「平和主義と非暴力主義への牧会の現場からの問い」
「平和主義と非暴力主義への牧会の現場からの問い」
濱 和弘
序
本小論は、論題が示すとおり、平和主義と非暴力主義への問いであり問題提起ある。もっとも、筆者は平和そのものを否定するのではない。それは希求すべき課題であり、すべての人の希望である。その意味で、筆者は平和主義に無条件に同意する。しかしながら、平和主義と非暴力主義とは必ずしも同じではない。それはすなわち、平和主義は必ずしも非暴力主義に帰結するわけではないことを意味する。確かに、非暴力主義は平和という目的を達成するための手段ではある。しかし、平和は状況であり、最終的にこの平和を産み出す手段として非暴力主義が考えられるように、平和を達成する手段として力の行使もあり得ると考える立場もあり得るからである。この場合、平和の達成を希求しそれを目的としている限り、力の行使を容認する立場もまた平和主義と呼ぶことができよう。
もちろん、平和と暴力とは相反する概念である。従って、平和が暴力によって達成されると言うこと自体は矛盾している。しかしながらこの場合の力の行使は、いかなる場合においても力の行使を否定する絶対的非暴力主義と、非暴力を訴えつつも、やむを得ない場合、紛争において、話し合い、交渉において問題解決を図る努力を最大限にし、その上で最終的に止む得ない状況においてのみ力の行使をも最終的手段をも受容するという相対的非暴力主義の場合が考えられる。
Dr.Mark Thiessen Nationは2008年、東京ミッション研究所主催の牧師研修会において平和主義と非暴力主義を提示した、それは、J・H・ヨーダーの神学にもとづくものであり、絶対的非暴力主義である。その絶対的非暴力主義の性質は、ヨーダーの著書「愛する人が襲われたら」(*1)に顕著に表れている。そして、その絶対的非暴力主義こそキリストの弟子としての唯一の道であるとされるのである。(*2)
筆者は、ひとりの牧師、牧会者として平和主義という理念に同意し、非暴力主義を認めつつも、このような絶対的非暴力主義に対して違和感を禁じ得ない。そこで、本小論において、その違和感の根底にある原因を明らかにし、相対的非暴力主義の生き方の中にもキリスト者の道が開かれている事を明らかにしたいと思っている。
そのために、筆者は以下の手順を踏む。第1は、筆者の持つ問題意識、それは筆者が想定する状況であるが、それを、遠藤周作の小説「沈黙」を題材に提示したい。筆者は、いつもこの「沈黙」の主人公ロドリゴの上に自分のみを置いて平和と非暴力の問題を考えている。その上で第2のこととして、ヨーダーとの対話特に「愛する人が襲われたなら」において示されたヨーだーとの対話を試みることとする。更には第3の点として、ヨーダーとグティエレスの方向性について検討する。この場合、ヨーダーの聖餐理解に関しては、彼の著書「社会を動かす礼拝共同体」(矢口以文・洋生、西岡義行訳 東京ミッション研究所、2005年)を基盤に、「解放の神学」を提唱するグティエレスの聖餐理解を基盤にして、両者の違いがどこから産まれているのかを検討することになるであろう。そこに立って、相対的非暴力主義にキリスト者としての道が開かれている牧会神学的根拠を提示していきたい。
1.「沈黙」からの問い
遠藤周作の「沈黙」は、そのタイトルが示すように「神の沈黙」が主題であるが、そこにあるものは神を信じる者が受ける苦難に対する恐ろしい程の「神の沈黙」に対する問いかけであり、そこから見出す人間の決定的無力さと弱さであり、その弱さに寄り添う十字架の上のキリストである。
この「沈黙」における苦難は、切支丹禁令下における迫害による苦難であり、権力の暴力による苦難である。特に主人公である司祭ロドリゴにとっては、その受難に沈黙する神をどの様に理解するかと言う問いがもたらす苦しみだけでなく、苦難の下で殺されていく人々に対して、自らの信仰、理念を守ることによる苦しさが、彼にとっての苦難となっている。すなわち、自らも神の沈黙のごとく、他者の苦難に沈黙する者になるところ苦難である。
この他者の苦難に沈黙する者になる苦難に、主人公ロドリゴと彼と共に禁教下の日本に潜入し潜伏した同僚の司祭ガルベは直面するが、その内容は、自分自身が棄教すれば、拷問されている他の信徒の命が救われるが、棄教しなければ、その拷問の責め苦に遭っている者が死の苦難に遭うというものである。
