まだふかき夜の夢ぞかなしき
平安末期から中世の初めを生き、そんな激動の時代に翻弄され、皇室制度の犠牲となった式子内親王に限りないシンパシーを抱いている。
式子といえば、必ず定家との関係を云々されるが、それが世間の好餌となり、謡曲の「定家」では完全にフィクション化されてしまった。
旅の僧が北嵯峨で時雨に遭って雨宿りをしていると里女(式子)の霊(前シテ)が現れ、定家のかつての住居、時雨亭はこことですと教えて昔を回顧し、
いつはりのなき世なりけり神無月誰がまことよりしぐれそめけむ
と、定家の歌で報謝の舞いを見せるが、作者は世阿弥とも、また世阿弥の娘婿、金春禅竹ともされている。
生涯独身で通したからなのか、遊ぶために生まれて来たとうそぶく後白河天皇の第三皇女であるにもかかわらず、その扱いが残酷で哀れを誘うが、能であればそんなストーリーも致し方ない。
小町だって同様、いや、式子以上に残酷に扱われている。
「謡曲拾葉集」を見ると、定家と式子に対し、悪意さえ感じる。
今は昔、後白河院の皇女式子内親王と申し奉るあり。初めは賀茂の斎院にそなはり、程なくをりゐさせ給ふに、定家卿及ばずながら御志浅からざりけり。或時参り給ひて
歎くとも恋ふともあはん道やなき君葛城の峰の白雲
と口ずさぶやうにて申させ給ふ。此の卿けしからずみめわろき人なりければ、斎院御返しにも及ばず、「その卿つらにてや」とばかり仰せられてうちうそぶかせ給へば、御言葉の下より定家、
さればこそ夜とは契れ葛城の神もわが身も同じ心に
とよみ給ひけるとなん
定家の容貌を「みめわろき人」と書きながら、今は昔、と見て来たように語り、式子も傲慢な女として描かれている。
斎院の退下前後に定家が通ったことになっているが、退下の時、式子は推定十七歳、定家に至っては推定七歳である。
結局、定家と式子の歌を都合よく抜粋し、都合よく組み合わせてストーリーを作っただけのこととわかる。
閑なる暁ごとに見わたせばまだふかき夜の夢ぞかなしき
詞書には「百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を」とあり、朝のお勤め(晨朝)で瞑想(禅定)に入るのだが、夜も明け切らぬから、まだ覚めぬ夢の余韻が悲しいのです、と詠んでいる。
「見渡せば」が曲者で、単純に、煩悩を抱えたまま未だに悟りを得られないことが悲しいと解釈するのは容易だが、そう断定しては「見渡せば」の意味が不明になってしまう。
病弱で、ついには髪を下ろした人の孤独は、果たしてそれだけだろうかと、表層的な解釈に疑問が湧く。
生きる希望は夢の中にこそ存在し、それを生きる縁として、蕭条と人生の終末を待っている歌ではないか。
見渡しているのは、心に秘めた大切な景色であり、過去へと回帰しているように鑑賞できる歌だ。
それを「恋」と断定するから、尼となってからの歌でも構わずに誤読する。
個人的な好みは、和泉式部と式子内親王が女流歌人のツートップであり、どうしても贔屓目に見てしまう。
藤原俊成を師として和歌を学び、その息子の定家とも、身分は違えど親交はあった。
それを以って、お忍びの年の差カップルと、スキャンダルを捏造するのは余りにも無慈悲な行為である。
果ては法然上人との関係まで云々されるようになってしまった。
ここまで貶められると、何をかいわんや、である。
事実はわからない。
わからないから勝手な想像や創作に走る。
千年も昔のことだから、古人の尊厳を現代で名誉棄損しても誰からもお咎めはない。
それがまた哀れを誘うのだ。
滲み出る詩情を素直に鑑賞し、歌だけではない作者の意を酌めば、まだ覚めぬ夢の余韻が悲しいのですと、尼僧が仏に向き合う姿勢が見えて来る。
そんな分かり切ったことを恣意的に変質させるから、調べの美しさに目が向かないのではないか。
改めて「謡曲拾葉集」を見て、何故か意地になった式子ファンの戯言でありました。
式子内親王って誰? と訊かれたことがあり、平氏追討の令旨を出した、あの以仁王の実の妹だよと伝えると、やっとわかってもらえた。
恥ずかしくも過剰防衛してしまったけれど、式子って、意外とマイナーなんだ…。
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