欠けた満月と、ブランド品の窃盗
鼓動がまた一段ギアを上げた。
何日連続の鍋だろうか、夕飯のキムチ鍋は麺が汁を吸ってしまった。
湯船が満たされていく音が浴室から漏れている。
何気ない日常、言い換える必要もない、まさしくそういうに相応しい日だ。
2本目の有線イヤホンの接触が悪くなってきたことを除けば。
花の金曜日。
ここ半年で、この言葉が僕の耳には馴染まなくなってしまった。
昨年の夏から、地元和歌山県すさみ町に新しくオープンした観光案内所に席を移し、マリンアクティビティや、キャンプやサイクリングといったアウトドア施設とコワーキングスペースのハーフ的な場所でスタッフとしてお世話になっている。
スタッフはシフト制で回しているため、僕の定休は水木曜日。
そう、僕にとって金曜日は「週明け」なのだ。
ただ、週明けといってもマイナスは言い回しでは使っていない。
仕事は充実している、7月のオープンと同時に夏のマリンアクティビティのシーズンを迎えて、高校の部活動を思い出すくらい毎日ヘトヘトになったのも楽しかった。
地元が元気になっていく、それを限りなく最先端に近い場所で関わらせてもらっている。僕にとってはこれ以上の幸せはない。
だから、「週明け」には、ただ時が進んでいること以外に何も感じない。
いわゆる「地元好き」ってやつだ。
海のあるすさみ町に生まれて、19年間一度も地元を離れたことがない。
小中学校はすさみ町、高校もすさみ町から電車で通った。
ただ、ほとんど海で遊んだことはなかった。
完全な川派の人間なのだ。
そのこともあって、マリンアクティビティのスタッフをすることに人よりも不安が大きかった。
レンタルで扱うSUPやカヤックも、5月頃に初めて乗った。
何とか人並みの運動神経は持っていたので、お客さんの様子を伺いながら操縦するレベルにはすぐに到達できた。
とはいえ、弘法の筆誤り。いや、書初めのギリ金賞レベルの僕はSUPで何回か海に背中からダイブした。
夏の時期なら涼しさでむしろ気持ちがいいのだが、10月中旬のそれはもう大悲惨、こればっかりは思い出したくもない。
海にダイブにしなくても寒さが刺さる時期、マリンアクティビティは全て休止となり、艇庫で冬眠するボードたちの顔も忘れるくらいの月日が経った。
冬に夏が恋しくなる心身を定刻通りに運転していたが、夏の悪さが再発した。
結論から言うと、有線イヤホンがスマホとの接触不良を頻発するようになったのだ。これで2本目。
海に数回ダイブした際に、防水カバーのミリメートルにも満たない隙間から少しずつ海水が浸食して、端子接続部に触れていたみたいだ。
今日の勤務を終えて徒歩で家路につこうとしていた時だった、大好きなmillennium parade の曲を聴こうとしていたのに、有線イヤホンはブツブツと喋り出した。
仕方ないと思い、両耳と外気を繋ぎ直した。
日が長くなり、夕暮れと共に歩を進めるようになったが、まだ冷たい風は寂しげな耳をツンと刺激する。
飛ぶ鳥の影は遠くに映っている。
枯れ落ちた葉の何センチ下まで春はやってきているのだろうか。
1日の、季節の生死を意識した途端、鼓動のギアが上がり、心拍数が変な上がり方を見せた。
何か物言いたげな鼓動だ。
その声に集中したかった、既に喋る気力を失った有線イヤホンで更なる静寂を創り出し、心に耳を寄せた。
少しずつ、解読しようとするに連れて鼓動のギアが上がる。
心に脳が追いつかない、規則正しいはずの鼓動がなぜかモールス信号のように感じ困惑が頭を覆い尽くした。
気づけば家の玄関まで来ていた。
これまた仕方ないと、考えるのをやめ、体の動くままに玄関を開けた。
リビングには母と父。
母の料理は好きだ、いつも主菜が多く、仕事終わりの体によく効く。
鍋料理が何日続いても飽きさせない腕前なだけある。
いつもありがとう。
父には頭が上がらない。
一般的な進路の進め方をしなかった僕を受け止めてくれたおかげで、今の僕がある。気分屋がいい方向に似てくると信じている。
本当にありがとう。
京都にいる大学生の兄よ、これを読んでいるなら意外だ。
早くから自分の夢に向かって勉強する姿に尊敬するばかりだ。
僕より収入安定な職に進んだら、実家の経済サポートお願いします。
ありがとうね。
何気ない日常、僕が地元の観光案内所、傍でデザイナーとして活動する日々。
慎重な資金運用で生きている僕が持ち合わせていた、いくつかのブランド、そのうちの一つが今消えようとしている。
仕方ないさ、時間は進んでいく。
まあ大丈夫だ、長持ちするブランドもある、形を変えていく物もある。
持って行きたきゃ持って行けばいい。
持って行ったブランドの輝きで月の欠けた部分を埋められるだろうか。
「地球からの大きさで考えるな」みたいに、小さいと月に小馬鹿にされるだろうか。
まだ元気の溢れている月だが、僕はもう起きている気力がない。
「お先に」と告げ、僕は眠りの支度を始める。
明日迎える新しい自分のために、今日くらいは自分を労ってあげよう。
お疲れ様、10代の僕。
色んなことに挑戦してくれてありがとう。
未来を残してくれてありがとう。
ゆっくり休んでね。
さようなら。
鼓動が落ち着きを戻し、満月が再び欠け始めている。
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