ガルベの場合は、既に棄教した信徒三人が蓑虫のように薦にまかれ、ガルベが棄教しなければ海に投げ入れられ溺死させられると言う形でこの苦難の前に立たされる(*3)。またロドリゴの場合は、穴吊り(*4)という拷問に苦しむ三人の信徒の息絶え絶えの呻き声を聞かされながら、棄教を迫られるのである(*5)。しかも、分脈からその三人もまた、すでに棄教した信徒であることがうかがえる。つまり、ガルベの場合もロドリゴの場合も、彼等が棄教すると言わない限り、彼等は殺されようとする信徒たちにとっては沈黙を守る者となるのである。
結局、ガルベは最期まで棄教せず、この三人に対して沈黙を守りとなり、そのためその三人は海に投げ入れられ死に、ガルベもまた、その三人が海に投げ入れられるために乗せられた船を追い海に入り死ぬことになり、ロドリゴは沈黙を破り棄教を宣し踏み絵を踏む。
この「沈黙」の時代背景にあって、殉教は信仰の名誉であり、ロドリゴも自分自身に加えられる拷問であったとしたならば、その拷問の中でも決して棄教するなどとは言わず殉教の道を選んだであろう。
それは、この小説の中のもう一人の登場人物であるロドリゴとガルベの師であり、彼等より先に日本で潜伏司祭となり、捕えられ棄教していたフィレイラの次の言葉に現れている。
『私はあの声(筆者註:穴吊りにされて呻き苦しむ既に棄教した信徒の声)を一晩耳にしながら、もう主をほめたたえることができなくなった。私が転んだ(筆者註:踏絵を踏み棄教を宣言すること)のは、穴に吊されたからではない。三日間…このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉をいわなかったぞ』(*6)
このように、殉教という最高の価値観と信仰の理念と信念に支えられたロドリゴもフィレイラも自らの受ける試練と受難であるならば、それに殉じ死を賭してでもそれを全うする者たちである。すなわち、権力のもたらす暴力的迫害や苦難の中にあっても、キリストに従い死を選んでもキリストの弟子としてキリストに従って生きようとする者であるといえる。その彼等が、自らの価値観と理念に反して棄教を宣言し踏み絵を踏んだのは、他者という第三者の苦しみに対し沈黙を守るという苦しみの前に立たされ、自分はその第三者の苦しみに対して自分は如何にすべきかが問われたところにあるといえる。
すでに述べたとおり、筆者も理念として平和も平和主義も否定する者でもなければ、暴力も肯定するものでもない。当然、戦争を是とするものでもない。またガンジーやキング牧師や彼と行動を共にしたヘッシェルの非暴力的抗議活動を尊敬の念を持って支持するものである。しかし、その中で、実際に暴力の下に置かれている者に対して、絶対非暴力に立つならば、最期はガルベのごとく、殺されていく者にとっては沈黙者になるのではないかという問いもまた生じるのを禁じ得ないのである。
2.キリストに従う弟子としての道
ヨーダーがその著書「愛する者が襲われたなら」で取り上げている問題は極めて具体的で現場的問題ある。その現場的問題にむかうヨーダーの前提は、問題の解決は決定論的ではないと言うことである。
事実、ヨーダーが、この著書において示した事例は、力による解決によらず問題が解決した事例であるこのような事例を取り上げ、ヨーダーは暴力に対して暴力で応じるといういわゆるPower rivalryも様々な解決方法も選択肢の中の一つとして相対化し、それが問題の解決の唯一最善の方法でないと言
うことを示し、それを絶対視することを拒否する。
もちろん、このような相対化は非暴力的解決方法も相対化し、それもまた絶対的なものではないということを示すものである。それはつまり、力に対して力で応じるという解決方法も非暴力により解決方法も論理的帰結としての正しい方法として選択されうるものではないということ意味している。だからこそ、ヨーダーにとっての絶対的非暴力主義は、キリストに従う弟子の道としての宗教的信念であり、実践されるべき理念なのであるといえよう。
これに対して、遠藤の「沈黙」から次のように問いかけられよう。すなわち自らの宗教的信念・理念をこえてでも他者を救うことが真のキリストの弟子としての道ではないかと言うことである。この問いは、ロドリゴに踏絵を踏めと言うフィレイラの言葉と、踏絵を踏む時のロドリゴの心情に表れている。フレイラは、穴に吊され苦しめられている他者の苦しみに当惑し悩むロドリゴにこう語るのである。
