立派なものだったし、そしてこの灯篭も、当時ではかなりの寄進だったはず。
社はそこそこ新しく、小さなものだが、灯篭の名前の部分を撫でてみた。
私からは四親等の身内で、直系ではないものの、この人がいたからこそ、現在の私が存在しているのだ。
特別な感慨や感傷はないけれど、人の命はこうして繋がっているのだと、改めて当たり前のことを思った。
灯篭の他に、もうひとつ、鮮明に記憶に残っているのが、この「神馬」の像。
神様が乗る馬として神社に奉納されるのが一般的で、それでも像を奉納するにはかなりの信心と相応の財力が必要になる。
だから神馬の奉納の代わりとして絵馬が奉納されるようになった。
いつの時代のものかは不明で、されど曾祖父には、そこまでの財力はなかったものと思える。
いや、曾祖父存命時より、時代は下がっているようにも見える。
数十年前に訪れた時の私の写真が残っていて、背景を比べると隔世の感がある。
シャッターを切ったのは母だろう。
母の横には祖母がいた。
神は常に人間の世代交代を要求し、仏はそれを弔う。
今回の旅を終えたら、私もそろそろ遺影の用意くらいするべきだろうと思った。
いや、葬式などは必要ない。
祖母と母が眠る墓に、一緒に入るのかなと思うだけである。
夜明けの太陽も、壮大な叙事詩や劇的なドラマなどなく、必ず沈むという現実だけだ。
今回は極私的な内容に終始してしまったが、こんな日があってもいいと、勝手に思い込んでいる。
続きます。
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