天国から閉め出された大統領の話


 エラスムスの『天国から閉め出された法王の話』をオマージュしたものであろう、ちょっと面白い話があったのでここに転記してみました。タイトルは『天国から閉め出された大統領の話』、著者はErasmismoなる正体不明の人物です。もちろん、寓話であり、エラスムスをオマージュした対話文形式で書かれています。トランプ大統領を揶揄しつつ、中絶や同性愛の問題などにも触れている風刺的な作品です。アメリカの福音派が現職のトランプ大統領を支持しているというニュースがマスコミで流れていて、日本の福音派としては困ったもんだとかんじている昨今ですのでちょうどよい機会だと思い、私による解説を附記してアップしてみました。


    Erasmismoの天国から閉め出された大統領の話        

登場人物 ペテロス(ケファ)
     第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプ
     トランプの運転手エバンゲリス

 私エラスミスモは、神の僕であり、主イエス・キリスト様の弟子である。住まいは現世では天国と呼ばれている神の王国にある。いわば天国の住人である。もっとも神の僕と言っても、ほんの下働きをさせていただいているだけのものであり、主イエス・キリスト様の弟子であると言っても、その末席の末席を汚している者に過ぎない。だから天国の住民と言っても、天国の辺境な片隅に身を置いているだけのものなのだ。
 そのような小さき者に過ぎない私が、最近、上席におられる聖徒の方々の間で、いろいろと話題になっている話を耳にした。それは、どうやら私の尊敬するエラスムス先生の書かれた『天国から閉め出された法王の話』になぞらえて作られた話らしい。作り話とはいえ、そこそこに滑稽で面白いらしく、風刺も効いており、上席にある聖徒の方々を笑いの渦に巻き込んでいると言う。一部の天国の住民の方々の間では、またエラスムス先生が書かれた滑稽風刺本ではないかと言われているが、同じ作り話ではあっても、話の質はエラスムス先生のものとは比べ物にならない質の悪いもので格調もない。だから、笑いといっても単に失笑を買っているに過ぎないという批判もある。このことからしても作者がエラスムス先生でないことは確かなことであるのだが、しかしいったい誰が作者なのかは皆目わからない。
 とはいえ、上席の聖徒の方々には、現代の教会の姿を風刺した滑稽話として好まれているようではあるので、ここはひとつ、このエラスミスモが、その滑稽話を書きとどめてみた。では、ごらんあれ。

ペテロス   わが主イエス・キリスト様から天国の門の鍵をあずかり、しっかりと門番をせよとのおおせに従って、この天国の門の門番を務めて久しいが、最近、とみに厄介な訪問者が増えておりほとほと困っている。とにかく「自分はキリスト者だ。だから天国に入れろ」と騒ぎ立てる。キリスト者であるということは自己申告制ではなく、神が認め、与えたもうものであるということをわきまえておらん。まったく困ったもんじゃ。
おやおや、今日もまた誰かやってくるようだ。どれどれ、おやまあ天国の門に車で乗り付けようとするとは、いったいどんな人物じゃ。それも、ロールスロイス・ファントムとは。こりゃどうも厄介そうな奴だ。しばらく門の内側に退散し、扉を閉じて、扉の裏のぞき窓から様子を見ていようかい。

エバンゲリス さあさあ大統領、着きましたぜ。ここが天国の門でさあ。

トランプ   ようやく着いたか。それにしても、おい、お前、運転が荒すぎるぞ。なんども天井に頭をぶつけて、専属のヘアスタイリストに何十万円も支払って仕上げている私の自慢のヘアースタイルが台無しになってしまったじゃないか。

エバンゲリス そりゃ、大統領、あなたがあんな狭い道を、「早く行け、早く行け」と急がせるもんだから…。おかげで、途中で何人もひき殺してしまいそうになったじゃないっすか。それにしても、なんて国の門に至る道は狭いんだ。あまりに狭すぎて見つけ出すのに苦労しやしたぜ。

トランプ   狭いからひき殺しそうになったって。大丈夫だ、あの狭い道を歩いている連中はみんな、もうすでに死んでいる。なにせ、天国の門を目指して歩いている連中だからな。そんあことより、早くドアを開けろ。長い時間座っていたんで腰と膝が痛くてたまらん。

エバンゲリス へいへい、わかりやした。ほんとうにわがままなお方だ。もっとも、大統領のわがままは、今に始まったことじゃないが……。ハイ、大統領、お開けしましたよ。

トランプ   おう、これが天国の門か。それにしてもなんとも高い塀だ。俺様が国境に立てた塀よりもはるかに高い。これじゃこの壁を乗り越えて侵入する者など不可能だろう。それにこの門は小さな門だな。昔わしがドイツで見たエルフルトの修道院 の裏木戸よりも小さいんじゃないか。それになんとも貧祖な門だ。天国の門というから豪華な金ぴかの門だと思って思っていたんじゃが。こんな門構えなら、天国っちゅうところも、あまり大した場所じゃないかもしれんな。

ペテロス  おやまぁ、言いたい放題じゃな。それにしてもでかい男だな。体もでかいが態度もでかい。おまけに、なんだかうさん臭いにおいがプンプンしておる。こりゃ、この男とは関わらない方がいいようじゃ。もうしばらく、こっちで覗き窓越しに様子を見ていることにするしようかいの。

トランプ   しかしまぁ、アメリカ大統領の俺様が来たというのに、出迎えもレッド・カーペットもないのか。なんちゅう失礼な扱いじゃ。おい運転手、お前ちょっと中に入っていって、アメリカ大統領のお出ましだと伝えてこい。

エバンゲリス 運転手、運転手となんと人使いの荒い雇い主だ。それに俺には、ちゃんとエバンゲリスと言う名前がある。神様ですら「私はあなたの名を呼んだ」と言っておられるのに。でも逆らうとめんどくさいので、ともかく言うことを聞いておこう。

トランプ   おい、何をごちゃごちゃいってんだ。

エバンゲリス ヘイヘイ今、行ってまいりますから、ちょっとお待ちを。………ウン、おや? 開かない。どうなっちゃてるんだ。あっ、鍵がかかっている。

ペテロス   そりゃそうだ。お前さんたちのような輩はこの門を簡単に通すわけにはいかんからな、中からしっかり鍵をかけてやった。

トランプ   何やってんるんだ。早くしろ。もたもたしてるとクビにするぞ。

エバンゲリス だめです大統領、この扉、カギがかかって開けることができません。

トランプ   なんだ、カギがかかってる? しかたがないなぁ。ホレ、この鍵を使え。開くはずだ。

エバンゲリス  えっ、大統領、天国の門のカギを持ってるんですか? さすがアメリカ合衆国の大統領ともなると、天国の門のカギまで持ってるなんて、たいしたもんだ。お見それいたしやした。

トランプ   何? 天国の鍵? おい運転手、そりゃ天国のカギなんてもんじゃない。ホワイトハウスの大統領執務室のカギだ。だがな、この大統領執務室のカギちゅうのは馬鹿にできんカギでな。この鍵をちらつかせてちょっと脅しをかけてやれば、だれも言うことを聴く。なにせ、世界最高の権威と権力と軍事力を持つ人間だけカギなんだからな。つまり、万能の力のカギじゃ。だから何でもできるというわけだ。わかるか運転手。

エバンゲリス 俺はエバンゲリスっちゅう名前があるんだって。まっ、言っても仕方がないか。言っても分からんだろうし。それにしても大統領、いや元大統領。ホワイトハウスの執務室のカギをもっているんですか。

トランプ  持っておるとも。この鍵を盗み取ろうとしたものがおるんでな。こうして上着のポケットに入れてもってきてやった。

エバンゲリス あらあら困ったお人だ・。

トランプ   おい、運転手。何をぶつぶつ言っておる。お前。俺様の話をきいてるのか。速くそのカギを使って扉を開けて、中にいる聖徒や天使やらを引き連れて出迎えにこさせてこい。

エバンゲリス ヘイヘイ、無理だとは思いますがね。とにかくやってみます。

トランプ   どうだ、開いたか?

エバンゲリス 大統領、だめです。開きません。っていうか、開かないだろう普通。そんなことは子供でもわかりそうなものだが…。そもそもアメリカ大統領なら何でもできるって考えは、同じアメリカ人でも恥ずかしくなるような考え方だ。

トランプ   うーん、しかたがない。ドアを叩いて門番を呼び出して開けさせろ。おそらく居眠りでもしてるんだろう。俺様が天国の王ならば、そんな奴はすぐにクビにしてやるのに。とにかくドアを叩いて門番を呼び出せ。出てこなかったら出てくるまでたたき続けれ。「叩け、そうすれば開けられるであろう」と聖書に書いてあるだろう。

エバンゲリス おっ、大統領から聖書の言葉が出てくるなんてちょっとびっくり。大統領、あなた聖書をお読みになっているんですか?

トランプ   当然だ、おそらく私より聖書を読んでいる人間は他にはいないだろう。そんなことより、はやくドアを叩いて門番を叩き起こして門を開けさせろ。

ペテロス   おやおや、ちょっと面白い展開になって来たぞ。さっきは天国の門が小さいだの貧祖だの文句を言っておったので、聖書に「狭きも門より入れ」とか「こころの貧しい人は幸いである」などと書かれているのも知らんのかと思っておったが、自分より聖書を読んでいる人間は他にはいないなどと言い出した。どうやら、自分に都合の良い聖書の箇所だけは、知っているようじゃ。厄介そうな人間なのであきらめて帰るまで無視しようかと思っていたが、これはちょっと出て行ってからかってみても面白いかもしれん。
 おやおや、かわいそうな運転手、いやエバンゲリスじゃったな。かわいそうなエバンゲリスがドンドンとドアを叩き、大声を上げておる。

エバンゲリス 大統領、だめです。さっきから何度も扉を叩いて呼びかけていますが、うんともすんとも言いませんし、誰も出てきません。

トランプ   おい運転手。お前は本当に役立たずだな。だったら、この壁をよじ登って中に入って裏側から鍵を開けてこい。

エバンゲリス なんて無理なことを言うんですか。さっきご自分の口で、「なんて高い塀だ、この塀を乗り越えて侵入する者など不可能だろう」言ったじゃないすか。

トランプ   仕方がない使い物にならん奴だ。ええい、だとすれば・・・・。

エバンゲリス えっ、大統領なにをするんですか。

ペテロス   さっきのドアを叩く音とは違うこの音はなんだ? えらくけたたましい音がするのじゃが。ちょっとこの覗き窓外の様子を見てみよう。あー、あの大男が、門の扉を蹴破ろうしちょる。そんなことをしても天国の門はびくともせんのに。それにしてもこの男、神様に対する恐れや敬いといった敬虔な心はないんかいな。

トランプ   えー、いまいましい。このー、このー。だめだ。びくともしやがらん。しかたない。かくなるうえは、最後の手段だ、車ごと突進をして扉をぶち破って押し込んでやるわい。俺様の自慢のファントムが傷つくのはちょっと惜しいがのう。まあ。丈夫な車だからだいじょうぶだろう。

ペテロス   ありゃりゃ、今度は車ごと体当たりをしようとしておる。そんなことしても、無駄なことがわからんのか。しかたない。そろそろ出て行ってやろうか。体当たりをして怪我でもされたら後味がわるいからな。

トランプ   よーし行くぞ。運転手、アクセルを思いっきり踏み込め。いいか、フル・スロットルだぞ。準備はいいか。

エバンゲリス 仕方ないな。それじゃシートベルトをしてっと…。おっと待った、待った、待った、大統領。誰か出てきやしたぜ。

トランプ   おおっと。せっかくぶちかましてやろうと思ったのに。まあいいか。本当にてこずらせよって。

ペテロス   さてさてさて、天国の門をぶち壊そうとする失礼な御仁はどこのどなたかな。一体何が望みなのじゃ

トランプ    おやおやご老人、俺様のことを失礼と言うが、そもそも人も名前を聴くのであれば、まず自分から名乗るのが礼儀じゃないかね。歳をとってるからといって失敬な態度はいただけんよ。

ペテロス   それはそれは失敬をいたした。わしの名前はケファと申す。この天国の門番をしておる。

エバンゲリス ケファ!それじゃあなた様はあのぺ…。

ペテロス   しっ。面白いものを見たければしばらく黙って見ておりなされ。よろしいかな。

エバンゲリス 見たい見たい。それは見とうございます。

ペテロス   ならば、しばらく黙っておるがよい。

トランプ   何を二人でこそこそしゃべっておる。門番のジジイ、俺様はな、あの偉大なアメリカ合衆国の第45代大統領のドナルド・トランプだ。すこしは、恐れ入ったか。

ペテロス    ドナルド、あのミッキー・マウスの友達の…

トランプ    ちがーう。そりゃ、ドナルド・ダックだ。俺様は、れっきとした人間!しかも、アメリカ合衆国第45代大統領のドナルド・トランプ。もう一回言うぞ、ドナルド・トランプだ。わかったかジジイ。

ペテロス   ちゃんと聞いとったよ。ちょっと冗談を言ってからかってみただけじゃ。だからそんなに怒鳴らんでもええじゃろう。冗談もわからん御仁だ。それにしも、あんた気が短いの。わしの仲間にボアネルゲと呼ばれる短気な瞬間湯沸かし器みたいな仲間がおるが、あんたの気の短さは、彼ら以上だな。

エバンゲリス ボアネルゲって、あのヨハ…

ペテロス   しっ。しばらく黙って見ておれと言ったじゃろ。

エバンゲリス すみません。ついうっかりしてしまいやした。それにしてもうちの大統領、しっかり手玉にとられてあしらわれている。

ペテロス   で、そのアメリカの大統領が私に何の用事かな。何を願うと言われる?

