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原動力は言動である

つい先日,前任校の子どもたちに会う機会があった。

と言っても担任した子どもたちは全員卒業しており,
互いに「おっ」とはなるものの「誰やったっけ…?」

ちょうど一年ぶりの再会,
休校から丸一年,本当に一年ぶりで,
離任式もなく,会わずじまいで異動した私は,
忘却の彼方だったのだろう。

旧知の間柄の先生方に挨拶しては,
子どもたちの疑いの眼差し(誰やったっけ…?)
を浴びる時間だった。

もちろんそこに不満があるわけではない。
子どもはいつだって今を生きる存在で,
過去の何かに縋って生きるのは,
もっと歳を取ってからの話だ。

子どもたちの作品を見たり,雰囲気に既視感を覚えたり,
素敵な時間を過ごすことができた。


その中で痺れるひとことに出合えた。
今もその言葉の意味を反芻する。


「誰やったっけ…?
 …あっお兄ちゃんが好きやった先生や。」

見覚えあるけど誰だっけのラッシュの最中,
ぼそっと聞こえてきた独り言。

パッとその声がした方を向き直すと,
もうこちらに興味を失ったのか別の作業に移っている。
その子の顔には成長が感じられるが,見覚えがあった。
二年間もち上がった学年で,
一度も担任しなかった子の妹だ。


私たちが何気なく言った無責任な言葉が,
子どもたちに途方もなく残ることがある。
それが勇気づけになるならまだいい。
が,もし足枷となってしまうのなら。
教師が全人的に研究と修養を必要しているのは,
その素の部分が様々な形で影響を与えるからだろう。

その逆もまた然り,だ。
彼女にとって誰に聞かせるでもない,
自分の思い出との対話の中の一言。
私以外に聞き取った子がいても,
何の反応もできないだろう。
(お兄ちゃんの担任の先生?ぐらいか)

でも,この言葉はお守りになる。
私が今後もこの道を歩んでいくのならば,
きっと数々の出来事の支えになるにちがいない。
それぐらい心に響く言葉だ。


私自身,お兄ちゃんとの具体的な出来事は思い出せない。
そうした思い出せない些細なエピソードの欠片に,
彼の琴線にふれた何かがあったはずなのに。
そこが,教職の面白い所で怖い所だと改めて思う。
今回は,ポジティブな面に出合えてよかった。
今週もがんばろう。


いつだって,原動力は言動なのだ。

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