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『足の裏に影はあるか?ないか?哲学随想』入不二基義【基礎教養部】

書評はこちらに書きました。読めばこの本を読みたくなります。(公開までお待ちくだされ)


現実は必然的に限定されたものとしてのみ現れる

筆者がこれだけは疑い得ないものとして思考の上での公理として用いているのが「現実は必然的に限定されたものとしてのみ現れる」ということである。この公理が、「ほんとうの本物」(リアリティ)を探るプロレス論の根幹に存在している。

現実は必然的に限定されたものとしてのみ現れるのである。喧嘩は、現実においては、「つねにすでに限定された喧嘩」としてのみ存在する。限定とは、喧嘩の形式であり、状況のあり方であり、体調であり、心理状態であり、偶然訪れるアクシデントであり、現実の形を決めるすべてのものである。

『足の裏に影はあるか?ないか?哲学随想』(Ⅲ基礎フレーム一元論への懐疑とイマジナリィな「超-喧嘩」)


現実に現前したものには、もはや可能性はない。現前してしまったものはそうでしかあり得ないということである。これは運命論者の言うような「すべてのことは必然である」といった意味での必然性ではない。「現実の必然性」である。

ボクシングや空手などが「具体的で現実的な喧嘩」を基礎フレームとして持つのに対して、プロレスは「無限定の喧嘩そのもの」というイマジナリィな「超-喧嘩」によって駆動される。プロレスは、その成立構造の中にプロレスを超えるものを想像的に含む。そしてその「無制限の喧嘩そのもの」が「ほんとうの本物の強さ」であり、「現実」以上の「真実」を生み出す力である。

つまり「ほんとうの本物」は現前しえない。現前した瞬間に限定されたものとして現れ、可能性が排除されるからである。

私はこの「ほんとうの本物」が筆者の著書『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』で使われる「空白」であると考える。「空白」は「PまたはPでない」や「QまたはRまたはSまたは…」の「または」という選言のところに出現する。「または」は二つ以上の選択肢が用意されているが、どれであるかは決まっていない。その「宙吊り」状態を表している。「空白」はなんであれどれでもないという「無」である。

しかし、そのような「空白」が「P」や「Q」や「R」などと実在するわけではない。「または」は表現の内ではどれにも決まっていない「宙吊り」状態でありえるが、実際の現実では、「吊り天井」や「ボディスラム」や「コブラツイスト」のような形でどれかに確定するのでどこにも「空白」など現れない。「空白」は論理・言語に属するのであって、現実自体の側にあるわけではない。

リング型ドーナツの穴を、ドーナツの生地がない部分と捉えることができ、また、その部分を、何かが「ない」場所として捉えるのではなく、ドーナツの象徴としての穴が「ある」場所としても捉えることもできる。その両方が可能である場としてみなすときに、そこに「空白」が働く。「ある」とも「ない」ともどちらとも言えて、「ある」と「ない」がそこで交代する「どちらでもない場」、それが「空白」であると筆者は語る。プロレス行為はこの「空白」に連動する。

これは足の裏に影はあるか?ないか?の議論に類似している。足の裏と地面が接するところには影がない。その「なさ」は、光が当たっているのでも「影がある」のでもないという「なさ」である。光と影の二値原理自体を退け、その外で働く「なさ」である。AであるかAの否定であるかのどちらかであるという排中律の原理そのものに逸脱する「AでもなければAの否定でもない」という否定である。排中律が作り出す排中律の「外」すなわち、「どちらにも確定していない」現実を棚上げした仮想の中に「ほんとうの本物」が存在するのだ。

筆者が議論したい問題は、評論家気取りの学生が「この小説はリアリティがある」という時の「リアリティ」ではない。それは、「密着した」「近接した」ものではなく、むしろ無限に遠い現前しえない「本物」のことである。

プロレスは現実である限り公理から論理的に「ほんとうの本物」にはなり得ないことが演繹される。しかし、その内には、「ほんとうの本物」が存在する。

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