トランプ   何を願うかって。おい門番、何か勘違いをしてるんじゃないか。俺様は、門番のジジイに用などない。ましてや、なんで門番なんぞに願わなけりゃならないんだ。

エバンゲリス あーあ、言っちまっちゃたよ。大統領は自分が話している相手が誰かわかって言ってんのかねェ。

トランプ   いいかジジイ、よく聞け。わしはきょうから、この天国に住む。そのためにここに来た。だから、早くその小汚い狭く小さい門を開けて、聖徒たちや天使たち、そしてこの国の王を出迎えに来させろ。第45代アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプ様がお見えになったといってな。
それから、レッド・カーペットを忘れるな。俺様が、あっちの「世」にいたときは、どこの国にいっても空港にレッド・カーペットが引かれ、どの国の元首ですら笑顔で迎えに来てたもんだ。

エバンゲリス あっちゃー、天国の王が誰か知って言っているんかい、この人。

ペテロス   ほほー、この国の王イエス・キリスト様に出迎えに来いといわれるか。いったいお前は自分のことを何様だと思っておるんじゃ。

エバンゲリス ほら、言われた。

トランプ   俺様か。何度も言わせるな。物覚えの悪いジジイだ。俺様はな、偉大なアメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・トランプだと言っとるだろうが。更に加えて言わせてもらうならば、生まれながらの金持ちでもあり、不動産王であり、ディールの天才であり、有名なTVショーの出演者でもあった。どうだ、恐れ入ったか。

ペトロス   なるほど。で、その偉大なアメリカ大統領合衆国の大統領なる存在は、天国の王である主イエス・キリスト様に出迎えを指せるほどお偉い存在なのかな。

トランプ   嗚呼、何も知らんジジイだ。アメリカは世界でNo1の経済力、政治力、軍事力を誇る国だ。いうなれば、世界のリーダーシップを握る国で、あちらの世界では最も権威があり権限がある世界一力ある国だ。そのアメリカの指導者が大統領なのだから、当然、世界で一番力があり尊敬されるべき存在であることは疑いない事だ。
 疑うんだったら、海兵隊を一師団派遣して、天国を空爆してはかいしてやろうか。そしたら、いかにアメリカ大統領が強い権限と権力と力を持っているかがかわかる。

ペトロス   おやおや、天国に敵対する国はサタンの国だけかと思っていたが、アメリカという国も天国に敵対する国になるというのかね。もっとも、「世(κόσμος:コスモス)」は主イエス・キリスト様を憎み、主イエス・キリスト様の弟子たちを憎み迫害すると聖書は言っておられる。その「世」で最も力ある国じゃと言うんじゃから、天国に敵対してもおかしくはないのう。
 で、そのあちらの世界では最も力あるアメリカと言う国の大統領閣下、あんたの言う最強の軍隊に命じて、天国を攻め取るつもりかえ。それなら、こちらも天の軍勢を用意しておかねばならんのう。

エバンゲリス ちょっと、ちょっと大統領。天国と争いを起こすとなると、相手はイエス・キリスト様ってことになりますぜ。いくら何でも、そりゃ分が悪い。なにせ、イエス・キリスト様は神の独り子だ。それはおやめになった方が身のためだ。

トランプ   いいか運転手。ちょっと耳を貸せ。

エバンゲリス よござんすよ。ちょっと汚れてますがね。なにせ、大統領がこきつかわれるんで。忙しくて最近は耳かきをするのもままならないもんでね。いえ、いえ、独り言です、独り言。

ペテロス   おやおや、仲間同士でコソコソ内緒話を始めおったわい。

トランプ   いいか、黙ってよく聞け。俺様は端から天国を相手に戦争しようなんぞ思っていない。第一、海兵隊一師団を派兵して、爆撃機を飛ばして爆弾を投下してたらいったい幾らかかると思っているんだ。仮の天国を相手に戦争をしたとして、あとでその戦費戦費を負担しろと日本も韓国をおどしても、やつらだってそう簡単に首を盾に振るとは限らんしな。

エバンゲリス なら、何であんな物騒なことを言ったんですかい。

トランプ   ディール(商取引)だよ、ディール。初めにガツンと脅迫して、そこから少しずつ慈悲をかけるように条件を下げながら交渉する賢いやり方だ。それで天国でのより良い地位を確保しようってわけだ。俺様はディールの天才だって言ったろう。天国の地位だって駆け引き次第さ。できれば、俺様は天国でも大統領になりたい思っている。少なくとも国務長官の地位ぐらいは確保したい。だから、だまって見ておれ。うまく行ったら、運転手、お前の処遇も考えてやる。

エバンゲリス へいへいわかりやした。でも到底うまくいくとは思いませんがね。

ペテロス   二人でひそひそ話も良いが、こう見えても、このジジイも結構忙しいんでな。あんたらだけに関わっているわけにはいかんのじゃ。

トランプ   まあ、またんかい。どうだ、戦争はいやだろう。大統領にする代わりに、海兵隊の派遣も空爆も取りやめようと、イエス・キリストに伝えてこい。

ペテロス   あんた、そんなのは端から無理な話じゃ。こう見てもこのジジイ、主イエス・キリスト様に長年お仕えしているが、海兵隊だの空爆な度と言った話は、主イエス・キリスト様は鼻にもかけんわ。

トランプ   そうか、それじゃ。国務長官までゆずってやろう。それならOKだろう。大統領が格下の国務長官になってやろうというんだから、こりゃ破格の扱いだろう。

ペテロス   おまえさん、よっぽど偉くなりたいんじゃな。

トランプ   あたりまえだろう。世の中に偉くなりたくない奴なんていないだろう。

ペテロス   なるほどのう。確かに誰が一番偉いかは、わしらイエス・キリスト様の弟子たちの間でも話題になったことがあったからのう、だからおまえさんの偉くなりたいという気持ちは、わからないわけではない。しかし、そこでわしらがイエス・キリスト様から何と言われたか知っとるか。誰よりも聖書を読んでいるというおまえさんならわかるだろう。

トランプ   当然だ。「求めよ。さらば与えられん」「門を叩け、そうすれば開けてもらえるだろう」

ペテロス   おやおや、どうやらおまえさんは、聖書の中で自分に都合のいいところだけを拾い読みしているようじゃな。しかも自分に何かしてもらえそうな都合のいい言葉だけを覚えておられる。イエス・キリスト様の「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」なんて言葉は、頭にはないようじゃ。

トランプ   けっ、なんじゃそりゃ。支配者、権力がある者が力をふるって何が悪い。おれは、偉くなりたいんじゃない。もうすでに偉いんだ。俺様は世界の盟主アメリカの国民であり、そのアメリカ国民の頂点に立つアメリカの大統領。おれはヒーローだ。少しはリスペクトしろ。

ペテロス   なるほど、おまえさんはヒーローなのかい。なるほど、おまえさんはヒーローなのかい。なるほど、わしは今、お前さんが確かにアメリカ人であると確信したわい。それにしても、謙遜と謙虚いう美徳を知らんのかいのう。わしの友人は、かつては自分が生粋のユダヤ人であることやパリサイ人であることを何よりの誇りとしておったが、イエス・キリスト様とお出会いして、天国ではそんなもんは何の役にも立たんことをしって、それらが塵芥のようなもんだと悟ったんじゃがのう。

エバンゲリス それは、パウ…

ペテロス   しっ、黙って見ておれと言っとるじゃろうが。

エバンゲリス へいへい、そうでございやした。

トランプ   謙遜。そんなもんは、自分の意見をちゃんと言えない奴のことだろう。自分の意見や考えをきちっと言えて、自分の能力を相手に示す。自分と言う存在をきちんと相手に示す。それが大事なことだ。そうでないとアメリカと言う国では勝ち残れない。どうせその男は天国では出世できなかったんだろう。

ペテロス   ああ、本当にわからん御仁じゃ。おまえさんは先ほど、天国の門が狭いじゃの、小さいじゃの、粗末じゃのと散々文句を言っておったが、天国の門が狭いのは、誰もがあちらの「世」で分厚く身に着けた地位や肩書といったものを脱ぎ捨てなければ天国の門を通ることができないからじゃ。また、天国の門が小さいつくられているのは、誰もが自らの無知と愚かさを知り、自分の罪深さを知った心の貧しさをしって神様の前に身をかがめて、この門をくぐって行くためなのじゃ。そしてなぁ、天国の門が粗末に作ってあるのは、まさの自分の持ってる財産をすべて投げ捨てた貧しい者が通る門だからなんじゃよ。天国は、自らの誇りや名誉といった心が富んだ輩や天国にまであちらの世界で手に入れた金や財産を持ち込もうとする物は天国には必要ないんじゃ。
 それ何にお前さんときたら、あちらの世界で手に入れた地位や名誉をひけらかし、あまつさえ、天国にあちらの世界の世界の地位や名誉や肩書を持ち込もうとしておる。持ち込むどころか、そういった塵芥のようなものを得ようとこの期に及んでも齷齪しておる。まさに、お前さんのような人物は天国にふさわしくはないのだ。そんなわけだ。だから、お前さんのようなやつは、さあ帰った、帰った。

トランプ   俺様のような賓客が来たのに、元首に取り次ぎもせずに門番風情のジジイが帰れとぬかしおった。身の程知らぬジジイだ。おまけに言いたい放題の悪態をつく。ああ、いまいましい。お前なんぞ、クビだ。

エバンゲリス 悪態は大統領の方が一枚上を行きますぜ。

ペテロス   残念じゃが、わしはイエス・キリスト様の召しによって天国の門番を仰せつかわっておるのでな。おまえさんからクビじゃと言われても痛くもかゆくもありゃ―せん。ほれ、見てみい。この銀のかぎ、これが天国のカギじゃ。

トランプ   ふん、カギならわしも持っておる。ほら、大統領執務室のカギじゃ。この鍵はまだ世界で47人しか持っておらんありがたい権力のかぎだ。世界の情勢を変えることができるカギだ。

エバンゲリス でも、天国の門は開けられませんでしたけどね。

トランプ   いずれにしても、ただの雇われ門番だというのだから、この門を通すか通さないのかは、ジジイお前ではなく、雇い主のイエス・キリストと直接話をする。だから、通せ。

ペテロス   そりゃ無理じゃ。確かにわしは天国の門のカギを預けられた門番じゃが、ただカギを預けられているだけじゃない。誰がこの天国の門を通るにふさわしいか、また誰がこの天国の門を通るにふさわしくないかを決める権能を委ねられておる。

トランプ   おやおや、誰が天国に行けるかいけないかは牧師が決めるんじゃなかったのかい。

ペテロス   たしかに、あちらの世界では、わしのカギの権能を教会に任せた。だから牧師や神父が、「あなたは天国、つまり神の国じゃな、その神の国の臣民となった」と宣言することが許されておる。だがなぁ、牧師や神父でも、しばしば誤って天国に入っちゃいけない人間に、「あんたは神の民」だとか、「あなたは赦されている」などと言ってしまっておる。また、本当はこの天国の門を通るべき人間を「あなたは神の民としてふさわしくない」などと言ってしまうことさえある。あまつさえ、自分自身がこの天国の門を通ることができない牧師や神父さえおるという始末だ。だから、こうしてわしが、今でも天国の門番としてここに立って、そう言った過ちを正すために、ここで天国の門を通して良いか悪いのかを判断しておるのじゃ。そうそう、そう言えば、この天国の門から追い返された法王もおったぐらいじゃ。

トランプ   なんと、天国から閉め出された法王がいるだと。誰だ?それは。あっ、わかった、フランシス1世だな。あいつは俺様の悪口をいったからな。

ペテロス   おや、おや、フランシスは歴代の法王の中でも良い法王じゃよ。彼はまことに天国にふさわしい人間じゃ。だからフランシス1世ではない。ユリウスじゃよユリウス 。

トランプ   ユリウス? あの「ブルータス、お前もか」のユリウス・シーザーか。

ペテロス   違うわい。お前さんは本当に何にも知らん御方じゃな。まぁ、詳しくはエラスムスにでも教えてもらいなされ。もっとも、今では、エラスムスもあの天国の門を通った先におるから、天国に入ることの出来ないおまえさんは、エラスムスから直接話を聞くにも聴くことも出来んがの。はっ、はっ、はっ。

トランプ   ふん、厭味ったらしいジジイだ。それにしても、こんな嫌味なジジイに天国の門と通すかと通さないかの権能をあたえるなんて、イエス・キリストは、何を考えているんだか。とにかく、俺様はそのイエス・キリストと取引したい。だからここを通せ。

エバンゲリス ああ、もう黙ってはいられん。大統領。こちらにおわしまするお方をどなたと心得ておられるのですか。

トランプ   誰? 誰って、ただの厭味ったらしい門番のジジイだ。門番は門番、それ以外に何がある。

エバンゲリス ちがいますぜ大統領、先ほど、ちゃんと名乗られたじぁないですか。

トランプ   名乗った?ああ、そういえばたしか、ケファとか言っておったな。

エバンゲリス そうです。ケファ様です。ケファとはペテロス様のことですよ。大統領の目の前にいらっしゃる方は、あのイエス・キリスト様の一番弟子のペテロス様なんですよ。