「『わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった(筆者註:フィレイラもかつて自分の信仰的信念を守ることと他者との苦しみとの狭間に立ってくるしみ悩んだと言うこと)。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにおられたら』フィレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐにはっきりと力強く言った。『確かに基督は彼等のために転んだだろう』…中略…『基督は、人々のために、たしかに転んだだろう』…中略…『基督は転んだだろう。愛のために。すべてを犠牲にしても』…中略…『さあ』フィレイラはやさしく司祭の肩に手をかけて言った。『今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ』(*7)
また、踏み絵を踏むときの心情をロドリゴは次のように語る。少し長くなるがそのまま引用する
「その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足はあの凹んだあの人(筆者註:キリスト)の顔の上にあった。…中略…人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。その顔は今、踏絵の木の中で摩滅し凹み、哀しそうな目をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。教まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけで充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。そのために私はいるのだから)『主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました』『私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。』『しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。さって、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか』『私はそういわなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいといっているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから』その時彼は踏絵に血と誇りでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この激しい悦びと感情とをキチジロー(密告によりロドリゴを権力に売り渡した人物)に説明することができなかった。」(*8)
ここには、フィレイラの言葉を借りてキリストに従う道は、自らの宗教的信念や理念を全うすることではなく、愛であるということが言われている。そして、その愛は、苦しむものの苦しみに寄り添うことなのである。つまり、キリストに従う弟子の道は、宗教的正しさを全うすることではなく、苦しむものに寄り添い連帯する愛なのだということである。
しかしながら、ヨーダーの絶対的非暴力主義に愛がないと言うことではない。ヨーダーは、犯罪における暴力の下に置かれているものを救うために力を行使して、その犯罪者を排除することに対し、絶対的非暴力主義は、敵をも愛するイエスの愛に支えられていることを示唆する。そして、その愛は隣人を愛する愛を越え、それにまさる愛であるという。なぜなら、隣人を愛する愛は律法の教えであり、イエスはその律法の教えを成就した上で、さらに敵を愛する愛がイエスの教えだからである(*9)。それゆえに、仮に犯罪者が攻撃してきても反撃せず非暴力を貫き愛するのであり、そこでは、自らの命を失うことも覚悟されているのであって、それはイエスの弟子としての道における殉教である。
この殉教は、自分自身だけではなく第三者にも向けられている。すなわち、罪のない犯罪の被害者が(本人によっても、当然非暴力主義による第三者の)反撃することなく殺された場合によっても、そのことによって死ぬことは、「その死によって二度とそのような事が起らない世界をつくるようにしようという新しい決意を固めるきっかけ」となる「殉教」となるのというのである(*10)。
もっとも、ヨーダはこのケースを「守ってくれる人がまわりにだれもいないとき」と限定しているが、最終的に殺されようとする時に、そこに共にいるものが非暴力主義を守り、それを傍観するならば、それは守ってくれる人がまわりにだれもいない状況である
