殿中でこざる

2008年4月21日



今日4月21日は、旧暦に直して元禄14年までさかのぼると3月14日。
これだけでわかる人も多いだろう。


「この間の遺恨、覚えたか」
浅野長矩の怒声を聞いて最初に事件に気付いたのが大奥留守居番役梶川与惣兵衛。
見れば長矩が吉良上野介の頭部目がけて小刀を振り下ろしていた。
その刃は吉良の烏帽子に当たって深い傷にはならなかった。
長矩が二度目を突き出そうとしたところで梶川が割って入り、長矩を止めた。
そのために二太刀目は吉良の肩を浅く裂いただけに終わった。
吉良は高家衆によって助けられ、一方の長矩は目付たちの監視下のもと、素早く軟禁されてしまった。

「この間の遺恨、覚えたか」
でもわかるように、長矩にとって刃傷は突発的なことではなかった。
その場で侮辱を受けたからなどの理由ではなく、遺恨を晴らすための確信犯である。
あくまでも「遺恨」なのである。

刃傷の報告は柳沢吉保からただちに綱吉へなされた。
将軍綱吉にとって、この日は勅使への答礼を控えた特別な日だった。
よりによってその大切な日の長矩の短慮に綱吉は激怒した。
即刻切腹の判断を下した。
長矩は烏帽子を取られ、錠前を掛けられた駕籠に罪人として乗せられて、江戸城の不浄門とされる平河門から、芝にある田村右京大夫の屋敷にお預けとなった。

勅使への答礼を無事に済ませた綱吉は、長矩に対し、正式に切腹の沙汰を出した。
やや長矩に好意的な老中もいたが、すべての意見が無視された。

浅野内匠頭義、先刻御場所柄不弁、自分宿意以吉良上野介江及刃傷候段、不届ニ付田村右京太夫江御預其身切腹被仰付

浅野は場所柄もわきまえず、宿意をもって吉良に刃傷に及んだことは不届きである。その身は田村右京太へお預け、切腹をおおせつける。
一方の吉良はお咎めなし。

上野介儀御場所弁、不致手向神妙之至、御医師吉田意安服薬被仰付、外科粟崎道有被仰付、随分大切保養可致候、右付高家同役差添、勝手次第退出可致之旨被

吉良は場所をわきまえて手向かいせず神妙である、ゆっくり養生しろよ、の意味である。

田村邸に到着した長矩は当然罪人としての扱いを受ける。
突然の対応だったが、田村家は以後長矩の動向を公式文書として仔細漏らさず書き留めている。
長矩は筆と巻紙を要求、しかしこれを拒絶した。
それでも口上だけならばという条件で、長矩の言葉を記した。
内要は簡単だった。
片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門の二人への口上で、それは、「前もって知らせておくべきことだったが、その機会がなく、不審に思うだろうが、今日のことはやむを得ないことだ」とだけ言い残している。
この時点で切腹は覚悟していたに違いない。
しかしこれは、わざわざ伝えほどの内容ではないだろう。
刃傷に至る原因が何ひとつ明らかにされていない。
昼食を抜かざるを得なかった長矩は、湯漬けを所望したという。

江戸城から沙汰を告げる三人の使者が来た。
大目付の庄田安利と、目付の大久保権左衛門、多門伝八郎である。
ここで正式に長矩に対して切腹が言い渡される。
すでに日が暮れかかっていた。
庭に切腹の場が準備され、長矩は辞世の歌を詠む。

風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん

あまりにも有名なこの辞世はフィクションの可能性が強い。
田村家では口上はもとより、長矩の持ち物すべて、懐紙までを記入し、湯漬けをニ杯食べたことも仔細に記録している。
しかし辞世の記録はまったく無い。
もし長矩が詠んだのであれば、記録から抜け落ちることは絶対にあり得ない。
旧暦だから現代の人間は騙される。
4月21日の東京では、桜はすでに花を散らして葉ばかりになっている。
贋作の疑いが濃い。

幕府徒目付磯田武大夫の介錯よって首をはねられた長矩の遺体は、鉄砲洲の浅野家上屋敷から駆け付けた片岡や磯貝らによって、その日のうちに菩提寺の高輪泉岳寺へ運ばれた。
長矩、享年三十五
戒名、冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利居士
土葬か火葬かは不明。

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