トランプ   イエス・キリストの一番弟子か。それじゃ、イエス・キリストが天国の王なら、その一番弟子は首相ってところだな。俺様はエリザベス女王とも会ったことがあるが、政治的の話はメイとした。この門番のジジイが首相級だというのならば、まあ交渉の相手として我慢もできるか。それじゃ、ペテロス、ここはどうだ、10万ドルで手を打たんか。

ペテロス   10万ドル? なんじゃそりゃ。

トランプ   まあまあ、取引は始まったばかりだ。そうすんなり交渉が成立するなんて思ってもいないが、しかし、こんなところで時間をつぶしたくない。なにせ、大統領って職は忙しいんでな。だから、とっとと話をまとめたい。だから大盤振る舞いで50万ドルでどうだ。これ以上1セントなりとでないぞ。あっ、もちろん、これは俺一人分だ。この運転手の分は含んでない。運転手の分は、運転手と交渉してくれ。

エバンゲリス ちぇ、けちな男だ。

ペテロス   おい、おい運転手さん、いやエバンゲリスだったな。この男はさっきから10万ドルとか、50万ドルとかいっとるが、いったい何のことかさっぱりわからん。いったい何のことを言っとるのじゃ。

エバンゲリス おお、ペテロス様は、ちゃんと名前で呼んでくださった。へい、へい、お教え致しやす。大統領は、いくらペテロス様にお支払いすれば、天国の門を通していただけるのかと言っておられるんです。つまり賄賂でごぜいやすね。

ペテロス   なんと、こいつは天国の国籍を金で買おうというのか。とんでもないふとどきものじゃ。そんな話に乗るわけにはいかんわい。

トランプ   何を二人で勝手にこそこそ話しているだ。こそこそ話してもちゃんと聞こえておるは。運転手、わいろなどではない。献金だ、献金。どうだ50万ドルを献金してやるというのだぞ。いい話じゃないか。

ペテロス   ふー。本当に困った御仁じゃ。10万ドルか50万ドルか知らんが、そんな話には乗れん。興味もない。

トランプ   50万ドルでも不満か。なんと強欲なジジイだ。

エバンゲリス 強欲なのは、大統領、あんたの方ですよ。

トランプ   それじゃ、ペテロス。100万ドルだそう。100万ドルだぞ、もうこれ以上はびた一文もだせん。どうだ。

ペテロス   ええぃ、わからんやつじゃのう。金の問題ではない。お前さんを見ていると、イエス・キリスト様が「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われたがよくわかるわい。天国はお金の問題じゃない。だから、いくら大金を積まれてもだめなんじゃよ。

トランプ   そんなことはない。金があれば自由だって買える。教会だって、大金を積んで献金をする人間を大切にする。違うか。

ペテロス   ほう、なかなか痛いところを突いてくるわい。確かに、もはや「この世」は拝金主義にまみれており、本来キリストの体であるべき教会も、その影響を強く受けておる。教会を運営するにも、宣教をするにも金がかかるからのう。そのために、確かにお前さんのいうような状況が教会の中にも確かにある。
 しかし、それは教会のあるべき姿ではない。そして教会のあるべき姿とはかけ離れておる。そこに人間の持つ弱さがあるとは言え、本当に嘆かわしいことだ。だがな、わしの友ヤコブもそのような教会の在り方は間違っていると、ちゃんと見抜き、聖書に書き残しておるじゃろう 。まさかお前さん、聖書のその箇所を読んでいないというわけではないだろな。

トランプ   ふん、ヤコブ書はしょせん「藁の書」だろう。誰かがそんなことを言っとった 。そう、「大切なのは行いじゃない。信仰だ」と。

ペテロス   おいおい、話はそこじゃないじゃろう。大切なことは金持ちだろうが、貧乏人だろうと、なんだろうと、そんなもので、教会でのあつかいに違いがあるとするならば、それは間違っているということなんじゃ。
しかしまぁ、お前さんのいうとおり、確かに大切なのは信仰じゃ。だからといって「行いではなく、信仰だ」聞という話も、捨て置けん問題じゃな。では聞くが、その大切な信仰とは、どのような信仰かな?

トランプ   どのような信仰?信仰は信仰だろう。あたりまえのことを聞くな!そんなあたりまえのこともわからんのか。

ペテロス   すまんのう、わしはあたりまえと言われていることも、一応はうたがってみて考えてみんと気がすまん性質での。だから、もう一度聞くが、お前さんの言うことはどんな信仰かな?

トランプ   まあなんとめんどくさいジジイだが、しょうがない教えてやろう。そうだな、あえて言うならばイエス・キリストを信じる信仰とでも言えばいいかな。

ペテロス   ほほう、主イエス・キリスト様を信じる信仰。ならば、その主イエス・キリスト様を信じる信仰では、主イエス・キリスト様の何を信じるのじゃ?

トランプ   本当におまえはしつこいジジイだな。キリストを信じると言ったら、信じる、それ以外に何がある。

エバンゲリス ペテロ様、話に割り込むようで申し訳ございません。私どもは、両親や教会で小さいころから、イエス・キリスト様は私たちの救い主であられ、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりとなって十字架に付いて死んでくださったと教えられてまいりやした。このイエス・キリスト様の身代わりの死のおかげで、私たちの罪が許され、私たちに下される神の裁きから救われる。だからこの事を信じ受け入れ生ことが大切なのだと教えられてきたんでございやす。

ペテロス   なるほど、そのことは、確かによく聞く話じゃ。エバンゲリスよ、ちゃんと答えてくれてありがとう。

エバンゲリス また、名前で呼んでくれた。うちの大統領ときたら、俺のこと運転手、運転手と、身分や立場でしか呼ばないのとは大違いだ。それにしても名前を呼ばれるというのは、こんなにも、そしてなんと嬉しいことか。

ペテロス   エバンゲリスよ。お前さんの言う主イエス・キリスト様を信じる信仰も確かに大切な事じゃろう。それは、主イエス・キリスト様に寄り縋ることじゃからな。じゃがな、本当に大切なものは、主イエス・キリスト様の信仰じゃ。主イエス・キリスト様の内にあった神の言葉に聴き従う信念とそれを実際に行った生きたその生き様が主イエス・キリスト様の信仰なのじゃ。そして、そのイエス・キリスト様の生き方に倣い生きることが信仰というものじゃ。

トランプ   ふん、またこのくそジジイが、わけのわからん理屈をこねだした。

ペテロス   ええから、だまって聞きなさい。わが主イエス・キリスト様は、十字架の死に至るまで父なる神様に従順に歩まれたのじゃ。十字架の死は神様の刑罰がイエス・キリスト様の上に降ったものではない。死に至るまで神に従う、そのイエス・キリスト様の信念が現実の生き方となって現れたのだ。もちろん、そこには善と命の源である父なる神様に対する信頼がある。父なる神様が導かれる先には、最善があるという信頼関係をがな。だから、その信頼が信念を生み出し、行いとなって結実する。
 お前さんらが、わが主イエス・キリスト様を信じる信仰があるというのならば、その主イエス・キリスト様の行いに倣い者になろうと努力をするものにならんといかん。主イエス・キリスト様に寄り縋り、主イエス・キリスト様に倣って生きようと努めてはじて、イエス・キリスト様と弟子と言えるのじゃ。そしてイエス・キリストの弟子となって初めて「主イエス・キリスト様を信じる信仰が大切」だと言えるのじゃ。
 なぜなら、信仰は行いに至らせる力であり、行いは信仰の結実じゃからじゃ。わかるか、信仰は行いであり、行いは心で信じる信仰そのものだからじゃ。だから「行いのない信仰は空しい」のじゃ

トランプ  おい運転手、この俺様にはこの爺さんが言っていることがさっぱりわからんがお前わかるか。

エバンゲリス 私も悟ったと言うことはできませんがねえ、でも、要はイエス・キリスト様のように、神の言葉に従って生きるように努力することが信仰だといっているんじゃないでげすかね。

トランプ   なるほど、信仰というのはイエス・キリストに寄り縋り、頼るだけではなく、行いも必要だと言うのだな。よし、わかった。ならば言ってやろう。

エバンゲリス えっ、言ってやろうって、何を言うつもりなんでやんすか。

トランプ   いいから、まかせえておけ。

エバンゲリス ええー、まかせておけっていわれても、イエス・キリスト様の生き方と一番
無縁な人間なのが大統領なのに。

トランプ   おいジジイ。信仰には行いが必要だというんなら、俺様にも行いはあるぞ。

エバンゲリス  おやおや、何を言い出すかと思ったら。自分には行いがあると、こりゃどうなってもしらんぞ。

ペテロス   信仰に行いが必要なわけではない。信仰は行いへの努力の中に現れ、その努力は信仰の中に実を結ぶと言っとるのじゃ。まあ、信仰は努力であり、行いは信仰だとでも言っておこうかいのう。

トランプ   難しいことはどうでもいいわい。俺様が言いたいのは、俺様には信仰の行いがあるということだ。だから、つべこべ言わんで、ほれ、その天国の門を通せ。

ペテロス   ほほう、お前さんにも行いがあるとな。そりゃ、いったいどんな行いじゃ。

トランプ   イイかよく聞け、俺様は、これまで確かに聖書的価値の基づいてそれを実行してきた。

ペテロス   ほーう、聖書的価値とな。ではおまえさんのいう聖書的価値は、いったいどんなもんじゃ?

トランプ   そうだ。まず第一に、俺様は酒もたばこもやらん。健康に良くないからな。聖霊の宮である体を大切にしている。

ペテロス   なるほど。健康に気を付けて節制していることは悪いことではない。節制はアリストテレスでも徳目として上げておるからな。だが、
それを聖書的な価値と言われるとなぁ。第一、お前さんの教会では、聖餐の時にぶどう酒は飲まんのか?わが主もぶどう酒は飲んでおられたがな。それこそ、大酒飲みだと言われたもんじゃ。もちろん、泥酔して前後不覚になるような飲み方はせんかったがな。少量のぶどう酒は体のためにはよいぞ 。
      
トランプ   聖餐の杯にはウェルチ で十分だ。しかし、何か。酒もたばこもやらんことは価値がないとでも言うのか。

ペテロス   健康に気遣うことは悪ことではないと言っておるだろうが。ただな、それが聖書的価値といわれるとなぁ、必ずしもそうだとは言えん。何を飲むか、何を食べるのかが信仰的な意味を持たんことは、コリントの連中が偶像に奉げられた肉を食べる食べないでもめたときにパウロがちゃんと言うたじゃろう。
 健康に気遣うことは確かに価値がある。しかしそれは、聖書的な価値ではない。中間的な価値 なのじゃ。健康に気遣い、健康な体になったとしても、その体を悪のために使えば、健康な体であっても善とは言えん。じゃが、それを善いことに使って初めてそれは善になるのじゃ。それは金も同じ。金儲けは悪いことではないが、設けた金をどういう目的で使うかで善いものにも悪いものにもなる。だから、金は中間的価値でしかない。だから、金儲けそれ自体が目的となってしまったら、それはもはや悪となってしまう。おまえさん、金儲けは好きじゃろう。

トランプ   このジイさん、またわけのわからんことを言い出した。確かに、俺は金もうけは好きだがな。自分で儲けた金をどう使おうと、それは俺様の自由だ。

ぺテロス   どうやら、おまえさんには、何を言っても無駄なようじゃな。では、話をおまえさんのいう聖書的価値とやらにもどそうかい。

トランプ   おお、望むところだ。俺様が聖書的価値を実践していたという話だな。そうだ、確かに俺様は聖書的価値を大事にしている。俺様はプロライフ(中絶反対)を支持している。

ペテロス   なるほど、プロライフを主張することがおまえさんのいう聖書的と言うことなんじゃな。

トランプ   その通りだ。それとも何か。ジジイ、おまえはプロチョイス(中絶容認)か。
     
ペテロス   本当に困った御仁じゃ。すぐにものごとを「あれか、これか」の二項対立のものを考えよる。ものを欲しがるときは「あれもこれも」と言うくせに、ものを考えるときはすぐに「あれかこれかに」になってしまう。だがな、物事はそう簡単に白黒はつけられんものじゃ。
 確かに中絶は善いことだとは言わん。むしろ、悪だと言えよう。だからそのようなことにならんようにとわしも願う。だからといって、それを一律に罪だと断定し、断罪するのもいかがかと思うがのう。
 中絶をしたくないと思ってもやむなくせざるを得ない状況の中に置かれておる者もいる。なぜそうしなければならなかったのか、その状況や原因を考えずに、断罪するのはむしろ暴力的な事じゃとさえ言える。

トランプ   なんということだ。これはとても聞き捨てにならん話だ。ジジイ、おまえはキリストの一番弟子の使徒ペテロといったな。それが中絶を擁護するのか。中絶は殺人だ。聖書は、人を殺してはならないと書いてある。なのに、キリストの一番弟子が殺人を容認するなんて考えられん。