このような状況は、「沈黙」における先に述べたガルベがおかれた状況に類比できる。ガルベは、先に転んだ信徒3名が薦にまかれ海に投げ入れて溺死させられるか否かが、ガルベが転ぶか否かというガルベの態度によって決定するという局面にたたされるからである。転ぶということはガルベにとっては自らの信念の表明に関わる出来事である。
この場面でガルベは、自らの信念にたち、キリストに従う者として、転ぶことはなかったが、それはガルベにとってキリスト者として決してできない「信仰告白的事態」であったといえよう。このようにしてまさに今、殺されていこうとする三人に対して、ガルベは神の沈黙と共にまた沈黙を守るのである。しかし、同時に彼は、海に投げ捨てられ殺される信徒達が乗せられた船の後を追って海に入っていく。その行為が何であったかについては、解釈もあろうが、おそらくは彼等を救おうとする何らかの行為であったと思われる。また波にもまれ、自らも溺れていく中で神に祈っている。それが、殺されてゆく三人に対する救いを求める祈りなのか、自分の魂の救済を祈りなのか定かではない。しかし、祈りの言葉は「我らの祈りを…聞き給え」であるから、自分を含め三人のために救いの祈りであったであろうと思われる。けれども、たとえそうであったとしても、生きることを望み、踏絵を踏みながらも、ガルベの宗教的信念のゆえに殺されていく三人には、ガルベが棄教すると言わない限り、それは沈黙の行為なのであって、この三人にとって、神もガルベも沈黙する以上、自分たちを守ってくれる存在はだれもいないのである。そして、最期は悲劇的結末となる。
このガルベの対極にいるのが、他者のために自分の宗教的信念にそむき転んだフィレイラとロドリゴがいる。そして穴吊りという拷問にあっているものにとって、彼等の転ぶという行為は沈黙を破り、ロドリゴとフィレイラは、彼等を守る者となる。彼等もまた転ぶという行為によって、それまでと違う新しいキリストに従う道が見出されているのである。
ヨーダーとロドリゴの違いは主体の違いである。すなわち、ヨーダーにとってキリストの道を歩む主体は、あくまでも神を信じる自分自身にある。そして、自分が信じるキリストの道を生きるものとして、目の前にある問題に対し、どうキリストの道を全うするかが問題なのである。しかし、ロドリゴの主体は、自分の目の前にある苦しむ人である。そして、その目の前で苦しむものに対してどう生きることがキリストの道となるのかが問題なのである。したがって、ヨーダーにおいてはキリストの道は絶対的なものとして現れ、ロドリゴの場合は相対的なものとして現れる。
結局、そこにあるのは、自らの宗教的理念・信念、あるいはキリスト者として生き方を全うする生き方を貫くために自らの苦難をも引き受けるという生き方ではなく、苦難の中に置かれている者と共にどう生きるかという極めて牧会的な視点である。結果としてそれは、最終的に目指すべき宗教的理念である平和という状況が明確に把握され、その状況に深い関心を持ちつつそれに向ってその状況に向っていこうとする生き方の中で他者との関わりを捕える社会倫理学的視点に立つヨーダーと、あくまでも目の前に存在する人に深い関心を寄せ、その人との関わりの中でいかに生きるべきかを考える牧会学的視点に立つロドリゴ(実際はその背後にいる遠藤周作であるが)の違いであろう
3.聖餐を通して見る共同体の理解(ヨーダーとグティエレスの聖餐理解)
2009年東京ミッション研究所が行なったDr.Mark Thiessen Nation の講義(実際の本小論で取り上げる問題はその中で Meary Nation女史の講義の中で取り扱われたものであるが)において、「聖餐のパンとぶどう酒に与ることは、キリストの裂かれた体、流された血に与ることであり、それはキリストの苦しみにあずかることである。そのキリストの苦しみは私たちの苦しみであり、聖餐にあずかるということは苦しみの交わりに加わることである」という旨の発言がなされた。
この Nation女史の講義はヨーダーの「社会を動かす礼拝共同体」(*11)をもとに行われたものであるが、この聖餐をキリストの苦しみにあずかる者であると言う理解はG・グティエレスがその著書「解放の地平をめざして」において述べていることでもある、すなわちグティエレスはこう述べるのである。
「パンを裂くことは。キリスト者の共同体にとって、出発点であり到着点である。パンを裂くときに、人間の苦しみにおける深い交わりが表現され、キリストの言葉と業とによって教会(εκλησια)において集められた人々に生命と希望を与える復活の主が、喜びを持って認められる」(*12)
