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鏡はすごい

 鏡の起源は、人類の誕生とほぼ同じころまでさかのぼる。古の時代は、水たまりや、水辺の反射を利用して、自らの顔面の輪郭を判断していた。紀元前の弥生時代ころには、日本列島に鏡が渡ってきたが、その用途は宝物としての所有や、祭事・副葬品として使われ、もっぱら富裕者のみに用いられたようだ。きっと卑弥呼を明るく照らし出すために、何人もの人が鏡の角度を調整して、洞窟の中に太陽光を送り込んだに違いない。下々の者は鏡を持たなかった。


 その後も鏡は富裕層の持ち物として、平安貴族や戦国大名にもたらされてきた。昭和になりようやく、国産の鏡が生産され、現在のような鏡が普及することとなった。材質も銅だったものがガラス製に代わり、庶民にも使われだしたのである。


 かつては神秘的かつ貴重であり、選ばれし者にしか得られなかった鏡も、いまや誰もが所有する、俗で廉価なものになり下がった。現代では、家の水回りはもちろん、更衣室、エレベーター、駅のホームなど、随所で鏡を目にすることができる。時間が鏡の地位をここまで引きずり降ろしたのだ。


 水鏡では鮮明に見ることができず、長らく鏡を所有するのは一部の限られた人だけであった。しかし、現代の鏡は残酷である。映り方がより鮮明になることで、顔面の美醜がはっきりと分かるようになったからだ。美人はうぬぼれ、不細工は落胆するという二極化を生み出している。水鏡やはっきり映らない鏡なら気づかなくてよいことも、現代の鏡は映しだす。はっきり見えなければ、「ひげをそれ」とか「寝癖をなおせ」と言われなくて済む。姿鏡など、全身のプロポーションが明らかになってしまうのでもってのほかだ。鏡に映る自分の姿に見とれてエレベーターを乗り過ごす者も後を絶たない。


 鏡はすごい。

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