ペテロス   人の話をよく聞きなされ。わしは最初に「中絶は善いことだとは言わん。むしろ、悪だと言えよう。だから、そのようなことにならんようにとわしも願う」と言っておるじゃろう。じゃが、現実には、そのような選択をする者、またしなければならない者がおることも事実じゃ。そして、そのような選択をした背景には様々な動機や状況がある。そこには、貧困の問題もあるじゃろうし、性暴力による望まない妊娠などの問題もある。他のにも様々な理由で中絶に至ることもある。そういったこともちゃんと考えなければならんと言うことをいっとるのじゃ。そもそも、お前さんは人を殺してはならんと言うが、いったい、お前さんの国の軍隊は、何人の人間を殺してきた。

トランプ   おいおい、中絶とわが軍の戦闘と同じにされては困るぞ。

ペテロス   ほほう、中絶と戦争とは違うと言うのじゃな。まるでチャップリンの言葉を聞いているようじゃ 。

トランプ   その通り。わが軍の戦いは正義のための戦いであり、悪を打つための神の戦いだからな。神の正義を全うするために敵の命を奪うことも犠牲者が出ることも時には止むを得ないことだ。

ペテロス   なるほど。時と場合によっては人の命を奪うことも正当化されるということじゃな。

トランプ   そうだ、納得したか。

ペテロス   そうよのう。時と場合によっては人の命を奪うことがあるならば、中絶においても、「時と場合によって」があるのではないかね。つまり、やむを得ない判断じゃったと言うこともあると言うことじゃ。

トランプ   それは違う。中絶には正義はない。だがアメリカの戦いには正義がある。そしてその正義は、神の正義だ。つまりアメリカの戦いは神の正義の戦いだ。

ペテロス   ほほう、いつわが神は、お前さんの国に神の正義を託したんじゃ。わしゃはそんな話はきいたことはない。戦争は、いつもどんな場合でも悪じゃ。戦争に正義などない。そもそも戦争をする輩は、自分の正義を掲げ、相手を悪と決めつける。だから、いずれの国も自分の正義を掲げて戦っておる。だから、お前さんのいう正義は、アメリカの正義であっても、神の正義ではありゃせん。神の正義は神の善のもとにあり、悪をも善に変える正義じゃ。だから、神が神の正義を行使されるとき、そこには憎しみを生み出さない。だが、アメリカの正義はアメリカの善のもとにある正義じゃ。だから、憎悪を生み出している。

トランプ   何という恐ろしいことを言うジジイだ。アメリカの正義が神の正義ではないと。だとすれば、アーリントン で眠っている戦闘で相手の命を奪ったり傷つけたりした我がアメリカ軍の兵士は、この天国の門をくぐって神の国に入った兵士はいないと言うのか。

ペテロス   なにもそんなことは言っておらんわい。だいたいお前さんにとってアーリントンに眠った戦士は負け犬ではなかったのかい。

エバンゲリス そうそう、ありゃ、大統領の大失言だった。口は災いのもとというけど、ほんと発言には気を付けて欲しい。

トランプ   ふん、俺様はそんなことはいっとらんわい。ありゃ、時代遅れのメディアがでっち上げたフェイクニュースだ。

ペテロス   おやおや、都合の悪いことは全部フェイクニュースなんじゃのう・まあ、良い。お前さんが彼らをどう評価しようと、それはおまえさんの考え方じゃからのう。それよう、心配せずとも、お前さんの国の兵士も、多くはちゃんと神の国に来ておるわい。神の国はなあ、行いの結果が問題なのではない。問題とするのは行いの動機じゃ。なぜそのような行動に至ったのかということを、わが主はちゃんと見ておられる。
 戦争であろうと、中絶であろうと、人の命を奪う考であると言うことに変わりはなく区別もない。そしてその行為自体は、決して良いことではなく確かに悪である。だがな、大切なのは、そのような本来あるべき行為に至らざるそのことを嘆き、そうせざるを得なかったことを悲しみ、起こった悲劇に胸を痛める心なのじゃ。
 中絶も戦争も、本来は悪であり、あるべきではない避けるべき行為じゃ。しかし、それでもなお、その行為に至ったのには、さまざまな要因がある。そして、その様々な要因が作用して動機を生み出す。だからこそ、そのような本来あるべき行為に至らざるえなかった時、そのことを痛み、そうせざるを得なかったことを悲しむ心が大切なのじゃ。神が見ておられるのは人の目に映る行為ではなく、人の心じゃ。神が求めておられるのは悪を裁く正しい人間ではなく、悪人をも愛する善い人間なのじゃ。

トランプ   おい、運転手、このジジイは何を言っているんだ。俺様には何を言ってるのかさっぱりわからん。

エバンゲリス 大統領、私にもよくわかりせん。でも、たぶん、正義と善とは同じではなく、神様にとって大切なことは行いが正しいか正しくないかが問題ではなく、心が善いか善くないかが問題だと言っているじゃないでやんすかね。つまり、善い心の動機からでも、その結果が悪いことになることもあるし、悪い心の思胃からであっても善い結果になることがある。大切なのは良い思いを持って行動すると言うことであって、結果の如何ではないというかと思うんですが。でも、こんな話をちゃんと理解できるのはソクラテスかプラトンと言った連中ぐらいじゃないですかね 。

ペテロス   いやいや、エバンゲリスよ。お前さんはわしのいったことの核心が理解できておる。たいしたもんじゃ。

エバンゲリス ペテロス様、とても理解できているなどと言うことはできやせん。ただ今は鏡に映ったものがおぼろげに見えているそんな感じでごぜいやす。ですので、おたずねさせくだせい。人間の心は複雑なもんで、心から神様を信じ、イエス・キリスト様を信じる気持ちはあるのですが、同時に、神様やイエス・キリスト様がお悲しみなるであろうと思うことでも、あえてそれをやりたい、やってしまえとささやきかける自分がおりやす。そしてそれも、確かに人の心なのでございます。実際、私自身の心の中を顧みても、真っ白な善い心から真っ黒い汚い心までのグラデーションがあるのです。このような人間は、半分天国で半分地獄なのでしょうか。しかし、人の体は半分に裂くことはできません。

ペテロス   エバンゲリスよ。確かにお前の言う通り人間の心は複雑じゃ。だから白黒をはっきりとはつけにくい。だから、父、御子イエス・キリスト様、そして聖霊なる神様を信じる心をもっておっても、悪いことだと知ってはいるが、それでも、あえて悪い思いや欲に従って生きる連中もおる。
 だがなエバンゲリスよ、神様は慈悲深いお方だ。そういった連中も決して見捨ててはおられない。だが、悪い思いや欲に従って生きる生き方を神の国の持ち込むわけにはいかん。だから、この天国の門を通る前に、神の言葉に従って生きることを学ぶ努力をしてもらわねばならん。

エバンゲリス 神の言葉に従って生きることを学ぶ努力ですか?しかしあっしらは、もうすでに死んじゃって、こうして天国の門に立っているわけでございますから、今さらそれを、いったいどうやって学べばよいのでしょう。

ペテロス   それはなぁ・・・・・。

トランプ   おい、おい、おい、俺様をのけ者にして何を二人でわけのわからんことをぐちゃぐちゃと話し合っている。大切なのは俺様。俺様が一番、俺様ファーストだ。そしてその俺様が聖書的価値を実践していると言う話だ。勝手に話をそらしていくな。

エバンゲリス ちぇ、本当に自己中心なお方だ。アメリカファーストじゃなかったんかい。

ペテロス   エバンゲリスよ。まあ良い。この御仁はちょっとの間もガマンすると言うことができんようじゃから、この話の続きは、この大統領とやらとの話をかたずけた後にしてやろう。それでよいな。

エバンゲリス ようござんす。私も辛抱ができない性分ですが、大統領よりも少しは我慢できます。

ペテロス   よろしい。では話を戻そう。大統領閣下、お前さんが聖書的価値を実践しているかどうかという話じゃったな。

トランプ   ほほう、大統領閣下とは、ようやく俺様の偉大さを認めたようだな。

エバンゲリス あちゃー、このお方、あれが皮肉だってことがわからずに真に受けている。

トランプ   そうだ、俺様はちゃんと聖書的価値をも待っているから、天国の門を通せと言う話だ。

ペテロス   ふむふむ。で、その聖書的価値というのがプロライフ(中絶拒否)を支持すると言うことじゃったな。

トランプ   その通り。でもそれだけじゃない。聖書的価値とは同性愛も認めないというのが私の主張だ。

ペテロス   なるほど、つまりはプロライフの支持と同性愛を否定すると言うのがお前さんのいう聖書的価値だというのじゃな。

トランプ   そう考えてもらっていいだろう。

ペテロス   なるほど、ところでお前さんは、人間の性に男と女があると言うことは認めるのじゃな。

トランプ   当り前だ。

ペテロス   なら、聞くが男と女はどうやってわかるのだ。お前さんは男なのか女なのか。どうしてお前さんは自分が男じゃと分かったのだ。

トランプ   どうやってわかっただと。ジジイそうとうモウロクしているな。そんなもんは見ればわかるだろうが。

ペテロス   見ればわかるとな。ほほう、なるほど。ということは、男か女かは身体的特徴で決まるということかな。

エバンゲリス やばい。大統領が追い詰められていく予感がする。普段は嫌な奴だが、ここはアメリカの福音派の名誉のためだから、頑張って欲しい。

トランプ   その通りだ。自明の理というもんだ。

ペテロス   自明の理と言うか。大統領、お前さんは男か女かが身体的特徴でわかると言う。ということは、お前さんは唯物論者じゃな。だとすれば、お前さんは、わが父なる神も聖霊なる神も信じておらん、いや信じることができんと言うことになる。

トランプ   俺様が唯物論者だと。わからんことを言うジジイだ。俺様が唯物論者であるがするわけが。第一、俺様は神を信じておる。
       
ペテロス   いいから、ちょっと聞きなされ。唯物論というものは、そうさのう、簡単に言うならば、まず、意識や観念より先に存在する物があってじゃの、それが、その存在が何であるかと言う概念や観念を生み出すという考え方じゃ。つまり、肉体的目に見える男、あるいは女という特徴が、それが私たちの心に男と女と言う意識を生み出していることになる。要は、お前さんたちがそこに存在するものが何であるかと言う判断、まあ認識と言って良いじゃろう、その認識は、お前さんたちが認識しようとしている対象によって既に定められていると言うことじゃ。そしてそれは、唯物論的発想じゃと言いっておるのじゃ。

エバンゲリス ペテロス様、申し訳ないのですが、仰っておられる意味が、難しくてよくわからないのですが。

ペテロス   そうじゃの、ではエバンゲリス。ちょと男と言うものを頭の中で想像してみてくれ。

エバンゲリス はい、仰せの通り想像しやした。。

ペテロス   そうか、ちゃんと男の姿が見えておるか。。

エバンゲリス はい、見えておりやす。

ペテロス   そうか、では、今度は女の姿を想像してみてくれ。

エバンエリス はい、想像しました。頭の中にしっかりと女の姿が見えておりますぜ。

ペテロス   よろしい。それでは、今度は男でもなく女でもない人間の姿を想像してくれ。

エバンゲリス 男でもない女でもない人間の姿、難しい注文ですね。やってみますがね。。えーと、ペテロス様、そりゃ無理ってもんですぜ。なにせ、男でも女でもない人間を、私は見たとはありませんからね。

ペテロス   それじゃよ。男や女を思い浮かべなさいといって、思い浮かべることができるのは、男あるいは女と言われるものを見たことがあるからだ。つまり、お前さんにとっての男や女というの特徴を備えた存在が男や女と言う概念を生み出しておる。じゃが、男でも女でもない人間を思い浮かべろといって思い浮かべることができないのは、そう言う存在が現実におらず、見たことがないからだ。だから見たことがないものは思い描けないし、想像できない。だとすれば、現実に存在しているものが、それが何であるかと言う意識を人間に与えてるとはいえないか。

エバンゲリス 少しわかるような気がしやす。目で見、手で触り、臭いをかぎ、耳で聞くこ事ができないものは、思い描くことができないと言うことでやんすね。つまり、そして思い描けないものは実際には存在しないと。
      
ペテロス   まあ、だいたいその通りじゃな。それが唯物論的思考というもんじゃ。だから、男と女を目に見える肉体的特徴で見分けるというのは、唯物論者的な発想なのじゃ。

エバンゲリス なるほど、仰っておられることが少しづつわかってまいりやした。しかしペテロス様、失礼を承知で申し上げますが、私たちは、目に見えない神と言う存在を思い巡らすことができやす。

ペテロス   その通りじゃ。確かにわしらは神と言うことについて思い起すことができる。しかし、神は思い起こすことはできてもその実体を見ることができない。そのような具体的に五感で感じられるものとして存在しなくても、その存在を思い起こすことができる存在は、目に見えなくても実際に存在すると考えるか、それとも、そういったものは、人間の想像の産物か、あるいは妄想だと考えるかのどちらかじゃな。

