[岩下壮一] キリスト教の特異性

三位一体の神、処女懐胎、十字架の贖罪、復活、昇天、再臨など、キリスト教には難解な観念が沢山あります。その解りにくさが、一面キリスト教への近づき難さにもなっていると思われます。
キリスト教の特異性はどこにあるのか。岩下壮一神父の文章を読みます。

「当時のキリスト者が、イエズスをメシア或いはロゴスと呼んだ時、その意味する処は、最早ユデア人やギリシア人のそれではなかった。恰(あたか)も今日我等が「神」と云う時、それは決して八百万の神を意味しないのと同然である。・・・この信仰は決して、ギリシア的ロゴス観念によって、信者の心に植え付けられたのではない。反って先在せる信仰によって、このギリシア観念は、キリスト教化された。福音の信仰が、哲学的、観念的表現を得たからとて、信仰そのものが観念化したとは限らない。・・・カトリック的見地よりすれば、観念化せる信仰こそ異端であって、真の信仰は、対外的自己闡明の必要に迫られて、観念的表現を余儀なくされても、決してそのために、自分の本質を喪失する様な生命なきものであってはならないのである。キリスト教の特異性は、正にそこに存した。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫 P.149-150))

キリスト教には信仰と観念の峻別が見られます。そして信仰に観念的哲学的表現を与えることと、信仰自体の観念化は、全く別のことであると述べられています。信仰自体の観念化は異端である、とは非常に強い言葉です。
人に対して、あからさまにキリスト教用語を使わずとも、自分の信仰を表現することはできるでしょうし、逆にキリスト教用語を沢山使っても、信仰の上では何の意味もなく、かえって人を福音から遠のけてしまうこともありえるでしょう。
自分がキリスト教について語るとき、それが信仰の観念的表現なのか、信仰自体の観念化であるのか、常に気を付けておきたいところです。
 

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