[岩下壮一] 宗教復興

日本のキリスト教徒人口は約1%と言われています。またその少数のクリスチャンも年々高齢化が進み、聖職者のなり手も減少し、将来はどうなることかと危ぶまれる声もよく耳にするようになりました。

キリスト教は今後日本で更に拡大する可能性はあるのでしょうか。

宗教復興に関して、岩下壮一神父の言葉を読んでみます。

「宗教復興は直に宗教的真理の問題である。就中(なかんずく)キリスト教に関しては、これこそ常にその中心的問題でなければならぬ。キリスト教がその出現せる時代に於て、あれほどの勢を以て異教世界を風靡し得たのは、一にこの真理性の不屈の主張故であった。当時の異教世界に信仰が欠けていたとは思えない。異教には異教の信仰があった。然しその信仰は、慣習や民族的伝統の権威によって擁護されていたほかには、真理性を主張し得る根拠を持たなかった。従って民族的慣習以外の基礎を有する何等新しき道徳を提供することができず、又(また)当時の社会の一般的標準以上に出ずる理想を掲げる力がなかったのである。・・・近代社会に於て、自由主義的、個人的主観主義に堕して真理性の要求を放棄したキリスト教の地位がこれに酷似している。理性の真理認識能力に対して懐疑的になった近代思想の擒(とりこ)となり、社会生活の指導的地位を失い、その結果は今日見るが如き近代国家内部の一組織たる以上の何物でもなくなってしまった。即ちその神学は時代の流行哲学と共に推移し、その信仰生活は国民生活の指針たる代りに反ってそれに追従し、甚(はなはだ)しきに至っては附和雷同するの醜態を演じている。これがドグマなき宗教の末路である。かかる宗教に、異れる民族と文化とを包含協調せしめるが如き大使命を期待することはできない。キリスト教が往昔の権威と指導的地位とを占むるには、再びその本来の真理性の強き主張に目覚めねばならない。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫
P.162-163))

過去、「キリスト教が往昔の権威と指導的地位とを占むる」ことができたのは、キリスト教の真理性の主張というものも要因であったと思いますが、同時に当時のいわゆる異教世界に、キリスト教が提供するものを受け入れる準備と、潜在的な需要が既にあったことも大きな理由だと考えられます。

ここで岩下が往昔の異教との類似を指摘して批判した近代ですが、この近代への理解、近代の潜在的需要に、宗教がどのように応えていけるのかというのもまた、宗教復興に重要な視点であろうと思います。

特に日本の場合、明治維新と文明開化の時期に生まれ育ち、西洋キリスト教の洗礼を受けた初期の日本人キリスト教指導者たちにとっては、まだ「日本をキリスト教国にする」という夢も抱くことができたかもしれませんが、世界大戦を経験し、冷戦を経験し、経済成長を経験し、グローバル化が進展し、中国、インド、イスラム諸国などが存在感を高めている複雑な現代世界の中に生きている私たちにとって、キリスト教を唯一の真理と主張して世界の指導的地位を占めることは、いわゆるキリスト教国にとってさえ、およそ不可能な理想に思われます。

むしろ近代が生み出した科学技術の方がグローバルな真理性を持ち、その権威が世界に承認されている時代です。

近代は宗教の相対化をもたらしましたが、同時に個人性の尊重も生み出しました。キリスト教圏以外も含めた世界全体を見るならば、これらは人間が人間らしく生きる上で、大変貴重な、普遍的な価値であったと思われます。

そしてその近代を準備する上で多大な貢献をしたのが、プロテスタントでした。それ故、プロテスタントは常に近代のよき理解者でもあります。

近代化を目指す日本にとって、カトリック以上にプロテスタントが親和性を持ったのはある意味で当然でした。

しかしいずれにしても、現代日本のキリスト教人口は、双方合わせても1%に過ぎない現状です。

キリスト教、特にカトリックが、何を持って現代日本社会に貢献できるのか。

これは日本のカトリックにとって危機の時代だからこそ、真剣に問われなければならないことです。

「忘れられた思想家」岩下壮一を、今の時代に再びクローズアップしていくことの意義もそこにあると思われます。

思想家・岩下壮一は、その書物を通して、私たちに、根本的な事柄を日本語で考えるための鋭く、刺激的な、そして美しい言葉を遺してくれました。

カトリック者にとって、それを一つの参照点として、自らの考えを紡ぎ出していけるということは大変有り難いことだと思います。

 

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