エバンゲルリス ペテロス様、申し訳ござませんが、そこのところをもう少し詳しくお話しいただけでんしょうか。

ペテロス   そうじゃの、おお、ちょうどここにいいものがあるが、エバンゲリスよ、これは何だ。

エバンゲリス コップに見えますが。

ペテロス   ほほう、コップだな。間違いはないか。それ以外ではないか。

エバンゲリス はい、これは間違いなくコップでさあ。

ペテロス   そうか、しかし、こうしてここに花を活けると、これは花瓶とはいえないか。

エバンエリス 確かに花瓶にはなりますが、でもそれはコップを花瓶に転用しただけでないでしょうか。

ペテロス   なるほど、では逆に花瓶をコップに転用したとは言えんかな。

エバンゲリス たしかに、言えないわけではございやせんが。

ペレロス   つまりな、この器と言う物体を花瓶と思うものには花瓶であり、コップと思う者にはコップになる。言うなれば、我々人間のどう思いかで物事は違ってくる。要は、人間の意識が、物事が何であるかを決めていくと言うことじゃな。
  だから、神がいると思う者には神がおり、神がおらんと言うものには神はおらん。もちろん、神は実在する。だが、神はいないという意識の人間には、神はおられても、彼の意識においては、何らかの感覚によって神が観察されない限り神は存在しないのじゃ。つまり、とどのつまり、神は信じるものであって、観察されるではないというわけじゃ。
 だが、コップも花瓶も人間の意識によって決まるが、それでもなお、コップと言う概念と花瓶と言う概念は歴然としてある以上、コップは実在し、花瓶も実在する。同じように神と言う概念がある以上、神は実在するのじゃ。これが、かの有名なアンセルムスはが言わんとしたことじゃ。

エバンゲリス なるほど、アンセルムスが何者かは存じ痩せんが、よくわかりやした。では、神が存在するかどうかの話はさておきやして、ペテロス様、男と女ということは、肉体の特徴によって決まるのではなく、最終的には、我々の意識によって決まるのだとおっしゃりたいのでしょうか。

ペテロス   その通りじゃ。エバンゲリスよ、なかなか察しが善いな。男と女というものも、人間の意識次第で変わるのじゃ。それは神がいるか、いないかと言うこととにも通じる。だからお前に聞くが、エバンゲリスよ、お前は神を信じておるか。

エバンゲリス あたりまえでさあ。私は生まれたときから教会学校に通い、神を信じて来た生粋のクリスチャンでさあ。当然、神を信じておりやすぜ。

ペテロス   ならば、神を見て信じたのか。

エバンゲリス いいえ、神は見ることも、触ることもありやせんでしたがね。でも信じておりますぜ。あっ、時々心の中に神の声を聴くことがありやすがね。

ペテロス   その通りじゃエバンゲリス。神と言うお方は物質的な体をもって存在する以前に、物質的な体に依存することなく存在する。同じように、確かに男と女という性別に関する概念はあるだろう。だがな、それは肉体と言う物質的要素に依存しておらんというわけだな。

トランプ   ふん、コップだの花瓶だ、物が存在する前に物に依存することなく存在するだの、分けのわからんことをお前ら二人でごちゃごちゃと言ってるが、コップはコップだ。普通は、これを見ればだれもがコップと言うだろう。それを花瓶だという奴は、よっぽどの変わり者か、物事を知らん無知な人間だ。

ペテロス   ほう、大統領よ、お前さんもたまには良いことをいうのう。だれもがこの器を見て「コップだ」と言うのは、この器をコップだと感じとらせる社会通念、常識といってもいいじゃろ。その常識がそこにあるからじゃと言える。

トランプ   まあそういうことだな。

ペテロス   ほう、大統領、お前さんにしてはめずらしく素直に納得したな。

トランプ   当り前だ。俺様だって人の言うことに耳を傾けることもある。

ペテロス   よろしい、ならばもう少し聞きなされ。よいか、社会通念や社会の常識、あるいは価値観というものは、確かに人の考え方や物の見方に影響を与える。そして、それに沿って物を考える限り、社会はそれを受け入れる。だがな、社会は時代や環境によって変化する。だとすれば、常識や社会通念や社会が持つ価値観と言ったものも、変化するものであり、絶対的ではないとはいえんか?

トランプ   しかし、それが男と女の区別することに何のかかわりがあるのだ。

ペテロス   大統領、お前さんは男と女は身体的特徴、つまり物で区別すると言ったが、男と女という思い、つまり概念じゃな、その男と女という概念は肉体的特徴依存することなく存在する。つまり、肉体的特徴によらず自分が男と思う思いがあれば、その人間は男であり、自分が女であると思えば、その人間は女ということになる。つまり、自分が男か女かということは、その人間の意識次第なのじゃ。

トランプ   ああ、ややこしい。なんだかわからんことをぐちゃぐちゃと言う面倒くさい爺だ。わけのわからんことをぐちゃぐちゃ言ってるが、そんなことは、どうでもいい。とにかく俺様は唯物論者なんかじゃない。唯物論と言えば共産主義!俺様は共産主義が大嫌いだ!だから、唯物論者であるわけがない。俺は資本主義者なんだ!
 それよりも、重要なことはわが国の福音派の連中が俺様を支持していたとうことだ。アメリカの福音派の連中らこそが俺様の擁護者であり、彼らの価値観は俺様の価値観と一致している。だから、この天国の門を通る資格がある。ごちゃごちゃ行っていないで、さあ、この天国の門を通させろ。このくそじじい。

エバンゲリス あああ、また大使徒に向かって悪態をついて。

ペテロス   本当に、我慢の出来ん御仁じゃ。人の話を黙って聞くということができん。まるで、子供じゃな。同じ子供でも幼な子の様であればいいのだが、だだっ子は困る。まあ良い。大統領とやら、天国の門を通すにはこの命の書に名前が載っていないと通すわけにはいかんじゃ。だがな、残念だが、お前さんの名前は、この書には記されておらん。だから、通すわけにはいかんし通ることはできん。

トランプ   そんなわけはない。全米の多くの福音派の連中や福音派の牧師が俺様を支持し、称賛していたじゃないか。その俺様が天国に入れないということは、あのアメリカの福音派だった連中や、また福音派の牧師は天国には誰もいないということか。

ペテロス   本当にせっかちな御仁じゃな。わしはお前さんの国の福音派の兄弟姉妹や牧師たちが誰も天国にいないとか、天国に入れないなどと言ってはおらん。ただ、お前さんの名前が命の書に名前が記されていないと言っておるのじゃ。

トランプ   ならば、その天国にいる福音派の牧師を、ここに連れてこい。そいつらに、俺が如何に天国に入るのにふさわしい人間であるかを証言させてやる。

ペテロス   いい加減にせんか。確かに、お前さんのいう福音派の兄弟姉妹や牧師たちが信仰に熱心だったのは確かにそうであろう。わが主もそのことはいたく喜んでおられた。だがな、だからといって、なんでもかんでも、彼らが正しいわけではない。信仰においても聖書の解釈や理解においても、彼らが全てにおいて正しいというわけではないのじゃ。また、問題がないわけでもない。
       
エバンゲリス ほら、言わんこっちゃない。とうとう怒られた。

トランプ   何という恐ろしいことを言う奴だ。では、お前は、福音派の牧師や福音派の連中がいっている聖書的価値が間違っているの言うのか。人を殺すな。同性愛は罪だと言うことは聖書にちゃんと書いてあることだ。お前は、社会通念や社会的常識は絶対的ではないからといって、神の言葉である聖書は絶対ではないというのか。神の言葉が変わるというのか。

 ペテロス  まあ落ち着いて聞きなさい。お前さんの言う通り、聖書は神の言葉であり、決して変わることはなく、永遠じゃ。それは間違いない。だがな、それを読み、解釈をし、読み解く人間は、置かれている時代や社会や状況が違う。その違った中で聖書を読み、神の言葉を聞くのじゃ。当然、そこに違いがある。御霊なるお方は、ひとり一人状況を知り、その一人一人の状況の中で、その状況に合わせて、神の言葉を適用させつつ、導かれるのじゃよ。

トランプ   ふん、聖書を読み解くだの解釈だのいうが、聖書ははっきりと人を殺すなと言い、同性愛は罪だと言う。これほど明白には出でてあるのだから、解釈の余地などない。その聖書に書いてある通りに行っているのになぜ悪いのだ。

ペテロス   聖書に書いてある通りと言われるか。では聞くが、お前さんのいう福音派の人々や福音派の牧師は、すべて聖書に書いてある通りにしておるのか? たとえば、聖書には離婚について何と言っている。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない 」と、聖書では言っておらんか。だが、お前さん国では、離婚は横行してはおるではないか?そのような状態を、福音派の人間や、福音派の牧師は中絶や同性愛のように断罪しておるのか?

トランプ   ふん、聖書には相手に「淫らな行い」、つまり不品行な行いがあったなら、離婚していいとも書いてあるわい 。

ペテロス   なるほど、ではお前さんは、2度ほど離婚をしておるが、その理由も相手の不品行だというのじゃな。

トランプ   まあそうは言っても、人にはそれぞれ事情がある。離婚するにも、それぞれ事情があるんだからしかたがなかろう。そこはすこし寛容になれ。

ペテロス   なるほど、確かに、人にはぞれぞれ事情や状況がある。それは中絶や同性愛についても言える事じゃ。中絶が善いかと言えば、決して良いとは言えんし、好ましとも思えん。できる限りの努力をして避けるべきことであることは間違いない。そして確かにその中には認めてはならん事例もある。じゃがな、それでもなお、その背景には様々な事情や状況があることを忘れてはならんのじゃ。それは同性愛者にしても同じことが言える。

トランプ   なんだって。中絶をする背景に様々な事情があるというのは、理解できないわけでもない。だから、まあ多少寛大になってやっても良いのかもしれない。だがな、同性愛に事情があるか。あいつらは、普通じゃないだけだ。世の中を見てみろ、男は女を、女は男を異性として意識し愛するというのが普通だろう。だから、世の中には異性愛者が多いんだ。

ペテロス   なるほど、世の中一般には異性愛者の方が多い。だから同性愛者は奇異に見えることはあるだろう。じゃがな、異性愛者は大多数の異性愛者として生まれたただそれだけのことじゃ。それ以上でもそれ以下でもない。確かに、同性愛者は少数者じゃろう。だからと言って彼らが普通ではないとか、聖書的価値に反しているというわけではない。ましてや、彼らを断罪していい理由などない。なぜなら、彼らのまた神によって善きものとして創造された人間なのだ。

トランプ   だとすれば、何が神の前で正しいことで、何が正しくないことなのだ。福音派のクリスチャンや牧師の態度を見ていると、確かに神の前に敬虔な信仰を持っている。聖書も熱心に読んでいる。ジジイ。お前はその連中が言っていることが聖書的でないというのか?

ペテロス   もちろん、福音派の人々が敬虔な信仰心を持っていることはわしも知っておる。それは見上げたものじゃ。聖書に対する真摯な姿勢も好ましい。そして、そのことはわが主も認めておられる。だがな、それゆえに、またそれだからこそ、わが主わが神は福音派の人々に心を痛めておられるのじゃ。というのも彼らは聖書の中から自分たちが善しとするところだけを選び出し、それを聖書的価値だとして絶対化して他者を裁く物差しとしておる。しかし、それは、あくまでも自分たちが読み解いた聖書の解釈に基づく聖書的価値なのじゃ。それを絶対視するのは、言うならばそれは、律法主義であり、神の家を思う熱情が神を食い尽くす ようなものじゃ。自分が正しいとして、自己を絶対視し他者を蔑み、賤しめ、断罪すること、それこそがわが主イエス・キリスト様が最も嫌っておられることじゃ。

トランプ   だとしたら、何が聖書的価値と言えるものなのだ。誰が聖書的価値を知っていると言えるのだ。

ペテロス   聖書的価値はある。

トランプ   ほう、ではお前さんのいう聖書的価値とはなんだ。聞かせてもらおうじゃあないか。

ペテロス   そうさのう。聖書的価値とは、わが主イエス・キリスト様が言われた「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ 」のこの二点に尽きる。そして、神を愛し、神をする者は「善きサマリヤ人 」のように生きようとすると言うことじゃ。

トランプ   ふん、そのようなことはちゃんとしておるわい。俺様は、アメリカを愛し、守るために、国境に塀を作ったし、貿易交渉もしてきた。パリ協定からも離脱してやったわ。これらすべてはアメリカの同胞のため。アメリカファーストのためじゃ。だから俺様はアメリカの同胞にとって、俺様は「善きサマリヤ人」に他ならん。

エバンゲリス おやおや、今度はアメリカファーストか。さっきは俺様ファーストだといったのに。

ペテロス   困ったものじゃ。お前さんは、自分は聖書をよく読んでおると自負しておったが、聖書を読んでもちゃんと理解しておらんようじゃ。わが主の「善きサマリヤ人」の譬えは、同胞を愛するという物語ではない。盗賊に襲われ、半死の状態で倒れていたユダヤ人を、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリヤ人が助けてやるという物語じゃ。つまり、「敵をも愛せ」と言われた主イエス・キリスト様の山上の説教 の実践がそこにあると言えるものなのじゃ。わしには、おまえさんが、わが主イエス・キリスト様が最も重要な戒めとして挙げた「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」を行っているとは思えないんじゃがのう。

トランプ   いいや、俺様はそれらの戒めを子供のころから行っておる。だから、神の祝福を受けて金持ちになったではないか。

ペテロス   おやおや、どこかで聞いたような話じゃわい。大統領よ、そのにたy話をお王な話を前さんに聞かせてやろう。昔、わが主イエス・キリスト様のもとに、金持ちの青年が永遠の命を得るために何をしたらよいかを聞いてきたことがあった。永遠の命を得たいというのじゃから、要は天国に行くために何をすればよいか聞いてきたわけじゃ。するとわが主は、その金持ちの青年に、十回にある戒めをお示しになった。すると、その青年は、お前さんと同じように、それらの戒めは子供のころから行っているというのじゃ。すると、わが主は、その青年に「あなたには欠けたとろろが一つある。あなたの財産のすべて売り払って、貧しい人々に施し、私に従ってきなさい」と言われたのじゃ。

