吉良上野介

2007年12月15日


毎年12月14日の泉岳寺は香華が絶えないが、この日は浅野長矩でも赤穂四十七士でもなく、吉良上野介の命日である。

仮定の話だが、逆に吉良が浅野内匠頭を殺したとしよう。
それで赤穂の浪士たちが吉良を討ったというなら、これは確かに仇討ちである。
しかし、事実は内匠頭が殿中ご法度の大罪の加害者なのだから、もしも仇討ちというならば、浪士たちは内匠頭に即日切腹を命じた幕府を討つのが筋というべきで、刃傷の被害者である吉良を討つのはどう考えてもおかしい。
前回も書いたが、刃傷の原因がわからないので、300年経っても討ち入りの大義は闇の中だ。

東京都中野区上高田にある吉良家の菩提寺、萬昌院功運寺を訪ねた。
中野で暮らしていた頃に訪ねて以来ニ度目、数十年前振りの墓参である。
当時から林芙美子と歌川豊国の墓所であることは承知していたけれど、まさかあの栗崎道有もこの寺に眠っているとは思わなかった。

栗崎道有をご存知の方も多いだろうが、後で少し触れてみよう。
栗崎だけではない。
今川義元の息子長得の墓もあれば、幡随院長兵衛を討った水野重郎左衛門の墓もあるとは知らなかった。
若い頃の知識など、しょせん歴史の表層をなぞる程度のものなのだ。

立派な山門をくぐると小さな詰所があり、警備の方が常駐している。
「吉良さんのお墓にお参りしたいんですが…」
声を掛けると、大学ノートに記帳を求められた。
氏名を書くと小さなリボンを渡され、これで参内を許される。
幼稚園が併設されているので当然の処置だろう。
拝観料も必要なくパンフレットの類もないが、丁寧に墓所の位置を説明してくださった。

先ずは立派な本堂にお参りし、その左側から社務所の前を通って墓所に向かう。

墓域は広く、著名人の墓所の案内標識も整備されている。
手前から歌川豊国、林芙美子、吉良上野介と続いている。

吉良家の墓。
義定、義弥、義冬、義央の四墓が並ぶ。
上野介義央の墓は一番右。
当初からこの寺に葬られたわけではなく、大正時代に市ヶ谷(牛込の説もある)から寺ごと移転したものらしい。

供養塔にも見えるが、門前の案内板には「宝篋印塔」と説明書きがあった。
これが上野介の眠る墓だ。

風雪にさらされた文字はまだ判読可能。

元禄十五壬午十二月十五日

と刻まれている。

明け六つ前に殺害されたなら命日は十四日だが、夜が明けてから討ち取られたか、それとも幕府の検死によって正式に死亡が確認された日付で十五日となったかは不明。
しかし史実の裏付けとなる貴重な墓石の記録である。

向かって左に「吉良邸討死忠臣墓誌」の立派な碑が建立されてある。
自分の影が写り込まないよう苦心して撮ったが、それでも磨かれた御影石の反射で見づらいのはご容赦願いたい。

我々もよく知っている小林平八郎と清水一学(逸学となっている)の名が見える。
けれど、残された文書によると、ほとんど二人の活躍はなかったという。
その中でも最も奮闘した家臣とされている新貝弥七郎の名前を見つけた。

享年15と17の二人の茶坊主の名も刻まれている。
前夜の茶会が終わったまま屋敷内に泊まり、巻き添えを食ってしまったものか。
おそらく武具や武器など持っていなかっただろう。
討ち入りに容赦はない。

しばらく眺めていると、あることに気付いた。
碑文の最後に「元録十五年十二月十五日討死」とあるが、数えてみると38人の名が刻まれている。
吉良側にそれほどの犠牲者は出なかったはずだ。
よく見れば、深手を負いながらも生き残ったはずの山吉新八郎の名前まである。
すぐに理解した。
当日討ち死にした家臣の名前の下だけに享年齢が記されている。
その数28人。
実際の死者は17人と記憶しているが、これが犠牲者の実数なのだろうか。

向かって右側には「吉良家家臣供養塔」

小林平八郎と清水一学の墓もこの寺にあると聞いた記憶があるが、いくら探しても見当たらなかった。

吉良家の墓所から少し離れているが、今回驚いたのがこの墓。
栗崎道有の墓である。
赤穂事件に少しでも関心のある方ならすぐにおわかりだろう。
この栗崎道有は浅野長矩刃傷の折に、吉良の傷の手当をした幕府御用医師である。
そして、浪士が刎ねた吉良の首を泉岳寺の長矩の墓前に供えた後、吉良邸に戻されたその首を胴体に縫合した人物でもある。
勉強不足でわからないが、栗崎がこの墓所に眠るのも何かの縁か。

次に今川家墓所、一月長得の墓に手を合わせる。
仏門に入った義元の三男長得が建立した寺だからなのか。
これも勉強不足で不明。

続いて無頼の旗本、水野重郎左衛門の墓。
幡随院長兵衛を騙し討ちにした水野は、素行の悪さで切腹して果てたはずだ。

人気浮世絵師、歌川豊国の墓。
初代が入っているのはわかるが、後は誰が埋葬されているか不明。
すでに無縁のようでもある。

最後に林芙美子の墓に合掌する。
こなれたわかりやすい文体は、成るべくして成った人気作家の手柄である。
例えば「放浪記」には、誰もが書けそうで、しかし決して浮かばない比喩や形容に満ちている。


真夜中に煤けた障子を明けると こんなところにも空があって月がおどけていた

どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う

こなごなに血へどを吐いて、華族さんの自動車にでもしかれて(轢かれて)しまいたいと思う

小さい机が、まるで一生の私の負債のようにがんばっている

男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛いことです

何もかもあくびばかりの世の中である

魚屋の魚のように淋しい寝ざめなり

私は折れた鉛筆のようにごろりと眠る

べたべたと涙が溢れる



またいつものように脱線して林芙美子について少し書こうか迷ったが、自重して終わりにする。

「仮名手本忠臣蔵」を熱狂で受け入れた町人には、自分たちを最下層に位置づける幕府への不満があり、公儀への反逆ともとれる赤穂浪士の行為に溜飮を下げたのだろう。

吉良の首級を長矩の墓前に供えた四十六士(足軽の寺坂吉右衛門は途中離脱)がその場で殉死しなかったため、後にさまざまな憶測が生まれた。
真の忠義者として赦免されるはずとの読みや、再仕官への期待などがあったとの見方も出ている。
しかしそれらは討ち入りの際の口上書の文面から否定して良いだろう。
結局は全員切腹となったが、幕臣の中には荻生徂徠の厳罰派の他に、自藩の主従関係強化の模範を念頭に置いた上での浪士擁護論も出た。
被害者であるはずの吉良側にも処分が下り、今度は喧嘩両成敗の形になった。


帰宅してから改めて萬昌院功運寺を調べて驚いた。
それは浅野内匠頭の伯父である内藤忠勝に殺された永井尚長の菩提寺でもあるということだ。
内藤忠勝は徳川家綱の葬儀が芝増上寺で執り行われている時に、普段から仲の悪かった永井尚長を殺害した咎で切腹させられている。
長矩と忠勝、その二人によって落命させられた吉良と永井尚長が同じ墓所に眠る偶然。
この寺は、歴史の不思議な連鎖と因縁に満ちている。

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