グティエレスの解放の神学とヨーダーの平和主義とは、このような聖餐理解における類似性だけではない。その聖餐理解の中にある苦しみを共にするというときに、そこに経済的問題を見据えている点においても一致する(*13)。その思想の基本的方向性である「キリストに従う」あるいは「イエスに倣う」という点においても同じ方向を向いている。そして、共に平和が訪れることを願っているのである。
しかし、この両者は全く違った道を歩んでいる。ヨーダーは絶対的非暴力を主張し、グティエレスは、社会的経済的抑圧からの解放のための闘争において、そこに戦闘(ヨーダーにすれば暴力)が介在することがあることも容認するのである。
この違いはいったいどこから生じるのか。問題を単純に図式化するのは極めて危険だが、本小論においては字数の問題もあり、あえてその危険を冒して図式化するとするならば、ヨーダーはキリストの語られた言葉とその生涯の歩みからキリストの倣うものとしての非暴力の道を見、グティエレスは、十字架の死と復活の意味から、抑圧の解放に対する具体的、実践的な生き方にキリストに倣うものとしての生き方を見ているといえよう。
それは、理念としての平和主義と非暴力から社会を見アプローチしているヨーダーと、抑圧の現場にあって、貧しいもの、虐げられたものと共に生き、現場からの声として解放の道を共に歩もうとするグティエレスとの違いと言っても善いであろう。そしてそこには、救いを罪の赦しとして捉える西方教会型的な救済論と、抑圧する者からの解放と見る東方教会型的な救済論の捉え方の違い(グティエレスがそれを意識していたかどうかは定かではない)がある。
このようにしてみると、ヨーダーとグティエレスは対極にあるが、ロドリゴとグティエレスとは極めて近い位置にいる。いや同じ地平にいると言っても良いであろう。ただロドリゴの場合は抑圧された抑圧者に対して力で応じることすらできない力無い絶望的状況にある抑圧の中被抑圧者とどう共に生きるかという、グティエレスよりもより深刻な事態の前に置かれているが、グティエレスは、まだ闘争する力に希望をもっている中でどう生きるかを求めている点においての違いはある。しかし、基本的には同じ地平にたっている。
ちなみに、ロドリゴは(モデルとなる人間はいたにせよ)小説上の人物だが、実際の史実における日本における切支丹への弾圧は、島原の乱という力に対する力の抵抗という形となってあらわれた。その意味では、力の抵抗がヨーダーが言う最も悲劇的な結末を迎えたことになろう。しかしながら、島原の乱で日本の切支丹が根こそぎになったわけではない。隠れ切支丹として、抑圧者として抗うことなく地下に潜伏したもの達も少なくない。しかし彼等は300年という長い潜伏の中で信仰の形も表現もかわり、後に信仰の自由が認められたとき、もはやカトリック教会からカトリックの信仰とは認められないものとされ今日でも、「かくれ」と呼ばれる宗教として現存している。その意味では非暴力による抵抗もまた、信仰という意味においては必ずしも成功したとはいえないのである。
ロドリゴが、最終的に「ころぶ」きっかけとなったのはかつての恩師フィレイラの言葉である。ヨーダーはこの苦悩するロドリゴの前に立ったとき、どのような言葉をかけるのであろうか。またグティエレスはいったいロドリゴに何と言うのであろうか。きわめて興味深い問題である。
まとめとして、
グティエレスは、まさに現場に置いて共に生きるという極めて司牧的視点から神学をしている。それに対して、ヨーダーの視点は、少なくとも平和主義と非暴力主義という視点から、問題をいかに解決するかに視点がおかれているように思われる。少なくとも、ヨーダーの著書「愛する人が襲われたら」の視点はそのように思われるのである。従って、そこには平和的・非暴力的解決にいたった成功例しか挙げられておらす、不幸な結果に陥った場合(すなわち、被害者が殺されるといったケース)の被害者の視点は触れられていない(グティエレスはそこに視点をおいて、そこから考えるのである)。
平和の大切さはキリスト者であろうとなかろうと誰もが願うほとんど普遍に近い思いである。また非暴力的な解決が望ましいことを否定するものではない。しかし、現実においては、必ずしもそうはいかないことも少なくはない。非暴力的対応が必ずしも幸福な結果を生み出すとは限らないのである。
そのような現実の中で、牧会者は如何に生きるべきなのであろうか。あくまでも平和主義という理念、非暴力という理念のもとに、その抑圧と虐げと不正の中にあって生きる者達に、その理念に殉ずることがキリストに従う道であるとして、それを信徒に求めるべきなのか、それとも抑圧され虐げられ不正の中にあるものと共に生き、彼等が正義を求めその解放を求めるならば、どこまでも彼等と共に生きるのが牧会者の道なのであろうか。結局、最初に筆者が述べた違和感はここにある問題から起こっている。
