数年振りにマツタケを食べよう

高松のこの峯(みね)も狭(せ)に笠立てて盈(み)ちたる秋の香の吉(よ)さ


万葉集 巻10-2233 にある作者不詳の歌だ。

秋の雑歌で「芳を詠む」とあるのだが、一般的には「芳」ではなく「茸」の誤記とされている。
一方で、やはり誤記ではないとの解釈もあり、「香り松茸」といわれるくらいだから「芳」でよいとの説も、かつてどこかで目にした。

いずれにせよ、松茸を詠んだ歌には違いない。

「高松」は、奈良の春日山に隣接する高円(たかまど)山とするのが一般的なようで、峰も狭く感じられるほどにたくさんの松茸が笠を立てて芳香に満ちているよ、くらいの歌意でいいのではないか。
笠立てて、は松茸を形容している。

豊作の年だったのか、それとも毎年のことだったのかは不明だが、現在の高円山にアカマツは見られないと聞くし、松茸を題材にした歌は万葉集ではこの歌一首しか残っていない(と思う)。
それゆえ印象に残る歌として、何となく記憶していた。
万葉人も松茸を好んだことはわかったものの、どのように食していたのだろうか。

もっとも簡単なのは焼き松茸。
それに藻塩をパラパラと振り、香りを楽しんだはず。
米に炊き込んでもいいし、当然、酒にも合う。

そんな楽しみを思い描きながら、一本、また一本と採っていたのだろう。
技巧やけれん味のない、童心に帰ったような素直で好感の持てる歌だ。

愛だ恋だ、逢えなくて寂しい、今ごろどうしているの、などを詠んだ万葉集の相聞歌には、未練たらしい奴、面倒な奴、という感想が先に立ってしまいうんざりしていたので、こんな歌には素朴な清々しさを感じて新鮮である。
(あくまで個人の意見です)

さて、直売所に来ていた友人から、立派なマツタケ(ここから片仮名表記にする)1本を貰ったのは人徳かどうか、とにかく貰ったのだ。
ずいぶんご無沙汰のマツタケである、懐かしいぞ。
今度はいつ巡り合えるかわからない故の記念のようなものだが、内心では天然マイタケの方が美味しいと思っている。
だからもちろん、自腹でこんな馬鹿(贅沢)はしない。


マツタケはやはり香りと歯ごたえを楽しむもので、味はシイタケやホンシメジの方が勝るね、とも再認識済みである。

子供の頃だって、家の夕食でマツタケにお目にかかったことは一度もない。
だから特段憧れてもいなかったし、人生のマツタケデビューがいつだったかの記憶もない。
もし美食に目覚めていたら、「オヤジ、もっと稼いでマツタケ食わせろよ」とでも思っただろうが、孝行息子であった。

それよりも、豪邸を建ててみろよとでも思ったかもしれない。
天国かどこかに行ってしまったオヤジは、霞でも食いながら下界を眺め、「お前こそ、もっとマシな家に住んで、まともなものを食べられるくらいの稼ぎをしてみろ」とでも毒づいているのだろう。

改めて「香り松茸」とはよく言ったものだと納得し、秋の味覚と嗅覚を堪能するつもり。
欧米人はマツタケの香りが苦手で食べないと聞いたが、昨今の日本食ブームでどうなんだか、とんとわからん。

とにかく、もう一生会えぬかも知れぬし、この世に存在せずとも私には何の痛痒もないけれど、マツタケをこよなく愛する人たちのため、ずっと元気でいておくれ。

そう言えば、長年、付近の山歩きを重ねているが、トリュフはお目にかかることがない。
もっと人徳を磨かなければ。

カンナで削って、仲間たちと分け合おう。

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