殺っちゃえ!

 「不道徳教育講座」三島由紀夫著,角川出版,書評はこちら

 殺意とは「殺っちゃえ!」と思う気持ちのことである。まったく、不道徳の極みのような感情である。
  人間の殺意というものは生得的なものである。それは、子供を見ればわかる。彼らは嬉々としてアリの巣に水を流し込み、踏みつける。私の高校時代の老教師は少年時代に、カエルに爆竹を詰め込んで爆発させたとか、カエルの肛門にストローを突っ込み爆発させたなど、残虐極まりない行為をしていたそうだ。私も少年時代は、数多くの昆虫や生き物を殺した。今思い返せば悪いことをしたなあと思うが、非常に面白いものであった。
 何かに殺意を向けると人はハイになる。ドラクエは魔王を殺すために、マリオはクッパを殺すために、スプラトゥーンは相手のイカを殺すために、可愛いポケモンだって相手のポケモンに殺意を向け、殺し合いをする。売れるゲームのほとんどがプレイヤーの殺意を駆り立てる。殺意を向けることはとにかく楽しいのだ。
 子供たちであれ、ゲームをしている私たちであれ、そのときの殺意には悪意がない。殺人事件は、悪意のこもった殺意に駆り立てられることが多いため、殺意そのものを嫌厭すべきものとして誤解されることが多い。しかし、殺意を持っていることは当たり前のことで、人間すべからく持っているものであるから、むしろ尊重すべきものである。人間は生まれながらにして不道徳なのである。
 こう言うと荀子の性悪説が想起される。荀子の礼治主義とは、礼を学び、教育の力によって悪である人間の本性を後天的に矯正していくことで、欲望を抑え、良い人間関係や社会正義を実現できると言う考え方である。
 善悪は社会が作り出す。殺意というものは、人間が社会に適合しない不道徳的なものとして定義された言葉である。だから、道徳的行動や不道徳的行動を社会の外から見れば、そこに善も悪も存在しない。
 しかし、人間の社会で暮らす以上、直接他人に殺意を向けるのは御法度である。だから、虫を嬉々として殺戮する子供たちには、それはやってはいけないことだと注意しなければならない。でないと快楽殺人鬼が生まれてしまう。しかし、殺意は本能的なものであるから、むやみに禁遏するとかえって、爆発してしまう。
  ここに荀子の礼治主義の難しさがある。教育は食わせすぎも良くないし、食わせないのも良くない。腹八分目くらいにとどめておくのが良いのだ。
 武士がいた時代、武士は自分の殺意を自分の刀に安心して預けていた。刀を失った現代の人間は自分の殺意を安心して預ける物体を持たないと三島由紀夫は言う。だが、彼が亡くなって52年が経ち、現代人は新たに殺意を預けるものを見つけた。それはゲームである。現代人はスプラシューターに自分の殺意を預けている。さらに、刀と違ってゲームの中の銃にいくら自らの殺意を預けても自分にその銃口を向けることができないため、潔く自殺なんてことはできない。
 他人に殺意を向けている間は決して自分に殺意なんて向けられない。殺人犯が自殺をするのは何人か殺した後だ。いじめられても、「殺してやる」って思えたら自殺なんかできない。殺意を持つことは生きる活力になる。健康の第一歩だ。
 社会では殺してはダメでも私たちにはゲームの中にいくらでも殺していい相手がいる。だから、魔王もイカもピカチュウもリオレウスもクッパも皆んな殺っちゃおう!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?