トランプ   それで、その青年は全財産を売り払って貧しい人に施しをしたのか。

ペテロス   おやおや、この話は聖書にちゃんと書かれている有名な話じゃが、おまえさん、愛読書は聖書じゃなかったのかい。

トランプ   たしかに聖書はわしの愛読書じゃが、都合の悪いところは読まん。

ペテロス   おやおや、拾い読みかえ。困ったもんじゃ。自分の都合の良い所だけ拾い読みをするというのは。仕方がない。教えてやろう。その青年は、悲しい顔をして、わが主の前を去って行った。結局、神と富とに仕えることはできない と言うことじゃな。

トランプ   そりゃそうだ。誰でも「全財産を売り払って貧しい人に施しをしろ」といわれて、「へい、へい」と従う奴がそうそういるか。そんなんじゃ天国には金持ちなんか一人もおらんだろう。

ペテロス   もちろん、信仰があると言っておっても天国に入れんかった金持ちもいる。金に仕えても神に仕えることができなかった連中じゃ。しかし、ちゃんと天国に入っており金持ちも少なからずおる。あのフッガー家の者のでさえ、ちゃんと天国におるぞ。

トランプ   フッガー?誰じゃそりゃ。

ペテロス   お前さんは、フッガーの名も知らんのか。16世紀はフッガーの時代と言われるほどに、その時代において権勢をほこった神聖ローマ帝国一の金持ちじゃよ。

トランプ   そのフッガーが天国に入れて、なぜこの俺様が天国に入れん。俺様はかねもちであるだけでなく、世界一の権力を持つアメリカ合衆国の大統領でもあるんだぞ。いわば単なる金持ちだけではなく、ローマ皇帝にも匹敵する権力者だぞ。

ペテロス   そうさのう、フッガーにはおまえさんと違って、ちょっとばかしの慈悲の心があった。また、からし種ほどのものではありが、神を恐れ敬う心があったからかのう。それがフッガーライになって現れている。

トランプ   フッガーライ。なんじゃそりゃ。

ペテロス   フッカー家のヤコブ・フッガーが建てた貧者のための福祉施設じゃ。フッガーは、財団を立ち上げアウブスブルグに住む貧しいものは、ただのような家賃でそこに住むことができる。ただし、そこに住むものはフッガー家の者たちのために祈ることを求められる。どうじゃ、フッガー家のものが金もう受けに夢中だったことは感心できん。じゃがな、彼らの行動には、神を畏れ、天国を求める気持ちが少しはあるのが感じられるじゃろう。そう思わんか。

トランプ   貧しい者への慈善か。そんなもの、俺様もトランプ財団を立ち上げてやっておったわい。

ペテロス   トランプ財団というと、あの資金の不正運用で訴えられて解散したあの財団のことか。

トランプ   くだらんことはよく知っているジジイだ。あれは民主党によるフェイク・ニュースだ。それを信じた裁判所が不当な判決を下したまでのことだ。ただ話がこじれるのも嫌なので和解に応じてやり、財団も解散したのだ。

ペテロス   ほほう、じゃがの、オバマケアをつぶしたお前さんが福祉の関心があるとは、思えんのじゃがのう。お前さんが財団をこさえたのも、単なる形式的な行為に過ぎんものじゃないのかね。

トランプ   ふん、形式的な行為でも、やったことには違いないだろう。

ペテロス   たしかに形式は大切じゃ。霊があっても肉がなければ人間ではないからな。だから物事には形となるものが必要じゃ。だが、同様に肉があっても霊がなけれれば同じように人間ではない。なるほど、お前さんは財団をつくるという行為は行った。じゃがな、そこに内的な信仰がない。だとすれば、お前さんの行為は何の意味もなさん。

トランプ   なんと嫌みなジジイだ。こんな嫌みなジジイに媚び売ってまで天国に入りたくはないわい。俺様は、俺様をしたってすり寄って来て王様のように扱ってくれる連中が好きなんだ。そういった連中の中にいる方が、ずっと心地い い。そんな連中が集まっている場所があるはずだ。そんな場所こそは天国だ。そんな俺様にとっての天国を探してそっちに行く。いいか。本当に探しに行くぞ。

ペテロス   どうぞ、お好きなされ。お前さんの欲に従って勝手にするが良い。

トランプ   嗚呼、そうさせてもらう。俺様は、俺様のやりたいようにやる。俺様がやるといったら、誰も俺様を止めることなどできん。だから止めるなら今のうちだぞ。いま、この天国の門を通しと言えば、やめてやってもいいが。

ペテロス   誰も止めてなどおらんぞ。それともお前さん、止めて欲しいのか

トランプ   ええい、忌々しいジジイじゃ。もういい。おい運転士、行くぞ。もたもたするな。

エバンゲリス 大統領。あっしは、もうすこしペテロス様にお伺いしたいことがあります。それに、もうあっしはあなたにはとてもついていけません。どうぞお一人でいって下さいやす。

トランプ   なんだと。おい運転手、お前もここに残ったって、天国の門とやらはくぐれんのだぞ。だったら、慈悲深い俺様はお前にもう一回だけチャンスをやろう。さっさと運転席にもどって運転しろ。

エバンゲリス いいえ、大統領。私はここに残ります。

トランプ   もういい。運転手、お前はもうクビだ。勝手にするがいい。俺様一人でわしの言いなりになる連中が集まり心地のいい場所を探しだしてやるわい。

ペテロス   おやおや、凄い砂煙を巻き上げて去って行ったわい。なんでアメリカの福音派の多くの者たちは、あんな男を支持するのう。わが主が心を痛めるのも分かるわい。それにしてもあの手の男は、普通はこの天国の門までたどり着くことさせできんのに、あやつはどうやってここまでたどり着いたんじゃろうか?

エバンゲリス すみません。あっしがお連れしやしたもんで。

ペテロス   なるほどな。それで合点がいった。でなければ、あのような傲慢な男がひとりで天国の門までたどり着けようはずはないからな。ところで、エバンゲリスよ、お前さんはどうしてここに残ったのじゃ。

エバンゲリス はい、ペテロス様、あっしはしがない取るに足らない人間です。でも神を信じる心に間違いはありません。ペテロス様、確かに私は、イエス・キリストを信じていれば救われる。救いは行いではないと信仰だと教えられてきました。もちろん、結構、ヤバいこともしてきましたが、その都度あっしの罪を悔い改めながら生きてきました。ですから、信仰を持って罪を悔い改めているんだから、「あっしはもう大丈夫」と安心しておりやした。しかし、あなたは先ほど、大切なのは神の言葉に従って生きることを学ぶ努力であるとおっしゃられました。だとすると、確かにあっしは神の言葉に従って生きていく努力をしておりやせんでした。ですので、先ほど、もうすでに死んでしまった天国の門に立っているものが、いったいどうやって学べばよいのでしょうかとお伺いしたのです。でも、まだそのお答えをいただいておりません。

ペテロス   おう、そうじゃったな。あのわからずやの大統領との話で、お前さんの質問に答えておらんじゃったな。それは申し負けないことをした。すまんじゃった。

エバンゲリス いえ、いえ、ペテロス様に、そんなふうに丁重に謝られますと恐縮してしますます。で、お答えは?

ペテロス   エバンゲスよ、天国の門の脇にある道しるべが見えるか。

エバンゲリス 天国の門の脇ですか。なんだか木のようなものが見えますが・・・。あっ、ペテロス様、だんだんとはっきり見えてきました。ありますあります。道しるべが見えます 。

ペテロス   よろしい。ではそこに何と書いてある。

エバンゲリス 「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」と書いてあります。

ペテロス    そうじゃ、その道を歩いて行くのじゃ。あの道は荒野の中を通って天国の周りをぐるっとめぐっておる。その道を歩いて行けば、おのずと神の言葉に従うと言うことが学べる。そして、その道を歩ききったら、お前さんも天国に入ることが許されるじゃろう。

エバンゲリス ほんとうですか、ペテロス様。あっしもあの「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩ききったら、天国に入れるんですか。

ペテロス   その通りじゃ。今、天国にいる住民のほとんどが、ここから、あの「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」に歩み出して、そして天国の住民となったのじゃ。どうだ、エバンゲリス、お前さんもあの道を歩くか。

エバンゲリス もちろんです。、歩きやす、歩きやすとも。で、あの道をどれくらい歩けば天国の門を通していただけるのですか。

ペテロス   人によって違うが、お前さんならば40年も歩けば、間違いなく歩ききれるじゃろう。

エバンゲリス  ええ、40年ですか。40年間もあの細い小道を歩くんですか。

ペテロス    おやめになるかい?

エバンゲリス  いいえ、やめるもんですか。40年と聞いて、ちゃんと歩ききれるか、ちょっと心配になっただけです

ペレロス    心配ないよ。ほらあの道のずっと先に人影のようなものが見えるじゃろう。あの

エバンゲリス  人影ですか、あっしには何も見えませんが。いや、ちょっとまてよ。人影ではありませんが、なにやら小さな点のようなものが見えますが

ペテロス    それじゃ、それ。あの男は、去年、この門の前にきて、先の大統領と同じようにわめきたてておったが、それでも、天国の門を通りたいと言って、あの小道を歩き出した。あの道にはお前さんの仲間はたくさんおるから安心しておゆきなさい。

エバンゲリス へい、そうなんですか。それにしても、一年たってもまだあれだけしか進んでいないんですか。

ペテロス   人それぞれじゃというたじゃろう。あの男は、福音派の牧師じゃが、たしかに信仰に熱心で、伝道熱心な男でな、その点は見上げた男なのだが、それだけに、少々頑固でな。それでどうしても自分の名前が命の書にないことが納得できんのじゃ。確かに、あの牧師は信仰に熱心だった。それだけに今一つ神の言葉に従っていると言いつつ、自分の思いで生きていた面がある。じゃが自分は正しいと思っておる分、自分自身を振り返ってみることがなかなかできんのじゃ。それでちょっとばかし足取りが重くなっておる。だがな、おまえさんはおまえさんの歩き方で歩いて行けばそれでよいのじゃ。

エバンゲリス そんなもんですかねー。

ペテロス   そんなもんじゃ

エバンゲリス ところでペテロス様、「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩き出す前に、もう一つだけおききしたいことがありやす。

ペテロス   なんじゃな。

エバンゲリス へい、確かに「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」ということが大切なことはよくわかりやした。しかし、それでもやはり、聖書は、中絶も同性愛も禁じていると、あっしには思えて仕方がないのです。

ペテロス   エバンゲリスよ。お前さんが聖書は、中絶も同性愛も禁じていると思うのならば、お前さんはおまえさんの思うように生きるがよい。だが、その思いをお前さん以外の人々に向けてはならん。お前さんの思い描く正しさや正義は、お前さん自身に向けられておるもので、人に向けるものではない。

エバンゲリス ペテロス様、それはどういうことでしょう。

ペテロス   エバンゲリスよ、人間は自分の正しさや正義をもって人を裁く。だがな、正義や正しさと言うものは人を裁くためにあるのではない。自分がどう生きるかを判断するためにあるのじゃ。人にはひとり一人の思いや考えがある。また、それぞれが置かれている環境や状況があるじゃろう。

エバンゲリス  はい、ございます。確かに、人は誰一人として同じ人はおりません。

ペテロス    その通りじゃ。だから、正義とか正しさと言うものは自分自身にだけ向けなければならん。人に向けてはならん。お前さんが思い描く神様の義、わが主の義というものは、神の考える公正な正義であり、思いやりと慈しみの正義じゃ。お前さんはわが主が語られたぶどうの収穫のために労働者を雇ったぶどう園の主人の話 を知っておるかな。

エバンゲリス  ヘイヘイ知っておりやす。ぶどう園の主人が、ブドウの収穫のために朝早く、町に仕事を求めていたものを一日一デナリ雇ってブドウの収穫をさせたが、手が足らなくて昼頃にも人を雇い、さらには三時ごろや、夕方近くにも、人を雇ったという話ですね。たしかその主人は日が暮れて一日の給金を払う時、あとから来たものから先に、一日分の給与の一デナリずつ払ってやったんですよね。実は、あっしはずっと何て不公平な話なんだと思ってたんでやんす。朝早くから働いた人間も、夕方、仕事が終わるころにやとわれてちょっとしか働いてない人間も同じなんて、聖書の話にしては不公平すぎやす。

ペテロス    確かに、そう思われても仕方がないのう。だがなエバンゲリスよ、それが神の義なのじゃ、神というお方は朝から働いたとか、夕方から働いたとかいう人間の労働の量が問題なのではないんじゃ。すべての人間に同じように恵みと憐みを注ぎたいお方なのじゃ。人間は、人を比較して人間の価値に点数をつけて差をつけたがる。神というお方は、そうではない。誰もに等しく慈しみを注ぎたいお方なのじゃ。たしかに、お前さんの目から見たら、朝から働いた者と夕方から働いたものが同じ給金というのは不公平に見えるじゃろう。しかし、それは、お前さんが考える義や正義はあくまでもお前さんが理解する義であり正義じゃ。たとえ、おまえさんが、それが聖書の言う正しさや義であると思ったとしても、それは、お前さんが理解する聖書の言う正しさや正義であって、必ずしそれが絶対ということではないのじゃ