それは、良きサマリア人の隣人とは誰かという問いに似ている。我々が社会的問題の中で隣人としてよりそう相手は、抑圧者なのか被抑圧者なのか、犯罪者なのか犯罪被害者なのかという問題でもあるのだ。
この良きサマリア人の話は、解放の神学の主題でもある。そして少なくとも、グティエレスは現場に生きる司祭として、絶えず後者を隣人として後者と共に歩む道を選び歩んでいる。そこには、平和を願い、正義を願い、誰もが人として人間らしく生かされることを願いながら、それが阻害されている現実の中では、相対的非暴力主義の中で生きるキリスト者の生き方を容認する司祭の姿があるといえよう。
奇しくも、解放の神学にこの不正と抑圧と支配が横行している現代社会に一つの道を見出しているマシュー・L・ラムが、その著作「社会的変革をめざす解放の神学」の日本語版のための序文で、筆者と同じく遠藤周作の「沈黙」を取り上げながら語った言葉を取り上げてこの小論の終わりとしたい。
「著名な日本の作家、遠藤周作はその作品『沈黙』と『イエスの生涯』の中で、神は無力なものと共におられる方であるということを啓示する、イエス・キリストの深い神秘を生き生きと描いている」(*14)
神がこの無力なものと共におられる方であるとするならば、その弱いものと共に生きることが牧会者には求められることであり、キリストの十字架が解放の業であるとするならば、事実、キリストの十字架は、我々の最も恐るべき支配者である罪と死から我々を解放する神の業であったのであるが、キリスト者もまた弱く虐げられたもの共に生き、解放への道を生きることがキリストの十字架をならうものの生き方となるのではないだろうか。その問いかけをもって本小論のまとめとさせていただく。
脚注
*1 J・H・ヨーダー「愛する人が襲われたら」棚瀬多喜雄約 東京ミッション研究所 2002年 原書“What Would
You do” Herald press,1983
*2 同上書(訳書)p.45及びpp.62-64参照。また同書の内の訳者後書き(pp.175-177)において、訳者棚瀬多喜雄は、「しかし、彼自身の行動を規定するのは論理ではありません。敵に攻撃を仕掛けない方が良い結果が出るという計算でもありません。イエスを信じる者として、イエスに従う弟子の道を歩みたいというところから、彼は決断します」とのべ、ヨーダーの非暴力主義がキリストの弟子としての道であることを示している。
*3 遠藤周作「沈黙」(遠藤周作全集第6巻「沈黙・母なる者」) 新潮社 1975年 pp.152-158 参照。
*4 耳のうしろに小さな穴をあけられ、汚物を詰め込んだ穴にさかさ吊りされる拷問。こうされることでこの穴と鼻と口から血が少しづつ流れ、時間をかけて苦しみながら死に至る。
*5 同上書 pp.192-200 参照。
*6 同上書p.195
*7 同上書p.198
*8 同上書pp219-220
*9 ヨーダー「愛する者が襲われたら」pp.56-58 参照
*10 同上書pp57-58参照
*11 ヨーダー「社会を動かす礼拝共同体」矢口以文・洋生、西岡義行訳 東京ミッション研究所、2005年
*12 G・グティエレス「解放の地平をめざして」日本カトリック正義と平和協議会訳 新教出版社1985年 p.204
*13 もっとも、ヨーダーは「社会を動かす礼拝共同体」において、聖餐を分かち合うことの背後に経済的問題があることを見据えながらも「聖餐の真意が経済的平等や社会主義にあるというなら、それは言い過ぎとなるだろう。現代理論として社会主義は多くの意味を持ち、政治化されすぎているからだ。」といい、暗に解放の神学とは一線を画す姿勢を見せている。確かにグティエレスの解放の神学は、ともすると共産主義的なものとして受け止められることがある。しかし、解放の神学自体が必ずしも思考しているわけではない。解放の神学が求めているものは、ただ社会的抑圧からの解放と言うことなのである。
*14 マシュー・L・ラム「社会的変革をめざす解放の神学」山田経三訳 明石書房 1987年 p.7
【脚注引用外の参考文献】
J・H・ヨーダー「イエスの政治」佐伯晴郎・矢口洋生訳 新教出版社 1992年
G・グティエレス「解放の神学」関望・山田経三訳 岩波現代選書 1985年
G・グティエレス、A・マタイス「国際シンポジウム 解放の神学」上智大学社会正義研究所 1986年
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