半透明の視界で動画が始まる

 

私が HSP というものらしいということが分かって 「嗚呼、私だけじゃなかったんだ」 という言わば 「正」 の気づきを得た。 後述するように HSP らしいこと自体は嬉しいというわけではない。

前にも述べた とおり私は困ってはいない。 そう、HSP だろうが何だろうがどうでもいいのだ。 とはいえ 「テキストだけでも涙が溢れてしまう」 という、私が " mytube phenomena " と名づけたそれを隠そうとすることは無くなった。 あまりに酷いと化粧が崩れるという問題はあるが。


一方で、ということは大概の方は

ああ酷い事件だね かわいそう(ウチじゃなくて良かった)

くらいにしか思わないの、か ?


という新たな言わば 「負の気づき」 をも得てしまった。 決して薄情とかいう訳ではないだろう彼らとの会話に於ける 「擦り合わせ」 を今後は考える必要がありそうだ。



ところで。

書籍が山のように出ているのには驚いたけれど枠に収まりたい人が殆どなのにはもっと驚いた。

帰属依存症 ?

これに限らないが自分のアタマで考えることをせず本を読んで分かった気分になって 「私、HSP だから」 とでも言うんだろうか ?

錦の御旗ですか ?
葵の御紋ですか ?
それを持っていることが嬉しいんですか ?
そんな自分が悲しいんですか ?


山のように出てた時点で止めるべきだった。 コメントや記事を読むにつれ、. . . . 

辟易してきた。


特質や障害が単独で存在する、とでも ?
知力や知能や教養までもが関与しない、とでも ?

この人たちは 「ならばどうすればより正しいと思しき判断ができるのか」 を考えるのではなく ”ハンコ押して房に入る” みたいな人生に自分からしてるとしか思えない。

もちろん、そうなってしまったのにも原因は あるはず。 そっちを解かずして HSP も何もないだろうに。


何某かの精神障害をも持っていない者など存在しない

と思っている私は 「事象は複雑な式を通して発現する個別事例であり y が同じに見えても x を含む右辺は異なるから一般論などありえない」 即ち 「売れるからと量産される お助け本は溜飲が下がるくらいで何の足しにもならない」 と確信している。

これを書いて書き足すにつれ だんだん思い出してきた。

私が自分がどういうものかを知りたかった時には私は既に十分にデンキヤだったので 「いろんなものを精神回路に入力したときの思考や行動や気分などの出力を並べて自分というブラックボックスの等価回路を描き出す」 というデンキヤの常套手段を自分に適用した。 ハタチは過ぎてからのことであるが。

これならどんな障害が重なり合っていたとしても 「特定の出力や状態遷移を引き起こす入力を止めるための行動ルール」 を作れるし 「そうならない私」 を作ることができる。 病まなくなるまでに何年も掛かったし今でも終わったわけではないが。


書籍から事実と真実だけを読み取る能力がない者は読めば読むほど世界は発散して帰るところが分からなくなってしまうから止めたほうがいい。 アナタの長所は別のところにあるから読み取れなくても悲観することなど微塵もない。

こう言い切る根拠は ただひとつ。 「アナタは生きているではないか」。 かように考えるのもまた仏教哲学である。

一般論などありえないが故に私は基本的には個別対応を取る。 さらには内容を問わず相談者や顧客とは必ず対面にしている。 それは精神活動を感じ取るには至近距離が必要だから。 付け加えるなら、. . . .

シールドを解除して相手に溶け込もうとする私に抗える者には未だ出合ったことはない(ここは半分妄想です、あはははは)。


安寧あれ。 合掌。

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二伸

というわけでもう HSP タグは付けないことにした。


リンク : これに繋がる過去記事

私ってば

アクタージュの振動数とオペンハイマー

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