エバンエリス  なるほど、確かにその通りでございます。けれども、そうすれば、自分は人を傷つけたり迷惑をかけても、それを誤りではない、それは自分にとっては正しい事だと思うものも出てくるんじゃねえでしょうか。そうしたら、倫理とか道徳と言うのは成り立たなくなります。

ペテロス    エバンゲリスよ。いいところに気付いた。お前さんのいうように、誰もが自分の正しさや正義を振りかざしていては、倫理とか道徳と言ったものは成り立たん。だからこそイエス・キリスト様が語る神様の義とか正義が必要になるのじゃ。

エバンゲリス  イエス・キリスト様の語る神様の義や正義ですか。では、その神様の義や主イエス・キリスト様の義と言うのをお教えください。

ペテロス    いいじゃろう。エバンゲリスよ、よく聞きなさい。それが、「隣人を愛する」と言うことじゃよ。主イエス・キリスト様も言っておられたじゃろう。神を信じ、イエス・キリスト様を愛する者が、自分以外の者に注ぐ眼差しは愛と慈しみ以外はないのじゃ。父なる神様もわが主イエス・キリスト様の、わしら人間を見られるとき愛の眼差しでしか見ておられん。その神の愛の眼差し、主イエス・キリスト様の愛の眼差しに倣って生きることこそが、キリスト者の倫理や道徳と言うものじゃ。わかるかな。

エバンゲリス  わかります。わかります。自分の正しさや正義は自分自身に向ける者であって、人に向けるものではなく、人に向けるまなざしは愛と慈しみだと言うことが、今ようやくわかりやした。だからこそ、あの荒野に通じる道は「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」なのですね。ペテロス様、ありがとうごぜいやす。

エバンゲリス  わかります。わかります。自分の正しさや正義は自分自身に向ける者であって、人に向けるものではなく、人に向けるまなざしは愛と慈しみだと言うことが、今ようやくわかりやした。だからこそ、あの荒野に通じる道は「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」なのですね。ペテロス様、ありがとうごぜいやす。でもペテロス様、最後にもう一つだけちょっとお伺いしたいことがあるんですが、よろしいでしょうかね。

ペテロス    ほう、なにかね。

エバンエリス  いえ、何を隠そう、あのトランプ大統領の事です。あの男は、傲慢で、自分勝手で、権力をふるまわずどうしようもない男です。雇い主としては本当に面倒くさい男でした。けれども雇い主と雇われ者の関係ではございやしたがね、それでも袖振り合うも他生の縁でござやす。あの男がそうなるのか。そのーちょっとばかし気になりましてね。

ペテロス    エバンゲリスよ。お前は優しい男じゃの。そうか、心配か。だか心配せんでもよい。何年かかる関わらんが、その内また、ここに戻ってくるじゃろう。いや戻ってこずにはおられんのじゃから。

エバンゲリス  戻ってこられずにはいられないのでございますか。

ペテロス    そうじゃ。

エバンゲリス  それはいったいなぜでございますか。

ペテロス    それは、あの男も人間じゃからじゃ。いいかエバンゲリスよ、人間には神の像と言ったものが刻まれている。神の像は、必ず神を求める。いいか、人間には神を慕い求める心があるのじゃ。ところが、人間は愚かにも、その神を慕い求める心の向け先を間違えてな、金や権力や名声をひたすら追い求めてしまう。それが、生きて行くうえで満足や快さ、つまり快楽となるからじゃ。だがな、この死の世界では、金も権力も名声も何の役にも立たん。ただ空しさだけしかない。そこで初めて、真の快楽とは、キリストと共にあることだということがわかる。だから、必ずここに帰ってくる。

エバンゲリス  本当ですか。本当じゃ。

ペテロス    実はな、この門の前まで来て、立ち去って行った人間はあの男だけではない。それこそ多くの人間が、この門の前で「ここを通せ」とごねよった。それらの多くは、この世で権力を得、名声を得、金持ちじゃったが、わしが「通せん」と拒むと、理屈をこねて通ろうとした。だが、結局諦めて、たちさっていったのだが、そのすべてが、結局もどってきて、あの「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩きさしていったわい。だからあの男もいずれ戻ってくる。もっともあの男の場合、相当時間がかかるじゃろうがな。

エバンゲリス それを聞いて安心しました。これで心置きなくあの道をあるけるってもんでさあ。それじゃ、あっしはこれで、失礼させていただいて、あの「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を喜んで精一杯歩いてまいりやす。

ペテロス    そうか、それじゃあ気を付けてお行きなされ。

これで、心おきなくあの道をあるけるってもんでさあ。それじゃ、あっしはこれで、失礼させていただいて、あの「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を精一杯あるいてまいりやす。

ペテロス    そうか、気を付けてお行きなされ。

エバンゲリス  あああ、ペテロス様

ペテロス    おやおや、今しがた「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩き始めたばかりのエバンゲリスが驚いたような顔をしてもどってきたわい。どうしたエバンゲリス。

エバンゲリス  ペテロス様、大変です。あっしが「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩き始めて、ほんの2,30歩ばかりを歩きました時、ふと見ますと、あんなに高かった天国の壁がなんだか低くなったような気がしやした。それから、10歩も歩くと、天国の壁は確かに低くなって初めの半分の高さになっておりじゃないですか。そして、100歩もあるくと天国の壁は全くなくなってしまい、地面に白い線が引かれているだけになってしまいました。これはいったいどういうことなんでしょう。

ペテロス    そうか、天国の壁がすべてなくなってしまったか。エバンゲリスよ、あの天国の壁は、お前の心の中にある隔ての壁が映し出されていたのじゃ。お前さんの中にある神様と主イエス・キリスト様との間にあった隔ての壁、お前さんと人々との間にあった隔ての壁、それがあの天国の壁じゃったのじゃ。天国と人とを隔てる壁は、人間の心の中にある隔ての壁が事態となって現れたものなのだと言える。だが、お前さんが「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を一歩、また一歩と歩いて行く中で、お前さんの心が砕かれ、本当に心から心が砕かれ、主イエス・キリスト様の謙遜に倣い、イエス・キリスト様のように生きていく生き方をしようと心から思うようになった。「神を愛し、隣人を愛する生き方を真剣に求めるよう生き方にお前さんの心が向いたのじゃ。つまり、お前さんの心の中にある神との間の壁、人との間の壁が無くなったのじゃ。だから天国の壁もなくなったというわけじゃな。

エバンゲリス  では、私の名前も、あなた様の手にあるその「命の書」に記されたのでしょうか。

ペテロス    確かに記されている。

エバンゲリス  ペテロス様。よろしければ、私の名が記されているのを自分の目で確かめ等ございます。ぜひ、その「いのちの書」の私の名前が記されているのを見てたしかめとうごせいやす。ぜひそれをお見せください。

ペレロス    よかろう。さあ、ご覧なさい。

エバンゲリス  ええ!・・・。ペテロス様。これはいったいどういうわけですございやすか。この書には、私の名前はおろか、誰一人の名前も書かれておりません。ただ、大きくナザレのイエスとだけ書かれているだけではございませんか。

ペテロス    なにかご不満か?

エバンゲリス  いいえ、不満と言うわけではございやせん。ただ、先ほどあなた様は、この「いのちの書」にあっしの名前があるとおっしゃられたもんですから。

ペテロス    エバンゲリスよ。この書にはわが主イエス・キリスト様のお名前だけがあれば十分なのじゃ。わが主は神の独り子の神であられるのに人となり、ナザレのイエスとして生きられた。「いのちの書」にふさわしい名前は、この名の外にはない。だから、この「いのちの書」には、ナザレのイエスとだけ記されている。じゃがな、このお方を主として受け入れて、「イエスは主なり」と告白し、教会と言うキリストの体に繋がるものはすべてこのお方の弟子じゃ。弟子はその師に倣って生きる。師を乗り越えることはできんが、少しでもその師に近づこうと努力する。そしてイエス・キリスト様ととして生き方に倣って、このお方のように生きようと努力する者は、イエス・キリスト様と結び付けられ、イエス・キリスト様の内にいるのじゃ。だから、この「いのちの書」にあるナザレのイエスと言う名は、エバンゲリス、お前さんの名でもあるのじゃ。だから安心して身をかがめてこの門を通って行きなされ。

エバンゲリス  ありがとうございやす。でもペテロス様、あの牧師様はどうしてあっしよりも先に「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩きだしたのに、天にしか見えないような、あんな先にいらっしゃるんですか。

ペテロス    エバンゲリスよ。お前さんはなんで、あの牧師のことが気にかかるのじゃ。お前さんは、あの牧師とは何の面識もないじゃろう。それに、あんな豆粒のような姿でしか見えんのじゃから、顔も分からんじゃろうに。

エバンゲリス  へえ、そうでございやす。あっしはあの方とは縁もゆかりもないでしょう。ですから何でと聞かれても、理由なぞ分かりません。ただ、あの方のことがきがかりで・・・。なにかこう、自分自身の姿をみているようで、何か心配で、気になってしまうのです。

ペテロス    それは、お前さんの心の中にある、主イエス・キリスト様の心が目覚め始めているからじゃ。それが隣人愛なのじゃよ。相手の中に自分の姿を見、自分の姿の中に相手の姿を見て愛する。それが「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」ということなのじゃ。
 あの男は、お前さんと同じアメリカの福音派の牧師じゃ。信仰に熱心で、伝道も熱心に行っていた。そういった意味では、まじめで敬虔なクリスチャンじゃ。もちろん、イエス・キリスト様に倣って生きることの大切さはよくわかっている。だが、むしろ熱心でまじめだったからこそ、どうしても自分が正しいという思いがなかなか心の片隅から消えんのじゃ。だから、キリストに倣って生きようと思いつつも、目指すべき目標がが自分自身になってしまっておる。つまり自己実現じゃな。そのため結局のところ真の目標を見失っておる 。そため、まだ心の底からわが主の謙遜(ケノーシス)に倣うことができておらんのじゃ。
  だが心配はいらん。キリストに倣う道は、その目標が何であるかを教え、イエス・キリスト様の謙遜を学ぶ道なのじゃ。あの男にとっても神の国は、遠くない 。すぐ近くにある。もうじき、十字架の死に至るまでの謙遜になることを学んで帰ってくるじゃろう。

エバンゲリス  そうでございやしたか。それを聞いてなんだか安心しやした。うまく言えませんが、全く見も知らぬ方なのですが、しかし、そのお方がああして「神の言葉に従うためのキリストに倣う道」を歩いているのだと思うと、何か自分のことのように思えて、それで気にかかり、心配しておったんでさぁ。それでは、心おきなくこの門をくぐらせていただきます。

ペテロス    そうするがよい。天国でもお前さんがこの門を通って神の王国の住人になったことを心から喜ぶ歓声が上がっておる。ほら、聞こえるじゃろう。歓喜の声が。

エバンゲリス   聞こえます。聞こえます。ああ、神様!

