[井筒俊彦] マーヤー的世界認識

井筒俊彦全集第十巻には「マーヤー的世界認識」という論文が収められている。全集で60ページ程の論文であり、単行本としては『超越のことば』(1991)の最後に収められていたものである。

その後まとまった論考としては1992年に『意識の形而上学』を発表したのみで、1993年に死去しているので、この「マーヤー的世界認識」は井筒最晩年の思想表現であり、その時間的意味において、著者がたどり着いた求道的な境地もまた、そこに反映されていることを、井筒読者は暗黙の内に予期しながらテキストに向うこととなる。

本論文は、他の井筒の文章にも言えることであるが、分量として多いものでもなく、また論旨明晰に語られていることもあり、読み手は難読の苦しみを味わうということはない。しかしながら、では要約を、というと途端に難しくなる。読み手は途方に暮れてしまう。それは井筒の小論自体が、背後の膨大な知識・思想を極度に圧縮した「要約そのもの」という側面を持っているからであろう。

題名の「マーヤー的世界認識」の「マーヤー」とは、インド哲学の言葉であり、普通「幻影」「幻術」「夢幻」として訳されるものであり、またシャンカラで代表される不二一元論(ふにいちげんろん)的ヴェーダーンタ哲学の鍵概念ともされる。そのようなインド哲学を主題的に扱いながらも、井筒の場合そのコンテクスト(文脈)は、明示的に語られない場合であっても常に、ユダヤ・キリスト・イスラームの一神教的世界観との比較・対話・緊張が意識されている。そしてもちろんそこには現代思想の視座も伴っている。それゆえに、普通の読者が「井筒の要約」を要約しようとすると異常な困難に突き当たる。

以下、要約ではないが、鍵概念導入部分を抜粋して、ここに残しておきたいと思う。(『井筒俊彦全集』第十巻 P.369-P431より適宜抜粋)

・・・そもそも「マーヤー」は、ヴェーダにまで遡(さかのぼ)る古い語(ことば)であり、人格的絶対者、神、すなわち宇宙万有の主宰者、としての「梵(ブラフマン)」の創造的機能の巨大な力が、この「マーヤー」という語の意味領域の中心部を占める。ただし、創造力とはいっても、例えば旧約聖書「創世記」の物語る神の天地創造譚(たん)に現れているような、本物の実在論的創出という意味での「創造」であるよりも、むしろ存在世界、存在的事物事象を仮現せしめる能力としての了解への傾向性が圧倒的に強い。このことについては、古サンスクリットでの「マーヤー」の通俗的意味が、魔術、幻術、妖術、手品などであり、このオカルト的能力を行使する専門家(魔術使い、幻術師)などが通常、「マーヤー師」と呼ばれていた事実が示唆的である。ウパニシャドにおいて、宇宙を主宰する最高神は、まさにこの意味での「幻術者」(マーヤー師)と考えられ、この名称をもって呼ばれている。

・・・このコンテクストでは、明らかに、存在の虚妄性、夢幻性の現出は神自らの責に帰される。・・本来的に神に内属するマーヤーの力は絶大である。客観的な存在世界、そこに現れる一切の存在者、森羅万象、がこの幻力の所産であるばかりではない。神自身すらーーつまり全宇宙の絶対的主宰者としての至高神までもがーー実はマーヤーの所産なのである。神は「自分自身の幻力によって」神という限定性を帯びて自分自身を仮現させる。ある意味では、神は自分のマーヤーによって迷わされるとも言うことができる。・・我々が本論で主題とするシャンカラ系の不二一元論では、これがマーヤー観の本筋である。

・・・我々の目前に現れている(=仮現)している存在世界から、一切の欺瞞的・虚妄的多者性の種々様々なかたちを取り去って観ることができるなら、そこに我々は、それらの現象的事物事象によって覆い隠されていた存在リアリティの実相を、その絶対無限定的純粋性において、あるがままに直証することができるであろう。そこにはもはや世界もなく神すらもなく、ただ了々と顕現するブラフマンのみがあるであろう。マーヤー的幻力によって、それまで陰覆され紛乱されてきた存在リアリティの真実相、それが不二一元論の説く「ブラフマン」にほかならない。

・・・「マーヤー」とは何か。言うまでもなく、これは不二一元論の哲学組織全体を根本的に決定する最も重要な述語だが、その本当の意味は何かということになると、かなり困難な問題である。夢幻、幻妄、幻影、幻術などと訳せば誰にでも一応は意味がわかる、あるいは、わかるような気がする。が、実はよく考えてみると、わかったようでわからないのである。

・・・幸いなことに、不二一元論のテクストにおいては、「マーヤー」は様々に言い替えられている。つまり同義語の数が著しく多い。それらの中でも、特に決定的重要性をもつ同義語の第一として、adhyasaをここで取り上げる。

