常に、絶対に、感覚に自覚的であること
興味なんてベクトルでしかない でも好きっていうのはそのベクトルに特別なエネルギーが乗っかったもので、しかもそれは超宇宙的な力によって乗っけられる だからもっと前に進むし唯一積極的な行為だ
言葉は意味を持つために生まれてきたから、意味を持つ 私の人生は意味を持つために生まれてきたわけではないのに意味とかを求められている 私の人生の意味、意味論的な意味も語用論的な意味も統語論的な意味も どれが配分で多いのか少ないのかはつまり、私の宇宙がその時何に支配されているかに現れる 私はあなたが好きだと思うから好きというし、このとき私は主語として配列されてあなたは目的語として配列されるのが的確だし、好きという言葉には好きという意味があってその発話は命題形式だし、私があなたを実際好きかどうかはどうでもよくてその好き発話行為にだけ目を向けて欲しくて どれも全て同じように成り立つのだ 好きは言葉だからいい 人生は言葉じゃないから難しい
人生(の意味)を統語論的に見た時、主語に配置されるべき的確なものはなんなのだろうか 私なのか宇宙なのか感情なのか倫理なのかロジカルなのか そもそも誰が決定するのか
人生を意味論的に見た時、人生という言葉が人の生(活)だけをあらわすのか 私の人生には意味がある これは命題式になりえるのか 真偽を決めるのはきっと神様だ
人生の意味を語用論的に見た時、私が生きているこの人生が私以外の意味になるのか それとも私が生きているこの人生が人生以外の意味になるのか どこがひっくりかえる? 私がこの人生を生きているという行為の意味はどう分析したらいいの この人生を生きるという行為の主体(発話者)としての私と、それを見る私か、あなたがひつよう
生活が錆び付いてしまっても、人生は生活じゃないから平気だ 人生がなんなのかという問いはつまり人生の意味はなんなのかという問いになる 実体は内実を問えばわかる 生活の味を、人生の意味と履き違えるな
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?