                                                  END



                解 説
                               濱和弘

この『Erasmismo 天国から閉め出された大統領』(以下『天国から閉め出された大統領』)とある、Erasmismo (エラスミスモ)が誰なのかについは定かではない。ただ、少なからずエラスムスの影響を受けている人物であることは間違いがない。そもそもエラスミスモという名前自体、著者の具体的な個人名とは考えにくい。野村竜仁氏によれば、エラスミスモというのは、エラスムスの影響を受けたスペインの思想を指す言葉だからである 。だとすれば、本書のタイトル『天国から閉め出された大統領』は『エラスムス主義者による天国から閉め出された大統領の話』と読み替えてもいいのかもしれない。
 エラスミスモはスペインの思想である。しかしだからといって、このエラスミスモもなる人物がスペイン人であるかというと、必ずしもそうとは言えない。そもそも、この『天国から閉め出された大統領』は、今現在、日本語のものしか存在しておらず、スペイン人であるよりもむしろ日本人である可能性が極めて高い。
 また『天国から閉め出された大統領』というタイトルも、エラスムスが著者であると言われる Dialogus Julius exclusus e coelis (天国からユリウスを排除する対話)のオマージュであることは容易に察することができる。また、このDialogus Julius exclusus e coelisの邦訳(木ノ脇悦郎訳)が『エラスムス 天国から閉め出された法王の話 』(以下『天国から閉め出された法王の話』)であることを考えると、『天国から閉め出された大統領の話』というタイトルもまた、木ノ脇訳の邦語訳のタイトルを意識しているのは明らかであり、それをもってしても、エラスミスモは日本人であると考えられる。
 そこで本書の内容であるが、本書は、大きく分けて前後半の2部構成になっている。前半はDialogus Julius exclusus e coelis に倣い、アメリカ大統領であるトランプ氏が天国から閉め出されるという内容であり、後半はそのトランプ氏の運転手を務めていたエバンゲリスとの会話である。もちろん、この物語は、エラスミスモ自身が言っているようにフィクションである。確かにアメリカ大統領であるドナルド・トランプ氏は実在の人物だが、この物語自体はフィクションであって、トランプ氏流にいうならばフェイクニュースといったところであろう。また、このエバンゲリスなる人物が実在したわけでもない。
 ただ、エバンゲリスと言う名前から察する所、この男はトランプ氏を支持するアメリカの福音派(evangelism)の人々を象徴する存在として登場していると思われる。もちろん、アメリカの福音派の人々であってもトランプ氏を支持していない人々もいるので、アメリカの福音派=トランプ氏支持と限定することは、決して好ましい事ではなく、概してその傾向がみられる程度に留め置かなければならない。いずれにせよ、このエバンゲリスは、この物語において、Dialogus Julius exclusus e coelisに登場する教皇ユリウスの従者ゲニウスよりもはるかに重要な役割を負っている。
 さて、この『天国から閉め出された大統領の話』がオマージュするDialogus Julius exclusus e coelisであるが、このDialogus Julius exclusus e coelisは、風刺文学であり、教皇でありながら政治力と軍事力そして謀略を用いて教会の勢力を拡大させた教皇ユリウス2世が天国から排除されたという話である。Dialogus Julius exclusus e coelisを邦訳した木ノ脇悦郎氏は、その解説の中で、この物語において語られているユリウスの風刺的言辞が「力による支配、独りよがりな正義、富を誇る宗教、自己保存のための策略、欺瞞、自己正当化、相対的な歴史的事象の絶対化等 」であることを示し、それが現代にも通じるメッセージを持っているものであり、「現代もユリウス(しかも、スケールの小さい疑似ユリウス)が跋扈していると言うことだろう 」と述べているが、エラスミスモの目には、アメリカファーストと叫び、アメリカの権威と勢力と利権を回復させようするトランプ大統領の姿が、教皇ユリウス2世と重なって見えているのかもしれない。木ノ脇の言葉を借りるならば現代版ユリウスというところか。
木ノ脇氏は、エラスムスのDialogus Julius exclusus e coelisについて、「エラスムスはこの作品を通して、教会とは何か、教会の本来の役割とは何かを問うているのである 」と述べている。同じように、この『天国から閉め出された大統領の話』も、登場人物自身に対する批判と言うよりも、むしとその会話を通して現れ出る現代のキリスト教会自身の問題とる上げていると考えられる。
では、エラスミスモが本書を通して取り上げている現代のキリスト教会自身の問題とは、いったい何であろうか。一つは、経済至上主義であろう。経済至上主義のなれの果に金権主義や拝金主義といったものが生まれてくる。言うまでもないことではあるが、キリスト教の本質が経済至上主義だとか金権主義や拝金主義につながるとエラスミスモと言っているわけではない。むしろ、そう言ったところから縁遠い存在が、本来の教会の姿でありキリスト教である。
たとえば、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、カナンの地に入植させる際に、イスラエルの12部族の中で、祭司の民であるレビ族だけには土地を分け与えず、他の11の部族が得た収穫物の内の十分の一を神に奉げたその奉納物の中をもって生活するようにさせたのは、まさに、聖書の神を信じる信仰が、「この世」の経済とは縁遠いものであることを象徴的に示している。
しかしながら、本書においてエラスミスモは、今日の教会は、気が付かないうちに経済至上主義に取り込まれていないかと批判する。それは、かつてマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 』(以下『プロ倫』)で捉えたキリスト教の姿である。もちろん、教会もまたキリスト者も現実社会の中で生きている以上、経済と無関係にいられるわけではない。人間が存在し、生きて活動する以上、経済活動は必然的にそこに発生する。問題は、その経済活動は等価交換的な経済活動ではなく、そこに必ず利益が付加され、その付加された富を生み出し、富の蓄積が起こる点にある。そしてそれは、その蓄積された富をどのように捉え、どのように用いるかという問題につながっていく。
ウェーバーの『プロ倫』は、プロテスタンティズムの勤勉と節約の精神が富を生み出し、その富が投資されることでさらなる富を生み出すという循環が資本主義の根幹にある精神に繋がっていることを指摘した古典的名著である。しかしながら、その根底には、富を神の祝福とし、その富がさらなる富を形成する目的のために用いられるならば、それは正しいキリスト教の在り方と言えるかどうかについては、深慮が必要である。
この『天国から閉め出された大統領の話』の著者エラスミスモがオマージュするDialogus Julius exclusus e coelisを著したエラスムス 自身は、富みについて、彼の主著であるEnchilidion Militis Chiristi において、富は「中間的なもの(medium) 」であると述べている。「中間的なもの」とは、ある目的のために用いられるための過程に存在のものであり、それ自体は中立無記な価値のものである。そして善き目的に用いられるならばそれは善きものになり、悪しき目的に使われるとするならば悪しきものとなるのである。つまり、いかに稼ぐかが問題ではなく、いかに使うかが問題なのである。
エラスミスモが、その名の通りエラスムス主義者であるならば、彼の富に対する見方は、ほぼエラスムスに準ずると思われる。つまり、富そのものが是であるか非であるかが問題ではなく、富が何の止めに用いられるかが問題であると考えているであろう。だとすれば、本書で描かれる天国の門でさえ金の力を借りて通ろうとする人間の姿の中に、エラスミモスはキリスト者の一人ひとりが、そして教会が、金を儲けることに関心を注ぐ経済至上主義の価値観の中に巻き込まれ、金権主義、拝金主義的に陥っていないかという強烈な問いかけをしているかもしれない。それは、本文中のトランプ氏の「金があれば自由だって買える。教会だって、大金を積んで献金をする人間を大切にする。違うか」という言葉や「確かに、もはや「この世」は拝金主義にまみれており、本来キリストの体であるべき教会も、その影響を強く受けておる。教会を運営するにも、宣教をするにも金がかかるからな」と嘆くペテロスの嘆きにも見て取ることができる。
またエラスミスモが取り上げているもう一つの問題点は、聖書的価値ということについてである。聖書的価値という言葉それ自体が何を示しているのか、またその範囲はどこまで及ぶのかは定かではない。ただ、物事の見るときに置く価値観の根底を聖書に置くと言うことであろう。だとすれば、エラスミモスも聖書的価値というものを否定はしないであろう。しかしエラスミモスは、本書ではトランプ氏のいう聖書的価値に徹底的に批判を加える。というのも、本書においては、そのトランプか語る聖書的価値という問題がとりわけアメリカ社会という文脈における中絶問題とLGBTQを巡る論争に収斂し、そここそが聖書的価値であるとして主題化されて取り上げられているからである。
エラスミスモ自身は、中絶を巡る議論に対しては、ペテロの口を通して「中絶は善いことだとは言わん。そのようなことにならんようにとわしも願う」と、その自らの立場を示しつつも、決して中絶をした人間を裁こうとはしていない。またLGBTQの議論については、「異性愛者は大多数の異性愛者として生まれたただそれだけのことじゃ。…中略…ましてや、彼らを断罪していい理由などない。なぜなら、彼らのまた神によって善きものとして創造された人間なのだ」と擁護する。
 このように、エラスミモスは、中絶に関する議論においては、基本的にはトランプ氏の立場を認める発言をしつつ、状況によってはそれを容認するような発言もする。また、LGBTに関する議論においてはトランプ氏と逆の立場から発言しつつも、反対の立場の者を完全には拒絶していない。要は、そのような価値観は自分に向けるものであって、それを持って人を裁くものではないというのである。このような態度は、一種の矛盾を含んでいる。しかし、その矛盾を孕みつつトランプ氏のいう聖書的価値と言うものを批判する。それは、トランプ氏に代表されるアメリカの福音派が聖書的価値を主張する際に、聖書の言葉を恣意的に選択し、解釈し適用したものを聖書的価値と言って絶対化していると見ているからである。
聖書に教理や倫理の根源的な権威があるとするのは聖書主義であり、信仰義認論、万人祭司性と並んでプロテスタンティズムを支える教理的な三本柱の一つである。それゆえに聖書のみ(sora scriputura:ソラ スクリプテュラ)と言われる。もっとも、聖書のみに権威を認めると言っても、聖書は解釈を読者に解釈を求める。それは、字義的歴史的解釈であったり、霊的解釈であったり、比喩的解釈であったり、歴史的費用的解釈であったりと、様々な解釈の方法をもたらす。つまり、聖書主義という原則に立ちつつも、実際は聖書解釈主義にならざるを得ないのである。そうなると、そこでなされた聖書解釈が持つ権威は何によって担保されるのか。
このあたりのことは、エラスムスとルターの間に繰り広げられた自由意志論争において、エラスムスが『評論自由意志』の前半部分で聖書主義を掲げるルターに対する批判として議論されている内容に似ている。それはエラスミスモも十分に理解しているであろうと思われる。
もちろん、聖書学の成果により、聖書に書かれた文脈や言葉の意味を捉えながら、聖書の語るところが何であるかについては、ある程度の共通性を持って解釈することができるようになったと言えよう。しかし、聖書学が明らかにするのは、まさに聖書の文言が記された時代の歴史の中での歴史的解釈である。それを現代の文脈の中でどう汲み取り、いかに捉えなおして適用するかという問題は残る。そして、当然のことではあるが、そこに違いが生じてくるのである。
 エラスミスモの批判は、そのような違いが生まれてくる中で、自分の解釈、あるいは自分の教派的解釈を背景にして自己を絶対化し、その絶対化された基準をもとに他者に対して排他的に審判を下す姿勢に対しての批判である。そしてそれのような姿勢や態度こそが、自己義認であると言えよう。そういった意味で、本書『天国から閉め出された大統領の話』におけるトランプに向けられたエラスミスモの批判は、単にトランプという個人に向けられたものである以上に、その背後にいる自らの信仰と聖書の読みを自己絶対視している信仰者に向けられているといってよいであろう。
もちろん、だからといってエラスミスモは聖書が何の権威もなく、信仰者の生き方を導くものではないなどといっているのではない。また、私たちは聖書になんの価値と言うもの見いだせないと言っているのでもない。エラスミスモは本文中のペテロスの言葉を借りて、聖書的価値と言うものについて次のように語る。すなわちペトロスはイエス・キリストの挙げた「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」をもって、これこそが聖書的価値であると言うのである。
このエラスミスモにとっての聖書的価値が、最終的にこの風刺的対話文の後半のペテロスとエバンゲリスの会話に繋がっている。トランプ大統領が去ったあとのペテロスとエバンゲリスとの会話は、キリスト教倫理における倫理基準の基本的な視座の置き方について、私たちに示唆を与えるものとなっている。
一般的に、人間の行動の善し悪しを判断する判断基準は、その行動が正しい行動であるか否かに置かれる。確かに、それは一つの判断基準であり、倫理の基準となる。しかし、エラスミスモは、そのような正しいか間違っているかという判断基準は自分自身に対して向ける判断基準であって、人に向け、人を裁くものではないという。つまり、神の正義を倫理基準として事の善し悪しを判断するのは、自分自身の行動や生き方に対してであって、その正義をもって人を図るものではないと言うことであろう。
なぜならば、個々、あるいは仮に教会や教団であったとしても、人が聖書から引き出してきたとしても、その引き出されてきたものは、個々、あるいは教会や教団という共同体の中で受容された、人間の聖書解釈に基づくものだからである。だから学術的な議論の対象にはなっても普遍的な神の正義であるとして、他者たる個々人を裁く言葉とはならないのである。そのことを指エラスミスモは中絶に関する議論とLGBTに関する議論を引き合いに出して、摘するのである。
では、エラスミスモは、キリスト教には普遍性を持った倫理基準がないのといっているのであろうか。エラスミスモによれば、普遍性を持った倫理基準とは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であり、また「隣人を自分のように愛しなさい」がそれにあたる。
ここには、倫理と道徳との間にある微妙な違いがある。一般的には倫理と道徳は、ほぼ同義語であるとみられている。しかし、倫理と道徳の間には厳密には多少の違いがある 。例えば、道徳とは人間の行動が善か悪かを判断基準にして構築さえる価値体系であり、倫理は人間が生きて行く上での倫理とは人と人との間、すなわち人間にあって、その間にある関係を維持し、潤滑させる規範として存在するからである。そこで問われるのは、一定の共同体内でその行動が正しい行動であるか、それとも間違った行動であるかである。もちろん、その共同体は最終的に人間全体を覆う共同体として人倫となる。
その様な中で「隣人を自分のように愛しなさい」というイエス・キリストの言葉は、一見すると倫理的な言葉のように見える。他者と自己との間に立ち、その関係に秩序をもたらす言葉だからである。しかしこの言葉は、単に共同体の中でその共同体の秩序を維持する規範を見ているのではない。それは、共同体の中で、その行為が正しいか正しくないかという基準で見ているのではなく、むしろそれを超えて共同体の中で生きるひとり一人の人を突き動かし活かす原理として捉えているのである。そこには、倫理と道徳を統合があり、そしておそらくエラスミスモは、、その共同体に生きるひとり一人を活かす原理としてイエス・キリストを見ているのであろう。
 そのようなエラスミスモの眼差しの中で、聖書はそのイエス・キリストを指し示すものであり 、聖書が神の言葉であるならば、聖書はまさにイエス・キリストそのものであると言えよう。なぜならば、イエス・キリストこそが神の言葉そのものだからである 。それゆえに聖書を通してイエス・キリストに倣う生きた方が成立する。だからこそ、聖書は教会に対する絶対的な権威として存在する。その意味においてエラスミスモは聖書主義であるが、しかし、既に示したように聖書解釈主義ではない。
本対話文(『天国から閉め出された大統領の話』)は、対話文の形式をとりながら、そのようなエラスミスモの思想が余すことなく現れており、エラスミスモは、そのような思想を、その名が示すようにエラスムスから学び取っているのである。

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