 我が国のインド思想専門家は、普通、「付託」などと訳しているが、原義的には何か(A)の上に何か別のもの(B)を据える、かぶせることである(本稿を通じて、私は原則的に「かぶせ」という訳語を使う)。Aの上にBを重ねかぶせれば、Aの本当の姿形は見えなくなってーー特にこの見地からこの語は「陰覆」「隠蔽」を意味するsamvrtiの同義語とされるーーBが表面に現れてくる、あたかもそこにあるものはAではなくてBであるかのように。

 「何か(A)を正しく認識せず、(誤って)別の何か(B)をそれのかわりに認知してしまうこと」というのがadhyasaにたいしてシャンカラの与えた一番簡単な定義だが、この意味では、「付託(かぶせ)」現象は我々の生活経験において、いつどこでも起こる、起こり得る、きわめて卑近な事態にすぎない。・・不二一元論者たちが好んで使う例としては、夕闇の中で道路上に横たわる縄を蛇と見間違えたり、一条の水の流れと見間違えたりする場合や、それに類する知覚判断の誤りはすべてそれである。

・・・ごく単純な事物の誤認経験の例だが、不二一元論の見地から見て、ここに二つの重要なことが示唆されている。その一は、全てが「無知」に起因するということ。・・この「無知」という概念は、前にも一言したように、存在の真相にたいする根源的な無知ーー仏教などでいう無明ーーとして、マーヤー思想の説く主体性の内部構造理論の中核を占めることになる。この側面からして、「無知」は「マーヤー」または「付託(かぶせ)」のもうひとつの同義語である。これが第一の点。

 次に、これよりはるかに大きな重要性をもつものとして注目されなくてはならないのは、いったん縄を蛇と誤認した後でも、もし何かのはずみで縄の真相、すなわち「これは本当は縄だった」と私が気づきさえすれば、今までそこに現れていた蛇の形姿はたちどころに消えてしまうだろうということ。

・・・新しい経験に基づく新しい判断によって、今まで正しいと思っていた判断が取り消され、いわばキャンセルされるのだ。この「取り消し」をbadhaといって、不二一元論哲学の枢要な術語である。

 なぜ「取り消し(バーダ)」が不二一元論において、それほど重要な術語的役割を果たすのかといえば、それはこの哲学では、「取り消し」可能か不可能かが、実在度の判定基準をなすからである。およそ、何らかの形で取り消され得るものは、それを取り消すものにくらべて実在度が低い。そして不二一元論では、それを「マーヤー」の一般的定義とする。なまの感覚・知覚にせよ、判断にせよ、概念にせよ、取り消し可能なものは全てマーヤーであるという。これが「マーヤー」という語(ことば)の正しい定義なのであって、幻想、幻影、虚妄、その他これに類するものは、全て上述の意味において「取り消し可能なもの」の通俗的な表現にすぎない。

・・・本論の主題から見て最も重要なことは、いま述べた夢眠→目覚め、蛇→縄、などにおいて経験される「取り消し」が、全ては日常生活世界での相対的出来事だということである。

・・・このように浮動的な個々の誤認とそれの修正可能性不可能性は、不二一元論哲学の真の関心事ではない。「これは蛇である」に対立する「これは縄である」のような、相対的な取り消し不可能性ではなくて、絶対的に取り消し不可能なものを、この思想は探求する。・・現に我々は、普段の生活の場面で、絶えず、かぶせと取り消しの経験を繰り返しているが、・・我々がこの次元でのみ思考を続けてゆくかぎり、不二一元論の立場としては、思索は哲学にはならない。それが真正の哲学となるためには、我々の世界認識が、全体を挙げて次元的に飛躍し、全体の次元転換が起こらなければならないのである。

・・・どんな経験によっても、いかなる他のものによっても絶対に取り消されることのあり得ないもの、それは唯一無二、ブラフマンである。ということはブラフマン以外の一切が取り消し可能なものであるということにほかならない。個々の判断の間違いやそれの個別的修正が問題なのではない。我々が認識主体的に経験するありとあらゆるものが、ただひとつの例外もなしに間違いであり嘘である。全存在世界が無数の「付託(かぶせ)」の多重多層的に錯綜する糸の織り出すひとつの巨大なテクスト(テクスチュア)なのだ。この事態を、極度に簡略化して、不二一元論はBrahma
satyam jagan mithya 「ブラフマン(のみ)が真であり、(全)存在世界は偽」と言う。

以上、井筒によるマーヤー概念に纏(まつ)わる説明を多少長く紹介したが、本論文は更に、ブラフマンーアートマンー個我(ジーヴァ)対応関係から、個我の心的機能のなかで「マナス」がマーヤーの源泉であることを述べ、そして従来「意」とも訳されてきたマナスに「意味分節的表象機能」という訳語を提出する。

そして主著『意識と本質』でも縦横に展開されたコトバの分節・無分節理論をここに適用し、インド伝統哲学の「マーヤー的世界認識」を、現代の思想状況に生きた形で蘇らせようと試みている。

井筒俊彦の論考は、常に彼自身がその中を生きた時代状況の一般的問題意識と密接にリンクしており、それが実存的な緊張感となって文章に反映されているように思われる。




 

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